夕礼拝

愛に歩むこと

「愛に歩むこと」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第119編1-6節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙二 第1章1-6節  
・ 讃美歌:4、463

 「愛に歩むこと」それは、愛と共に歩むということです。
「愛に歩むこと」それは、愛するという能力を持って、人と関わっていくことではありません。
「愛に歩むこと」それは、愛と呼ばれる方と共に生きるということです。
愛するということは、愛したい相手と自分の間に、愛と呼ばれる方が立ってくださらなければ実現しません。
愛と呼ばれる方と共に生きることなしには、本当に人を愛するということはできません。
愛こそが、断絶してしまった関係に橋をかけることができます。愛こそが、切れた関係を再び結び合わせることができます。愛こそが、壊れた関係を、喪失した関係を回復することができます。愛だけが、破壊され、混乱してしまった状況を治すことが出来るのです。
その愛はどこにあるのか。その愛は、神様が持っておられます。神様はその愛を惜しみなくわたしたちに、差し出されています。その愛として差し出されたのがイエス様です。神様は愛であるイエス様をわたしたちに与えてくださいました。 イエス様は愛です。イエス様こそが、切れた関係を再び結び合わせることができる御方です。イエス様こそが、壊れた関係、喪失した関係を回復することができる御方です。イエス様だけが、破壊され、混乱した関係を、状況を治すことが出来る御方です。
 神様はわたしたちに、愛と共に歩みなさいと、今呼びかけておられます。

 先週、ヨハネの手紙一が終わり、今日からヨハネの手紙二に入りました。といっても、このヨハネの手紙二は一と比べると、文量はとても少なく、新共同訳聖書では1ページで収まってしまうとても短い手紙です。この手紙は、短いので、伝えたいことが凝縮されているというか、12節にあるのですが、「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。」とあるように、会って伝えたいことがあるので、この手紙では最低限のこと、しかしとても重要なことが書かれています。
 この手紙は、1節にあるように、自分のことを長老と名乗っている人物によって書かれました。この手紙の作者は、長老であるヨハネと考えられています。この長老は、イエス様の直接の弟子であった使徒(ペトロ、ヤコブ)のたちの直接の弟子であったと考えられています。ですから、使徒たちと、各地に散らばっている教会との間に入って教えや証をして、教会を導いていた人であったと考えられます。
 ではそのような長老ヨハネから手紙を受け取った人たちはだれなのかというと、それは1節にあるように「選ばれた婦人とその子たち」です。この手紙の冒頭で、長老が「選ばれた婦人」に対して、真に愛していますと書いていますから、さらっと読むと、この長老が想いを寄せている特定の婦人に書いたラブレターなんじゃないかと読むこともできますが、どうやらそれは違うようです。実は、この「選ばれた婦人」というのは、教会のことです。教会は、古い時代から、「キリストの花嫁」であったり、「母なる教会」というイメージをもって考えられていました。ですから、この長老は「特定の教会」に対してこの手紙を出したのです。そして、その「母なる教会」に育てられている「教会に生きる信仰者たち」のことを「その子たち」と表現していました。
 ですから、この手紙の対象は、今教会に来て、礼拝をささげ御言葉を聞いて養われ育てられている、わたしたちであると言っても良いでしょう。
 教会に育てられているわたしたちに対して、長老ヨハネは真に愛している、と告白してきています。わたしはここを読んで、「なんだ、急に知らない人から告白されちゃったよ」という感覚を受けました。長老ヨハネは、「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」と言います。この手紙の送り手以外にも、わたしたちを愛している人がいると言います。見たことも、会ったこともない人々が、「わたしを愛している」と言っている。その時、わたしたちは「なんでそんな見たことも、会ったことのない人のことを愛するなんていうことが出来るの」と思ってしまいます。長老ヨハネは、この世界のすべての人々が、あなたを愛しているとは言っていません。「真理を知っている人はすべて」と言っています。ここで言われている真理とは、ヨハネによる福音書14章で「わたしは道であり、真理であり、命である。」と語られている、イエス様のことです。ですから、長老ヨハネは「イエス様を知っている人はすべて」あなたがたを愛していますといっているのです。しかし、なぜ「イエス様を知っている人」は、そんな会ったこともない人を愛することが出来るのだろうかとわたしたちは考えてしまいます。「イエス様を知っている」とここで言われているのは、この「知っている」という言葉の意味は、ただ単に知識として、イエス様を知っているということではありません。聖書が、「知っている」という言葉を使う時に意味しているのは、その(知っている)対象と「つながっている」「関係をもっている」「交わりに生きている」ということです。ですから、イエス様を知っている人というのは、「イエス様とつながっている人」「イエス様と関係をもって、イエス様との交わり持って生きている人」のことです。イエス様とつながっている人というのは、教会で神様に対して信仰告白して洗礼を受けた人のことです。洗礼をうけるというのは、イエス様と結ばれるということです。その洗礼を受け、信仰者となったものは、イエス様と永遠に関係を持ち続けます。信仰者は礼拝においても、説教を通して神様から言葉を頂き、祈りと讃美をもって神様に応えていく、このような神様との交わりを続けるもののことです。
 なぜイエス様を知っている信仰者は、会ってもないわたしたちを愛することができるのかというと、それは、彼らは、わたしたちも今イエス様との交わりに生きているものだと確信しているからです。彼らと、わたしたちの間に、イエス様が立っていておられることを知っているから、彼らはわたしたちを真に愛していると言います。彼らはイエス様を信じており、イエス様と結びつけられています。言い換えれば切れない絆でイエス様と彼らは結ばれています。彼らはわたしたちも、その絆でイエス様に結びついていると確信しているのです。ここに書かれてある「婦人」とは「特定の教会」であると申し上げました。「その子」とは教会から産み出され、育てられているものたちのことです。子どもとは信仰者のことです。教会は、イエス様を信じるものたちの群です。そこにいる人々は羊で、イエス様という羊飼いに従って歩むものたちです。信じなければ、従うことはできません。羊飼いを信じていなければ、自分で道を選び歩んでいくでしょう。教会と、教会の子どもたちというのは、自分を信じて勝手気ままに歩むのではなく、このようにイエス様を信じ、イエス様と共に歩むものたちのことです。イエス様を信じて、イエス様と共に歩んでいる人であるから、彼らはわたしたちを真に愛することができると言っています。イエス様がわたしたちと共いてくださるから、あなたがたを愛することができるのだと彼らは言っています。
 今日共に聞いた御言葉の4節以下では、神様から与えられた掟のことが語られます。4節では「掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変嬉しく思いました」と書かれています。教会の人々が掟に従って、歩んでいることを聞いて、長老ヨハネは大変嬉しく思ったと手紙に書いています。この掟とは、イエス様が定められた「互いに愛し合いなさい」「神様を愛しさない」「隣人を愛しなさい」という掟のことです。
 このことを聞いて、「あぁ、さっき、見ても会ってもないわたしたちを愛していると言っていた彼らは、わたしたちがイエス様を熱心に信じて、キリスト教の教えや掟を熱心に守る人だから、信頼に足る人であると確信して、だから愛することができるとか言っているんだ」と考えた人がいるのではないでしょうか。そう考えた人は、「イエス様と共に歩んでいる人というのは、キリスト教に熱心で、信心深くて、教えに従って隣の人も優しく出来る、心の優しい人々だ」と言う、考えが根底にあります。そうであるならば、わたしたちは「自分はそんなに熱心とは言えないし、隣の人も、神様のこともよく忘れてしまうから、愛される資格はない」「掟をちゃんと守れないから愛される資格はない」と考えてしまいます。
 神様の掟は、「神を愛すること、隣人を愛すること」です。この二つの掟に共通していることは「愛すること」です。わたしたちは、「愛すること」が掟です。これを聞くと、「愛することって義務で、自分の意志とか関係なく、ルールとして、人を愛するってことなの」「それって本当に愛なの?」と思ってしまいます。そんなことを思っていると、クリスチャンが自分に優しくしてくれるのは、掟に従って自分に接してくれているだけなのかと思ってしまうと思います。確かにクリスチャンは、「隣人を愛すること」を掟としています。しかし、クリスチャンはその掟を、ただのルールとして考えてはいません。この掟を、破ると地獄に落ちるから、なにか神様に罰せられるからといって、この掟を守っているのではありません。クリスチャンは、この掟を守るときにとても重要なことをしなくてはなりません。それは、4節に掟に従うことと、並べて書かれてある、「真理に歩む」ことです。
 先ほど、真理とは、イエス様であると申しました。「隣人と互いに愛し合うこと」という掟を守るということと、「イエス様と共に歩むこと」というのは、切っても切れない関係にあります。「イエス様と共に歩む」ということなしには、掟を守ることはできません。また、掟を守っていない状態というのは、イエス様のことを忘れて歩んでいる状態になっていると言えます。この二つの事柄は、密接不可分な事柄なのです。
 愛するということは、この「隣人を愛しなさい」という掟をただ守ればいいということではありません。
 イエス様の愛を受け入れイエス様を信じて、イエス様と共に生きることなしには、本当に人を愛するということは始まりません。この掟をただの良い教えとして受け取っても、そのことを実践することはできません。掟を「ただの良い教え」として受け取ってしまえば、人を愛することができなくなります。この掟を教えてくださった方の愛を受け止めることをはじめなければ、人を愛することはできません。この愛なる方と共に生きる歩みにおいて、わたしたちは隣人を愛するということ、隣人から愛されているということを学ぶのです。

 「掟に従って歩むとは」掟を教えてくださった方に従って歩むということなのです。言葉を換えると、掟を教えてくださったイエス様と共に生きること。イエス様をしっかりみつめること。イエス様の言葉をしっかりと聞き、受け止めるということです。
 わたしたちのことを、裏切ることなく、見捨てることなく、永遠に愛し続けてくださる方であるイエス様の、その真の愛に触れ続けること、知り続けること、拒むことなく受け止め続けること、これが重要なのです。わたしたちは、つい人を愛そうとすることに必死になり、壊れた関係を自分の力で直すことに必死になります。そして、くたびれて、途方に暮れてしまいます。そこにある間違いは、愛する力が自分に備わっていていると考えていることです。神様によって、わたしたち人は、もともとは、他者を愛することができる者として、そのような形として作られていました。それが創世記に書かれている、「神に似せて造られた」と言われていることです。神様は他者を真に愛することができる御方です。その愛することできる神様に似せて造られた人も、愛することができるものでした。
しかし、そのように創造して下さった神様から離れ、自分を中心にして生き、自分だけを愛すると生き方を選び、神様との関係が失われてしまいました。この神様との関係が失われたことによって、わたしたちは、他者を愛するという能力も、形を失ってしまいました。わたしたちは、真の愛から離れたために、愛するということ、さらには隣人と関わっていくことすらできなくなってしまいました。 それなのに、わたしたちは、人を愛そうとします。自分には愛があると思って、愛そうとします。しかし、そのままで人を愛せば、そこには痛みや、苦しみ、破れしかありません。その時、わたしたちは、「自分は人の愛し方がわからないんだ」ということを知ります。人の愛し方がわからないのは、愛がわからないからです。巷には、偽りの愛も存在します。その偽りの愛に基づいて、相手を振り向かせる方法であったり、相手をコントロールする方法であったりが語られています。だからわたしたちは、ますます混乱します。何が本当の愛なのかわからなくなります。
 そのようなときに聖書は、真の愛を語ります。イエス様に神様の真の愛が示されていると語ります。神様の真実の愛がイエス様において示されていると語ります。 イエス様は、愛することのできなくなったわたしたちが、再び神様を愛すること、隣人を愛することができるようにするために、それは言葉を換える、神様との関係を回復するために、隣人との関係を回復するために、イエス様は御自分を「いけにえ」として、十字架に掛かり死んでくださったのです。自分だけを愛し、神様を忘れ、隣人を傷つけてしまった罪の故に、わたしたちは、愛することができなりました。神様を愛することができなくなり、神様との関係が失われました。神様との関係を失われたために、神様がわたしたちに与えてくださっていた永遠の命にも与ることができなってしまいました。永遠の命に与ることができないので、永遠に生きるものでなくなり、死ぬものとなってしました。わたしたちは、自分しか愛することできなくなる罪のために、死ぬものとなってしまいました。ではその罪はどうしたら赦されるのか。神様との関係を切ってしまうという罪、とてつもなく重いものです。わたしたちが、熱心に、神様のために働き償おうとしても、その罪に対して報いることはできません。わたしたちの持っているものすべてを捧げても、足りません。その罪に対してわたしたちがなにもできないために、わたしたちはその罪の罰として、死ななければなりませんでした。しかし、そのわたしたちの罪のために、代わりにその罪のための、代価を払って下さった方がおりました。それは、イエス様です。御自分の命を、わたしたちの罪のための代価として献げてくださいました。わたしたちが受けなくてはいけない、死の罰をも代わりに受けてくださいました。そしてわたしたちは、赦されました。
 このイエス様を、この世に贈ろうと決意し、そのようにしてくださった方が、父なる神様です。わたしたちが勝手に罪を犯し、神様から離れたのに、神様はそのようなわたしたちを見捨てることなく、愛する独り子イエス様の死で、その罪を赦してくださったのです。この神様の御心に愛が示されています。そしてこの神様の御業に、愛することとはなにか、赦され、愛されるとはなにかが、示されています。わたしたちはイエス様の十字架の犠牲により赦されて、もう一度神様との関係が持てるようになりました。神様と交わることが赦されたのです。それは、神様に愛され、神様を愛することがゆるされたということです。わたしたちが、神様を愛することができるのは、イエス様が神様とわたしたちの間にいてくださっているからです。そして神様からわたしたちが愛を受けることができるのも、イエス様がわたしたちの間にいてくださって、愛をその身を通して、わたしたちにそそいでくださっているからです。ですから、わたしたちは、隣人との関係、愛するあの人との関係も、その間にイエス様が立ってくださらなければ、回復しません。そして、愛し愛されながら歩むという道も歩き始めることができません。イエス様を信じて、イエス様と共に歩むとき、人は「互いに愛し合いなさい」という掟を守ることができるようなるのです。
 真の愛であられる神様との関係を、回復することなしには、わたしたちは愛がなにであるかがわからないのです。
 「愛に歩むこと」それは、愛と共に歩むということです。
 「愛に歩むこと」それは、愛と呼ばれる方と共に生きるということです。
 イエス様は愛です。
 イエス様こそが、切れた関係を再び結び合わせることができる御方です。
 イエス様こそが、壊れた関係、喪失した関係を回復することができる御方です。
 イエス様だけが、破壊され、混乱した関係を、状況を治すことが出来る御方です。
 神様はわたしたちに、愛と共に歩みなさいと、今呼びかけておられます。

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