「慰めのおとずれ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: エレミヤ書 第31編1―17節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第2章1―23節
・ 讃美歌:248、259、265、256、261
2012年を振り返る
皆さん、教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。皆さんは今年のクリスマスをどのような思いで迎えておられるでしょうか。個人個人の生活においては、喜びがあったり悲しみがあったり、幸せを覚えていたり不幸に苦しんでいたり、それぞれだと思いますが、この社会全体の様子は、喜びをもってクリスマスを迎えるという状況ではないと言わなければならないでしょう。東日本大震災から1年9か月が経った今も、被災地の復興はほんの部分的にしか進んでいません。問題は、そうであるにもかかわらず、被災地でない所では早くも震災のことが忘れ去られつつあるのではないかということです。被災地の人々が、自分たちのことが忘れられ、取り残されてしまうという不安を抱いているのです。直接被害を受けていない者たちが、あのような大災害やそれによる苦しみ悲しみの現実をできるだけ早く忘れて、もとの日常を取り戻したいと思う気持ちは分かります。しかし今私たちがしなければならないのは、そういう誘惑と戦うことでしょう。この災害によって私たちに、この社会に突き付けられている様々な問題をしっかり受け止め、変えるべきことを変え、新しいものを生み出していく責任が私たちにはあるのです。特に原発事故に関してそれが言えます。福島第一原発が今どういう状況になっているのか、あまり報道されなくなりました。しかし今もあの現場で、被爆の危険の中で多くの下請け労働者たちが、事故を収束させるために日々働いています。完全な収束にはまだ何十年もの時間がかかるでしょうし、それには今まで経験したことのない新しい技術を開発しなければなりません。そして今も放出され続けている放射性物質による影響はこれから次第に明らかになっていき、それが何十年も続いていくのです。何十年も故郷に帰ることのできないことが確実な人々も多くいます。福島原発事故は今なお続いていることを私たちはしっかり意識し、その推移を見守っていかなければなりません。
政権交代
そんな中で、つい先週衆議院選挙が行われ、三年前にあれほどの勝利を得て政権交代を実現した民主党は惨めに敗北し、再び自民党政権が誕生することになりました。自民党への支持が集まったと言うよりも、民主党ではだめだ、とみんなが思ったのです。政権を取ったらこうする、と大見栄を切って言っていたことをことごとく実現できないようではこの結果もやむを得ません。さらにそこに大震災が起り、特に原発事故への対応は混乱を極めました。しかしこれは民主党だからだめだった、というわけではないと思います。「安全神話」を広め、今になるとあそこにもここにも活断層があるかも、という地に五十数機もの原発を建設してきたのは自民党政権です。その自民党があの事態に適切に対応できたとは思えません。自民党は「日本を取り戻す」と言って政権を取り戻しましたが、震災からの復興や今後のエネルギー政策、厳しい景気や雇用の状況への対策、新自由主義政策の下で広がった格差の問題、さらには国交回復以来最悪の状態になっている中国や韓国との関係にこの先どう対処し、どういう日本を取り戻そうとしているのか、日本国憲法を変えて自衛隊を国防軍にしようと言っていることも含めて、不安と懸念を持ちつつ新政権の発足を待っているというのが今の私たちではないでしょうか。
自殺者減少
そのように不安や懸念の満ちた状況の中で、一つ明るいニュースは、14年連続年間3万人以上だった自殺者が、今年は3万人を下回るだろうということです。自ら命を断ってしまう人が減ってきていることは純粋に喜ぶべきです。しかしその背後に何があるのかは慎重に見極めなければなりません。想像するに、一つには東日本大震災の影響があったと言えるでしょう。あのような災害によって多くの人の命が失われ、原発事故で故郷を失った人々も沢山いる中で、与えられている命を大切にしなければ、という思いが強くなってきているのだとしたら、あの災害にも一つの積極的な意味があったということになるでしょう。しかし別の考え方もできます。このことは、社会全体が暗い閉塞状況になってきたことの現れなのかもしれません。一方に明るく幸せに生きている人が大勢いる中に、暗い不幸を感じている人がいると、その苦しみ、絶望は深まり、自殺にまで至るケースが多くなると言えるのではないでしょうか。しかし明るく幸せなに生きている人が少なくなり、見えにくくなってきて、社会全体が暗い苦しみに閉ざされてくると、苦しみの中にある者にはそれがある慰めとなる、自分だけではない、みんなつらい状況にあるのだと自分を励ますことができる、ということがあるのかもしれません。今この状況の中で、自殺者が減っていることには、単純に喜んではいられない、かなり深い問題が潜んでいるように思います。
学者たちの来訪のもたらしたもの
社会が不安や苦しみに閉ざされ、喜びや希望、平安や慰めが見出しにくくなっている、そんな中でクリスマスを迎えた私たちは、せめてこの時ぐらい、喜びや希望、平安や慰めを感じたい、そしてこの国と世界の平和を祈りたいと願います。皆さんの多くが、そのような願いや期待をもってこの讃美夕礼拝に来られたのではないでしょうか。先ほど、新約聖書、マタイによる福音書第2章のクリスマス物語が朗読されました。今年はこの物語を皆さんとご一緒に味わいたいのですが、はっきり言ってこの物語には、喜びや希望、平安や慰めは語られていません。この箇所の前半には、イエス・キリストがお生まれになった時、東の国から占星術の学者たちが来て、「ユダヤ人の王」の誕生を祝い、幼子イエスを拝み、黄金、乳香、没薬を献げたことが語られています。この三つの贈り物から、この学者たちは三人だったと言われるようになりました。三人の学者、博士たちが、東の国からはるばるラクダに乗って旅をしてきて、主イエスの誕生を祝い、贈り物をした、彼らは東の国の王様であったという伝説も生まれました。そういう幻想的な、メルヘンチックな話が語られているわけです。しかしこの学者たちの来訪は何をもたらしたのでしょうか。彼らがエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と告げたことによって、ヘロデ王とエルサレムの人々は「不安を抱いた」とあります。彼らの来訪は平和ではなく不安をもたらしたのです。ヘロデが抱いた不安は、自分の王座を脅かす新しい王が誕生したということです。王様というのはいつも、自分に取って代わろうとする者の出現を恐れているものです。彼はその不安の種を今のうちに取り除いてしまおう、つまり生まれたばかりの王を殺してしまおうとします。そのために学者たちに、その幼子の居場所を突き止めさせようとしたのです。 しかしその目論見は、学者たちに夢でお告げがあり、彼らがヘロデに報告することなく国に帰ってしまったために果たせませんでした。ヘロデは大いに怒り、それならと、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。ヘロデの不安が幼い子供たちの虐殺という悲劇を生んだのです。子供を殺された母親たちの嘆きが、エレミヤ書の預言の実現として描かれています。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから」。学者たちの来訪は、支配者による無辜の民の虐殺の引き金となり、慰めをも拒むような激しい嘆き悲しみがこの地を覆ったのです。そういうことは今、内戦状態にあるシリアでも起っています。
恐れと不安、嘆きと悲しみ
生まれたばかりの主イエスの命はこのように風前の灯火でしたが、天使が父ヨセフに「ヘロデがこの子を殺そうとしているからエジプトに逃げよ」と告げたことによって守られました。ですから殺された子供たちは、主イエスの身代わりになったわけです。しかし父ヨセフと母マリア、そして幼子主イエスの家族もまた、イスラエルの地から遠い外国であるエジプトに逃げ、今の言葉で言えば難民となったのです。恐怖と不安が争いと戦いを生み、その結果難民が発生するのは今日も同じです。先日もシリアからの難民キャンプの様子をニュースでやっていました。ヘロデが死んだことによって主イエスの家族はイスラエルの地に帰ることができましたが、しかしヘロデの子アルケラオが統治しているユダヤに行くことを恐れ、ガリラヤのナザレに住んだと語られています。つまり国に帰って来た彼らの暮らしも、決して平穏ではなく、恐れと不安に満ちていたのです。このように見てくると、このクリスマス物語は、恐れと不安、嘆きと悲しみに満ちています。ヘロデの恐れと不安は幼児虐殺を生み、多くの親たちに絶望をもたらし、天使によってヘロデの手から守られた主イエスの家族も、苦しみと恐れの中にいるのです。喜びや希望、平安や慰めなど、具体的な出来事としてはこの話のどこにも語られていません。クリスマスの物語は、決してほのぼのとしたメルヘンチックな、平和と愛に満ちた話ではなくて、まさにこの世界の現実において今も起っている人間の恐れと不安、そこに引き起こされる悲惨な争いや戦い、そしてそれによって生じる、慰めをも拒むような嘆きと悲しみ、絶望がここに赤裸々に描き出されているのです。
神の救いの計画の実現
けれども、その恐れと不安、嘆きと悲しみの出来事のまっただ中で、神様が、独り子イエス・キリストを私たちの救い主としてこの世に遣わして下さる、という救いの出来事が実現しました。この物語はそのことを語っています。救い主の誕生が、東の国の学者たちに星を通して告げられました。星によってということは、神様がそのことを彼らに示して下さったということです。彼らは神様からの示しを受けて、救い主を拝むために旅立ちました。その星が彼らを幼子主イエスのもとにまで導いてくれたのです。主イエスの父となったヨセフにも、神様からのお告げがあって、幼子主イエスはヘロデの手から守られました。そして彼らがイスラエルの地に帰ることができたのも、神様からのお告げによってでした。彼らにはなお恐れがあったので、辺境の地であるガリラヤのナザレに住んだのですが、そのことによって、「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言者の言葉が実現したのだと語られています。つまりこれら全てのことが神様の守りと導きの下にあり、神様の救いのご計画が不思議な仕方で実現した、ということがここに語られているのです。そこに、クリスマスの喜びと希望、平安と慰めがあります。クリスマスの喜びは、この世の現実において喜ばしい出来事があり、平安や慰めが与えられたということではありません。恐れと不安、嘆きと悲しみしか見えないような人間の現実の中で、神様がその独り子を与えて下さるという救いのご計画を実現して下さった、それによってクリスマスの喜びと希望、平安と慰めのおとずれが与えられたのです。
十字架の死によって
独り子イエス・キリストを与えて下さったことによって示された神様の救いのご計画は、クリスマスの出来事で完成したのではありません。クリスマスはそのご計画の始まりです。クリスマスにこの世にお生まれになった主イエスは、人間の苦しみや悲しみ、罪の全てをご自分の身に背負って歩み、そして十字架にかけられて殺されました。十字架の上で死ぬことによって私たちの罪を赦して下さるために、主イエスはこの世に来られたのです。主イエスの誕生によってベツレヘムの幼子たちが虐殺されたことは私たちにとって納得のできない悲劇です。何の罪もない子供たちが殺され、主イエスは生き延びたなんて、と思うのです。しかしこの時主イエスが神様の守りによって生き延びたのは、十字架にかかって殺されるためでした。イエス・キリストは、十字架の死へと向かうためにこの世を生きたのです。その誕生において起った幼児虐殺は、人間の罪と、その結果である悲惨な出来事、苦しみ悲しみ絶望の現実を描き出しています。主イエス・キリストは、それらの苦しみ悲しみ絶望の全てを背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、神様の救いのご計画が実現したのです。
クリスマスを喜び祝い、平和を祈る
救い主イエス・キリストが、私たちの恐れと不安、嘆きと悲しみの現実のただ中に来て下さった、それがクリスマスの出来事であり、そこに、喜びと希望、平安と慰めのおとずれがあります。だからこそ私たちは、この社会が不安や苦しみに閉ざされ、喜びや希望、平安や慰めが見出しにくいとしても、その現実の中で、クリスマスを喜び祝い、平和を祈ることができるのです。 東の国の学者たちは、救い主の誕生を告げる星に導かれ、はるばる旅をして、ついに幼子イエス・キリストのおられる所を見つけ、そのみ前にひれ伏して礼拝しました。その時彼らは「喜びにあふれた」と10節に語られています。人間の恐れと不安、嘆きと悲しみのうずまくこの物語の中でただ一か所、「喜びにあふれた」と語られているのがこの10節です。神様に導かれて救い主イエス・キリストと出会い、礼拝することによって、学者たちは、この世の暗い現実のただ中で、クリスマスの喜びに満たされたのです。この学者たちの姿は、今日この讃美夕礼拝に集った私たちの姿と重なります。私たちも、様々なきっかけを通してこの礼拝のことを知り、行ってみようという思いを与えられてここに来ました。学者たちを導いたのと同じ星が皆さんお一人お一人にも現れ、ここまで導いてくれたのです。教会の礼拝に集うというのは、特に初めての方にとっては、精神的にかなり遠い旅だったのではないでしょうか。それはあの学者たちが東の国からはるばる旅をしてきたことに匹敵するような旅だったでしょう。しかし神様の導きによるこの旅は、真実の喜びへの旅です。私たちを取り巻くこの世の現実がどんなに暗く、恐れや不安に満ちていても、そこには既に、神様の独り子イエス・キリストが来て下さったのだと、神様は私たちに示して下さっています。その主イエスは既に私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。父なる神様はこの主イエスを復活させて、神様の恵みの下で生きる新しい命の先駆けとして下さったのです。主イエスにつながって歩む時に、私たちも、この新しい命を生きることができます。その慰めのおとずれを、私たちは教会の礼拝において味わい知ることができるのです。この讃美夕礼拝へと導かれた皆さんに、クリスマスの喜びと希望、平安と慰めが豊かにおとずれますように。そして今のこの暗い現実、難しい課題が山積みの社会において、私たちが神様の恵みに支えられて、あきらめることなく、絶望することなく、いろいろな課題と取り組み、そして私たちの周囲に平和を築き、それを広げていくことができるように、ご一緒に祈りたいと思います。