「種を蒔く人」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第45章20-25節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第4章1-20節
・ 讃美歌:17、441、53
何度も主は教えられ
本日はご一緒にマルコによる福音書第4章1節から20節をお読みします。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。」(1節)とあります。湖というのはガリラヤ湖のことです。このガリラヤ湖というのは主イエスの伝道活動において重要な場所でした。主はそこに多くの者達を集め教えられたのです。主が弟子となるシモンとアンデレを招かれた場所です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1章17節)と言われたのもガリラヤ湖のほとりでの出来事でした。またレビを弟子にする前にも、ガリラヤ湖のほとりで群衆を教えておられたのです。(2章13節)
主イエスが群衆に「教えられた」という言葉は、元のギリシャ語では未完了という、主が群衆に対して教え続けられていたという継続の意味があります。レビを弟子にした2章でも群衆に主は教え続けられていました。同じ形が用いられております。それはなぜでしょうか。それは主の新しい教えというのは、一度だけ触れるというのではなく、何度でも聞くという事が必要だったからです。主イエスの権威ある新しい教え(1章27節)は、一度聞いて終わってしまうようなものではなく、何度でも聞くべき、聞かなくてはならない大切な教えであったのです。主イエスは「再び湖のほとりで教え始められました。「再び」とあります。主イエスは何度も、何度も私たちに語りかけて下さっています。また2節では主イエスは、「たとえでいろいろと教えられた」とあります。主イエスは何度も何度も、あきらめることなく私たちに語りかけてくださいます。それは、私たちが何度も何度も主の言葉を聞くことを主が求められているからです。
よく聞いて、従う
主は舟に乗り込まれ群衆に教えられました。主は3章9節では群衆に押しつぶされないように舟に乗られたという前例があります。今回も主は湖上で教えられました。ここには語る者と聞く者とのコントラストが描かれております。「よく聞きなさい。」主イエスは3節でこう皆に語られました。この「聞く」という言葉は、ギリシャ語で「アクーオー」という言葉が用いられております。これはこの4章1節から20節の中で9回も出てくるものです。この事からこの「聞く」という事が、今朝の箇所において大切な御言葉であると考えられます。この「アクーオー」という言葉に関連した言葉の一つに、主イエスに「従う」という言葉のギリシャ語の「ヒュパクーオー」という動詞があります。これは1章にありました汚れた霊を従わせるというというこの「従わせる」言葉(1章27節)や、4章の嵐を静める主イエスの奇跡の箇所において、風や湖を「従わせる」(4章41節)という、主イエスの力を表わす場面においても用いられております。この「ヒュパクーオー」は「ヒュポ」という前置詞に「アクーオー」が付いたものです。つまり聞くという事と従うという事が切り離す事の出来ない関係だという事が分かります。すなわち聞くという事には、従うという聞く者の姿勢が伴うのです。ですから主イエスがここで「聞きなさい」と言われているという事。さらに新共同訳では訳出されておりませんけれども、ここには「よく見なさい」、英語で言うとattention pleaseなどの注意を喚起する言葉も原文では記されています。今から述べる譬え話を、よく聞きなさい!漫然と聞くのではなくて、よく聞きなさい。注意を主イエスに、私に向けなさいという事が述べられております。主に心を向けて聞く事が強調されているのです。それほど大切な事が今語られようとしているのです。
種蒔きの譬え
ではその譬えとは何でしょうか。それは種蒔きの譬えであります。おそらく群衆の中には農民もいたでしょう。ですからこの種蒔きの譬えは当時の人々の生活に密着した譬えであると言えます。それは道端、石だらけの浅い土、茨に落ちた種。そして良い土地に落ちた種の譬えです。良い土地ではない所に落ちた種は実を結ばなかった。しかし良い土地に落ちた種はあるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなったと主は言われました。これは畑を耕し食物を育てている人にはよく分かる譬えであったと思います。種を蒔く時に大きな収穫を得るために必要なのは良い土地である。良い土地に落ちれば豊かに種は実を結ぶのです。この譬えは種をよく知っている人達にとっては、すんなりとよく分かる話であったと思います。何の疑いもなく、種が実るためには土地が大切であるという事。種は種だけでは育たないという事をよく知っていたと思います。ですがこの譬えには秘密が隠されております。主イエスは単に種蒔きの譬え、農業の話をしておられるのではないのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」この譬えを本当に聞きなさい。自分の事として聞きなさい。あなたの中に種が蒔かれている。そのために必要なのは良い土地である。そのように考えるならば、良い土地とは蒔かれた人自身です。ですがこの譬えを聞く者は本当に良い土地であるのか。主イエスの譬えを本当によく聞く時、私達は自分自身を見つめ直さずにはいられません。ここで語られているのは、単なる実り豊かな収穫の話ではありません。この種蒔きの譬えという意味深な譬え。この譬えを本当によく聞く者を主はここで求めておられるのです。
主御自身が譬えの説明をされるという記事は多くはありません。例えばマタイによる福音書14章の毒麦の譬えなどがありますが、決して頻繁に譬えを説き明かされてはおりません。13節で主イエスはこの譬えが分からないのであれば、他の全ての譬えをどうして理解出来るだろうかと述べております。つまりこの種蒔きの譬えは、主イエスが語られる様々な譬えを理解するための鍵となる重要な譬えだという事が出来ます。
主の近くで
主はこの譬えの意味の真意を、十二弟子とイエスの周りにいた人達だけに打ち明けられたと記されています。この事から群衆全てがこの譬えをよく聞いた、理解したわけではなかった事が分かります。譬えを語られても何の波紋も起こさず、主の言葉を聞く人々もいたのです。
しかし譬えが蒔かれ、主イエスの「よく聞きなさい」という言葉を受け止めて、この譬えと自分自身が無関係ではないという事に気付いた人々もいました。それが主の周りにいた弟子達と人々です。弟子達や主の御許に集まった一部の人々は必ずしも譬えを理解した人々ではありませんでした。むしろ何も分からなかったと言えると思います。ですが主御自身の説き明かしを求めて、イエスが独りになられてもなお食い下がり、自分の中に波紋を残したこの種蒔きの譬えの答えを求めたのです。そのような人々に主イエスは語り続けます(4章11節)。私達がここで覚えるべき大切な事は、主イエスの御許に一歩踏み出す姿勢でありましょう。主の御許に一歩を踏み出す勇気です。それが今問われているのです。なぜなら主は求める者に必ず答えて下さる方だからです。
種を蒔く人
14節からいよいよ種蒔きの譬えの説明がなされます。新共同訳の「種を蒔く人」という小見出しがつけられておりますが、ここで主が言われているのは、種を蒔く人がどういう人かという事についてではありません。具体的に土地の話や、さらに種を蒔かれた人、つまりそれを聞く人の事であると言えます。主イエスは種蒔きの譬えの説き明かしを始めます。種を蒔く人とは神の言葉を蒔く人である(4章14節)。つまり種とは神の言葉、御言葉であるという事です。 この14節において初めて私達は、主の言われた「よく聞きなさい」という言葉の意味を知らされるのです。「よく聞きなさい」。どうして主がそれほどまで聞く事を強調されたのか。なぜならそれは神の言葉だからです。主イエスが語られる言葉は農業の話ではなく、含蓄のある諺でもなかったのです。主は今、人々に神の言葉を語られているのです。神の言葉を聞くその時、私達は漫然と、自分とは無関係の事として聞く事は出来ません。神が今、この私に語りかけておられる。この言葉を私達は素通りする事は出来ないのです。
聞く姿勢
次に15節から、ここで主イエスは種蒔きの譬えを説き明かしていく中で、私達に神の言葉を聞く姿勢について説き明かされます。第一に道端の御言葉です。これは御言葉を聞いても、サタンがそれを奪い去ってしまうというものです。つまり自分の聞いた御言葉を深く理解する前にしっかりと留まらないという事です。サタンとはマルコによる福音書で用いられている言い方で言うならば、1章13節にあるように主を試みる存在です。また別の表れ方においては8章33節でペトロが主から「サタン引き下がれ」と言われています。私達を神の言葉から遠ざけるものが、私達の日々の歩みの中にはあるという事です。
第二に石だらけの所に蒔かれた御言葉です。それは17節を見ますと「根がない」聞き方です。根がない聞き方というのは、しばらくは続きます。ですが大きな困難や、迫害に躓いてしまうのです。本来であればそのような時にこそ御言葉に固く立たなければならないのに、御言葉の方を捨ててしまうのです。
第三に茨の中の御言葉です。これは第一の道端に蒔かれた御言葉の聞き方と重なり合うものですが、これは思い煩い、誘惑、欲望が御言葉を覆い塞いでしまうという聞き方です。これはこの世の忙しさに捕らわれてしまい、御言葉を心の片隅に追いやってしまうという事です。御言葉が覆い隠されてしまっては、その輝きは見えません。心の中が御言葉ではなく、御言葉以外のものにあまりにも支配されてしまっている。そのような深刻な状態がこの世にはあると、主イエスはこの時既に弟子達、人々に語り伝えていたのです。
良い土地
ですが、主イエスは最後に良い土地に蒔かれた御言葉について語られます。それは8節と同じく御言葉を芽生え、育て、実らせるものです。ここで違う点は、良い土地に蒔かれたものとは「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(4章20節)であるという点です。つまり御言葉をよく聞くとは「受け入れる」事なのです。この「受け入れる」と訳されております「パラデコマイ」という言葉は、聖書にはあまり多く用いられておりませんが、使徒言行録15:4ではエルサレム会議が招集される際に、伝道旅行をひとまず終えてエルサレムに戻って来たパウロとバルナバの一行を「迎え入れた」とも訳されている言葉です。つまり御言葉を受け入れるとは、自分の中に迎え入れるという事であると言えます。
それは逆に言うならば、御言葉がやって来るとも言い換える事が出来ます。ガリラヤの野辺に集まった大勢の群衆に御言葉を届けて下さっている人物とは誰か。それは主イエス・キリストです。主が御言葉、神の言葉を携えて来て下さっている。主が為された伝道とは、神の独り子であるお方が、権威ある新しい教え、福音を私達に届けて下さっているという事です。
神の言葉とは何か。それは4章12節の言葉を用いて言うならば、神に立ち帰り、赦されるために欠かす事の出来ないものです。またマルコによる福音書がその初めから提示しているテーマは、1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という事です。悔い改めよ、神様の元に帰って来なさいという力強いメッセージを、主は御言葉をよく聞き、まことにあなたの内に受け入れなさいと告げているのです。
種は
種とは小さなものです。しかし、小さな種には大きな生命が溢れています。神の国は目もくらむような大事業でもなく、有無を言わせぬ力でもなく、小さな種として、神の言葉として到来しました。この小さな神の言葉そのものには力が秘められている。私たち教会は、私たちの教会がこの種である神の言葉をこの世に伝える福音伝道を進めています。実を結び、受洗者が生まれ、教会に新たな枝が加えられる、教会の業が更に活発になる喜びがあります。しかし、 時に実を結ばないときもあります。それは個々人の生活においても、教会においても、この国全体の教会においてもそうです。私たちは福音伝道の現実の厳しさを目の辺りにするときに、努力を重ねて伝道をしても実を結ばない現実を見せつけられます。それどころか、色々な形で努力をしているのに色々な形での抵抗に遭うばかりであると思わされる現実があります。伝道は実を結ばず、抵抗に遭うばかりで、失敗と思われるかもしれません。主イエスご自身の歩みもそうでした。主イエスの伝道に対して、激しい敵意を抱く者たちがおりました。主イエスに躓く者がありました。主イエスに信頼して歩んで来たのに、激しい抵抗に遭う現実があります。私たちが、良いと思ってしてきたのに、隣人との関係に悩んだりします。健康に気をつけていたのに、自身の肉体の課題を抱えたりします。なぜこのような目に遭うのでしょうか、と嘆きます。何がいけなかったのか、意味なく原因を探求したりします。私たち自身が、主イエスに躓きを覚えることの連続です。信仰者として証しにならならい姿に、自ら幻滅します。しかし、神が蒔かれた種には成長し、実を結ぶ力があります。神が定められたときに、人間の側の抵抗を打ち破って、神の国は完成をします。その時には豊かな収穫がもたらされることになります。農夫は収穫を信じて、収穫の時を待ち続けるように、伝道をする者も、目に見えるいろいろな失敗に絶望することなく、神が備えていてくださる素晴しい終わりの時を待ち続けたらよいのです。神の国は本来、豊かな実を結ぶ、その力を秘めています。神の言葉と生きた人間が出会うことによって、神の国が芽生え、育ち始めます。御言葉なしに、人間が実を結ぶことがないが、いっさいが御言葉の力にかかっているのです。
礼拝において
種蒔きの譬えは、私達が御言葉を本当に聞く事、そして私達の内に御言葉を受け入れる事へと導いています。では私達が御言葉を本当によく聞くのはどこでしょうか。それはこの礼拝です。神の言葉が日曜日のこの礼拝において語られる。その揺るがない事実こそ、私達が神に立ち帰る事が赦されている証しです。
日々の歩みの中でもし礼拝がなければ、私達は忙しさや誘惑に埋もれた毎日を送るしかないでしょう。しかし主イエス・キリストは、十字架において罪を滅ぼし、そして日曜日、復活のキリストとして甦って下さいました。礼拝はこの復活のキリストが今もここにおられるという恵みの事実によって守られています。礼拝は神の言葉を、主イエスの御許に集う愛する兄弟姉妹と共に聞く幸いな時です。私達は本当に神の言葉を聞く時、そして自分の中に受け入れる時、まことの悔い改めと、神に立ち帰り、三十倍、六十倍、百倍ものよき実を結ぶ存在へと変えられるのです。この恵みを感謝して、この週も神の言葉に聞き従い、歩んで参りたいと思います。共に祈りを合わせましょう。