「喜びなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第16章1-11節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第4章4-7節
・ 讃美歌(54年版): 11、216、274、352、542
追悼を兼ねて
本日のこの週日聖餐礼拝を、先日の10日、日曜日に急に天に召されたKSさんを偲びつつ、その追悼を兼ねて行いたいと思います。KSさんは2003年のクリスマスに洗礼を受け、指路教会の教会員となられました。その年の5月5日に天に召された、K学園の元園長Hさんにとてもお世話になり、Hさんとご一緒にいつも礼拝を守っておられたと伺っています。独りで自由に礼拝に出席することができない環境にあられましたから、教会員が送り迎えをするこの週日聖餐礼拝を毎回楽しみにしておられました。昨年には、長年おられた日野の病院から平塚の老人ホームに移り、教会からは遠くなってしまいましたが、以前よりもよい環境でより自由に生活ができると私共も喜んでいたところでした。知的な障害と病気とをかかえており、身寄りもなかったKSさんの人生は本当に苦しみ悲しみの多いものであったと思います。その苦しみ多い歩みにおいて教会の友との交わりは、KSさんにとって大きな慰め、支えとなっていました。礼拝に来られた時の、本当に嬉しそうな、人なつこいあどけない笑顔は忘れることができません。1942年のお生まれですから、67年のご生涯でした。今ご遺骨を教会にお迎えしてあります。しかるべき時に、教会の墓地に埋葬をする予定です。 そのように本日は、この週日聖餐礼拝の常連であったKSさんが天に召されたことを覚えたいのですが、もうお一人、この礼拝の常連でありますRSさんは丁度今日、手術を受けるために出席することができません。本日行われるその手術のことも覚えつつこの礼拝を守りたいと思います。また、この礼拝においてお会いすることを多くの方々が願っていたYKさんも、脳梗塞のために入院中であられ、ここに来ることはできなくなっておられます。そもそもこの週日聖餐礼拝は、お体の都合などで普段の主の日の礼拝になかなかご出席になれない方々をお迎えするために行なっているものですが、このように、週日聖餐礼拝にも出席できなくなってきている方々が、今お名前をあげた方々の他にもおられるのです。
喜びなさい
私たちはこのように、それぞれいろいろな事情の中で、苦しみ悲しみをかかえています。そのような私たちに、今日この礼拝において聖書が語りかけているのは、「主において常に喜びなさい」ということです。私たちは聖書の言葉を、神様のみ言葉として読みます。ですから、「喜びなさい」と神様は今日私たちに命じておられるのです。しかも、「重ねて言います。喜びなさい」と、この命令は繰り返されています。同じことをこのように繰り返して語るのは、よほど大事なことだからです。神様を信じ、従って生きる信仰の歩みの中心に、この「喜びなさい」ということがあるのです。
けれども私たちは思います。「喜びなさい」と言われて、それで喜べるわけはないではないか、自分にはこんな苦しみが、悲しみがある、とても喜べるような状態ではないのだ。「喜びなさい」と言われて喜べるのはよほど幸せな人、何の苦しみも悲しみもなく呑気に生きていられる人であって、自分にはとてもそんな余裕はない。
私たちがこのように思うことは、この手紙を書いたパウロもよく知っています。呑気に喜んでばかりいられるような人間などいないのは、今も、この手紙が書かれた時代も、変わりはないのです。しかしパウロはそのことを知りつつ、いやこのことを知っているからこそ、「喜びなさい」という命令を繰り返しているのです。「とても喜べるような状態ではない」と思っている私たちにはこの言葉は関係がない、のではなくて、むしろそのような私たちこそこの言葉をしっかりと聞く必要があるのです。
思い煩うな
「喜びなさい」という命令は、6節では「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言い換えられています。悩みや苦しみや悲しみを抱えているというのは、思い煩っているということです。いろいろなことで、私たちの思いが、心が、煩ってしまう、心配、不安、悲しみに満たされたり、また不平不満や怒り、憤り、憎しみ、嫉妬などの感情に支配されてしまうのです。これらの思いに満たされ支配されてしまうと、私たちの心は喜びを失ってしまいます。たとえ喜ばしいことがあっても、喜べなくなってしまうのです。喜ぶためには、思い煩うことをやめなければならないのです。しかしこれも、「やめなさい」と言われて、分かりました、とやめることができるようなことではありません。それが出来れば苦労はしないし、もともと思い煩うこともないのです。パウロはそのこともよく承知しています。だから彼は、ただ「思い煩うのはやめなさい」と言っているだけではなくて、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言っているのです。思い煩っていることを捨ててしまいなさい、ではなくて、あなたが抱えている思い煩いが何事であれ、そこにおける自分の思いや願いを祈りにおいて神様に打ち明けなさい、ということです。つまり、自分の苦しみや悲しみを、心配や不満や怒りを、つまり思い煩っていることを、自分一人で抱えていないで、神様のみ前に持ち出すことをパウロは勧めているのです。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と7節にあります。苦しみや悲しみの現実の中でも私たちが喜ぶことができることの根拠が、あるいはその喜びを得るための秘訣がここに語られているのです。それは、苦しみや悲しみを神様のみ前に持ち出すことによって、あらゆる人知を超える神の平和によって守られるようになることです。苦しみや悲しみを自分で抱えている限り、喜べるはずはありません。しかしそれらの思い煩いを神様に打ち明け、神様に担っていただくならば、その代わりに神様から、あらゆる人知を超える神の平和が与えられるのです。それは人間が自分の知恵や力で作り出せる平和ではありません。あらゆる人知を超えているのですから、人間にはとうてい作り出すことができない、ただ神様だけが与えることができる平和です。その平和が、「キリスト・イエスによって」私たちを守るようになるのです。
キリスト・イエスによって
「キリスト・イエスによって」とあるように、この平和は、主イエス・キリストによって与えられるものです。私たちが自分の苦しみや悲しみ、思い煩いを祈りにおいて神様に打ち明け、それを神様のみ前に持ち出す時に、主イエス・キリストがそれを受け止めて下さるのです。神様の独り子であられる主イエスが私たちと同じ人間になってこの世に来て下さったのはそのことのためです。肉体をもってこの世を生きる私たちの苦しみや悲しみを理解し、それを担って下さるために、主イエスは人間となって下さったのです。主イエスの十字架の苦しみと死は、主イエスが私たちの苦しみや悲しみを私たちに代って全て引き受け、担って下さったお姿です。主イエスの十字架の苦しみと死が私たちのための救いのみ業だったことを信じることによって、私たちの苦しみや悲しみは、私たちの肩から主イエスの上に移され、そして私たちには、人知を超える神の平和が与えられるのです。「感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」というのはそういうことです。苦しみの中で、求めているものを神に打ち明ける、という祈りが勧められているわけですが、苦しみがなお続いている中でどうして感謝を込めて祈ることなどできるのか、と私たちは思います。しかしこの感謝は、苦しみがなくなったという感謝ではなくて、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったこと、そこに神様の救いの恵みが与えられていることを信じて感謝するということです。その感謝の中で、主イエスに自分の苦しみや悲しみを打ち明ける時に、主イエスがそれを担って下さり、そして私たちに、あらゆる人知を超えた神の平和を与えて下さるのです。
礼拝において与えられる喜び
ですからここで「喜びなさい」と命じられているのは、あなたがたの苦しみや悲しみなど大したことではないのだから、そんなものは忘れて喜びなさいということではないし、イエス様を信じればその苦しみに耐えてむしろ喜ぶことができるようになるはずだ、ということでもありません。そのように私たちが無理をして頑張って自分の中に喜びを造り出すことが求められているのではなくて、主イエス・キリストが十字架の苦しみと死とを引き受けて下さることによって成し遂げて下さった救いの恵みをしっかりと見つめて、その主イエスに、自分の苦しみや悲しみを打ち明け、主イエスにそれを担っていただくことが求められているのです。そのことによって、私たちは、主にあって常に喜ぶことができるようになります。人間の知恵や力によって得る喜びではなくて、あらゆる人知を超えた神の平和にあずかる喜びが与えられるのです。信仰によって与えられる喜びとはこの喜びです。この喜びを常に新しく与えられる場が礼拝です。この礼拝で私たちは聖餐にもあずかります。聖餐は、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって救いを実現して下さったことを覚え、その恵みにあずかるために与えられるものです。苦しみや悲しみを抱えている私たちが、人知を超える神の平和によって守られる者となり、喜んで生きる者とされる、その根拠がこの聖餐によって示されるのです。
終末への希望
私たちはそれぞれ、様々な悲しみ、苦しみをかかえてこの世を生きています。とうてい喜ぶことなどできないような現実が私たちを取り巻いています。しかしこの礼拝に呼び集められ、主イエス・キリストの十字架による救いを示されている私たちは、この現実の中で、主において常に喜びつつ歩むことができるのです。5節には、「主はすぐ近くにおられます」とあります。これは、十字架にかかって死に、そして復活して今も生きておられる主イエスが、いつも私たちと共にいて下さり、私たちの悲しみや苦しみを担い、あらゆる人知を超えた神の平和によって私たちを守って下さる、ということであると共に、その主イエスがもう一度この世に来て下さり、それによって神様の恵みのご支配が完成し、この世が終わる、いわゆる終末の時が近い、ということでもあります。つまり私たちの救いの完成の時が近いのだから、そこに希望を置いて歩め、ということです。信仰において私たちが喜ぶことができるのは、この将来実現する救いの完成を待ち望むことによってです。現在の目に見える現実だけを見つめるならば、例えばKSさんは死の力に捕えられて私たちの間から奪い去られました。私たち一人一人も、次第に老いていく中で、日曜日の礼拝に出席できなくなり、さらにはこの週日聖餐礼拝にだって、出席することができなくなっていくのです。けれどもそれは私たちの歩みに希望がない、喜びがない、ということではありません。私たちは肉体の死の彼方に、世の終わりに完成する救いの約束をいただいているのです。その時には、主イエスの復活にあずかって私たちにも永遠の命を生きる新しい体が与えられるのです。その時、私たちは、神様のみもとで、先に天に召された方々とも、また今、この礼拝にも出席することができなくなっている方々とも、神様が与えて下さる永遠の命を喜びつつ再会することができるのです。そのことを待ち望みつつ、主にあって常に喜ぶ日々を送りたいのです。