「心の目線」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章1-2節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第18章9-14節
・ 讃美歌: 11、205、458
たいせつなきみ
皆さんに一冊の絵本をご紹介したいと思います。マックス・ルケードという人の、「たいせつなきみ」という本です。ある人形造りの職人が造った木彫りの人形たちの暮らす村でのお話しです。この村では、人形たちが、きんぴかの「お星さまシール」と、みにくい灰色の「だめじるしシール」というのを、お互いにつけ合いながら生活していました。姿形が美しかったり、優れた才能を示して、人のできないようなことすると「お星さまシール」をもらえるのです。しかし逆に、見た目が悪かったり、ぶきっちょだったり、何か失敗をしたりすると「だめじるしシール」を張られてしまいます。この村の人形たちはみんな、少しでもたくさんのお星さまシールをつけてもらえるように、そしてだめじるしシールをできるだけもらわないですむように、ということをいつも考えながら生きていたのです。この「お星さまシール」と「だめじるしシール」は、人からつけられるものであると同時に、自分も人につけるものです。つまりお互いに何かあるたびにお星さまとだめじるしをつけ合いながら暮らしているのです。それはとても滑稽な姿ですが、しかしそれは私たちの日々の姿そのままだと言わなければならないのではないでしょうか。私たちも、お互いに、お星さまシールとだめじるしシールをつけ合いながら生きている。あの人はすごいな、立派だな、上手だな、才能があるな、いい人だな、とお星さまシールをつけ、あの人はダメだな、才能がないな、仕事ができないな、性格が悪いな、とだめじるしシールをつける。心の中でいつもそのように、人のことを良いとか悪いとか評価しているのです。そしてどうでしょうか。皆さんは人にお星さまシールをつけることと、だめじるしシールをつけることと、どちらの方が多いでしょうか。私たちは、人にだめじるしをつけることは大の得意です。人の欠点や問題は、どんなに目が悪くてもよく見えるものです。そしてだめじるしを人につけることは実に楽しいことです。しかし人にお星さまをつけることは、私たちは苦手です。お星さまをつけるよりはだめじるしをつける方が楽しい。それは、人にお星さまをつけると、なんだか自分には逆にだめじるしをつけられたように感じられて面白くないからです。つまり私たちが人のことをあれこれ評価することは、自分で自分を評価することと裏表の関係にあります。人のことを評価しながら、実はそれによって自分の評価を確認しているのです。そしてそれらのことの根本にあるのは、人と自分とを見比べようとする思いです。お星さまシールとだめじるしシールをつけ合って生きている木彫りの人形たちの滑稽な姿は、いつも人と自分とを見比べながら、それによって喜んだり落ち込んだりを繰り返している私たちの姿そのものなのです。
ファリサイ派の人の祈り
聖書もそのような人間の姿を描いています。本日ご一緒に読むルカによる福音書第18章9節以下です。これはイエス・キリストが語られたたとえ話ですが、祈るために神殿に上った二人の人が登場します。一人はファリサイ派の人です。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ人の間で、神様の掟を熱心に学び、それに基づく正しい信仰深い生活をしている、と自他共に認めていた人です。もう一人は徴税人、これは、当時この地を支配していたローマ帝国への税金を集める人で、ユダヤ人たちの間では、神様の民であるユダヤ人でありながら、同胞を裏切って敵のために税金を集め、それによって金儲けをしているとんでもない奴、罪人の代表格と見なされていた人です。この対照的な二人が神殿にお参りに行ったのです。ファリサイ派の人は堂々と立ってこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。この祈りは、形の上では神様への感謝の祈りです。しかしそこで彼がしていることは、実はあの木彫りの人形たちと同じことです。彼は自分の周りにいる人々と自分とを見比べています。そして、この人は奪い取る者、この人は不正な者、この人は姦通を犯す者、そしてこの徴税人に至ってはどうしようもない罪人、と、まわりの人々に次々にだめじるしをつけまくっているのです。そして、そういう連中に比べて自分は、「週に二度断食をし、全収入の十分の一を神様に捧げている」そのように神様に仕え、正しく生きていると、自分に大きなお星さまをつけているのです。私たちは、このファリサイ派の人の祈りを読むと、「嫌な奴」と思います。けれども実はこれこそ、人と自分とを見比べて、それによって一喜一憂している私たちの行き着く姿なのです。
そして私たちがここで見つめなければならない大切なことは、このような生き方によって人は決して幸せにはなれない、ということです。このファリサイ派の人は感謝しています。喜んでいるように見えます。けれども彼は決して幸せではないのです。むしろ不安なのです。人との比較の中に喜びや感謝の源を見出している者は、常に不安に支配されています。なぜなら、人との比較の中で得られる喜びや感謝は、いつ失われるかわからないからです。周りの人みんなにだめじるしをつけ、自分にはお星さまをつけていられるうちはいいですが、自分よりも明らかに優れている人、立派な人が現れたら、たちまち立場は逆転して、自分のお星さまはだめじるしに変わってしまうのです。ファリサイ派の人々は、イエス・キリストを殺してしまおうとしていました。それはねたみのためだったと聖書は語っています。彼らは、自分たちよりも明らかに愛に満ちた、そして奇跡などを行なって人を救う力のあるイエス・キリストが現れたことによって、自分たちのお星さまがだめじるしに変えられてしまうという脅威を感じたのです。そのように、人との比較によって得られる感謝や喜びは、すぐに嫉妬と憎しみに変わってしまう不確かなものなのです。そこに本当の喜びはありません。別の言い方をすれば、彼らは、自分が自分であることを喜んで生きていないのです。人との比較の中で一喜一憂しているところでは、私たちはありのままの自分を喜び、感謝することができません。それゆえに、本当に幸せにはなれないのです。
You Are Special
「たいせつなきみ」の主人公はパンチネロという人形です。彼はぶきっちょで、やることなすことうまくいかず、いつも失敗ばかりしていました。みんなから「だめじるしシール」をもらうばっかりで、体中だめじるしだらけ、「お星さまシール」など一つもないという状態でした。なんとかお星さまをもらおうといつも頑張るのですが、結局もらうのはだめじるしばかりなのです。そんな生活を続けていくうちに、パンチネロはすっかり落ち込んでしまいました。「僕はどうせ駄目なやつなんだ」と思い、だめじるしをもらうのが恐くて人に会うのもいやになりました。
そんなある日、彼は、お星さまシールもだめじるしシールもどちらも一つもついていない、ルシアという女の子の人形と出会いました。シールが一つもついていないなんて、この村では考えられないことです。彼女には、どちらのシールも、くっつかずに落ちてしまうのです。パンチネロは彼女に、どうすれば君みたいになれるんだいと聞いてみました。すると彼女は、丘の上にあるエリという人間のところに行って話を聞けばいい、と言います。エリというのは、この木彫りの人形たちをみんな造った人形造りの職人です。つまり人形たちの「造り主」です。その人の所に行って話を聞けば、お星さまもだめじるしもつかなくなると言うのです。パンチネロは教えられた通りにエリのところへ行ってみます。するとエリは彼をやさしく抱き上げてこう語りかけます。「他の人形たちがお前のことをどう思おうとも、気にすることはない。大切なのは、お前を造ったこの私がお前のことをどう思っているかだ。そして私はお前のことを本当に大切に思っている」。「たいせつなきみ」というタイトルの英語の原題は「You Are Special」です。「お前は私にとってスペシャルだ、特別な存在だ、この手で造った人形たち一人一人が私にとって特別な、大切な存在なのだ」、造り主であるエリはそう言うのです。このお話は、このエリの言葉を聞いたパンチネロの体から、沢山ついていただめじるしシールが一つはがれて落ちた、というところで終わっています。だめじるしが落ち始めたのです。くっつかなくなり始めたのです。それは、パンチネロが人と肩を並べることができるような立派な者になり始めた、ということではありません。そうではなくて、彼が、人と自分とを比べることから解放され始めた、ということです。人の評価が気にならなくなり始めた、優越感や劣等感によって一喜一憂しなくなり始めたのです。どうしてそういうことが彼に起り始めたのでしょうか。
もともと特別なonly one?
ひと頃とても流行ったスマップの歌に「世界に一つだけの花」というのがあります。この歌の歌詞の中に、「それなのに僕ら人間は、どうしてこうも比べたがる」という言葉があります。そしてサビの部分で、「そうさ僕らも世界に一つだけの花。一人一人違う種を持つ。その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」と歌い、「No.1にならなくてもいい。もともと特別なonly one」と締めくくられています。一人一人がみんな違うonly oneの存在なのだから、その自分の個性を生かせばよいのであって、人と比べ合ってNo.1になろうとしなくてよいのだ、というこの歌には、今お話ししてきたことと通じるものがあります。この歌によって励まされ、元気を与えられたという人も多いわけです。けれども皆さんどうでしょうか。この歌を聞いて、ああそうだ、自分はもともと特別なonly oneなんだ、今日からはもう人と比べることをやめて生きていくことが出来る、と思えるでしょうか。それは出来ないでしょう。私たちがいくら「もう人と比べることはやめよう」と思っても、周りの人々は相変わらずそのような目で私たちを見つめ、お星さまやだめじるしをつけようとします。会社においても学校においても、あるいは近所付き合いや学校の保護者の集まりにおいても、私たちはあらゆる所で常に、能力の査定や成績のランクづけに、あるいは人物評価にさらされています。この社会全体が、まさにあの木彫りの人形の村と同じで、人と人とを比べながら動いているのです。そのような中を生きている私たちは、自分がかけがえのないonly oneなのだ、などとそう簡単に思えるものではありません。例えば誰かが、「あなたは私にとって特別だ、あなたしかいない、only oneの存在だ」と言ってくれたら、それはとても嬉しいことです。慰められ、励みにもなります。でもその途端に今度は、その人のそういう評価を失ったらどうしよう、その人に失望され、見捨てられないようにしなければ、という不安や焦りに捉えられます。人間どうしの間で「あなたは特別だ」といくら言われても、それはお星さまシールをもらうのと同じで、そのシールは失われてしまうことがあるし、だめじるしに変わってしまうこともあるのです。だから、人からの評価によって得られる慰めや励ましを求めている間は、私たちは人と比べることから解放されません。パンチネロの体からだめじるしが落ち始めたのは、そういうことによってではなかったのです。彼は、自分を造り、命を与えてくれた造り主から、「You Are Special お前は私にとってスペシャルだ、特別な存在だ」と語りかけられたことによって、人と自分を比べることから解放され始めたのです。私たちが、たとえどのようにちっぽけな、人と比べて全くとりえがないように思える、自信など全く持てない者であっても、なお自分はonly oneの、かけがえのない存在なのだ、ということを知ることができるのは、造り主であられる神様がそのように語りかけて下さることによってのみなのではないでしょうか。そのことによってこそ私たちは、自分と人とを比べることから解放されていくのです。
心の目線
先ほどの聖書の話には、神殿に上ったもう一人の人の祈りの姿も語られていました。徴税人です。彼は13節にあるように、遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけ祈りました。彼は先程申しましたように、世間の人々から「あいつは罪人だ」と白い目で見られている人です。人からそう思われているだけでなく、自分でも、自分が罪人であることをよく知っているのです。そういう彼の祈りは、あのファリサイ派の人の祈りとは正反対のものになっています。ファリサイ派の人が、自分は正しい者、信仰深い者だと言っているのに対して、彼は、私は罪人ですと言っているのです。けれども、彼の祈りとファリサイ派の人の祈りの違いの根本はそこにあるのではありません。大事なことは、この人が、「私は他の人々と比べて、特にあのファリサイ派の人と比べて、どうしようもない罪人です」と言っているのではない、ということです。つまり彼は自分を周りの人々と比較してはいないのです。彼の心の目線は、ただひたすら神様へと向かっています。神様のみを見つめて、神様のみ前で、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈り願っているのです。彼の祈りとあのファリサイ派の人の祈りの根本的な違いはここにあります。彼は「目を天に上げようともせず」に祈っています。しかし彼の心の目線は神様をしっかりと見上げているのです。それに対してあのファリサイ派の人は、堂々と立って、神様の方を見上げて祈っているように見えます。けれども実は彼の心の目線が向かっているのは、神様ではなくて、自分であり周りの人々の方なのです。ということは、彼は実は神様に祈っているのではなくて、自分の中で独り言を言っているのです。それに対してこの徴税人は、ただ神様のみを見つめ、神様に憐れみと赦しを願っています。祈るというのはこういうことであり、本当に信仰をもって生きるというのはこういうことなのだ、と主イエスはこの話によって教えておられるのです。聖書の教える信仰は、良い人間、立派な人間になろうと努力することではありません。そのような歩みは結局、どれだけ良い、立派な人間になれたか、と自分自身ばかりを見つめ、その自分を人と見比べていくことしか生まないでしょう。生まれつきの私たちの心の目線はそのように人間にしか向いていません。常に自分と周囲の人々を見つめ、見比べて一喜一憂している私たちの心の目線が、神様の方に向き変わり、神様に憐れみと赦しとを願い求めながら生きるようになることこそが、聖書の教える信仰なのです。
罪人のわたしを
私たちはこの徴税人の祈りを読む時、「これでいいのだろうか」と疑問に思うかもしれません。罪を犯しておいて、ただ「罪人のわたしを憐れんでください」とだけ祈るなんてずうずうしいではないか、もっと「こういう償いをします」とか「心を入れ替えてこれからは善いことするように努めます」などと、罪を乗り越えようとする努力の姿勢を持つべきなのではないか、そんなふうに考えたりもするのです。けれどもそのように考えているうちは、私たちはまだ、自分の罪の大きさ、深さが分かっていないのです。私たちの罪は、自分で努力することによって、多少なりとも償いをしたり、よくなっていけるようなものではありません。そのこともまた、人と比べているうちは分からないのです。人と比較していけば、自分の罪についていくらでも言い訳ができます。あの人だってこの人だって同じようなことをしている、自分だけが罪を犯しているわけではない、と自分を慰めることができます。しかし、心の目線を神様に向けていく時に、そのような言い訳はできなくなります。神様の前に本当に立つなら、私たちはそこで、この徴税人と同じように、自分の罪におののき、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と願うしかないのです。
神に義とされて
主イエス・キリストは、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われました。義とされるとは、神様が祈りを聞き、それを受け入れ、良しとして下さる、罪人である自分を赦して下さる、ということです。それらはすべて、神様との関係がつながることによって与えられることです。あの徴税人は、神様とつながることができたのです。ファリサイ派の人の祈りは、神様への祈りのように見えて、実は神様ではなく人間を見つめ、人と自分とを比べることに終始しています。それでは神様との間はつながりません。インターネットを例に用いるなら、接続が確立しないのです。インターネットへの接続が確立しなければ、どんなに優れたパソコンを持っていても、何の情報も入って来ません。しかしパソコンは貧弱でも、接続が確立すれば、全世界から様々な情報を受けることができます。この徴税人に起ったことはそれと同じです。彼は心の目線を神様に向けて祈ったことによって、神様に接続することができたのです。すると神様からすばらしい情報が、メッセージが、彼に届いたのです。そのメッセージは、「私があなたを造り、命を与えた造り主だ。私にとってあなたは大切な、かけがえのない、only oneの存在だ。私はあなたを愛している」と語っています。神に義とされる、救いにあずかるというのは、このメッセージを神様からいただくことなのです。
神からのメッセージ
神様は私たちに、「私はあなたを愛している。あなたは私にとってかけがえのない、大切な人だ」と語りかけて下さっています。しかも、そういう抽象的な語りかけではなくて、もっと具体的にです。このたとえ話を語られた主イエス・キリストのご生涯こそ、神様からの具体的なメッセージなのです。主イエス・キリストは、神様の独り子、まことの神であられる方です。そのまことの神が、私たちのために人間となってこの世を具体的に歩んで下さったのです。それだけでなく、主イエスは私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりとして十字架にかかって死んで下さいました。この独り子イエス・キリストの十字架の死によって、父なる神様は私たちの罪を赦し、私たちをも神様の子として下さったのです。さらに父なる神様は、十字架にかけられて死んだ主イエスを死者の中から復活させて下さいました。それによって私たちにも、復活して新しい命と体を与えられ、永遠の命を生きる者とされるという希望を与えて下さったのです。主イエス・キリストこそ、私たちに対する神様の愛の具体的なメッセージです。神様とつながることによって、このメッセージを聞くことこそが、私たちに与えられる救いなのです。
比べることからの解放
神様の救いとは、だめじるしが一枚もなくなって、お星さまだけが残るようになることではありません。お星さまとだめじるしは裏表であって、一つなのです。それを体にくっつけてしまうのは、人と自分とを比べる心です。そこから解放されるならば、お星さまもだめじるしも、どちらもくっつかなくなるのです。それこそが救いです。その救いにあずかることによって初めて私たちは、お星さまもだめじるしもない、神様が造り、愛して下さっている本来の自分として、本当に生き生きと、喜んで、自分らしく生きることができるようになるのです。
先ほども申しましたように、人と自分を見比べることは、もう今日からそういうことはやめよう、と私たちが心に決めるだけでやめることができるようなものではありません。大切なことは、あの徴税人のように、心の目線を神様に向け、神様にひたすら憐れみを願い求めていくことです。その私たちに神様は、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを与え、「私はあなたを、あるがままのあなたを愛している。人があなたのことをどのように思おうとも、またあなた自身が自分のことをどんなにダメな人間だと絶望しても、あなたは私にとってスペシャルだ、かけがえのない大切なものだ」と語りかけて下さるのです。それによってこそ、私たちは、人と自分を見比べることから解放されるのです。
教会の礼拝において
「たいせつなきみ」は、先ほど申しましたように、エリの言葉を聞いたパンチネロの体からだめじるしが一つ落ちたところで終わっています。エリはパンチネロに、「毎日私のところにおいで、私がお前をどんなに大切に思っているか、聞かせてあげよう」と言っています。比べることにどっぷりと浸かり、それが身にしみついてしまっている私たちは、そう簡単には、お星さまもだめじるしも付かなくはなりません。沢山ついているしるしが、一つ落ち、また一つ落ちというふうに、だんだんに取れていき、次第に、どちらのシールも付かなくなっていくのです。そのために私たちは、造り主であられる神様がこの自分のことをどんなに大切に思っていて下さるのか、を繰り返し聞き続ける必要があるのです。毎週の日曜日の教会の礼拝はこのために行われています。礼拝において私たちは、神様が、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって救いを与えて下さるほどに私たちを愛して下さっていることを繰り返し聞いていくのです。そうすると、お星さまもだめじるしも次第に私たちにくっつかなくなります。人と自分を比べることから解放されていくのです。この礼拝をこれからもご一緒に守り、心の目線を神様の方に向けることによって神様とつながり、救い主イエス・キリストによって与えられている神様の具体的な愛をいただいて、義とされて家に帰り、喜びと感謝の中で一週間の生活を送っていこうではありませんか。