主日礼拝

とりなしの手紙

「とりなしの手紙」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第53章11-12節
・ 新約聖書: フィレモンへの手紙 1-25節
・ 讃美歌: 15、205、505

 
フィレモンへの手紙
 6月1日の礼拝をもってコリントの信徒への手紙一の連続講解説教を終えました。次にどの書を読んでいくかを長老会でも相談しまして、7月から、ルカによる福音書の連続講解説教に入ることにしました。本日は、その前の、一日空白となる主の日です。そこで、一回読切り、という感じで、フィレモンへの手紙を取り上げることにしました。この手紙は、今その全体を朗読していただいたように、すぐに読める短いものです。全体で25節のみです。私たちが通常抱く「手紙」のイメージにより近いと言えるでしょう。実際この手紙は、私たちが友人知人に宛てて書く手紙と同じように、個人に宛てて書かれたものです。これまで読んできた「コリントの信徒への手紙」が、コリントという町にある教会の信者たちに対して書き送られたものだったのに対して、これはフィレモンという一人の人に宛てて書かれたのです。書いたのは、同じパウロです。パウロが個人に宛てて書いた手紙は、他にもテモテ宛が二通、テトス宛が一通新約聖書に収められていますが、フィレモンへの手紙はそれらの中で最も短く、また、書かれた状況が具体的に最もよく分かるものです。パウロはこの手紙によって、フィレモンに、一つのことをお願いしているのです。

協力者フィレモン
 そのお願いの内容に入る前に、フィレモンとはどのような人だったのかということと、パウロとの関係を確認しておきたいと思います。1節に、「わたしたちの愛する協力者フィレモン」とあります。フィレモンはパウロらの協力者でした。つまり共に主イエス・キリストを信じる信仰者であり、伝道の協力者だったのです。彼はパウロの伝道にどのように協力していたのか、それが2節から分かります。「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」。「あなたの家にある教会」という言葉に注目したいと思います。フィレモンの家には教会があったのです。それはどういうことかというと、彼の家に信者たちが集まり、礼拝をしていた、ということです。誰かの家に集まって礼拝、集会を持つ、これが、最初の頃の教会の姿です。教会は、最初から「教会堂」、つまり礼拝のための建物を持っていたわけではありません。ユダヤ人たちの会堂のある町では、そこで伝道を始め、そのうちにユダヤ教との違いが明確になって会堂におれなくなると、このように、信者の家に集まって礼拝をし、伝道を続けたのです。フィレモンが住んでいたのはコロサイの町だったと考えられています。小アジア、今日のトルコの西の方です。彼はその町でもある程度裕福な人であり、人々が集まることのできる家を持っていたのでしょう。1節に「姉妹アフィア」とあるのはフィレモンの妻のことではないか、「わたしたちの戦友アルキポ」というのは彼等の息子のことではないか、とも思われています。つまり彼は家族ぐるみで信者となり、自分たちの家を礼拝と伝道の拠点として提供していたのです。彼が「わたしたちの愛する協力者フィレモン」と呼ばれているのはそのためなのです。

家の教会における伝道
 ここで、この手紙とは少し離れますが、この当時の伝道の様子を思い浮かべてみたいと思います。そのことによって、私たちの「伝道」に対するイメージを新たにされたいのです。キリスト教がローマ帝国の各地に爆発的に広まっていったこの当時の伝道は、大きな教会堂に立派な司祭や牧師がいて、毎週日曜日の決まった時間に鐘の音が響き、礼拝の開始を告げる、などという形でなされていたのではありませんでした。教会堂もなければ、司祭とか牧師という務めもまだ確立してはいなかったのです。そんな中で信者たちは誰かの家に集まり、礼拝、集会をしていたのです。パウロのような伝道者がいつもそこにいるわけではありません。ですからこの家の教会の礼拝、集会は、パウロの手紙が朗読されたり、あるいはフィレモンのような信者がお話をする、という仕方で行われたのです。信者たちはそこに、自分の友人たち、知人たちを誘って集まりました。そのようにして集まる人々が増えていき、一つの家に入りきれなくなると、別の信者の家と分けて集まるようになったのです。このようにして「家の教会」は次第に増えていきました。つまり今日の私たちの感覚では、「家庭集会」のようなものが教会の伝道の中心にあったのです。そしてその伝道を担っていたのは信者たち、私たちの言葉で言えば教会員です。キリストを信じた人々が、その集会へと人をも誘い、自分の家を提供して集会を行っていったのです。つまり、信者一人一人が伝道していたのです。伝道は牧師や伝道者という特別の人がすること、普通の教会員である自分には関係ないこと、という感覚は彼らには全くありません。教会のことは長老や執事という役職にある人に任せておけばよい、という感覚もありません。牧師も長老も執事も、まだいないのです。そのような中での伝道は、信仰を与えられ、キリストの救いにあずかった者が、その恵み、喜びへと新たな人を招き、誘うという単純なことです。その単純なことを一人一人が繰り返ししていった結果、キリスト教はまさに爆発的にローマ帝国各地に広がっていったのです。ここに、教会の伝道の原点があります。私たちはこの伝道の原点に立ち帰り、それを現在の私たちの教会にも生かしていきたいのです。

強いられてではなく、自発的に
 さて、このように自分の家で教会の集会を行っているフィレモンですが、もともと彼が信仰を得たのはパウロのおかげでした。そのことは19節の「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは」という言葉から分かります。フィレモンは自分自身をパウロに負うている、それはフィレモンがキリストを信じ、その救いにあずかったのはパウロの伝道のおかげだったということです。ですからこの手紙は、信仰の指導者、先輩であるパウロが、自分の伝道によって信者となった後輩であるフィレモンに書き送ったものなのです。パウロとフィレモンとはそういう関係にあるということが、8、9節の前提です。このようにあります。「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」。パウロは、自分はフィレモンの信仰の師として命令をしてもよいのだけれども、あえてそうではなく、愛に訴えてお願いをする、命令するのではなくてお願いをするのだ、と言っているのです。ここにも、とても大事なことが示されています。パウロといえば、初代教会最大の伝道者です。三度にわたる大伝道旅行を行い、小アジアやギリシャの各地に教会を生み出した人です。この手紙はおそらく、第三回伝道旅行の途中、エフェソに三年滞在していた頃に書かれたものと思われます。パウロの伝道者としての偉大な働きは既に周知の事実です。そのパウロが、わざわざフィレモンに手紙を書いて、「お願い」をしているのです。それはパウロが謙遜な人だったということではありません。パウロがこのようにお願いの手紙を書いているのは、教会の事柄、信仰の事柄は、命令と服従によってではなく、愛に訴えてのお願いと、それに対する自発的な応答という形によってこそ成し遂げられていく、ということを彼が知っていたからなのです。そのことは14節にも表れています。「あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです」。パウロはフィレモンに、ある「善い行い」をしてもらいたいと願っています。しかしそれを、強いられてではなく、自発的にしてほしいと願っているのです。強いられてしたのでは、せっかくの善い行いも意味を失い、生かされなくなるからです。それが、教会における、信仰における基本的なものの考え方です。それは組織の運営という意味ではとても面倒な、まだるっこしい、効率の悪いことです。大伝道者パウロがわざわざこのようなお願いの手紙を書かなければならないのですから。しかしここには、組織の運営の効率よりも、一人の人の魂とその自由とをどこまでも大切にして下さる神様の愛が反映しています。パウロは、フィレモンのことを、教会という組織の一つの駒としてではなくて、主イエスの救いにあずかり、罪の支配から解放されて、善い行いへと自由にされた一人の信仰の仲間として、愛し、尊重し、信頼して語りかけているのです。このパウロの感覚を私たちも大事にしていきたいと思います。私たちはつい、自分が知っている世間の組織運営の考え方をそのまま教会にも持ち込もうとします。そうするとそこには効率を第一に考える命令と強制と支配が生じます。しかし神様の業は、命令と強制と支配によってではなくて、愛と尊重と信頼によってこそ進められていくのです。この手紙はそのことを私たちに教えてくれているのです。

逃亡奴隷オネシモ
 さてパウロがフィレモンにしてもらいたいと願っている「善い行い」とは、オネシモという人についてのことです。10節に「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです」とあります。パウロは今監禁されています。そのことは9節の「今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロ」というところからも分かります。オネシモは、その監禁されているパウロのもとで教えを受け、信者になったのです。当時の監禁生活は私たちの感覚よりもずっと自由だったようで、いろいろな人が出入りをして囚人パウロの世話をすることができたようです。だから監禁されつつも伝道をすることができたのです。このオネシモとフィレモンとはどういう関係なのでしょうか。実はオネシモはかつてフィレモンの奴隷でしたが、主人のもとを逃げ出して、パウロのもとに身を寄せているのです。そのことは15、16節から伺えます。「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです」。オネシモは、主人フィレモンの家で行われていた集会においてパウロのことを知っていたのでしょう。主人のもとを逃げ出したオネシモは、エフェソで捕えられているパウロのもとを訪ねたのです。そしてそこでパウロの教えを聞き、信仰者となり、今はパウロに仕え、その世話をしているのです。そのことは13節の「本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが」というところから分かります。しかしこのオネシモをパウロは今、フィレモンのもとに送り帰そうとしているのです。12節、「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します」。そして、お願いというのは17節、「だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください」ということです。オネシモを送り帰すから、信仰の仲間として温かく迎え入れてほしい、そのことを頼むためにパウロはこの手紙を書いているのです。
 当時の社会には奴隷制度がありました。主に戦争捕虜が奴隷となり、売買の対象となっていたのです。奴隷と言っても昔のアメリカの黒人奴隷のイメージとはかなり違っていて、特に教養ある奴隷たちは家の子供たちの家庭教師のような仕事を与えられ、家族の一員のように大事にされてもいました。しかし基本的には、奴隷は主人が金を出して買った財産であり、逃げ出したりしたら主人に損害を与えるわけで、厳しく罰せられ、場合によっては殺されてしまうこともあったのです。今やフィレモンと逃亡奴隷オネシモとの間にはそういう関係があることを知りつつ、パウロはオネシモをフィレモンのもとに送り帰そうとしています。そして、フィレモンに、オネシモを、信仰の仲間として、兄弟として受け入れてほしいと願っているのです。そのためにパウロはいろいろな仕方で、フィレモンを説得し、オネシモのためのとりなしをしています。11節には「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」とあります。逃げ出したオネシモは、何の役にも立たない奴隷でした。しかしパウロのもとで信仰者となった今、彼はパウロのためにもフィレモンのためも役に立つ者となっている、と言っているのです。その「役に立つ者となった」というのは、前よりは少しは使える奴隷になった、ということではありません。16節には、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです」とあります。これは、主イエス・キリストを信じる信仰者になったことによって、オネシモは、私にとってもあなたにとっても、もはや愛する兄弟となったのだ、ということです。その続き、16節の後半にはこうあります。「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」。オネシモが信仰者となったことは、かつて彼を奴隷として所有していたあなたにとってより大きな意味を持っている。今やオネシモはあなたにとって、一人の奴隷、所有物から、「一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟」となったのだ、あなたとオネシモの関係は、信仰によってそのように変わったのだ、そのことを受け止めてほしい、とパウロは願っているのです。これが、パウロがフィレモンにお願いしている「善い行い」なのです。

キリストに結ばれて
 このことをお願いするためにパウロは、18、19節でこう言っています。「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」。オネシモが逃亡したことによってあなたが受けた損害があるなら、それは私が支払うとまで言っているのです。その流れの中で先ほどの、「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは」という言葉が出てきます。あなたはあなた自身を私に負っている、しかし私はさらに、あなたがオネシモによって受けた損害をも重ねて負うつもりだとパウロは言うのです。これは何だか、自分の恩を思い出させて、それによって言うことを聞かせようとしているようにも聞こえますが、根本的にはそうではありません。パウロがフィレモンに対してしたこととは、主イエス・キリストの福音を伝えたことです。ですから、フィレモンが自分自身を負うているのは、厳密にはパウロにではなくて、主イエス・キリストになのです。パウロがフィレモンを救ったわけではなくて、キリストによる救いを伝えただけなのです。そのことをパウロはよくわきまえています。だから彼が求めていることも、恩人である私の言うことを聞け、ということではなくて、あなた自身がキリストの救いの恵みへの感謝と服従に生きて欲しい、ということです。その思いが次の20節に語られています。「そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください」。ここには、わたしを喜ばせ、元気づけてほしい、とありますが、それは「主によって、キリストによって」です。この「よって」は英語のinに当たる言葉で、新共同訳聖書はよくこれを「主に結ばれて、キリストに結ばれて」と訳しています。ここもむしろそう訳した方がよかったと思います。フィレモンが主イエス・キリストとしっかり結ばれて、キリストと共に、キリストに従って生きる者となることをパウロは願っているのです。そのことによって、パウロ自身が喜ばせられ、元気づけられるのです。それが、キリストの福音を伝えた伝道者パウロの喜びなのです。

聞き入れられた願い
 このようにパウロは、フィレモンとオネシモの関係が、主人と奴隷という以前の関係から、共に主イエス・キリストに結ばれた愛する兄弟としての関係に変わることを願いつつ、このとりなしの手紙を書いています。そのパウロのとりなしは実現したのでしょうか。この手紙を受け取ったフィレモンは、送り返されてきたオネシモをどう迎えたのでしょうか。そのことが、コロサイの信徒への手紙の第4章9節から分かります。ここにオネシモの名前が出てくるのです。「また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう」。ここでオネシモが「あなたがたの一人」と呼ばれていることから、オネシモが、そしてその主人だったフィレモンがもともとコロサイに住んでいたのだということが分かります。しかしそれ以上に大事なのは、パウロがオネシモをコロサイへと遣わそうとしている、ということです。この手紙はフィレモンへの手紙よりも後に書かれたものです。ということは、フィレモンは送り返されてきたオネシモを兄弟として迎え入れただけでなく、彼を奴隷の身分から解放し、改めてパウロのもとに遣わしたのでしょう。今やパウロは晴れて、オネシモを伝道の協力者として迎えることができたのです。21節には「あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう」と語られていましたが、そのパウロの期待は見事に適えられたのです。

キリストの福音の力
 キリストの福音はこのように、人と人との関係を新しくします。人間の社会に存在する身分や、様々な違いによって生じる壁を乗り越えさせ、様々な違いを持った人と人とを、共にキリストに結ばれた愛する兄弟姉妹とする力を、イエス・キリストの福音は持っているのです。私たちは、このキリストの福音の力によって、今ここにこうして集められています。ここに共に集う私たちは、キリストに結ばれ、キリストを信じる信仰を与えられることによって、兄弟姉妹とされているのです。教会では、信仰者どうしのことを兄弟姉妹と呼びます。主にある兄弟姉妹、神の家族がここに集っている、と言うのです。そのことを私たちは勘違いしてはなりません。私たちが兄弟姉妹であるのは、私たちどうしが親しいから、気が合うから、意見が一致するからではありません。私たちは、主イエス・キリストを信じて、その救いにあずかるというただ一点において、結び合わされ、兄弟姉妹とされているのです。人間どうしの親しさや意見の一致によってではなくて、キリストの福音の力こそが私たちを一つにしているのです。ですから私たちは、お互いによく知らなくても、顔と名前が一致しなくても、あるいは気が合わなくて顔を合わせれば喧嘩になったりしても、愛する兄弟姉妹なのです。パウロがこの手紙でフィレモンにお願いしているのは、この事実を信仰によって受け止めることだったのです。そしてフィレモンはそのパウロの願いに自発的に応えました。強いられてではなく自分から喜んで、キリストの福音によって与えられている新しい人間関係に生き始めたのです。そうすることによって、フィレモンとオネシモとの間に、愛する兄弟としての新しい関係が現実化していきました。そのことは、フィレモンの家の教会に集う人々にとって、すばらしい信仰の証しとなったでしょう。このような具体的な証によって、伝道は進展していくのです。またこのことによってオネシモも、パウロの伝道に協力する者としての新しい人生を歩み出すことができました。そして一説によれば彼は後に、エフェソの町の教会の監督、つまり信仰の指導者になったのです。キリストの福音の力によって様々な違いを持った人間どうしが兄弟姉妹とされる、そのことを信じたフィレモンの信仰は、このような実りをも生んだのです。私たちも、今ここに集っている一人一人が、キリストの福音の力によって結び合わされ、兄弟姉妹とされている、ということを信仰によって受け止めて、そしてその新しい人間関係に積極的に生き始めるならば、そこには新しい出会いが、新しい交わりが与えられていき、愛する兄弟姉妹としての交わりの輪がどんどん広げられていくでしょう。そのように新しい出会いによって交わりの輪が広げられていくことこそ、家の教会において行われていた伝道です。それは少しも難しいことではありません。イエス・キリストの福音によって私たちは、共にキリストに結ばれた兄弟姉妹とされている、そのことを信じて、そのように生き始めるならば、つまりフィレモンがオネシモを兄弟として受け入れたように、私たちも愛と、尊重と、信頼をもってお互いを受け入れ合うならば、「一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟である」ような新しい人間関係が私たちの間に実現していくのです。そのようにして私たち一人一人も、最初の教会の人々の伝道の喜びにあずかっていくことができるのです。

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