クリスマス讃美夕礼拝

主が知らせてくださった出来事

「主が知らせてくださった出来事」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; ミカ書 第4章1-3節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第2章1-21節

 
心を暗くする出来事
 皆さん、教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。早いもので、今年も残すところあと一週間となりました。クリスマスは、年末に祝われるので、その一年の間に起ったいろいろな出来事を振り返る時ともなります。皆さんにとって、この一年はどんな年だったでしょうか。
 それぞれの生活においてもいろいろな出来事が起り、喜ばしいこともつらく悲しいこともあったと思いますが、日本の国や世界全体に目を向けていく時、今年もまた、と言うべきでしょうが、悲しい悲惨な出来事が多かったと思います。3月には能登半島で、7月には再び新潟県中越地方で大きな地震がありました。ペルーやインドネシアでも大地震がありました。バングラデシュでは、大きなサイクロンによって、死者は1万人、被災者は数百万人にのぼるとも言われています。この礼拝における献金はこのサイクロン被災者救援のために献げますので、ご協力をお願いします。地球温暖化の影響もあって、このような自然災害は以前よりも頻繁に、また大規模に起っています。私たちはこのクリスマスに、これらの災害によって家族や家や財産を失った人々のことを覚えたいのです。
 イラクの治安はいっこうに回復せず、泥沼の対立が続いています。イラク以外でも、テロによって人々の命が失われる事件が今年も繰り返されました。武装勢力に拘束された横浜国立大学の学生の事件は長引いて、安否が心配です。昨年に続いて今年も、この讃美夕礼拝の中で、「平和の祈り」をご一緒に祈ります。争い、対立が続く世界に愛と平和をもたらすための「平和の道具」として、神様が私たちを用いて下さるように、そして、先ほど朗読された旧約聖書の箇所、ミカ書第4章の3節にあった預言が実現するように、祈りを合わせたいと思います。「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」
 経済の問題に目を向けるなら、アメリカのサブプライムローンの焦げ付きという、最初は他国の国内問題かと思っていたことが、世界全体の経済に大きな影響を与えるようになっています。穀物も原油も値上がりが続き、もはや経済は一国の中だけで考えることはできない、まさにグローバルな事柄になっています。
 日本では、「消えた年金記録」という、ミステリーのような、実際には呆れて物が言えないような杜撰なことが長年役所によって行われてきたことが明らかになり、それがもとで自民党は参議院選挙に大敗して衆参ねじれ国会となり、阿部総理大臣は突然政権をほうり出しと、混乱が続きました。防衛事務次官の収賄も発覚し、もはやこの国の公務員のモラルは地の底へ落ちたと言わなければならないでしょう。
 それは公務員だけの話ではありません。食品を始めとして、商品の表示の偽りが次から次へと発覚しました。パッケージに書かれていることをいちいち疑ってかからなければならないような情けないことになっています。それらのこともあって、今年を代表する漢字は、「偽」だそうです。まさに、偽りに満ちた情報に翻弄された一年であったと言えるでしょう。

心を明るくする出来事を求めて
 その他にも、私たちの心を暗くするような出来事が、数え上げればきりがないほどありました。その中で今私たちは今、クリスマスを迎えています。今年のクリスマスを、家族や友人たちとご馳走やケーキを囲み、プレゼントを贈るパーティーを開くことによってだけではなく、あるいは恋人と過ごすロマンチックな夜としてだけでなく、このように教会で祝っている私たちは、私たちの心を明るくし、心温まる思いを与えてくれる一つの出来事について聞きたいと願ってここに集ったのではないでしょうか。それは言うまでもなく、イエス・キリストの誕生という出来事です。心暗くするような出来事はもう聞き飽きた。心から喜び祝うことができる、心なごませられ、慰められる出来事を聞きたいという願いを、私たちは強く持っています。主イエス・キリストの誕生は、確かにそのような出来事なのです。

馬小屋での誕生
 その出来事を語っている聖書の箇所を先ほど朗読していただきました。ルカによる福音書の第二章です。ここに、イエス・キリストがいつどのようにしてお生まれになったのかが語られています。それはローマ皇帝アウグストゥスの時代でした。イエスが生まれたユダヤの国も、当時既にローマ帝国の支配下にありました。絶対権力者として彼らを支配する皇帝から、全領土の住民に登録をさせ、人口を調べよという勅令が出されました。私たちで言えば国勢調査のような感じですが、これはローマが人々から税金を取るための調査です。調査される方としては少しも有難くない、迷惑なだけの命令なのです。しかし逆らうことはできません。皆それぞれ、自分の出身地、先祖の町に行って登録をしなければなりませんでした。ヨセフとマリアの夫婦も、そのために、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムへと旅をしなければなりませんでした。マリアのおなかには赤ちゃんがいました。身重の体での旅はとてもつらいものだったでしょう。そして彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリアは赤ちゃんを生んだのです。その場所は馬小屋だったと言われています。それは7節に、生まれた子供を「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とあることからそう言われるようになったのです。どうして馬小屋で出産をしなければならなかったのか。7節の後半に「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります。住民登録のために来ていた旅人たちで宿屋はいっぱいで、もう部屋がなかったのです。
 ここから私たちはいくつかのことを考えさせられます。一つは、ヨセフとマリアはとても貧しかったのだろうということです。たとえ満室でも、お金さえ十分に払えば、部屋を融通してもらうことはできたと思います。しかし彼らにはそんなお金はなかった、だから馬小屋で出産しなければならなかったのです。私たちの社会も今次第に「格差社会」と言われるようになってきていますが、当時はそれがもっと露骨でした。お金がなければ馬小屋で出産するしかなかったのです。
 それにしても、今にも子供が生まれそうになって苦しんでいる夫婦を見たら、とりあえず自分の家に迎え入れて出産の手助けをしてあげるのが当たり前の人情というものではないでしょうか。ところがこの日、ベツレヘムの住民や、宿屋の泊まり客の中の誰一人として、この苦しんでいる貧しい夫婦に手を差し伸べてくれる人はいなかったのです。だから彼らは馬小屋で出産をしなければならなかったのです。この出来事は、この日ベツレヘムにいた人々の心がどんなに荒れすさんでいたか、を示しています。苦しんでいる人に手を差し伸べ、助けようという思いが失われて、誰もが皆自分のことしか考えないようになっていたのです。そのように人々の心が暗く閉ざされてしまっている中で、マリアは馬小屋で出産をしなければならなかった、そのようにしてイエス・キリストは馬小屋で生まれたのです。この出来事はそれゆえに、決して心温まる、私たちの心を慰め、明るく楽しくしてくれるような出来事ではないと言わなければならないでしょう。むしろこれも、私たちが今年飽きるほど聞かされてきた暗い悲惨な出来事と同列の、悲しむべき出来事なのです。

大きな喜びの出来事
 しかし聖書は、この悲惨な出来事が、実は大きな喜びの出来事であると告げています。そのことを、天使が、羊飼いたちに告げたのです。野宿していた羊飼いたちに現れた天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と語りました。イエス・キリストが馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされている、そのことが、民全体に与えられる大きな喜びの出来事なのだ、と天使は告げたのです。なぜそれが大きな喜びなのでしょうか。それは、そのようにしてお生まれになったイエスこそ、全ての人々のための救い主だからです。布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそが救い主だ、と天使は告げたのです。どうして世の救い主が馬小屋で生まれなければならないのでしょうか。それは、この救い主がどのような方であるかということと関わっています。主イエス・キリストは、神様に背き、自分を中心にして生きている私たちの罪と、それによって引き起こされている悲惨さ、苦しみの全てを背負って十字架にかかって死んで下さるのです。そのことによって、私たちが新しく生きることができるようにして下さるのです。主イエスは、人間の罪による苦しみ、悲惨さの全てをご自分の身に引き受けるために、この世に来られたのです。その第一歩が、ベツレヘムの馬小屋での誕生でした。そこから始まり、ゴルゴタの丘の十字架の死に至る主イエスのご生涯によって、罪の闇に閉ざされている私たちのための神様の救いが成し遂げられたのです。それゆえに、暗く悲惨な出来事に見える主イエスの馬小屋での誕生が、実は私たちにとって大きな喜びの出来事なのです。天使は羊飼いにそのことを告げたのです。
 天使のお告げを受けた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、ベツレヘムの町に向かい、飼い葉桶に寝かされている幼な子イエスを探し当てました。20節には、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。天使が告げてくれた、大きな喜びの出来事を見た彼らは、喜びと感謝にあふれ、神様をほめたたえつつ、それぞれの生活へと帰って行ったのです。

主が知らせてくださった出来事
 暗い悲惨な出来事ばかりを見せつけられている私たちは今日、このクリスマスに、それとは違う、私たちの心を明るくし、慰めと希望を与えてくれる、大きな喜びの出来事を見たいと願って教会に集いました。その私たちはここで何を示され、見るのでしょうか。それは、イエス・キリストが、およそ二千年前、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったという出来事です。それは決して明るい喜ばしい出来事ではありません。人々の心が荒れすさんで、苦しんでいる人を助けようとする人がいなかったために、貧しい者が踏みつけにされたという出来事です。それは私たちが日々ニュースで聞かされているのと同じような暗い、悲惨な出来事なのです。このような出来事のどこに喜びや希望があるのか、と思います。また私たちは、二千年も昔のこの話が、今日を生きる自分と何の関係があるのか、とも思います。様々な苦しみや悲しみに翻弄されている私たちの日常が、この出来事によっていったいどう変わるというのか、何も変わらないではないか、と思うのです。しかしそれは、あの羊飼いたちも同じでした。彼らがベツレヘムで見たのは、誰にも助けてもらえずに馬小屋で出産をしなければならなかった一組の貧しい夫婦であり、粗末な飼い葉桶に寝かされている幼な子でしかありませんでした。つまり彼らが見たのは、人間の罪に満ちたこの世界に繰り返されている一つの悲惨な出来事だったのです。この出来事を見たことだけで彼らの生活が変わるわけではないし、苦しみや悲しみが癒されるわけではないのです。彼らは相変わらず羊飼いとして、それまでと同じ日常を送っていくのです。しかし彼らはこの出来事を、「主が知らせてくださった出来事」として受け止めました。主が知らせてくださったこと、つまり天使が告げた言葉を信じて、この飼い葉桶に寝かされている幼子こそすべての人々の救い主であると信じたのです。神様が、人間の罪による悲惨な出来事に満ちたこの世界に独り子を遣わして下さって、私たちの罪と苦しみ悲しみの全てを背負って、最後には十字架にかかって死んで下さることによって救いを成し遂げて下さる、その神様の恵みのみ心を信じたのです。この「主が知らせてくださったこと」を信じたことによって、この悲惨な出来事が、大きな喜びの出来事となったのです。そして彼らは、喜びと感謝に満たされ、神様をほめたたえつつそれぞれの生活へと戻っていくことができました。彼らは変えられたのです。新しくなったのです。主が知らせてくださった出来事を見た者は、新しくなることができるのです。

私たちを新しくする出来事
 クリスマスはそういうことが起る時です。私たちも今日、クリスマスの出来事を見るためにここに集いました。その出来事そのものは、私たちがこの一年間いやという程見つめさせられてきたこの世の現実、人間の罪と悲惨に満ちた様々な出来事と変わるものではありません。主イエス・キリストの誕生は、メルヘンの世界の話ではないのです。まさに私たちが日々体験している罪と悲惨の現実のただ中でそれは起ったのです。しかしその悲惨な出来事の中に、あの天使の声が響いています。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。この神様からの語りかけを信じるなら、クリスマスの出来事は、私たちにとっても、「主が知らせてくださった、大きな喜びの出来事」となるのです。人間の罪と悲惨に満ちたこの世の現実のただ中に、神様がその独り子を遣わして下さり、私たちの罪と苦しみ悲しみを担って下さる、そういう恵みの出来事がこの私のために起ったのです。クリスマスの出来事は、私たちを新しくします。私たちは、神をあがめ、賛美しながら、それぞれの生活へと、喜びをもって帰って行くことができるのです。

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