「時をよく用いるために」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; コヘレトの言葉 第3章1-17節
・ 新約聖書; エフェソの信徒への手紙 第5章15-20節
・ 讃美歌; 60、351、103
創立133年
今日の礼拝は、私たちのこの横浜指路教会の、創立133年を記念して行われています。簡単に言えば、この教会の133歳のお誕生日をお祝いする礼拝なのです。この教会は、133年前に生まれました。1874年、明治7年です。明治7年の日本って、皆さん想像できますか。分かりやすい例をあげてみましょう。日本に初めて鉄道が開通したのが明治5年ですから、この教会が生まれる2年前です。「汽笛一声新橋を…」という歌がありますが、東京の新橋から横浜まで、初めて線路が敷かれて、蒸気機関車に引かれた列車が走ったのです。当時の横浜駅というのは今の桜木町駅のところでしたから、すぐそこです。指路教会が生まれた頃、鉄道が走っていたのは日本全国でここだけだったのです。今からはちょっと想像もできないことですが、そんな時代にこの教会は誕生しました。礼拝をしていた場所はここではなくて、今の「人形の家」の近くで、ヘボンさんという、お医者さんで、イエス様のことを日本の人たちに伝えるためにアメリカからやって来た人が病院をやっていた、その建物でした。最初の教会員は18人だったそうです。それから133年の間にはいろいろなことがありました。ヘボンさんの力によって、今のこの場所にレンガ造りの美しい教会堂が建ったのは、明治25年、今から115年前です。けれどもその教会堂は、大正12年の大地震、関東大震災で崩れ落ち、瓦礫になってしまいました。84年前です。今のこの建物が完成したのはその3年後の大正15年、年末には昭和元年となった年、今から81年前です。今では、指路教会は高いビルの谷間に埋もれていますけれども、その頃は、この教会がこのあたりで一番高い建物だったのです。しかし太平洋戦争の終わり頃、今から62年前の昭和20年5月には、横浜大空襲によって、建物は残りましたが中は全部焼けてしまいました。屋根が落ちて空が見えたそうです。それからしばらくは、この礼拝堂で礼拝ができなかったのです。今建物のことを言ってきましたが、それだけではありません。56年前の昭和26年には、この教会は分裂を経験しました。牧師といっしょに教会員が半分ぐらい出て行って別の教会を造ってしまったのです。133年の歴史の中には、このようにいろいろと大変なことがありました。それでも神様はこの133年の間いつもこの教会と共にいて守り、導いて下さったのです。
でも教会の133年の歴史を、「神様が共にいて守り導いて下さった」というだけで片付けてしまうわけにはいきません。神様の守りと支えの中で、その時その時、その時代その時代に、この教会に集っていた人たちが、いっしょうけんめいに、神様のみ心に従って生きてきた、ということをも私たちはきちんと覚えていなければなりません。私たちの先輩である沢山の人たちがしっかりと歩んでくれたおかげで、この教会は今もこのように続いているのだし、私たちもこのようにここで神様を礼拝することができるのです。
時をよく用いなさい
先ほど読まれた新約聖書の言葉の最初のところ、エフェソの信徒への手紙第5章の15節にこうありました。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」。愚かな者にならずに、賢い者として、細かく気を配って歩むことが大事だ、と教えられています。私たちの教会の先輩たちも、この133年の間、賢い者として、細かく気を配って歩んでくれたのです。それによって、教会は今日まで支えられてきたのです。賢い者として細かく気を配るというのはどういうことなのでしょうか。次の16節には、「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」とあります。これが、「賢い者として細かく気を配る」ことの中身です。「時をよく用いる」、時、時間を、良く、正しく、有効に使うのです。前の口語訳聖書ではここは「今の時を生かして用いなさい」となっていました。与えられている時間を、無駄にしないで生かす、という感じです。教会学校の生徒の皆さんは、お父さんやお母さんからよくこういうことを言われるのではないでしょうか。「時間を無駄にしないで、ちゃんと計画を立ててやるべきことをやりなさい」なんてね。夏休みが終わったばかりですが、宿題はちゃんと出来ましたか。最後になって、「ああもう時間がない、間に合わない」とお父さんお母さんに泣きついて、手伝ってもらってようやく仕上げた、なんてことはありませんか。それでは、夏休みの時を生かしてよく用いたとは言えませんね。「時をよく用いる」というのは、与えられている時間を大切にして、良くないこと、無駄なことに時を使うのではなくて、本当に大切な、今なすべきことをちゃんとする、ということです。それが、「賢い者として細かく気を配って歩む」ことなのです。
悪い時代
この16節には「今は悪い時代なのです」とあります。「時代」と訳されている言葉は、そのまま訳せば「日々」という言葉です。私たちが歩んでいる毎日は悪い日々なのだ、と言っているのです。それは、災害などの悪いことがよく起るとか、世の中が悪い方向に向かっている、ということではありません。例えば、憲法が改正されそうになって平和が脅かされているとか、お金持ちとそうでない人の格差が広がっているというようなことではないのです。私たちが生きている日々は、どんな時代であっても、基本的に悪い日々なのです。私たちが、賢い者として細かく気を配って、時を良く用いていくのではなくて、無駄なことに、良くないことに、自分のためにも他の人のためにもならないことに時を使ってしまう、そういう愚かな歩みに陥ってしまいがちな、そういう誘惑に満ちた日々なのです。私たちが歩んでいるのはそういう日々なのだから、その中で、時を良く用いることができる、賢い、分別のある者になりなさい、と教えられているのです。
主の御心を悟る
17節には「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」とあります。時を生かして良く用いる分別ある者となるには、「主の御心」、神様の御心が何であるかを悟って、それに従わなければなりません。それでは神様の御心に従うとはどういうことなのでしょうか。それが18節に具体的に語られています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」とあります。大人の人たちは、身に覚えがありますね。これは、お酒を一切飲んではいけない、と言っているのではありません。でも、酔いしれて、身を持ち崩すようになってしまったら、時を生かすことも良く用いることもできません。そして私たちが酔いしれてしまうことがあるのは、お酒だけではありません。この世の中には、私たちを酔わせるものがいろいろあります。時代の風潮や流行の思想に酔いしれて、教会が道を誤ってしまった、ということもあったのです。そのような過ちに陥らないように、私たちは神様の御心をしっかり悟らなければなりません。 礼拝こそ、時をよく用いること そのためには何が一番大切か、それが、18節の後半から20節にかけて語られているのです。「むしろ」の後です。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」。詩編と賛歌と霊的な歌によって主をほめ歌い、主イエス・キリストによって父である神様に感謝する、これは一言で言えば、イエス様の父であられる神様を礼拝する、ということです。酔っ払って道を誤る無分別な者とならず、主の御心を悟り、それに従って歩むために一番大切なのは、神様を礼拝することなのです。神様を礼拝することによってこそ、私たちは、時を生かして良く用いることができるのです。私たちに与えられている時間を何のために、どう用いるか、それが、どのような人生を生きるかを決めます。神様を礼拝するために時間を用いることによってこそ、私たちは、与えられている人生を本当に生かして、良く用いていくことができるのです。 それは、毎日朝から晩まで神様を礼拝していなさい、ということではありません。神様は一週間の初めの日、日曜日を、礼拝の日と定めて下さいました。週の初めの日に神様を礼拝し、神様のみ言葉を聞いて御心を悟り、神様の恵みによる慰めと力づけを与えられて、あとの六日間、私たちは自分の業、働きをしていくのです。一週間に一度、神様を礼拝することによって、あとの六日間を、それぞれに与えられている働きや学びのために、生かして良く用いていくことができるようになるのです。
恵みの時を買い取る
神様を礼拝することこそ、時を生かして良く用いる道です。「良く用いる」と訳されている言葉のもとの意味は、「お金を払って買い取る」ということです。また、「時」という言葉も、普通に「時間」を意味するのとは別の言葉が用いられています。言ってみれば、「神様の時、神様の恵みの時」という「特別な時」を意味する言葉です。つまり「時を良く用いる」とは、「神様の恵みの時を買い取る」ことだと言ってもよいのです。私たちが神様を礼拝する時に、そういうことがなされているのです。礼拝のために私たちは、自分の時間をささげます。いろいろと他にしたいことをやめて、勉強の時間、遊びの時間を裂いて礼拝に集うのです。そういう値を払って、私たちは、神様の恵みの時を買い取っているのです。それがこの礼拝です。そしてこの礼拝という恵みの時が与えられることによって、私たちの一週間の生活の全体が、日々の歩みの全てが、つまり人生の全体が、神様の豊かな恵み、祝福の下に置かれるのです。そして私たちはそれを生かして、良く用いていくことができるようになるのです。
教会の歴史を担う
教会の133年の歴史は、私たちの信仰の先輩たちが、様々な値を払って、時間を捧げて、神様の恵みの時である礼拝を買い取りつつ歩んできた歴史です。この方々が、本当に賢い、分別ある者として、本当に大切なこと、礼拝における神様との交わりのために、時を生かして良く用いてくれたことによって、この教会はどんな時代にも、神様の恵みによって守られ、導かれて今日に至ることができたのです。そして今、今度は私たちが、この礼拝へと招かれています。私たちもまた、神様の恵みの時であるこの礼拝を買い取るためにこそ値を払っていく本当に賢い者となりたいのです。まず神様を礼拝して、み言葉による祝福を豊かに受けて、一週間の生活を始める者でありたいのです。それこそが、私たちに与えられている時を生かして良く用いることであり、また、教会の歴史を担っていくことなのです。この礼拝で、一人の姉妹が洗礼を受けてこの教会に加えられ、この教会の歴史を担う者とされます。教会の歴史を担うなどと言うととても大それたことで、重荷に感じられるかもしれません。しかしそれは要するに、主イエス・キリストの父なる神様を礼拝しつつ生きる者となる、ということです。そのようにして、時をよく用いていくのです。洗礼を受けて、主イエス・キリストの体である教会に加えられ、父なる神様を礼拝しつつ歩むならば、どんな悪い時代にあっても、苦しみ悲しみの日々を歩むことがあっても、主イエス・キリストが常に共にいて下さり、十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって神様の恵みの下で生きる新しい命を与えて下さるのです。礼拝において与えられるこの恵みにあずかることによって、私たちは教会の133年の歴史を受け継ぎ、それを新たに担っていく者となるのです。