週日聖餐礼拝

あなたがたは私の友

「あなたがたは私の友」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第46章1-4節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第15章11-17節
・ 讃美歌;

 
礼拝に集えない方々
 この礼拝には、お体の都合や家庭の事情、あるいは仕事の都合などで普段日曜日の礼拝になかなかおいでになることのできない方々をお招きしています。教会としての願いは、それらの事情の中にある方々にも、この教会の一員として、まことのぶどうの木であられる主イエス・キリストにつながる肢体として、み言葉によって与えられる神様の恵み、祝福を受けつつ歩んでいっていただきたい、ということです。普段礼拝に集うことができないでいる皆さんは、礼拝の恵みにあずかれないもどかしさ、無念さ、嘆きを持っておられることでしょう。あるいは、教会員なのに礼拝に行けなくて申し訳ない、という気持ちでおられるかもしれません。さらには、長い間礼拝に行けないでいると、何だが自分が教会から忘れられ、神様からも見放されてしまったような気になってしまう、ということもあるかもしれません。礼拝を守れないことは、私たちの信仰生活において確かに大きな試練であり、危機です。その試練、危機の中にある皆さんにとって大切なことは、神様が、主イエス・キリストが、自分のことをどう思っておられるのか、今礼拝になかなか集えないでいる自分は、神様の目からどのように見られているのか、ということを、自分の感覚によってではなくて、聖書からしっかりと聞くことだと思います。本日ご一緒に読む、ヨハネによる福音書の15章11節以下は、その神様のみ心を知るために大切な箇所なのです。

あなたがたはわたしの友
 今日の説教の題を「あなたがたはわたしの友」とつけました。それは14節の「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」という言葉から取ったものです。15節にも、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とあります。主イエスは、私たちのことを、「あなたがたはわたしの友だ」と言って下さっているのです。その「あなたがた」というのは、イエス様を信じて洗礼を受けた人々です。この15章のはじめのところには、有名な、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という教えが語られています。ですから「あなたがた」とは、主イエスというぶどうの木の枝とされている者たちのことです。洗礼を受けて教会に連なる者となった私たちは、主イエスというぶどうの木の枝とされたのです。その私たちに主イエスは、「あなたがたはわたしの友だ」と言って下さっているのです。これが、主イエスが、神様が私たちのことをどう思い、どう見ておられるのか、の根本なのです。
 私たちが主イエスの友であるのは、私たちが主イエスのために何か良いことをしたからではありません。例えば、毎週礼拝を守っているから主イエスの友であるのではありません。先ほどの14節には、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われています。この「わたしの命じること」とは何かについては後で申しますが、少なくともそれは「毎週礼拝を守ること」ではありません。そういうことによって私たちが、主イエスの友としての資格を得る、という話ではないのです。そのことは、16節のみ言葉から分かります。そこには「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」とあります。私たちがキリストというぶどうの木につながる枝となったのは、私たちが主イエスを選んだのではなくて、主イエスの方が私たちを選んでくださったからなのです。主イエスが私たちを選んで、友と呼んで下さったのです。私たちが何かをしたから友となることができたのではないのです。逆に言えば、私たちが何かをしなかったら友であることができないのではないのです。ですから、今礼拝を守ることができないでいる方々も、だからといってもう自分はイエス様の友とは言えないとか、イエス様は自分のことをもう友とは思っておられない、などと考えてはなりません。ここに集っている全ての者を、いやそれだけではなく、ここにも来ることができないでいる多くの教会員がいるわけですが、その一人一人を、主イエスは、ご自分の大切な友と呼んで下さっているのです。

僕と友
 友という言葉はここでは、「僕」との対比で用いられています。15節には「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とあります。主イエスは私たちのことを、「僕ではなくて友」と呼んで下さっているのです。僕と友はどう違うのでしょうか。僕は、主人の命令に従い、それを忠実に行うのが務めです。それをきちんと実行できないと、僕は叱られ、罰を受けたりするのです。場合によってはもうお払い箱にされてしまうかもしれません。しかし友というのはそれとは全く違うものであって、その関係は命令と服従の関係ではなく、愛と信頼に基づき、喜びを分ち合う関係です。主イエスと、そして神様と私たちの関係は、主人と僕の関係ではなくて、友としての関係なのです。もちろん私たちは神様と同等の存在ではありません。私たちは神様を信じて従うのです。その中心は礼拝です。神様は私たち信仰者に、礼拝をすることを求めておられます。でもそれは、主人の僕への命令ではありません。もしそうなら、礼拝を守らない、守れない信仰者は神様に叱られ、場合によっては群れから追い出されてしまうということになるでしょう。しかし神様と私たちの関係において礼拝は、守らなければならない掟、戒律ではないのです。神様と私たちの関係は、愛と信頼に基づくものです。神様は、私たちを心から愛して、独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスはその父なる神様のみ心を受けて、私たちを心から愛して、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。13節には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とありますが、それはまさに主イエスが私たちのためにして下さったことなのです。主イエスは私たちを友と呼び、私たちのためにご自分の命を捨てて下さったのです。私たちは礼拝においてこの主イエスの、これ以上大きなものはない愛をみ言葉によって示され、聖餐によって味わうのです。そしてこの愛に応えて感謝し、賛美し、祈るのです。本日の箇所の最初の11節に「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とありますが、まさにこのことが、礼拝において起るのです。主イエスの喜び、それは父なる神様の独り子としてその愛の中にいる喜びです。その喜びが、主イエスによって私たちにも与えられ、私たちも、神様の愛の中にある喜びを主イエスと分かち合っていく、それが、主イエスの友とされた私たちの信仰の歩みであり、そのために礼拝はあるのです。その礼拝をなかなか守ることができないのは、とても残念なことであり、信仰の試練ですけれども、しかしだからといってもう自分は主イエスの友ではなくなってしまった、などということはない。私たちを選び、私たちのために命を捨てて下さった主イエスの愛は、私たちがどのような状態にあろうとも、なかなか礼拝に集うことができないでいても、変わることなく注がれているのです。

互いに愛し合う
 僕と友のもう一つの違いは、僕は主人に命令されたことをその通りにするのであって、その命令の理由や意味を知る必要はないし、知る立場にもないという点です。15節の「僕は主人が何をしているか知らないからである」というのはそういうことを言っているのでしょう。それに対して友は、お互いの間の愛と信頼によって、相手の思い、考え、意図を汲み取り、そして自分から自発的に相手の願っていることをします。主イエスのこの上ない愛を受け、友と呼ばれている私たちは、主人からの命令としてではなく、自分から自発的に、主イエスのみ心を汲み取り、それに従っていくのです。12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言われているのはそのような私たちのあり方を語っています。「互いに愛し合いなさい」ということが主イエスの掟であると語られていますが、その掟は、主人から僕への命令ではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」ということがその前提にあるのです。主イエスの愛を、ご自分の命を捨てて下さるほどの愛を受けた者として、その主イエスのみ心に応えて、私たちは、互いに愛し合っていくのです。主イエスのように完全にはできないけれども、私たちも、友のために自分の命を捨てるという生き方を追い求めていくのです。先ほどの14節の「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」というみ言葉の「わたしの命じることを行う」とは、この愛に生きることです。主イエスの愛のみ心を知り、それを受け止め、それに応えて、自分も愛に生きようとする時に、その私たちを主イエスは、友と呼んで下さるのです。主イエスが私たちを選んで下さり、私たちが出かけて行って実を結ぶように、また私たちが主イエスのみ名によって父なる神様に願うものは何でも与えられるようにと任命して下さったというのも、この「互いに愛し合う」ことのためです。私たちが出かけて行って結ぶ実とは、互いに愛し合うという実りです。また私たちが主イエスのみ名によって父なる神様に祈り願うのは、互いに愛し合うことができるように、ということです。その祈りは必ず叶えられる、と主イエスは約束して下さっているのです。
 ですから皆さん、私たちは皆、主イエスに愛され、主イエスの友とされているのです。そのことを忘れないで日々を歩みましょう。礼拝に集うことができないでいると、そのことを忘れてしまいがちになるかもしれません。そこに信仰の危機があります。その時には主イエスのこのみ言葉を思い起こして下さい。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。それゆえに皆さんは一人残らず、今も、いつまでも、主イエスの友です。キリストの体である教会の、大切な肢体なのです。父なる神様は、主イエスは、そして教会は、皆さんのことを決して忘れてしまうことはありません。そのために今日のこの礼拝が行われています。これからも、互いにとりなし祈り合い、支え合いつつ、愛し合う喜びを分かち合っていきましょう。

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