「天に栄光、地に平和」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; ゼカリア書 第8章1-23節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第2章1-23節
・ 讃美歌 ; 247、255、268 聖餐式81
告げられた大きな喜び
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。これがクリスマスの出来事です。私たちの救い主が、この世に、一人の人間として生まれて下さった、私たちのところに来て下さったのです。それは、「民全体に与えられる大きな喜び」です。救い主メシアの誕生は、全ての人々にとっての大きな喜びの出来事です。その大きな喜びを、私たちはこの礼拝において分かち合い、共に喜び祝いたいのです。
この喜びはしかし、自然に湧いてくる喜びではありません。告げられ、教えられなければ分からない喜びなのです。主イエス・キリストがお生まれになった時、民全体に与えられる大きな喜びの出来事が起ったことを知っていた人は一人もいませんでした。主イエスはユダヤのベツレヘムでお生まれになった、と本日の聖書の箇所、ルカによる福音書第2章は語っています。それは、母マリアとその夫ヨセフがベツレヘムに住んでいたからではありません。彼らは、ローマ皇帝アウグストゥスによる住民登録の命令のために、ヨセフの先祖の町であるベツレヘムまではるばる旅をしなければならなかったのです。その旅先でマリアは出産をし、生まれた赤ん坊を飼い葉桶に寝かせました。そこから、主イエスは馬小屋で生まれたと言われるようになりました。マリアが馬小屋で出産をしなければならなかったのは、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」からだとあります。どこの宿屋も住民登録のための旅人で一杯だったのだとよく言われます。でも、そんな場合でも、たっぷりお金さえ出せば、必ず泊まる部屋は得られるものです。宿屋でなくても、迎え入れてくれる人はいるものです。ですからこれは、彼らが貧しくみすぼらしい、誰も目に留めることのない夫婦だったということです。マリアの大きなおなかの中に世の救い主がおられ、民全体に与えられる大きな喜びが今実現しようとしている、などとは、誰も、これっぽっちも思わなかったのです。主イエス・キリストは、誰にも顧みられることのない中で、ましてや喜び祝う人など一人もいない中でお生まれになったのです。マリアとヨセフにとってもそれは、子供が生まれようとしている自分たちを誰も迎え入れてくれない、助けてくれない、そんな中で、人間の泊まる部屋ではない馬小屋に追いやられ、そこで初めての出産をしなければならないという、喜びどころか大変な苦しみの出来事だったのです。民全体に与えられる大きな喜びなど、この出来事のどこにも見えないし、感じられないのです。
このことが大きな喜びの出来事なのだと告げたのは、主の天使でした。野宿をしながら群れの番をしていた羊飼いたちに、天使が現れて、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と語ったのです。この天使の言葉によって初めて、この日に大きな喜びの出来事が起ったのだということが告げられたのです。人間の感覚においては、喜びなどどこにあるか、あるのは苦しみだけだと思われるここに、実は大変大きな喜びの出来事が起っているのだということは、天使によって、つまり神様から告げられ、教えられなければ、誰にも分からないのです。このように、クリスマスの喜びは、神様から告げられ、教えられて初めて分かる喜びです。私たちが今、この礼拝において共に喜び祝おうとしているのは、そういう喜びなのです。クリスマスを喜び祝うのは、私たちの中に、何か嬉しいこと、喜びの理由があるからではありません。そういうことなら、今はとても喜び祝う気分にはなれない、という人もおられるでしょう。私たちの中には、肉親を失ったばかりの悲しみの中にある人もいます。病気の家族の看病をしている人もいます。もちろん自分自身の様々な苦しみや悲しみをかかえている者もいます。さらに、私たちを取り巻くこの社会を見つめるなら、今年も、心暗くさせられるような出来事がたくさんありました。そのような中で、この国の基本的なあり方が大きく変わろうとしています。教育基本法が変わり、防衛庁が防衛省になり、任期中に憲法を変えると宣言している人の内閣が誕生しました。この国はどこへ向かおうとしているのか、その道の先には何があるのか、私たちは大きな不安を感じずにはおれません。今年のアドベントからクリスマスにかけては、「平和」というテーマで礼拝の説教をして参りましたが、それは、現在の世界が、平和とはほど遠い状態だからです。この国が今歩み出そうとしている道が、平和をもたらしていく道なのか、疑問を抱かざるを得ないからです。そのような中で今私たちは、平和を守り造り上げていくためにはどうしたらよいのか、を真剣に考えていく必要があるからです。そのような私たちの、またこの世界の現実に目を向けるなら、呑気にクリスマスを喜び祝ってなどいられない、という気持ちにもなるのです。
しかしそのような暗い、喜びの理由などどこにもないと思われる現実の中で、天使が、民全体に与えられる大きな喜びを告げたのです。それを聞いたのは羊飼いたちでした。彼らもまた、決して豊かな、幸せな生活をしていた人々ではありません。むしろ町に住む人々からは差別され、蔑まれていたのです。苦しみをかかえ、悲しみを抱いていた人々です。そのような人々のところに主の天使が現れて、大きな喜びを告げたのです。それによって彼らは、クリスマスを最初に喜び祝う人となったのです。私たちのクリスマスの喜び祝いも、そのようにして与えられます。大きな喜びを告げる神様のみ言葉を聞くことによってこそ、今悲しんでいる者も、苦しみの中にある者も、不安を覚えている者も、皆共にクリスマスを喜び祝うことができるのです。
天使たちの賛美
主の天使は羊飼いたちに、救い主メシアの誕生という大きな喜びを告げました。しかし天使たちは、起った事実を情報として告げただけではありませんでした。そこに、天の大軍が加わり、賛美を歌ったのです。天の大軍、天使たちの大軍勢です。軍勢と言っても、戦争をするために来たのではありません。神様を賛美して歌ったのです。ですから、天の聖歌隊と言ってもいいでしょう。天使たちの大聖歌隊による賛美の合唱が響き渡ったのです。これは言い換えれば、天使たちの群れが神様を礼拝した、ということです。羊飼いたちは、天使たちの礼拝における賛美歌の歌声を聞いたのです。天使たちの礼拝に参列することを許されたのです。そのことによってこそ彼らは、クリスマスを喜び祝う者とされたのです。これは私たちにも起ることだと思います。クリスマスの喜びは、「私たちの救い主イエス・キリストがお生まれになった」という知らせを聞いただけで得られるものではありません。そのことを感謝し、喜び祝う礼拝の中に身を置くことによってこそ、その喜びが本当に分かるのです。そしてそれを共に喜び祝うことができるようになるのです。信仰とはそのようにして与えられるものです。キリストの福音、救いの知らせ、喜びの知らせは、知識や情報として伝えられるだけでは力を持ちません。共に神様を礼拝し、賛美し、祈る場に身を置くことによってこそ、福音は本当に救いの知らせ、喜びの訪れとなるのです。インターネットで説教の原稿を読むことや、テープやCDで録音を聞くのはそれなりに意味のあることですが、やはり礼拝の場に身を置くことによってこそ、信仰は本当に養われ、喜びが深められていくのと同じです。
さて羊飼いたちが聞いた天使の賛美の歌は、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌っていました。これが、クリスマスにおける代表的な賛美の言葉です。当然ながら賛美歌にも用いられており、「グローリア イン エクセルシス デオ」とラテン語で歌われています。これは「いと高きところには栄光、神にあれ」の部分です。ちなみにその後の「地には平和、御心に適う人にあれ」の方は「エト イン テラ パックス ボネ ヴォルンターティス」となります。この言葉はクリスマス・カードにもよく書かれるし、教会学校の子供たちもページェントでこれを暗唱します。大変よく知られた言葉であるわけですが、しかしこの賛美が歌っていることは何なのか、なぜ天使はクリスマスにこの賛美を歌ったのか、これはそう簡単なことではないと思うのです。そのことをご一緒に考えてみたいと思います。
天に栄光、地に平和
この賛美の言葉を簡略化して言えば、本日の説教の題である「天に栄光、地に平和」ということになります。天使たちは、主イエスの誕生において、天の、つまり神様の栄光と、地の、つまり人々の平和を歌ったのです。それは、主イエスの誕生において、神様の栄光と人々の平和の両方が実現している、ということでしょう。それでは、主イエスの誕生において、神様の栄光と人々の平和はどのように実現しているのでしょうか。人間の感覚からすれば、どちらも少しも実現してはいません。神様の独り子が馬小屋の中で生まれ、飼い葉桶に寝かされることのどこに栄光などあるでしょうか。政治的権力者の命令によって、貧しい夫婦が望んでもいない旅を強いられ、旅先の馬小屋で出産をしなければならないという事態のどこに平和などあるでしょうか。しかし神様はこの天使の賛美によって、まさにこの出来事において、ご自身の栄光と、人々の平和が実現していると告げておられるのです。それは、この日お生まれになった主イエス・キリストのご生涯を、特にその終わりを見つめることによって初めて理解できることです。主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。その主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。主イエスがこの世にお生まれになったのはこのためだったのです。神様はそのために独り子主イエスを世にお遣わしになったのです。そして、十字架にかかって死んだ主イエスを、神様は復活させられました。死の力を打ち破って、主イエスに新しい命をお与えになったのです。この主イエスの十字架の死と復活によって、私たち人間を捕えている罪と死の力に対する神様の勝利が、その栄光が実現したのです。主イエスの誕生は、十字架の死と復活とによる神様の勝利の栄光への第一歩です。それゆえに天使たちは、人間の目には神の栄光などどこにも見えないクリスマスの出来事において、神様の栄光をたたえて歌ったのです。
「地の平和」についてもそれと同じことが言えます。地上の、人間どうしの間の平和は、対立する人間どうしが話し合って何とか妥協点を見出す、ということによって実現するのではありません。地の平和を実現するための道も、主イエス・キリストのご生涯を見つめることによってこそ示されるのです。主イエスは、神様に背く敵であった私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、つまり私たちが神様に対して抱いている敵意や憎しみの刃をご自分の身に受けることによって、敵意や憎しみを乗り越え、赦しを与えて下さったのです。地上に平和を実現するための道はそこにこそあります。お互いに罪があり、様々な対立がある中で、相手の罪を自分の身に背負って苦しみを引き受けていくことを通してこそ、平和は実現するのです。主イエスは、地上に平和を実現するための道を示し、先頭に立ってその道を歩んで下さったのです。それゆえに、主イエスの誕生は、地の平和、人々の平和への第一歩です。それゆえに天使たちは、人間の目には平和などどこにも見出せないクリスマスの出来事において、地の平和を歌ったのです。
約束と希望に生きる
つまり、天の栄光も地の平和も、主イエス・キリストの十字架と復活によってこそもたらされるものです。主イエスの誕生は、そのことの始まりなのです。そこに、クリスマスの喜びの根拠があります。クリスマスの喜びとは、将来もたらされる天の栄光と地の平和を望み見る喜びです。その栄光と平和は、まだ目に見える現実とはなっていません。しかし、主イエス・キリストがこの世に来て下さったことによって、その実現の確かな約束が与えられたのです。クリスマスの喜びは、神様からの確かな約束によって希望に生きる喜びなのです。
私たちのクリスマスの喜びも、この約束によって希望に生きる喜びです。天の栄光も地の平和も、主イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされる、と申しました。そういう意味では、私たちは既に天の栄光と地の平和にあずかっています。洗礼を受けて教会のえだとされた者は、キリストの十字架と復活にあずかって、罪を赦され、神の子として新しく生きる恵みを与えられています。罪と死の力に対する神様の勝利の栄光にあずかっているのです。しかし洗礼を受けた者たちにおいても、天の栄光と地の平和はまだ目に見える現実となってはいません。神様の恵みが私たちの罪と死とに勝利していることは、目に見える現実ではなくて、信じて受け止めるしかないことです。また主イエスが神様と私たちの間に平和を打ち立てて下さって、平和を実現するための道を自ら示して下さいましたが、その道を私たちが歩んで、この地上に平和をもたらしていくことは、私たちに課題として与えられていることです。天の栄光も地の平和も、今はまだ目に見える現実とはなっていないのです。それが誰の目にもはっきりと見える現実になるのは、主イエスがもう一度来られてこの世が終わり、神様のご支配が完成する、その終末の時です。その時に、天と地の区別はなくなり、天の栄光と地の平和は一つとなり、完成するのです。そこに私たちの最終的な希望があります。クリスマスから始まり、十字架の死と復活へと至る主イエス・キリストのご生涯が、この希望の根拠であり、約束です。クリスマスの喜びは、この約束によって希望に生きる喜びなのです。
恐れるな
この世の目に見える現実の中で、この喜びに生きることは簡単なことではありません。目に見える現実と、み言葉によって示される、主イエス・キリストによって実現している天の栄光、地の平和との間には、余りにも大きな隔たりがあって、私たちはどまどいを覚えるのです。それはちょうど、野宿をしていた羊飼いたちに主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らした時に彼らが抱いた思いと同じだと言えるのではないでしょうか。彼らは「非常に恐れた」とあります。この恐れは、神様の栄光に照らされた時に人が覚える畏怖の思いであると説明されますが、私たちの現実にもっと引き寄せて言うならば、神様の栄光と、自分たちの現実との大きな隔たりを感じる時に私たちが覚える戸惑い、この世の現実の中で神様の栄光を信じて生きることへの恐れであると言うことができるのではないでしょうか。
恐れる羊飼いたちに、天使は、「恐れるな」と語りかけ、そしてあの大きな喜びを告げました。彼らのクリスマスの喜びは、神様からの、「恐れるな」というみ言葉によって導かれ、支えられているのです。私たちのクリスマスの喜びもそうです。神様の約束によって与えられる希望と、この世の目に見える現実との余りのギャップに戸惑い、恐れを覚える私たちに、神様は「恐れるな」と語りかけ、クリスマスの喜びへと招いて下さるのです。クリスマスを本当に喜ぶためには、神様からのこの「恐れるな」というみ声を聞かなければなりません。目に見える現実ばかりを見つめている私たちの心は、恐れに満たされてしまいます。しかし神様の「恐れるな」とのみ声によって、この日ダビデの町で私たちのために生まれて下さった救い主イエス・キリストへと、この主イエスによって民全体に与えられている大きな喜びへと、私たちは目を向け直すのです。
天使の賛美に声を合わせて
大きな喜びの知らせを受け、天使たちの賛美の歌声を聞いた羊飼いたちは、そこから押し出されて、救い主イエス・キリストに会いに行きました。20節にはこうあります。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。彼らは、天使の告げたことがその通りであることを、自分たちの目と耳で確かめ、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」のです。つまり彼らも、クリスマスを喜び、賛美を歌う者となったのです。彼らがどんな賛美を歌ったのかは書いてありませんけれども、あの天使たちの賛美に声を合わせたのだと思うのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。彼らも、天の栄光と地の平和をほめ歌う者となったのです。そのことが、私たちにも起ります。私たちは、礼拝において、み言葉を聞き、共に賛美を歌い、祈りを合わせていくことの中で、告げ知らされたみ言葉がその通りだ、本当のことだ、ということを知るのです。そして、自分も神様をあがめて賛美を歌う者へと変えられていくのです。それが、信仰を与えられるということです。
御心に適う人
羊飼いたちは、自分たちもこの賛美を歌っていく中で気付かされていったに違いありません。「地には平和、御心に適う人にあれ」と天使が歌った、その「御心に適う人」とは、自分たちのことだ、ということをです。それは、自分が神様の御心に適う立派な者だということではありません。むしろ自分の中にはそんな資格は何一つないのです。しかし、そのような自分を、神様が選んで下さって、民全体に与えられる大きな喜びを告げて下さった、そして神様を賛美する者として下さった、そこに、神様の大いなる恵みの御心の印があるのです。自分の相応しさによってではなく、神様の恵みによって、私たちは、御心に適う者とされているのです。
御心に適う者とされた私たちだけが、地の平和にあずかるのではありません。むしろ、御心に適う者とされ、神様の約束による希望に生きる喜びを与えられた私たちは、主イエス・キリストが先頭に立って歩んで下さった平和への道を、主イエスの後に従って歩む者となるのです。この世の目に見える現実はなお暗く、天の栄光も地の平和もどこにもありはしないように思えます。しかし、その闇の中に主イエス・キリストが来て下さった、そのクリスマスを喜び祝い、あの天使の賛美に声を合わせて、天の栄光と地の平和をほめ歌いつつ生きる私たちは、目に見えるこの世界の暗さに絶望することなく、天において神様の栄光が確立しており、世の終わりには、その栄光があらわになり、地の平和も実現するという約束を信じて、希望を失わずに、地の平和のための努力をしていくことができるのです。神様は私たちを、そのような、「御心に適う人」として下さるのです。