「真実であられる創造主」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: マラキ書 第3章1―5節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第4章12-19節
・ 讃美歌 : 526、229
はじめに
ペトロの第一の手紙は、迫害の中にある信仰者たちを慰め、励ましを与えるために書かれた文書でありました。この迫害がとても激しい迫害であったということが、本日の箇所において表れております。ペトロはこのような激しい迫害の中にある信仰者たちに対して、特別な愛情をもって呼びかけます。「愛する人たち」と語り始めます。これは「愛されている人たち」という意味で、この手紙の送り主であるペトロから愛されていると言うことと、同時に神様からも愛されていることを表しているのです。
火のような試練
迫害の中にありつつも神様から愛されている人たちにペトロは語るのです。「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(12節)。この「火のような試練」とは「火の試練」または「火による試練」とも訳せる言葉であります。この「火」とは普通の火ではなく、金や銀を精錬する火です。そのような火が身にふりかかると言うのです。ただの火ではなく、信仰者を精錬する火のような試練があなたたちに身に起きると言うのです。神様が信仰者にこのような試練を与え、信仰者を更に強くするのです。迫害から生じる苦難もまた、神様からの試練なのであります。そのような神様からの試練を「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(12節)と語ります。そのような神様からの試練を、何か不幸なこと、理解しがたいことと思い驚き怪しんではならない、と語ります。私たちが神様を信じるならば、神様は私たちに何も不幸は与えないということはありません。この神様を信じるならば悪いことは起こらず、幸福だけが起こると教えるのはご利益的な宗教であります。私たちは、自分にとって都合の良いことだけをしてくれるような神様を信じているのではありません。私たちは信仰生活の中で、自分にとって都合の良いことばかりが起こるのではないことを知っております。
キリストの苦しみにあずかるほど
聖書ははっきりと信仰者にも苦難がある、と記しております。主イエス・キリストも「あなたがたには世で苦難がある。」と言われました。パウロもまた「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」と言っております。ですから、「自分は神様を信じているのに、どうしてこんな苦しみにあうのであろうか」などと言う問いは成り立たないのです。この地上を歩む限り苦難や試練が起こるのです。更にペトロは「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」(13節)と言っています。「キリストの苦しみ」とは、イエス・キリストが地上で受けられた苦しみのことであります。主イエス・キリストが十字架の上で受けられた苦しみであります。主イエス・キリストは罪の無いお方であったにも関わらず、苦しみを味わい、ついに十字架の死をお受けになったのです。ペトロは信仰者が苦難や苦しみを受けることはキリストの苦しみにあずかることであるから喜びなさい、と言います。まさにそれは信仰者の特権とも言えるのです。そのような苦難や苦しみに出会うならば、悲しむどころか「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」(13節)と勧めております。ここでキリストの苦しみに「あずかる」と訳されている言葉は深い同感、同情によって苦しみを分かち合うことを意味します。キリストの苦しみに「あずかる」とはキリストと共に苦しみを分かち合うということです。キリストと同じ苦しみを分かち合い、主イエス・キリストを知るようになるのです。そのような人はキリストが再び来られるときに、主イエスを心から喜び迎えることができるのです。キリストの苦しみにあずかることを喜ぶことは、「キリストの栄光が現われるときにも、喜びに満ちあふれるため」(13節)であります。「キリストの栄光が現われるとき」とは即ち主イエス・キリストが再び来られるときであります。今はまだ隠されているキリストの栄光が、再びあざやかに現われる時が来ると言うのであります。今、キリストと共に苦難や苦しみを受けている者は、主イエス・キリストが再び来られる時に一層の喜びをもって心から主イエス・キリストを迎えることができるのです。ペトロはこのように迫害の中にある信仰者たちを慰め、励ますのです。
霊はとどまる
そして迫害の中にある信仰者たちに「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。」(14節)と語ります。「キリストの名のために」とは即ちキリストを信じるために、イエス・キリストを信じる信仰のゆえにという意味です。キリストを信じるために、信仰のゆえに迫害を受け、非難されることは幸いである、とペトロは言います。なぜ、幸いであると言えるのでしょうか。それはすぐ後に続くように「栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」と言います。キリストの名のために、信仰のゆえに迫害、非難を受ける人には神様の霊である栄光の霊がその人の上にとどまると言います。
神様の霊、栄光の霊がとどまる、とは、その人に神様の御業が働く、ということです。そのような信仰者の姿を教会の歴史にも大勢見ることができます。またキリストの名のゆえに迫害される人の姿を通して信仰に導かれた人も多かったのでしょう。神様の霊、栄光の霊がとどまることによって神様の御業が働き、神様の御業によって力が与えられるのです。そこには、人間では到底成しえない働きが神様によって与えられます。このように、迫害や苦しみや非難を受けることは神様の働きがそこで与えられ、神様の霊、栄光の霊が表わされる機会となるのであります。だからそれを喜んで受け入れることをペトロは勧めております。
キリスト者として
けれども15節にあるような悪事から苦しみを受けることがないようにと勧めています。「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。」(15節)と勧めています。ここで挙げられている悪事である「人殺し、泥棒」による苦しみはキリストのゆえの苦しみではありません。また「他人に干渉する者」とは直訳すれば「他人に関することを監督する者」という意味です。他者の私的なこと、プライバシーを詮索したり、自分とは関係のない事柄や問題に入り込もうとすることによって、わざわざ苦難を造り出すことであります。自分では信仰のために苦しんでいるつもりであっても、実は軽はずみや愚かさの結果をただ刈り取っているに過ぎないのです。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」(16節)とあります。ここで「キリスト者」と言う言葉が出てきます。この「キリスト者」の部分は以前の口語訳聖書では「クリスチャン」となっております。「クリスチャン」とはこの手紙が書かれた頃に教会に集う信仰者たちにつけられた呼び名でありました。キリストに従う人という意味です。クリスチャンであることによって、キリストの信仰のゆえに苦難や苦しみを受けたとしたら、それは信仰者に特有な苦難であるからむしろ光栄なのです。「クリスチャンだから、いじめてやろう」と言って迫害をされるのは、光栄なことなのです。主イエス・キリストはマタイによる福音書の第5章11、12節においてこう言われました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」今受けている苦難や苦しみが自分の罪や愚かさから出たものではなく、キリスト者、クリスチャンであるがゆえに生じてくるものであるならば、そのような光栄にあずかったことを喜び、感謝するのです。
苦難の中で
ペトロは「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」(17節)と言います。「裁きが始まる時」と言うところから、キリスト者の迫害や苦難を見ており、その意味を明らかにしております。キリスト者が受ける迫害や苦難は神の裁きと救いの完成とが近づいている証拠なのです。この世と教会に対する神の裁きと救いの完成とが近づくにつれて、迫害や苦難は一層激しくなる。それゆえにキリスト者は苦難を救いの前兆として、苦難に耐えることを勧め、苦難の中で善い業に励んでいかなければならないというのです。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」(17節)今こそ、その時なのです。ここで使われている「時」というのは、ある事件や危機によって起こった一定の時間を意味しております。神様が裁きと救いの完成とが行われる時を意味しており、その時は今や切迫したというのです。その時、神の裁きと救いの完成の時が今や切迫していることは、キリスト者に与えられる苦難の激しさによって知ることが出来ます。むしろ信仰者から神様の裁きと救いの完成とが始まることを覚えることによって、試練を耐え忍びなさい、と言うのです。神様がそのことを行われることはキリスト者にとっては苦しみとされることもあります。「今こそ、神の家から裁きが始まる時」(17節)その時が来たということです。神様がお定めになったその時であるということです。神様のその裁きを受けて苦しむこともあります。しかしそれも神のお定めになる御業であり、神様のご計画であるのです。苦しみに会うことは辛いものです。しかしそれを神様がお定めになったこと信じる時、私たちは喜びをもって従うのであります。神様の裁きのときは救い完成の時であります。神の裁きのとき、終わりの日とは救いを完成される日です。その日の備えが今すでに始められたということです。私たちが受ける苦しみも、終わりの時に、救いが完成するしるしであると言えます。私たちはそのことを信じるのであります。そして神の家である教会に住む者となるときに、17節後半の言葉の意味を理解していくのです。「わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。」(17、18節)この部分は、神の福音に従わない者や罪人はもっとひどい目に会うのだということを意味しているのでありません。キリスト者のように神様を信じている者もこのような苦難や試練を受けるのであります。それは神様に救いの約束を与えられているからこそ、このような苦難を受けるのであるということです。
試練
苦しみを受けるキリスト者は理由の分からない、意味のない苦しみを受けるのではありません。神様の御業によって、苦しみと言う試練を受けているのであります。神様から苦しみを与えられるより、楽しみや幸せを頂きたいと思うものです。然し、その楽しみ、幸せであろうと、苦しみであろうと与えられるのは神様であるということです。ただの偶然の出来事の中を生きているのではなく、私たちを愛する神様の御心の中を生きているのであります。すべての事柄が神様の御業の中で行なわれています。そのような神様こそが「真実であられる創造主」です。そのお方に自分の魂をゆだね歩むのです。神は一切を知り尽くされ、すべてのものを造られたお方です。すべてのものを造られた方こそ、私たちが頼ることが出来るお方であります。私達のすべてを造られ御支配なさる神様が、この地上に救い主として来られたのです。私たちは神の独り子である主イエス・キリストの十字架と復活によって罪を赦されました。ペトロは迫害の中にあるキリスト者たちに神様の大きな救いの御業を語り、キリスト者たちを慰め、励ますのです。今は迫害の中にいる。けれども主イエス・キリストが再び来られる時を希望をもって待ち望むのです。神様は、主イエス・キリストの出来事を通して私たちを救いの道へと導いて下さりました。主イエス・キリストの十字架による苦難を用いられ、私たちに愛を示し、私たちに働いて下さるのです。神様によって希望を持って待ち望むことができるのであります。