「その方を畏れて」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第130編1-8節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章17―19節
・ 讃美歌 : 442、525
その方を畏れて
本日はペトロの手紙第1の第1章17節から19節を通して神様の御言葉を聞きましょう。本日の17節から21節には、信仰を与えられたキリスト者すべてがわきまえるべき事柄、キリスト者に与えられた新しい生き方がはっきりと語られております。本日はその前半の19節までですが、17節はこのようにして、キリスト者に対して語っております。「・・・あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」このペトロの手紙が書かれた歴史的な状況というのは、様々な形でキリスト教会が迫害を受け始めた頃であります。迫害を受けるというのはキリスト教会が試練の中に置かれていたということです。そのように試練の中にいる人々に対して、どのようにキリスト者としての生活をきちんと形造ったら良いのか、と説いているのであります。試練の中にある人々がキリスト者としてどのような生活をするのが良いのか、色々なアドヴァイスが出来るかもしれませんが一つの答えを出しております。「その方を畏れて生活すべきです。」と言っております。その方とは、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」、「父」と呼ばれているお方、神様であります。だから、このお方を「畏れる」生活を送りなさい、と聖書は語っております。「おそれる」という言葉をお聞きになると、色々な漢字を思い起こすことができるかでしょう。ここで(新共同訳聖書)用いられている「おそれ」というのは、神様への「畏敬」(いけい)という意味での畏れであります。神様を怖がることでもなく、畏れるということです。この手紙の少し先の2章17節においても、このように語っております。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」とあります。神を畏れるということは、神を畏敬する、という意味です。畏れ敬う、畏敬、心からその方に服し敬うことであります。神様というのは、畏れ敬う、畏敬をするに値するお方であるということです。そのようなお方である、ということです。私たち人間とは違う存在であるのです。神様への畏れというのは、神様を神様をとすることであります。神様を神様として礼拝をすることであります。私たちが礼拝すべきお方を畏れなさい、ということです。神様を畏れなさい、神様を畏れて生活をしなさい、と勧めているのです。
公平に裁かれる神を畏れる
その神様は「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」であるあります。この「公平に」とあります言葉は、「顔を見て区別しない」という意味の言葉であります。人それぞれの行いに応じて、人それぞれの顔を見て区別しないで裁かれるのが神様であるというのです。私たちは様々な角度から、自分の価値判断で人を見比べます、また自分の気付かないところで人を比べております。またそれは同時に自分自身も人から比べられている存在であるということです。教会においてもそうではないでしょうか。自分は何年、信仰生活をしている、ましてや、どんなことをこの地上で成しているか、どんな仕事をしているのか、どんな成功や功績を収めたのかということで神様は判断されないということです。神様はそれぞれの行いに応じて、それぞれの生活をはっきり正しくご覧になり、公平に判断をされるのです。
どのような状況においても
当時のキリスト者達の置かれた状況は迫害という試練の中で、人々は神様に嘆くこともできた状況でありました。「せっかく神様を信じたのに、いやむしろ神様を信じてしまったばっかりに、私たちはこんなひどい目に遭いました、神様どうしてくれるのでしょうか」と言える状況であったことでしょう。そのように神様に対して嘆かざるを得ない人々に対して、神様を畏れて生活をしなさい、と励ますのです。キリスト者こそ、神様を心から「畏れ」るのです。神様をまず、「畏れる」心からこそ、迫害にも耐えて生きる逞しい生活も生まれてくるのであります。他の誰でもない、神様を神様として真実に「畏れる」ことを神様は人間に求められているのです。神様を「畏れて生きる」生活を神様は私たちに求めておられるのです。それぞれの行いに応じて公平に裁いて下さるお方を、「父」と呼ばれる神様を畏れなさい、神様を畏れる心を持って生きなさい、と言っておられます。どのような試練の中にある時も神様を「畏れて生活」をしなさい、と求めておられるのです。なぜでしょうか、またなぜ、どのような試練の中においても畏れるべきお方である神様と言えるのでしょうか。なぜ、そのように神様を「畏れる生活」が可能なのでしょうか。
罪の中より
18節においてその理由が述べられております。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」とあります。私たちが神様を畏れる生活をするのは、その理由は私たちが神様の独り子である主イエス・キリストの尊い血によって、「先祖伝来の空しい生活」から贖われたからであります。私たちは「先祖伝来の空しい生活」を送っているのです。自分は毎日、充実している、空しい生活などは送っていないと思われるかもしれません。けれども、先祖伝来の空しい生活と言うのは神様を神様として礼拝しない生活であります。私たちが本当に神とすべきお方を神としない、自分中心の生き方をすることです。そこから神様との関係が壊れ、隣人との関係が壊れます。それは自分自身をも壊すことを意味でするのではないでしょうか。けれども神様との出会いによって、神様の独り子である主イエス・キリストとの出会いによって、私たちはそれまでの「空しい」生活から、神様を畏れる歩みへと変わるのです。私たちのそれぞれの行い、一つ一つの振る舞いが変わるのであります。神様を神としない、自分中心のこれまでの生活は「先祖伝来の空しい生活」であります。そのような先祖伝来の生活から一歩を踏み出して、神様を「畏れる生活」、神様の祝福の中での生活へと変わるのです。私たちがそのような空しい歩み、罪の歩みから救い出されたのは、自分の力によるのでもないのです。自分で自分を救い出す、表面的に何とか取り繕って生活をするなどと言うように、多少のことは出来るかもしれませんが、根本的な解決にはなりません。人間の罪というのは、そんな簡単なものではないでしょう。主イエス・キリストの尊い血によって、私たちは罪より救い出されるのです。金や銀のような朽ちはてるもの、この世の朽ち果てるものによらない、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血により救われたのです。私たち人間が「先祖伝来の空しい」生活から、神様を畏れる生活へと歩むために主イエス・キリストが十字架において尊い血を流された。主イエス・キリストが尊い血を流されたというのは、十字架において、ご自身の命を捧げられたということです。主イエス・キリストがご自分の命をかけて、私たち人間のそれまでの歩み、人間の罪を赦して下さったのです。神様は人間の罪を赦され、それまでは罪の中を歩む、空しい生活から、神様を神様とする、神様を礼拝する、神を「畏れる生活」へと導いて下さったのです。神様を畏れる生活と言うのは、神様の神様を神様と礼拝する、祝福の中を歩む生活であります。
罪を赦す方を畏れる
神様を畏れる生活はなぜ、祝福の中を歩む生活と言えるのでしょうか。なぜ礼拝すべきお方であるでしょうか。先ほどお読みしました、旧約聖書の詩編130編2節からお読みします。「主よ、この声を聞き取って下さい。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」主なる神様にここで、詩人は嘆き祈るのです。どのような理由かは分かりません。けれども「わたしの声に耳を傾けてください。」と主なる神様を慕い、求めるのです。詩人は「主よ、あなたが罪をすべて心に留めて下さるなら」と自分の罪を嘆き、罪を告白するのです。罪を告白するのは、罪を赦して下さるお方であるからです。赦しは主なる、神様のもとにある、それゆえに、それだから人々は神様を畏れ敬うのであります。なぜ、神様を畏れるのか。なぜなら、神様こそが人間の罪を赦して下さるお方であるというからです。主なる神様が、この地上に人として来られ、そのお方は主イエス・キリストであります。主イエス・キリストの十字架において流された尊い血によって、私たちが罪を赦されたのであります。私たちを公平に裁いて下さる神様の前において、人間はその罪のゆえに裁かれる存在であります。けれども、私たちが受けるべき裁きを主イエス・キリストは私たちの代わりに負って下さり、私たちの代わりに裁きを受けて下さったのです。人間は罪のゆえに神様の前で、嘆き祈らなければならない存在であります。礼拝のたびに私たちは神様の前で罪を告白し、悔い改めをしなければならない存在です。私たちは自分の知らないところで、神様を神様とせず、自分自身が小さな神になってしまい、そのことにより、大事な人をも傷つけてしまうものです。礼拝において神様の御言葉を頂いても、またすぐ同じことを繰り返してしまう者であります。まさしくそれは「空しい生活を送る者」の姿ではないでしょうか。そのような私どもに神様は、救い主をお与え下さいました。私たちが真に礼拝すべきお方であり、私たちの罪を赦して下さるお方であるがゆえに礼拝されるお方であります。その方が私たちをそれまでの空しい生活を送る者から、神様を畏れる者へと贖い出して下さいました。贖うと言うのは、神様が代価を払って私たちを買い取って下さったのです。その代価こそまさしくその十字架において流された尊い血によって罪の中にあった私たちを買い戻して下さったのです。私たちがこれから、この遣わされるそれぞれの日常の場において、私どもに赦しを与えて下さった方と共に歩んで参りましょう。