夕礼拝

聖なる方に倣って

「聖なる方に倣って」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: レビ記 第11章44―45節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章13-16節
・ 讃美歌 : 402、503

はじめに
 本日はペトロの手紙一の第1章13節から16節を通して共に神の御言葉に聞きたいと思います。本日与えられました13節から16節までの箇所は「だから」という言葉から始まっております。「だから」と言われているのはその前に言った事柄が、ここでは3節から9節までにおいて述べられている事柄が、これから13節から言う事柄の原因、理由になるということです。理由や原因を述べて「だから~こうである」と用いるのであります。本日の箇所には「聖なる生活をしょう」とこのような見出しがつけられております。またこの箇所の13節より文体が、勧め、勧告の文体へと変わります。3節から9節までに語られていることを受けて、「だから、聖なる生活をしょう」です。聖なる生活をする根拠、理由や原因はその前に言われている少し前の3節からの9節までに示された事柄であります。13節の「だから」とここから始まる勧めの言葉とをつなぐのであります。3節から9節において、示されていることは、主イエス・キリストによって生きる者の信仰の根拠と言えます。始めの頃の教会において、洗礼を受ける際に読まれた箇所であると、言われております。主イエス・キリストの復活によって私たちに生き生きとした希望が与えられたということです。だから「聖なる生活をしょう」と言うのです。ペトロの手紙の最後の第5章に至るまで「勧め」の文体へと変化しております。

聖なる生活
 主イエス・キリストによって救われている、それだから聖なる生活をするのである、ということです。聖なる生活をするというのは一体どういうことか、どのように聖なる生活をすることなのでしょうか。大変具体的に語っております。まずこのようにあります。「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」とあります。口語訳聖書では、この「心を引き締め」という箇所を「心の腰に帯を締め」となっております。心を引き締めるということは「心の腰に帯を締め」るということなのです。「心の腰に帯を締める」というのは聖書の書かれた場所である、その中近東方面の生活において着用されていた服装をイメージすると分かるかもしれません。長く、帯のない、上から下までの縫い目のないかのような、そのような衣服をまとう生活の中で帯を締めるということです。そのような服装をしているならば、いざ活動をしようとすると、帯を締めなければならないのであります。帯を締めて活動を始める、つまり、どのようにして活動をするかということです。どのようにして活動の準備をするかということです。活動の準備のために、何をするのか、つまりどのように生きていくかということが示されているのです。心の腰に帯を締めるというのは、自分自身の身を整えるということになります。更に続けて、「身を慎んで」とあります。この「身を慎む」というのは本来お酒を飲まない、という意味であります。酔っていない、はっきりと目が覚めているということであります。主イエス・キリストを信じる信仰者の生活と言うのは、何か良く分からない、はっきりしない生活なのではなくて、はっきりと目が覚めている者の生活なのであります。自分自身の身を整えて、目がはっきりと覚めている生活をして、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」というのです。ここで注意したいのは、主イエス・キリストは既にこの地上に来られました。クリスマスの出来事であります。主イエス・キリストは十字架におかかりになり、復活されたのです。既に現れた主イエス・キリストによって与えられた恵みによって、私たちは主イエス・キリストが再びこの地上に来られる日の恵みを待ち望んでいるのです。既に与えられた恵みが、完成する日を私たちは待ち望むのであります。そのために、私たちは「心を引き締め、身を慎んで」歩むということです。それは主イエス・キリストによって与えられる恵みをひたすら待ち望むということです。14節から15節には「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」とあります。このようにして、私たちが信仰者として生きていく準備が整えられるということです。無知であったころの欲望に引きずられることなく、この世の知識、この世の事柄について無知であったころの欲望などと言うものでありません。神様について私たちは無知であった、何も知らなかったということです。神様が与えて下さる恵みについて、知らなかったということです。神様の子どもとして従順な子どもとなり、私たちを召し出してくださった聖なる方に倣うというのです。そして、私たち自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい、と言っております。主イエス・キリストによって救われた者、キリスト者の生活全体に対してあらゆる行いにおいて聖なるとなりなさい、と勧めているのです。私たちを召し出して下さった聖なる方に倣い、そして私達の生活の全ての面で聖なる者となりなさい、とあります。私たちを召し出して下さった聖なる方に倣う生活こそが、聖なる者の生活であると言えましょう。

聖なる方に倣う
 先ほど、共に旧約聖書のレビ記第11章44節、45節をお読みしました。主なる神様はこう言われるのです。「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。」(44節)とあります。レビ記というのは、私たちが食べる物に関して、こういうものはいい、又はこのような食物は食べてはいけない、このような物は汚れている、こういう物は汚れていない、と言うことが記されています。そのような言葉の後に、このように主なる神様の言葉が出てくるのです。つまり、私たちが本当に大事にすることは、この食べ物はきれいだとか、汚いということではないのです。これは食べ物に対してもそうでありますが、私たちの過ごす日常においてもそうではあるのではいでしょうか。私たちはどこか、自分の価値、判断で事柄を決めつけているのではないでしょうか。すなわち、自分を基準にしているということです。ここでは神様こそが聖なるお方であるということです。神様のご判断こそが私たちの見るべきものであるということです。神様こそが聖なる方であることを知り、そのお方に救われた者として私たちも自分自身を聖別して、聖なる者となりなさい、ということです。なぜなら、主なる神様こそ聖なる方であるからです。聖なるお方に倣うことが私たちの目指すべき生活であります。

人間の限界
 けれども、果たして私たちにそのようなことが可能なのでしょうか。先ほどの「心を引き締めて」「身を慎んで」とも通じますが、聖なるお方である神様に倣う生活というのは人間にとって可能なのでしょうか。もし、人間に到底、出来ないことをただ目標に掲げているのであれば、あまり意味がないことでしょう。聖書は私たちに、「心を引き締めて」「身を慎んで」聖なる方に倣う生活を、完璧に、完全に求めているのでしょうか。そうではありません。そのようなことは不可能であります。先ほどのレビ記の11章の45節にはこのようにあります。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」ただ単に、主なる神様が聖なる者だから、私たちも聖なる者となるべきであるとは言ってはおりません。ここで主なる神様が言われていることは「わたしはあなた達の神になる」つもりなのである、ということです。私たち人間が、いつでも、唯一なる神様こそが、主なる神様とすることができるようにする、ということです。主なる神となるために、私たちを救ったということです。ここではエジプトの国から導き出した主なる神様が救い出したのであります。私たちが救われてというのは、主なる神様が主イエス・キリストの十字架において、罪を赦して下ったということです。私たちは神様の御業によって救いへと導かれ、神様を本当に信じることができるのです。神様が聖なるお方であり、私たちが自分たちの努力や業で聖なる方に倣うのではないのです。聖なるお方である神様が、主イエス・キリストの十字架の業によって私たちが罪より赦されたことを信じるのです。そのことこそが聖なる方に倣うということです。神様が聖なるお方であり、その聖なるお方に倣うというのは、何か努力目標を掲げて理想に進んでいくということではありません。たとえ、目標を掲げても私たちは自分たちの思い通りにはできないでありましょう。自分が思い描いた通りに、自分が希望した通りには、聖なる方に倣う生活は出来ないでしょう。けれども、ここで神様は私たちに聖なる方に倣って生きなければならない、そのようなことを問われてはいないのです。まず、主なる神様を信じることを求めておられるのです。神様は私たちがそのように信じることができるために、準備をして下さったのです。聖なる方に倣って生きる、聖なる者になる、それは成功するかしないかが問題ではないのであります。大事なことは、私たちが主なる神様を信じることです。こうしなければ救われない、という道徳や修養ではありません。主イエス・キリストの救いは、そのように出来ない私たちが出来ないながらも完全を目指して走り進んでいく、そこには神の恵みがあるがゆえに、失望することはないのです。そのような私達の歩みを神様が準備して下さるということです。ペトロはこのように勧めるのであります。

愛の勧め
 神様は「私は聖なる者である」と言っております。「聖」とは、罪からの完全な離脱を意味する言葉であります。私たち人間は罪で汚れた者であります。罪の汚れにある人間は主なる神の御業によって、主イエス・キリストの十字架によって罪を赦されました。新しい道へと私たち招かれたのであります。それは、主イエス・キリストによって神様との新しい関係が出来たということです。神様との新しい関係に生きる私たちはもはや、自分自身の力に固執することはないのです。人間の思い描く、倫理や道徳、また人間の力で獲得することの出来る聖なる生活をする、聖なる神様に倣う生活をするということではないのです。人間の思い描くものを超えた神様の御業、罪に生きる私たちの罪を赦してくださる神様を信じるということが、私たちに与えられている聖なる方に倣うということであります。主なる神様を信じ、神様が救い主として与えて下さったイエス・キリストを信じることにおいて、私たちは自由の中において、「心を引き締めて」「身を慎んで」歩むことが出来るのです。聖書は私たちに律法主義を教え込むのではありません。主なる神様との自由な関係において、イエス・キリストを信じる、愛の勧めをするのです。愛の勧めの生活とは神様との自由な関係の中で成立するのです。主イエス・キリストが再び来られる日を待ち望むということです。地上に来られた主イエスが十字架にかかり、復活されたことによって私たちに与えられた生き生きとした希望が与えられ、さらに、私たちが朽ちず、汚れずしぼまない財産を受け継ぐ者とされた、ということです。主イエス・キリストが再び来られる日、主イエス・キリストが与えて下さる希望を待ち望む生活であり、そのような生活こそが聖なる方に倣うことです。

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