「生き生きとした希望」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第113編1-6節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章3節
・ 讃美歌 : 450、196
神をほめたたえる
キリスト者、または信仰者はどのような生き方をしたらよいのでしょうか。この問いに対する答えはそう簡単には出てこないでしょう。それでは私たちは何を手がかりにしたらよいのでしょうか。信仰者、キリスト者がどのような生き方をするのか、そのヒントの一つをペトロの手紙は与えてくれるのではないでしょうか。
私たちは夕礼拝においてペトロの手紙を通して神様の御言葉を聞いております。本日の箇所はその第1章の3節であり、少し中途半端なところで区切っております。けれどもとても大事な、大変内容の濃い1つの節であります。始めの頃の教会ではこの3、4節を教会に新しく来た人たちの信仰の学び、洗礼を受けるための学びとして、私たちの教会で言えば求道者会のテキストとしておりました。
ペトロはこの手紙で挨拶に続いてすぐに神様の御名を讃美しています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」この手紙の書き手であるペトロは神様に対して「ほめたたえられますように。」と、讃美の言葉を述べております。この「ほめたたえられますように」と言う表現は、新約聖書において本日の箇所以外にも多く見ることができます。コリントの信徒への手紙二の1章3節では「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」とあります。またエフェソの信徒への手紙1章3節においても「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」このように、「神様がほめたたえられますように。」とあります。神様への讃美を抑えきれない、まるで叫び出しているかのように記しております。この讃美の言葉を記した書き手の思いが込められております。私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえましょう、神様を讃美しましょう、ということです。神様を讃美する、それも叫び出さずにはおられない、黙ってはいられない、神様を讃美することを抑えているわけにはいかないということです。
先ほどお読みした詩編113編にも、他の多くの詩編と同じように「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ 主の御名を賛美せよ。」とあります。この詩編は118編まで、過越祭において歌われたもので、主イエスもまた弟子たちと一緒に歌ったのであります。2節には「今よりとこしえに 主の御名がたたえられるように。」また4節には「主はすべての国を超えて高くいまし 主の栄光は天を超えて輝く。」と神様を心からほめたたえる言葉であります。神様をほめたたえる、讃美をするのです。なぜ、私たちはそのように讃美をささげることができるのでしょうか。なぜなら私たちが讃美を捧げずにはおれない神様と出会うからであります。私たちは今礼拝をしております。礼拝とは神様がご自身を示し、私たち人間と出会ってくださる場所です。神様を拝む、神様に讃美をささげる場所が礼拝であります。神様が本当におられる、少し難しい表現ですと、臨在される場所は礼拝なのです。神様が臨在してくださる場所はただ私たちが我々が学んだり、考えたり、議論したりする場所ではありません。それでは、神様が臨在して下さる場所は礼拝する讃美を歌う時であります。礼拝の場においてこそ、神様が生きて働かれる方であるということが分かるのです。生きて働かれる神様と出会うところに、私たちの讃美がわき上がってくるのです。
この世を愛された父なる神
私たちがほめたたえる神様とはどういう方なのでしょうか。私たちの主イエス・キリストの父なる神です。単なる父、単なる神ではなく、私たちの主イエス・キリストの父なる神様なのです。神様は誰よりも、主イエス・キリストの父であられるのです。イエス・キリストは、神がお遣わしになった、神のひとり子です。神様のただ一人の御子である主イエス・キリストがこの世に送られことには、神の計画がありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)このように、神様が主イエス・キリストをこの世に遣わすという計画です。ひとり子を遣わすほどにこの世を愛されました。主イエス・キリストは神様にこのように祈られました。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイ11:27)主イエス・キリストの確信に満ちた祈りです。主イエス・キリストにとって神は、まことの父だからであります。そして父なる神様は世を愛されたからこそ、主イエス・キリストを世に遣わしたのです。この神様のひとり子であるイエス・キリストを信じ受け入れ洗礼を受け、神様と結びつけられるのです。神様と結びつけられた時、私たちも神の子とされるのです。そして私たちも初めて神を父と呼ぶことができるのであります。神様はひとり子なる主イエス・キリストを遣わして下さるほどにこの世を愛された方です。愛を持ってこの世に臨んで下さったのです。
豊かな憐れみによって
私たちが神様に讃美をささげる、神様をほめたたえるのは、神様が私たちを信仰者、キリスト者として下ったからです。その喜び、その感謝をもって神様をほめたたえるのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」とあります。信仰者というのは、神の豊かな憐れみにより生まれ変わった人間であります。私たちは神の豊かな憐れみによって新たに生まれ変わらせられたのです。神様が私たちを新たに生まれさせて下さることのしるしとして洗礼があります。「新たに生まれさせる」「新生」という言葉が用いられていることから、始めの頃の教会の洗礼志願者達の学びにこの箇所が使われていたことが分かります。神の憐れみにより、私たちは洗礼を授けられたのであります。自分の意志で信仰者になろうと決意したというだけでなく、そこには「神様の憐れみ」があるのです。日本語の「憐れみ」には、可哀想に思って何かをしてあげるという意味が伴います。憐れみを受けるというのは、少し恥ずかしいというか、みじめな感じがするのではないでしょうか。けれども憐れみはcompassion と訳される場合があります。comとは「共に」ということであり、 passionとはラテン語の苦しむという意味であります。共に苦しみ、共に嘆き、重荷を共に負う。それが憐れみということです。神様の憐れみとはそのように共に苦しみ、共に嘆いて、共に重荷を負って下さるのです。その神様の憐れみによって、私たちは新たに生まれ変わらせられたのです。私たちの目には何が変わったのか良く理解できない、洗礼を受けたのに何も変化していないかのように見えるかもしれません。それは、自分のことを一番知っているはずの自分自身さえもそのように思うかもしれません。けれども、洗礼を受けたという事実は、神様の憐れみによって、新たに生まれさせられたということです。それは今までとは違った人生を、新しい歩みを確かに始めるということのです。それは同時に、神様の救いの御業の中へ入れられたということです。それまでの古い生を捨て、古い自分が死んで、新しい命を贈られるのです。新しい生命が贈られるということです。洗礼を受けたが何が変化したか良く分からない時もあります。けれども確かに神様の救いの御業の中へ生かされている、新たな人生を歩み始めたというしるしが与えられたのです。
生き生きとした希望
洗礼において与えられた新たな人生とは、イエス・キリストの復活に根拠づけられた希望を持って生きる人生です。単なる希望ではなく、「生き生きとした希望」に生きることであります。「希望」という言葉だけでも力強いものでありますが、「生き生き」とした希望なのです。希望が「生ける」ものであること、死んだ希望ではないということです。すなわち確実な希望であるということです。確実な希望であると言えるのはなぜでしょうか。「希望」というのは普通、こうなれば良い、なってほしいと願い、未来に望みをかけること、またはその内容であります。期待とも言えます。昨今では「希望」という言葉が多用されているような気がいたします。それは、私たちの生きている世界があまりにも希望がないからでありましょう。人間の希望というのは、自分の思い描く未来や期待です。そのよな人間の側の希望というのは「生きる希望」ではありません。けれどもキリスト者には確実な希望が与えられております。なぜ確実な希望と言えるの、そこに根拠があるからです。この根拠とは、この希望の根拠とは今も生きて働かれる父なる神様が与えられていることです。イエス・キリストを信じることが希望なのです。主イエス・キリストと言う希望を与えられているのです。キリスト者は、単なる人間の思い描く期待や希望に生きているのではありません。なぜ希望が持てるのか、それは希望の源は今も生きて働かれる神様によって、生き生きとした希望、希望そのものである主イエス・キリストが与えられているからです。この希望に生きるときに私たちは神様に心から讃美をする者、信仰者となり、キリスト者となるのです。罪の中にいた私たちは、神様以外のものに目を向けておりました。神様以外のものに讃美をささげ、希望としておりました。それは罪の中にいた人間が自分の思い通り、自分の思い描く勝手な道に生きることであります。神様以外のものを期待することによって、隣人を隣人としてみることが出来ませんでした。まさにそこには真の希望はありません。そのような私たちのところに神様は本当の信じるべき希望としては、主イエス・キリストを遣わされました。神様は人間の罪を赦すために、ひとり子主イエス・キリストを遣わされました。主イエス・キリストを十字架において死に渡され、神様は主イエスを三日目に復活させられました。神様が愛するひとり子をこの世に遣わし、死に渡された。私たちを罪から救うためにそうされたのです。神が主イエス・キリストを甦らせ、復活させ、その主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、新しく生まれ変わらせるのです。主イエスが復活されたというのは死を乗り越えら、永遠の命に生きているということです。私たちがその方を信じるときにその命に与ることができるのです。罪深い世に、罪深い私たちのために父なる神様がひとり子を遣わして下さった。その方の十字架と復活によって、罪赦され新しく生まれ変わることができます。私たちはそのように生きて働かれる神様を心からほめたたえて讃美を歌うのです。そこに私たちの思い描く、私たちが期待する以上の喜びがあり、また希望があります。キリスト者の生き方というのはそのような「生き生きとした希望」に生きることです。この一週の歩みもこの希望を抱いて歩みましょう。