「キリストの足跡に続く」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第2章18-25節
人気のないみ言葉
本日の箇所、特にその前半は「人気のないみ言葉」なのではないでしょうか。聖書を読んでいて心に残ったみ言葉に線を引いたり、それをノートに書き写したりしている方も多いと思いますが、この箇所はその対象になりにくい(ほとんどならない)のではないかと思います。18節にこのようにあります。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」。「召し使い」と訳されている言葉は奴隷を意味する言葉ですが、特に家における奴隷を意味するので「召し使い」と訳されているのかもしれません。しかしどのように訳そうとも、私たちはこの手紙が書かれた時代のローマ社会に奴隷として生きていた人たちがいたことを曖昧にすべきではないと思います。「召し使い」と訳されていることで、そのことが曖昧になってしまうのであれば、それは大きな誤りなのです。
容認できないみ言葉
ですからここでは「奴隷は主人に従え。それも無慈悲な主人にも従え」と言われているのです。私たちにはまったく受け入れられないみ言葉です。基本的な人権が認められず、主人の所有物として扱われ、売られたり買われたりする人たちがいることを私たちは容認できるはずがありません。それだけでなく、奴隷に対しても善良で寛大に接する主人には従いなさいと言われているのではなく、「無慈悲な主人にも従え」と言われているのです。とんでもないことです。私たちの社会でこのようなことが言われたり、行われたりするのであれば断固として抗議しなくてはなりません。
時代の制約を受けている
しかし私たちは、現代において当たり前である人権や平等や自由という価値観をこの時代のローマ社会に持ち込むわけにはいきません。それは時代錯誤であり、聖書の読み方として乱暴な読み方と言わざるを得ないのです。この手紙は、当時のローマ社会の具体的な状況に生きる小アジアのキリスト者に向けて書かれたものでああり、具体的な状況であるからこそ、その時代の制約を受けています。ですから現代の価値観を持ち込んでその状況を批判したり、逆にこの箇所にこのように書いてあるから、聖書は奴隷を容認しているのだと主張したりするのはまったくの見当違いなのです。
時代に制約されないメッセージを聞き取る
そうであるならば私たちは18節を読み飛ばして、先に進んでしまったほうが良いのでしょうか。18節は時代の制約を受けているから、現代の私たちには当てはまらないみ言葉とすべきなのでしょうか。先ほど申した通り、一面においてはその通りです。この手紙が書かれた時代の状況を私たちの生きている時代にそのまま持ち込むことはできませんし、逆に私たちの時代の状況をこの手紙が書かれた時代に持ち込むこともできません。しかしその一方で、このみ言葉が私たちとまったく関係ないみ言葉なのかと言うと、決してそうではありません。このみ言葉にも時代に制約されることのないメッセージが込められているのです。私たちはそのメッセージ、つまり神からの語りかけを聞き逃してはなりません。受け入れがたい、躓きを覚える、現代の価値観からすればとても容認できないみ言葉だからといって、読み飛ばしてしまうわけにはいかないのです。
神の僕として生きるすべてのキリスト者に向けて
このみ言葉が時代に制約されない神のみ心を告げているのであれば、その手掛かりはどこにあるのでしょうか。まず私たちはこの手紙の書き手とされるペトロが、ローマ社会のあらゆる召し使い(奴隷)に対して語りかけているわけではないことに目を向ける必要があります。本日の箇所全体を読めば明らかなように、ペトロはキリスト者で奴隷として生きている人へ語りかけているからです。もちろんそうであるとしてもキリスト者なら奴隷の身分を甘んじて受け入れなさいということなら、やはり現代に生きる私たちには容認できないことに変わりありません。しかしペトロは、ローマ社会で奴隷として生きているキリスト者に向けて語りつつ、実はすべてのキリスト者に向けて語っています。確かに冒頭で取り上げられているのは、奴隷として生きているキリスト者の生き方です。しかしそのことを通して見つめられているのは、神の僕として生きるすべてのキリスト者の生き方なのです。この手紙の2章16節にこのようにありました。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」。前回、この「神の僕」の「僕」と訳されている言葉の元々の意味は奴隷である、とお話ししました。ペトロは、時代の制約を受けた奴隷として生きるキリスト者の生き方を取り上げつつ、時代に制約されない神の僕として生きるすべてのキリスト者の生き方について見つめているのです。この手紙の読み手は、小アジアの諸教会に連なるキリスト者です。その中には奴隷として生きていた人たちがいたのだと思います。しかしそうでない人もいました。その人たちはこの箇所を読み飛ばしたのでしょうか。そんなことはないと思います。彼らはペトロの語っていることを奴隷として生きているキリスト者だけに関係あることとしてではなく、小アジアのすべてのキリスト者に関係あることとして受けとめたに違いないのです。そしてそれは時代を超えてすべてのキリスト者に、つまり私たちに関係あることとして語られている、ということにほかならないのです。
神を畏れて主人に従う
ペトロはすべてのキリスト者の生き方について、なにを見つめているのでしょうか。その手掛かりが「心からおそれ敬って」という言葉にあります。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい」と言われているので、召し使いが心からおそれ敬うのは自分の主人であるように読めます。しかしどうもそうではありません。「心からおそれ敬って」と訳されていますが、原文には「心から」も「敬って」もなく、直訳すれば「すべての畏れの中で」とか「すべての畏れを伴って」となります。問題はこの「すべての畏れ」とは誰に対する畏れなのか、ということです。この手紙でこの「畏れ」という言葉、あるいは動詞の形の「畏れる」という言葉が使われている箇所を調べると、ほとんどが神を畏れるという意味で使われています。本日の箇所の直前の17節に「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」とありました。この「神を畏れ」の「畏れ」という言葉が、「心からおそれ敬って」と訳されている言葉なのです。ですからペトロは奴隷として生きるキリスト者に、自分の主人を恐れて、自分の主人に従いなさいと言っているのではありません。そうではなく神を畏れて、自分の主人に従いなさい、と言っているのです。先ほど見たように16節に「自由な人として生活しなさい。しかし…神の僕として行動しなさい」とありました。すべてのキリスト者は自由とされ、あらゆる人を恐れることから解放されています。しかしそれは何ものをも畏れず自分勝手に、好き勝手に生きるということではありません。あらゆる人を恐れることから解放されている私たちが畏れるべき方、それは神にほかなりません。私たちは神のみを畏れ、神の僕として生きます。それゆえにペトロは奴隷として生きるキリスト者に対して、そして神の僕として生きるすべてのキリスト者に対して、神のみを心から畏れて、自分の主人に従いなさい、と言っているのです。
不当な苦しみを受ける
そのように言われても、自分には従わなくてはならない「主人」はいない、まして「無慈悲な主人」はいない、と思うかもしれません。幸いなことに私たちは奴隷として生きているわけではありませんから、この箇所で言われている意味で、私たちに従わなくてはならない主人がいるわけではありません。しかしこのことにおいても、すべてのキリスト者に関わることが見つめられています。その手掛かりは18節の「無慈悲な主人」と19節の「不当な苦しみ」という言葉です。18節の「無慈悲な」と訳されている言葉は、元々「曲がった」という意味の言葉ですが、それが転じて「不正な」とか「不当な」という意味を持つようになりました。ですから18-19節では、不当な主人に従う現実と、不当な苦しみを受ける現実が見つめられているのです。不当に苦しむとは、いわれのない苦しみを受けることであり、20節の言葉で言えば「善を行って苦しみを受け」ることです。そのような不当な苦しみを受ける現実が、この箇所で見つめられているのであれば、その現実は、私たちが生きている現実でもあるのではないでしょうか。ペトロは確かに家の召し使いとして生きるキリスト者とその家の主人の関係という、この時代の極めて具体的な状況から語り始めました。しかし彼はそこから直ちに視野を広げて、神の僕として生きるすべてのキリスト者が直面する不当な苦しみの現実を見つめています。不条理な苦しみの現実の中にあってキリスト者が神の僕としてどのように生きるかを見つめているのです。
小アジアのキリスト者たちはローマ帝国による迫害の中を生きていました。彼らはキリストを信じるがゆえに不当な苦しみを受けていたのです。私たちは今、迫害を受けているわけではありませんが、それでもキリストを信じるゆえに苦しい思いをすることはあります。それだけではありません。私たちは様々な不条理な苦しみの現実の中を生きています。突然の戦争や災害によって不当な苦しみを受けることがあります。まさに今、この世界にはそのような苦しみを受けている方々が大勢いらっしゃるのです。私たちもいつ同じような現実に直面してもおかしくありません。また一人ひとりがそれぞれに抱えている不当な、いわれのない苦しみもあります。なぜ自分がこのような目に遭わなくてはならないのか、と叫びたくなるような苦しみに直面することがあるのです。
苦しみの現実にも神の御心がある
しかしペトロは、不当な苦しみを受けて生きているすべてのキリスト者に、そして私たちにこのように言います。「神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」。つまり私たちが不当な苦しみを受けるのは神の御心に適うことである、と言うのです。このことは、神が私たちに不当な苦しみを与えようと望まれている、ということでは決してありません。独り子を十字架に架けてまで私たちを愛してくださっている神が、私たちが苦しむのを望まれるはずがないのです。そうではなくこのことは、私たちが直面する不条理な苦しみの現実の中に、なお神の御心があることを見つめているのです。私たちキリスト者にとって、不条理な苦しみの現実は、ただひたすら苦しいだけの現実ではありません。その苦しみの現実にも神の御心が与えられているからです。それは苦しみの中にある私たちに、神が生きる意味を与えてくださっている、ということでもあります。苦しみの現実に神の御心がないのであれば、私たちはその苦しみに蝕まれて絶望するしかありません。しかしそこに御心があるのであれば、私たちは苦しみの中にあって、なお絶望せずに生きることができるのです。
キリストの足跡に続く
その御心が21節にこのように示されています。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。私たちのために苦しみを受けてくださったキリストの足跡に続くことこそ、苦しみを受けて生きる私たちに与えられている神の御心です。これこそ、神が苦しみの中にある私たちに与えてくださっている生きる意味です。私たちがこの御心に気づかされ、この生きる意味に気づかされるのは、苦しみの中にあって、自分の苦しみではなくキリストの苦しみに目を向けることによってです。私たちのために苦しみを受けてくださったキリストに目を向けるとき、私たちは自分が苦しみを受けることを通して、キリストの受けた苦しみに与っていることに気づかされるのです。キリストの足跡に続くとは、私たちがキリストの受けた苦しみに与りつつ生きることにほかならないのです。
キリストが残された模範に倣う
キリストは模範を残された、とも言われています。その模範とは、苦しみの現実の中にあって神の御心を求めて生きるという模範です。主イエス・キリストは十字架を前にしてゲツセマネで「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコによる福音書14章36節)と祈られました。福音書はこのときペトロが眠ってしまったと語っています。しかしそのペトロが、十字架の苦しみを前にして御心を求められたキリストのように、苦しみの中で神の御心を求めて生きることこそキリストが残された模範に倣うことである、と告げているのです。
キリストが受けた苦しみ
22-24節では、キリストが受けた苦しみが語られています。22節の「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」は、共に読まれた旧約聖書イザヤ書53章9節の引用ですが、22節だけでなく22-24節全体が、イザヤ書53章で告げられている預言の実現を語っています。ペトロはイザヤ書53章の預言が、キリストの十字架の死によって実現したことを告げているのです。24節ではキリストが受けられた苦しみがこのように語られています。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。イザヤが「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった」(5節)と預言したように、主イエス・キリストは私たちの罪を担って十字架で死んでくださいました。それは、私たちが罪に対して死んで、義によって生きるため、つまり神との正しい関係に入れられて生きるためであり、私たちが癒されるためなのです。
罪という傷が癒された
キリストの受けた傷によって私たちが癒されるとは、私たちの誰もが抱えている「罪」という深い傷が癒されることにほかなりません。かつて私たちは、この罪という深い傷によって瀕死の状態にありました。罪の力にとらえられ神から離れ、神なしに生きていた私たちは、まさに「死に至る病」の中にあったのです。そんなことはない、と多くの人は言うかもしれません。神と共に生き、み心を求めて生きるよりも、神なしに自分を中心として自己実現のために生きる方がずっと良い、と言うかもしれません。しかしそのように生きるならば、それこそ不条理な苦しみに直面し、自己を実現する道が閉ざされ、自分の力や頑張りではどうすることもできないとき、私たちは絶望するしかないのです。なによりも私たちは自分の力や頑張りによって、この地上の歩みにおける死を乗り越えることはできません。死に至る、罪という深い傷を自分の力で癒すことはできないのです。しかしキリストは、罪という深い傷を負って、瀕死の状態であった私たちのために十字架で苦しみ、傷を受けて死んでくださり、その死から復活されて死に勝利されました。そのことによって私たちは罪を赦され、死に至る罪という深い傷を癒されたのです。このキリストの十字架と復活によって与えられた世の終わりの復活と永遠の命の約束が、これだけが、私たちに死で終わらない歩みを、死を越えてなお続く歩みを与えることができるのです。
キリストの苦しみに与る
私たちのために苦しみを受けてくださったキリストの足跡に続くとは、私たちがキリストの苦しみとまったく同じ苦しみを担うことではありません。そんなことはできません。罪によって裁かれ滅ぼされる苦しみは、私たちの代わりにキリストだけが味わってくださった苦しみです。私たちが直面するどんな不条理な苦しみよりも深い苦しみを、私たちが想像することのできない苦しみをキリストは受けてくださったのです。私たちは苦しみの中で、このキリストの苦しみに目を向けることによって、私たちが直面するどんな苦しみもキリストが知っていてくださることに気づかされます。そして私たちの苦しみが、キリストの苦しみとは到底同じではないとしても、僅かばかりであっても、キリストの苦しみに連なっていることに気づかされるのです。私たちのために十字架で死んでくださったキリストの苦しみに与ること。これこそ、私たちが直面する苦しみの現実の中に与えられている神の御心であり、神が与えてくださっている生きる意味なのです。
キリストの守りの中で
そうであるとしても私たちは自分が本当に不当な苦しみを受けることに耐えられるだろうかと思わざるを得ません。不条理な苦しみの現実に直面して、なお忍耐して生きることができるだろうかと思うのです。もし私たちが自分の力に頼るならば、たとえ苦しみの中に神の御心が与えられ、生きる意味が与えられていても、その苦しみに耐えることはできません。しかしペトロは25節で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」と言います。かつて羊のようにさまよっていた私たちが、今は、魂の牧者であり監督者であるキリストのもとで生きていると言うのです。それは私たちが、いついかなるときもキリストによって導かれ、守られていることにほかなりません。私たちはこのキリストの導きと守りの中で、苦しみを受けることができるのであり許されているのです。どれほど不当な苦しみを受けるとしても、私たちは決してキリストの導きと守りから引き離されることはありません。だからこそ苦しみの中にあっても、キリストの守りに信頼して、苦しみに与えられている神の御心と生きる意味を受けとめていくことができるのです。どんなときもキリストによって守られているという確信が与えられているからこそ、私たちは世の終わりに約束されている復活と永遠の命に希望を置いて、絶望することなく忍耐して生きることができるのです。なお私たちの人生には多くの苦しみや悲しみがあるに違いありません。しかしキリストの守りの中で苦しむ私たちに神の御心が与えられ、生きる意味が与えられていきます。キリストの守りの中で、キリストの足跡に続いていく私たちは、不当な苦しみを受けても決して絶望することなく、希望を持って忍耐して生きていくことができるのです。