主日礼拝

生き生きとした希望

「生き生きとした希望」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第40編1-5節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第1章3-9節
・ 讃美歌:3、474

長い一つの文章
 私が主日礼拝の説教を担当するときは、ペトロの手紙一を連続で講解しています。今年の6月から読み始め本日で三回目となります。前回から少し間が空きましたが、本日と来月の二回に亘って1章3-9節を読んでいきます。注解書を見ると3-5節と6-9節を分けて解説しているものもありますが、原文で読むと3-9節はとても長い一つの文章であり、また内容的にも密接に結びついているので、一つのまとまりとして読むのが良いと思います。その一方で語られている内容はとても濃密なので二回に分けて丁寧に読んでいきたいと思いました。ですから本日は3-5節を中心に読み、来月は3-5節と6-9節の結びつきに目を向けつつ、6-9節を中心に読んでいきたいと思っています。

キリストの復活を通して新たに生まれさせる
 3節には「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」とあります。冒頭の「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」は後で見ることにして、先に「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」について見ていきます。
 まず言えることは、新共同訳聖書の訳はあまり良くないということです。というのはこの訳だと、「わたしたちを新たに生まれさせること」と「死者の中からのイエス・キリストの復活」と「生き生きとした希望を与えられること」の関係がよく分からない、あるいは誤って受けとめられかねないからです。「わたしたちを新たに生まれさせること」、「死者の中からのイエス・キリストの復活」、「生き生きとした希望を与えられること」。その一つ一つが私たちの救いの中心的な事柄です。同時にそれぞれがどのような関係にあるのかもとても大切なことです。しかしこの訳では、特に最初の二つ「わたしたちを新たに生まれさせること」と「死者の中からのイエス・キリストの復活」の関係が分かりにくいのです。もう一度お読みします。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」。このように訳されているために、「わたしたちを新たに生まれさせ」と、「死者の中からのイエス・キリストの復活」は、それぞれ独立したことのように読めてしまいます。しかし私たちの新生(新たに生まれること)は、キリストの復活なしには決して起こり得ないことです。ですから本来、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」は、「生き生きとした希望を与え」よりも「わたしたちを新たに生まれさせ」に掛かっていなくてはならないはずなのです。実際、いくつかの翻訳を見ましたが、どれも私たちが新たに生まれることとキリストの復活との結びつきが分かるように訳されていました。口語訳も聖書協会共同訳もそうです。代表して聖書協会共同訳をお読みします。「神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました」。この訳であれば、死者の中からのキリストの復活を通して神が私たちを新たに生まれさせた、ということがよく分かります。私たちは3節を読むとき、キリストの復活と私たちの新生の結びつきを決して見失ってはならないのです。

洗礼が見つめられている
 とはいえその結びつきも直ちに分かることではありません。キリストの復活を通して私たちを新たに生まれさせるとはどういうことなのでしょうか。3節では私たちの救いについて圧縮されて語られていますから、キリストの復活と私たちの新生の間についてはなにも語られていません。そこにはなにがあるのでしょうか。それは「洗礼」です。前回お話ししたことですが、直前の2節では、「洗礼」という言葉を使わずに、「洗礼」を「キリストの血を注ぎかけていただく」と言い表していました。同じように、3節でも「洗礼」という言葉は出てきませんが、しかし確かに「洗礼」が見つめられているのです。3節冒頭の「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」という賛美は、初代の教会で洗礼式のときに歌われた讃美歌とも言われます。それほど3節は洗礼と関わりがあるのです。使徒信条にあるように、主イエス・キリストは私たちの罪の赦しのために「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」ました。この主イエス・キリストの十字架の死と復活が、3節で「死者の中からのイエス・キリストの復活」と言われています。しかしこのことは「死者の中からイエス・キリストがご自分の力で復活した」ということではなく、「神が主イエス・キリストを死者の中から復活させてくださった」ということです。神が死者の中からキリストを復活させてくださり、キリストは新しい命、つまり永遠の命を生きておられます。私たちはこの新しい命を生きておられるキリストに、洗礼において結ばれるのです。洗礼によって十字架のキリストと共に罪に支配された古い自分に死に、復活のキリストと共に新しい命を生き始めます。このことこそが「私たちを新たに生まれさせる」ということなのです。死者の中からキリストが復活し、その復活のキリストに私たちが洗礼において結ばれ、キリストの新しい命、永遠の命に与ることによって、私たちは新たに生まれるのです。まず決定的な出来事してキリストの復活があり、そして洗礼による私たちの新生があります。その逆ではありません。聖書協会共同訳で言われているように、私たちは「死者の中からのイエス・キリストの復活を通して」「新たに生まれさせ」られるのであり、そのキリストの復活と私たちの新生の間に私たちの洗礼があるのです。

神の子とされて新たに生まれる
 洗礼によって私たちが「新たに生まれさせ」られる故に、洗礼は私たちの第二の誕生日と言われることがあります。神が私たちに命を与えてくださったのが第一の誕生日であり、キリストに結ばれ新しい命に生き始める洗礼は第二の誕生日なのです。もちろん「第二の誕生日」というのは比喩ですが、この比喩は私たちの新生のある面をよく捉えていると思います。それは第一の誕生日において私たちが子として生まれるように、第二の誕生日において私たちは父なる神の子とされて新たに生まれるからです。後回しにした3節冒頭の「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」という賛美を、私たちが歌うことができるのは決して当たり前ではありません。旧約聖書においてもほぼ同じ形の賛美があります。例えば詩編106編48節に「イスラエルの神、主をたたえよ」とあり、「たたえよ」は「ほめたたえられますように」と同じ言葉なので、「イスラエルの神、主が、ほめたたえられますように」と賛美されているのです。しかし詩編106編48節と本日の箇所の3節冒頭とでは決定的な違いがあります。私たちがほめたたえるのは、「イスラエルの神」ではなく「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」であるということです。私たちは新たに生まれることにおいて、神の独り子であるキリストと結ばれ、本来、神の子ではあり得ないにもかかわらず神の子とされます。主イエス・キリストの父なる神が、私たちを子としてくださり、私たちの父となってくださるのです。まことに畏れ多いことであり、神の豊かな憐れみによらなければ起こり得ないことですが、洗礼において、「第二の誕生日」において、私たちは神の子とされて新たに生まれさせられるのです。だから「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」という私たちの賛美は、「わたしたちの主イエス・キリストの父であり、それゆえに私たちの父である神が、ほめたたえられますように」という賛美にほかならないのです。

死んでしまった希望、死にかけている希望
 3節の終りで「生き生きとした希望を与え」と言われています。本日の説教題でもある「生き生きとした希望」は実に印象深いみ言葉です。その一方で「生き生きとした希望」という言葉は、私たちの現実とはかけ離れている言葉のようにも思えます。私たちの現実のどこに「生き生きとした希望」があるでしょうか。むしろ今、希望を失ってしまう本当に厳しい現実が世界に溢れています。その一つがウクライナにおける戦争であることは言うまでもありません。ロシアによるウクライナへの侵攻は、グローバル化が進み、国家を超えた経済的な結びつきが強まった現代世界では、国家が国家を侵略するような戦争は起こらないだろうという希望を打ち砕きました。なによりも戦火の中にある方々の絶望を思わずにはいられません。戦争の前には、それぞれに将来への希望を抱いていたはずです。でもこの理不尽な戦争によって希望が絶たれたのです。そのように希望を失い呻き嘆いている方々のことを知らされ、私たちもこの世界に希望を持てなくなります。こんなにひどいことが起こる世界のどこに希望があるのか、と叫びたくなるのです。戦争だけではありません。日々のニュースで、度重なる災害や、理不尽な暴力による死や、様々な不正について知らされる度に、自分たちは希望を持てない社会に生きていると思わずにはいられません。将来に希望を持つどころか、将来のことを考えると落ち込んでしまう、ということもあります。「生き生きとした希望」が心に残る言葉であるからこそ、そのような希望を持つことができず、むしろ「死んでしまった希望」を、あるいは「死にかけている希望」を持ちつつ嘆きながら歩んでいる自分たちの姿が、私たちに突きつけられてしまうのです。

生き生きとした希望
 けれども厳しい現実の中に生きていたのは、この手紙が書かれた時代のキリスト者も同じでした。とりわけペトロの手紙一は、ローマ帝国によるキリスト教徒迫害が最も激しかった地域にある教会に宛てて書かれた手紙です。6節の後半に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と言われているように、彼らもまた迫害による試練という厳しい現実の中に生きていたのです。それにもかかわらずこの手紙の著者である使徒ペトロは、あるいは使徒ペトロの名を借りた著者は、「生き生きとした希望」が彼らに与えられていると語ります。そのように語ることができるのは、この「生き生きとした希望」が人間によって造り出されたものではないからです。迫害を受けている人たちに自分たちの内に希望を見出すよう言われているのではありません。厳しい現実に直面するとき、私たちは自分たちの内にいくら希望を探しても見つけられないのではないでしょうか。ですから私たちには、私たちの内から造り出す希望ではなく、私たちの外から与えられる希望が必要なのです。その外からの希望がある、とこの手紙は告げています。神が、私たちの外から私たちに希望を与えてくださっていると告げているのです。私たちの内にある希望はまことに頼りない、吹けば飛んでしまうようなものです。なんであれ人間が造り出した希望は、時代や状況が変わったり、あるいは苦難に直面するとたちまち泡となって消えてしまいます。しかし神がキリストの十字架の死と復活を通して、新たに生まれさせられた私たちに与えてくださった希望は、時代や状況が変わろうとも苦難に直面しようとも、決して泡となって消えることがない「生き生きとした希望」なのです。

終りの日の復活と永遠の命の希望
 この希望は漠然とした希望ではありません。とても具体的な希望です。この具体的な希望について4節では「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」と言われていて、5節では「終わりの時に現されるように準備されている救いを受ける」と言われています。「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」とは、キリストを死者の中から復活させてくださったように、神が終りの日に私たちも復活させてくださり永遠の命に与らせてくださる、ということです。そしてこのことが、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受ける」ということなのです。確かに私たちはキリストの十字架による救いに与り、洗礼によって復活のキリストに結ばれ、その新しい命、永遠の命を生き始めました。しかしそれは私たちが不老不死になるというようなことではありません。私たちは誰もがこの地上の歩みにおいて死を迎えるのです。それならばなぜ永遠の命を生き始めているなどと言うのでしょうか。「どうせ死ぬなら」永遠の命を生き始めているなどと言うのは偽りなのでしょうか。そうではないことを、それが偽りではないことを私たちは知らされています。この地上の歩みにおける死が終りではないことを知らされているのです。キリストに結ばれ永遠の命を生き始めるとは、私たちがこの地上の歩みにおいて、死を超えた終りの日の復活と永遠の命の約束を与えられて生きることであり、終りの日の救いの完成を垣間見つつ、また僅かばかり味わいつつ生きることです。そのようにこの地上を歩む私たちに「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」である救いの完成と復活と永遠の命の「生き生きとした希望」が与えられていくのです。

生ける希望
 それにしても復活と永遠の命の希望が生き生きとしているとは、どういうことなのでしょうか。「生き生きとした希望」と訳されている言葉は、口語訳では「生ける望み」と訳されていましたし、聖書協会共同訳でも「生ける希望」と訳されています。「生き生きとした希望」、「生ける望み」、「生ける希望」。どれも味わい深いと思いますが、「生ける望み」や「生ける希望」という訳から示されるのは、この希望は私たちが「生き生きとしている」と感じられる希望ということではなく、希望そのものが生きているということです。私たちが生き生きとした希望として感じられるかどうかであるならば、結局、この希望は私たち次第ということになってしまいます。私たちのモチベーションが高いときは生き生きと感じられるけれど、低いときはそのように感じられなくなるということが起こりかねません。本当に厳しい現実の中で、私たちはしばしばこの希望を生き生きとしたものとして感じられなくなるのです。あるいは厳しい現実の中で、なんとか頑張ってこの希望を生き生きしたものとして感じようとするならば、自分をますます苦しめてしまうのではないでしょうか。そのように考えるなら私たちは、神が私たちの外から与えてくださる希望を自分の感じ方の問題にしてしまっているのです。しかし神がキリストの復活によって与えてくださっている終りの日の復活と永遠の命の希望は「生ける希望」です。希望そのものが生きているのです。たとえ私たちがこの希望を生き生きとしたものに感じられなくても、あるいはこの希望を持てずにいたとしても、「生ける希望」が、今も「生きている希望」が、そのような私たちに働きかけ私たちを捉えるのです。私たちはしばしば「希望を持っている」という言い方をします。しかし私たちは自分の力で復活と永遠の命の希望を持っているのではありません。そうではなく「生ける希望」そのものの働きによって、私たちの内に復活と永遠の命の希望が与えられていくのです。自分の力では希望を持つことができない私たちの内に、「生ける希望」が突入し、働きかけ、希望を与えるのです。だからこそ終りの日の復活と永遠の命の希望は、絶望の中にいる私たちに希望を与え、うずくまっている私たちを起き上がらせることができるのです。

生ける神、生けるキリスト
 このように言うと「生ける希望」が魔術的なもののように思えるかもしれません。そのように受けとめられないよう新共同訳聖書は「生き生きとした希望」と訳したのかもしれないと思います。しかし「生ける希望」が私たちに働きかけるというのは、決して魔術的なことではありません。なぜならこの希望を私たちに与えてくださった神は生きておられるからであり、この希望の根拠である復活のキリストが今も生きて働かれているからです。神は死んだ神ではありません。この世界と私たちを創造したけれど、その後は傍観しているだけということではないのです。神はこの世界を支配し、保ち、私たちに働きかけてくださっています。私たちが神に背き、神から離れようとするにもかかわらず、なお神は私たちをお見捨てになることなく関わり続けてくださるのです。本日共に読まれた旧約聖書詩編40編2節以下で、詩人は神が自分の人生に関わってくださったことを感謝してこのように祈っています。「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ わたしたちの神への賛美を授けてくださった」。生ける神は私たちの叫びに耳を傾けて、聞いてくださる方です。滅びの穴、泥沼から私たちを引き上げ、私たちの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませてくださる方です。なによりも生ける神は御子キリストの十字架と復活によって、死という滅びの穴、泥沼から私たちを引き上げてくださいました。なおこの地上の歩みにおいて死を迎えるとしても、キリストの復活によって私たちに与えられている「生ける希望」が、私たちの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませてくださるのです。ただ死を恐れるのでもなく、「どうせ死ぬから」と諦めるのでもなく、命を取り去られるそのときまで、救いの恵みに感謝してしっかりと歩めるよう、神は私たちの足を支え続けてくださるのです。

生ける希望によって再び立ち上がる
 厳しい現実の中にあっても、死者の中からのキリストの復活を通して、新たに生まれさせられた私たちに「生き生きとした希望」が与えられています。キリストを復活させてくださったように、神が終りの日に私たちも復活させてくださり永遠の命に与らせてくださるという「生ける希望」が、希望を持てずにいる私たちに、滅びの穴に落ち、泥沼にはまって苦しみ呻いている私たちに働きかけ、希望を与え、その滅びの穴、泥沼から救ってくださり、絶望から再び立ち上がって歩み始められるようにしてくださるのです。苦しみや悲しみの多い私たちの地上の歩みを、この「生ける希望」が支え続けるのです。

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