夕礼拝

ソロモンの知恵

「ソロモンの知恵」牧師 藤掛順一
旧約聖書 列王記上 第3編1-28節
新約聖書 マタイによる福音書 第12章38-42節

列王記に入る
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いておりまして、6月9日に、サムエル記下の最後の第24章を読みました。本日からは、次の列王記に入ります。列王記は、英語の聖書では単純に「キングス」、つまり「王たち」となっています。ダビデ以後のイスラエル王国、それは途中で北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂していくのですが、それぞれの王たちの事跡を語っていくのがこの列王記です。本日はその最初として第3章を読みます。ダビデの後を継いで王となったソロモンのこと、そのソロモンの大変優れた裁きのことが語られているところです。「ソロモンの知恵」という言葉が慣用句となるほどに、ソロモン王は知恵に富んだ、優れた王であり、彼の下でイスラエル王国は最盛期を迎えたのです。

王位継承
さてこのソロモンがダビデの後を継いで王となったわけですが、その王位継承は決してすんなりと平和の内になされたのではなかったことが、列王記上1、2章に語られています。ソロモンは勿論ダビデの子ですが、その母はあのバト・シェバです。ダビデが自分の部下ウリヤの妻である彼女を見初めて、ウリヤを陰謀によって戦死させることによって自分の妻にした女性です。彼らの間に生まれた最初の子、道ならぬ関係によって身ごもられた子は育たずに死んでしまいましたが、その後に生まれたソロモンは、主なる神に愛されてすくすくと育ったのです。しかしソロモンはダビデの長男ではありません。ダビデの長男はアムノンという人でしたが、彼はある出来事のために弟アブサロムによって殺されました。そのアブサロムは父ダビデに対して反乱を起こし、滅びてしまいました。その次の息子はアドニヤという人でした。列王記上1章には、このアドニヤがダビデに代って王となろうとしたことが語られています。最年長の息子として父の跡を継ごうとしたのは当然のことだとも言えますが、この頃はまだそういうルールが確立してはおらず、どこの王国でも、王が死ぬと息子たちの間で熾烈な後継者争いが起り、それに勝利した者が次の王になる、ということが繰り返されていました。この時ダビデはまだ生きていましたが、ダビデの宮廷にもそういう争いが起ったのです。それは今に始まったことではありません。アブサロムが兄アムノンを殺したのも、自分の王位継承の邪魔になる兄を取り除くという意図があったように思われます。そういう思いがあったからこそ、彼はあの反乱を起こしたのです。つまりダビデの晩年は、息子たちの後継者争いに翻弄され続けた日々だったのです。
アドニヤが王となろうとしたことはダビデの家臣たちの間の勢力争いを生みました。1章7節にあるように、アドニヤはツェルヤの子ヨアブと祭司アビアタルを自分の支持者として得たのです。ヨアブはダビデの軍司令官、祭司アビアタルはダビデがサウル王に追われて逃げていた頃からの腹心です。この二人がアドニヤ擁立に向けて動きました。それに対して、8節にあるように、祭司ツァドク、ヨヤダの子ベナヤ、預言者ナタンなどの人々は、ソロモンを擁立しようとします。その中でも中心人物は預言者ナタンです。彼は、ダビデがウリヤを陰謀によって殺してその妻バト・シェバを妻とした時、その罪を厳しく指摘した人です。そのナタンが今度はバト・シェバの息子ソロモンをダビデの後継者とするために動いたのです。彼はバト・シェバを訪ね、ただちにダビデ王のもとに行ってアドニヤが王となろうとしていることを告げ、ソロモンをこそ次の王として指名してくれるように願いなさいと言います。このナタンとバト・シェバの働きかけによって、ダビデはソロモンを次の王とすると宣言し、ソロモンに油を注いで王として即位させることを命じました。このダビデの意向が公に明らかにされることによって、アドニヤではなくソロモンがイスラエルの王として即位したのです。

しかし事はそれで一件落着とはいきませんでした。ダビデが生きている間は平穏が保たれていましたが、ダビデが死ぬと、なりを潜めていた動きが表面化してきます。そのことが第2章に語られています。アドニヤは、自分が王になるという願いを捨ててはいませんでした。彼はダビデ王の最後の側女だったアビシャグを自分の妻としたいと願い出ます。それは一見、ほれ込んだ美しい女を妻としたいというだけのことのように見えますが、実はそこには、父ダビデの後宮、ハーレムを受け継ぐという意味が込められているのです。それは、あのアブサロムも反乱を起こした時にしたことでした。このことによってアドニヤは、自分こそ父ダビデの後を継ぐ者だと主張する口実を得ようとしたのです。ソロモンはその思いを見抜いて、腹心であるヨヤダの子ベナヤを送ってアドニヤを殺させます。そしてこのことから始まって、ソロモンによる、彼の王位を危うくする人物の排除が始まります。アドニヤ擁立に動いた祭司アビアタルが追放され、軍司令官ヨアブが殺されます。要するにソロモンによる反対派の粛清です。そういうことを経て、2章の終わりのところに、「こうして王国はソロモンの手によって揺るぎないものとなった」と語られているのです。本日の第3章に入る前にこのようなことが語られていたことを知っておく必要があります。ダビデからソロモンへの王位継承においては、このような血なまぐさい争いや粛清があり、人間の思惑、権謀術数がうず巻いていたのです。

ソロモンの願い
この2章までの記述と、本日の第3章に語られているソロモン王の姿とは大きく隔たっていると感じられます。第3章には、ソロモンが主なる神を愛し、その祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげて礼拝をしたことが語られています。そしてその夜、主が彼の夢枕に現れ、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」とおっしゃったのです。ソロモンは、「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」と答えました。民の訴えを聞き分け、正しい裁きを行うことが王としての大事な務めの一つです。その務めを正しく適切に果すことのできる知恵を、ソロモンは求めたのです。その願いは主なる神のお喜びになるものでした。自分が長生きすることや、豊かな富を得ること、敵を打ち破ることなどを求めるのではなく、民の訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。それは、自分を王として立てて下さった主なる神の前で、謙遜にその務めを果たそうとする姿です。自分のことよりもまず、民が幸せになることを求める姿です。その謙遜な願いを主は喜び、こう約束されたのです。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」。民の訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたソロモンに、神は、彼の求めなかった富と栄光、そして長寿をも与えると約束して下さいました。後に「ソロモンの栄華」と呼ばれるようになる繁栄は、この神の祝福によってもたらされたのです。
このソロモンの願いとそこに与えられた神の祝福は、民の指導者に求められているまことの資質とは何かを教えています。それは自分の誉れや豊かさを求めるのではなく、民の声をしっかりと聞き分けること、そして正しい、公平な裁きを行うこと、つまり一方に偏ることなく公平に話を聞き、客観性を持った判断をすることです。その時の気分や、感情的な好き嫌い、自分の気に入るかどうかで物事を判断するのではなく、自分の思いを括弧に入れて、外から別の目でもう一度見ることができる、そういう冷静さこそが、王たる者、指導者たる者には求められるのです。このような知恵をこそソロモンは求め、それに対して神は、その知恵のみでなく、栄光と富と長寿をも与えると約束して下さったのです。

神のご計画
この3章に語られている、民を正しく治めるための知恵を謙遜に求めるソロモンと、2章までの、敵対者たちを粛清して権力を固めていったソロモン、いったいどちらが本当の姿なのでしょうか。どちらも、ソロモンの真実の姿なのだと思います。少なくとも聖書はそう語っています。列王記は、3章のみによってソロモンを美化しようとはしていないし、1、2章の、血なまぐさい後継者争いの勝利者としてのソロモンの姿のみを語ってもいないのです。生き馬の目を抜くようなこの世の現実の中で、自らの権力の確立のために権謀術数の限りを尽くして邪魔者を排除していくソロモンも、神の前で、自分の栄光や富よりも正しい裁きを行う知恵をこそ願い求めるソロモンも、同じ人です。一人の人が両方の面を共に持っている。それが私たち人間のありのままの姿なのではないでしょうか。「3章だけ」のような、理想的で欠点のない人間はいません。誰でも皆、1、2章のような醜い、血なまぐさいところを持っているし、そういうものと全く無縁に生きることはできません。しかし私たちはただ権力闘争のみをして生きているのではありません。自分に与えられている地位や役割を、主なる神が与えて下さったものとして感謝して受け、自分の使命をみ心に従って正しく果たそうと努力し、そのための知恵を神に祈り求めることも、私たちは日々しているのです。そして大事なことは、このような両方の面を持っている私たち人間を、神がご自分のご計画の中で用いて下さるということです。ダビデからソロモンへのイスラエルの王位の継承は、ソロモンが権力闘争に勝利した、というだけのことではありません。ダビデを選び、王として立て、彼によってご自分の民イスラエルを導き、守り、養って下さった主なる神の祝福がソロモンへと継承されたのです。その祝福の継承が、醜く血なまぐさい人間の権力争いを通して実現したのです。つまり主なる神は、人間の罪や欲望をも、ご自分の救いのご計画の中で用いて、それらを通してみ心を行って下さったのです。ダビデとバト・シェバの間に生まれたソロモンに王位が継承されたことに、そのことがまさに典型的に表れていると言えます。預言者ナタンがバト・シェバと共にソロモンを王とするために力を尽くしたのは、そのような主のみ心とみ業を見つめていたからでしょう。ソロモンが王になったのは、ダビデの指名によってでもなければ、ナタンたちの擁立工作によってでもなくて、主なる神がソロモンを愛して、王としてお立てになったからです。人間の思いを超えた神の選びがそこにはあるのです。

知恵を求める心
そして主なる神に愛され、選ばれたソロモンは、この3章にあるように、神のみ心に従って正しく民を治めるための知恵を求めました。それはソロモンがもともとそのように謙遜で信仰深い人だったというよりも、神に選ばれ、王として立てられていく中で、本当に求めるべきものを求める心を与えられた、ということでしょう。ソロモンの知恵は、主なる神が恵みによって彼に求めさせてくださり、そしてイスラエルの民の幸福のために彼に与えて下さったものだったのです。ソロモンは、「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」と言っています。また、「僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです」とも言っています。つまり、自分に与えられている務め、使命は大きすぎてとても担えそうにない、自分はそのような務めには全く相応しくない、と言っているのです。だからこそ彼は神に、その務めを果すための知恵を与えて下さいと祈り求めたのです。その願いに答えて神は彼に知恵を与えて下さいました。それと同じことが私たちにも起こるのです。私たちも、自分に与えられている務めはとても自分の力では負いきれないと感じます。だからそれを果たすために必要な知恵を神に願い求める思いを与えられるのです。主なる神はそのように私たちにも、必要な知恵を求める心を与えて下さり、そしてそれを与えて下さるのです。

ソロモンの裁き
ソロモンに与えられた知恵の実例として語られているのが、16節以下の、二人の遊女たちへの裁きの話です。これと同じような話を私たちは、大岡越前守の「大岡裁き」の話として知っています。おそらくあの大岡裁きの話は、このソロモンの裁きの話が元になって生まれたのだろうと思うのですが、正確なところはわかりません。二人の遊女が共に住んでおり、同じ時期に子を生んだが、片方の赤ん坊は死んでしまった、残った赤ん坊を二人が共に自分の子だと主張して譲らない、という事件です。ソロモンは、双方が共にこの子は自分の子だと主張するのを聞くと、剣を持って来させ、子供を二つに裂いて双方に半分ずつ与えよと言います。それを聞くと本物の母親の方は、「この子を殺さないであの人にあげてください」と言いますが、もう一人の方は、「二つに裂いて分けてください」と言います。それによってソロモンは、どちらがこの子の本当の母親であるかを見分け、彼女に子供を渡すように命じたのです。お見事!さすがは神に与えられた知恵に満ちたソロモン王、と喝采したくなる話です。勿論そのように読んでよい話なのですが、しかし今を生きる私たちは、そこでいろいろなことを考えざるを得ません。「子供を殺さないで相手に渡してください」と言った方が本物の母親で、「裂いて分けてください」と言った方は偽者、という前提でこの話は語られています。それが常識だとは思いますが、しかしその常識は、今はもう通用しない、という現実があります。母親が自分の産んだ子どもを殺してしまうということが起こっているし、逆に、自分の本当の子供ではない子を引き取って大切に育てている人も沢山いるのです。だから今は、どちらが本当の母親かを確かめるためにはDNA鑑定をするしかない、という時代です。そうなるとこのソロモンの裁きは、今はもう通用しないのかというと、そうではありません。今の時代、この裁きは別の意味を持つようになっていると思うのです。それは、この裁きによって、この子を母親として育てていくのに本当に相応しいのはどちらかが明らかになっているということです。この子が本当に幸せに育つことができるのは、「この子を裂いて分けてください」と言う人のもとではなくて、「この子を殺さないであの人にあげて」と言う人のもとでこそでしょう。ソロモンの裁きは、そのことを明らかにしているのです。その意味で、これは現代の科学が生み出したDNA鑑定以上の、本当に知恵ある裁きだったのです。この話は、本当の知恵とは何か、また私たちがどのような知恵をこそ神に祈り求めていくべきなのかを考えさせてくれます。本当の知恵とは、人を本当に生かし、支え、神の祝福の下で喜んで生きることを可能にするものなのです。

ソロモンにまさる者
さて本日は、マタイによる福音書第12章38節以下を共に読みました。ここに、「ソロモンの知恵」という言葉が出て来るのです。南の国の女王が、ソロモンの知恵を聞くために、はるばる地の果てからやって来たと語られています。それは、いわゆる「シェバの女王」の話で、列王記上の第10章にあります。ソロモンの知恵は当時の全世界の評判となり、はるか遠くの国の女王までもが、その知恵の言葉を聞くためにやって来たのです。その出来事を思い起こしつつ、主イエス・キリストがここで言っておられるのは、「ここに、ソロモンにまさるものがある」ということです。「ソロモンの知恵にまさるまことの知恵」、それは、主イエス・キリストご自身のことです。主イエスにこそ、あのソロモンにまさる知恵がある。それは主イエスがそれほどに知恵深い方だということであるよりも、主イエスにおいてこそ、人を本当に生かし、支え、神の祝福の下で喜んで生きることを可能にする知恵が具体化している、ということです。主イエスは、私たちの罪を全て背負い、身代わりになって十字架にかかって死んで下さるためにこの世に来て下さった神の独り子です。あの子の命を守るために自分を犠牲にしようとした人こそが本当にその子を愛している、母親たるに相応しい人だったように、主イエスはご自分の命を犠牲にして私たちを真実に愛して下さった方なのです。この主イエスのもとで、主イエスと共に生きるようになることにこそ、私たちが本当に神の子供として愛され、祝福のうちに生かされ、支えられていく道があります。私たちにその道を示し、その道を歩むことができるようにして下さる方こそ、ソロモンの知恵にまさるまことの知恵ある方、イエス・キリストなのです。私たちは、この主イエス・キリストのもとに招かれ、主イエスと共に生きる恵みを与えられています。そしてこの主イエスに、自分の務めを果たすために必要な本当の知恵を与えて下さいと祈り求めつつ歩むのです。主イエスはその求めに応えて、私たちに、人を生かし、支え、神の祝福の下で喜んで生きることを可能にするまことの知恵を与えて下さるのです。

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