「誠実に愛し合おう」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書: 詩編 第116編1-19節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第3章11-18節
・ 讃美歌:355、521
「誠実に愛し合おう」ではないか。「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実を持って」、「愛し合おうではないか」とヨハネは今、わたしたちに語りかけています。イエス様の十字架からのメッセージを通して神様の愛を知ったわたしたちは、その愛ゆえに、隣にいる兄弟姉妹を愛します。かつて、わたしたちの愛は、わたしたち自身にしか向けられていませんでした。しかし、神様の愛を知ったわたしたちは、その愛を隣人に向けることができます。かつて、わたしたちは、自分が救われたいとしか考えていませんでした。イエス様によって救われたわたしたちは、いまや、隣人を誠実に救いたいと思うのです。それは、自分の救いのためではなく、ただ隣にいる兄弟のために、自分をささげて救う。兄弟が、飢えていれば、自分のパンを、兄弟が渇いていれば、自分の水を、兄弟が重荷で歩けないのならば、自分の肩を、究極は兄弟が命の危機にあれば、自分自身を、兄弟に分け与える。その行いは、わたしたち自身の功績でも、徳でもありません。それは、わたしたちにまかれた神様の種が、実を結んで目に見える形となったということです。
11節にある、「あなたがたの初めから聞いている教え」とは、この手紙の中で、2章7節以下の「古くて新しい掟」、2章24節以下の「はじめから聞いていること」が指し示している内容のことです。この3章11節で初めて、その教えが言葉で表されます。それは「互いに愛し合うこと」ということです。この教えは、イエス様が生きておられるときに、弟子たちに教えた掟のことです。そのことは、ヨハネによる福音書13章34節以下にこのように記されています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」このイエス様の言葉が、初めから聞いている教えです。
「誠実に愛し合おう」、「互いに愛し合いなさい」とヨハネはわたしたちに要求します。しかし、そのように、要求されても、一体互いに愛し合うとは何をすればいいのか。また、なぜ互いに愛し合わねばならないのか。という疑問が、わたしたちの頭の中で駆け巡ります。
互いに愛し合うというのは、わたしが隣人を愛し、隣人がわたしを愛するということです。わたしたちの初めての隣人は、兄弟です。わたしたちが、この世に生まれて、最初にある関係は、親との関係です。親は愛し養い育ててくれる存在です。では兄や、姉はどういう存在でしょうか。愛し養い育てるのは親です。わたしたちにとって、兄、姉は愛を与えてくれる存在ではなく、親の愛を同じように受けて隣に立つものです。また、弟、妹も同じように、親の愛を共に受ける隣人です。
ですから、互いに愛し合いなさいという掟は、言い換えるならば「隣人を愛しなさい」さらに言い換えるならば「兄弟を愛しなさい」ということです。
まずヨハネはこの手紙で、「兄弟を愛する」ということの反対像を私たちにイメージさせようとすることから始めます。兄弟を愛することの反対は「兄弟を憎む」ということです。ヨハネは「カインのようになってはなりません」と語り、あの創世記の物語をわたしたちに思い起こさせます。
兄カインは、弟アベルの献げ物が神様に受け入れられ、自分の献げ物が神様に受け入れられなかったのが、悔しくて弟を殺します。そこに愛はなく憎しみしかありません。カインは、土を耕す者で、土の実りを神様に献げました。アベルは、羊を飼う者だったので、神様に肥えた初子の羊を献げました。この献げ物に、何か価値の差があった訳ではありません。片方が、もう一方の献げ物に勝ったというわけではありません。しかし、神様は、アベルの献げ物のほうを選ばれました。カインはこの神様の選びに不公平感じ、腹を立てて、怒ります。カインはどのように怒ったのかというと、創世記にはこのように書かれて言います。「カインは激しく怒って顔を伏せた。」顔を伏せて、神様に対して、顔を向けず、無口になります。わたしたちもカインと同じ状況ならば、「なぜなんだ、神様はなぜ弟の献げ物を選び、わたしの献げ物を選ばれなかったのか」「神様はわたしを嫌っておられるのか」という疑問が沸き起こると思います。この疑問をカインはどうしたかというと、カインは神様にその疑問をぶつけるのではなく、顔を伏せて、無口になり、その疑問を自分の内側に溜め込みます。「なぜなんだ、なぜなんだ」「わたしを嫌っておられるのか」「神様は弟アベルのほうが好きでわたしを嫌っているのか」そのような疑問が、解決しないまま、自分の内側で駆け巡り、その疑問が次第に、怒りと恨みに変わってきます。その怒りと恨みが引き金になり、カインはアベルを殺してしまいます。
わたしたちの人生の中にも、不条理はあります。生まれた時点で、差があります。それは能力であったり、健康であったり、家庭環境、生まれた国、生まれた時代など数えきれないほどその差、不条理は存在します。その差は、特に隣人との関係、隣人と自分を比べたときにあらわになります。そこで、わたしたちはカインと同様にその不公平に我慢できなくなり、怒ります。カインは怒って顔を伏せます。神様にも、隣にいる兄弟にも顔をそむけ、目を合わせようとせず、暗く下を向き続けます。わたしたちも、その不平等を感じるときに、同じように怒りとくやしさによって、隣人を無視し、怒りで下を向くということがあります。主なる神様はカインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」「顔を上げられるはずではないか。」主なる神様は、彼に顔を上げなさいといっておられたのです。顔を上げて、神様に訴え出ないで、疑問と怒りと恨みを溜め込んだカインは、アベルを殺していまします。わたしたちも、神様に顔向けずにいれば、その不平等への疑問を自分の中で答えを探し続けます。しかしその答えが、見つからないために、その不平等への疑問が怒りに変わり、他人を恨むか、それか自分自身を恨むということになります。ヨハネは隣人を憎むというのはどういうことなのかということを15節で説明します。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」兄弟を憎むということは、兄弟を殺すということと変わらないとヨハネは言います。わたしたちが「憎んだゆえに人を殺す」ということを実際に行なっていなかったとしても、わたしたちが心で、人を憎む時、それはその人を殺すことと変わりません。イエス様が、姦淫をしてはならないという掟を、実際に姦淫していなくても、心のなかで隣人の妻を淫らな目で見たものは、姦淫の罪を犯しているということ言われておられます。そのことと、同様に、わたしたちが、隣人を心で恨み、心のなかで「いなくなればいい」と思う時、わたしたちは人殺しの罪を犯しています。その対象が、隣人ではなくて自分であっても同じです。「自分はいなくなればいい」「死んでしまいたい」と思う時、わたしたちは自分を恨み、自分を殺して、人殺しの罪を犯します。このような解決しない恨みの堂々巡りの原因は、カインが示しているように、怒りで神様から顔をそむけるために起こります。そうであるので、神様がカインに、「顔をあげなさい」といっておられるように、わたしたちも神様に顔を向けて、神様に「なぜなのですか」と問うことが求められます。しかし、カインとアベルの物語を見ると、カインはそのように神様に要求されても、顔を上げることができませんでした。その不条理にばかり目を向けてしまいます。それは、罪のためです。わたしたちも、そのカインと同じ罪のために、神様に顔を上げることはできません。不条理と自分自身ばかりを見てしまう罪を抱えています。その罪の結果は死です。従って、恨みの結果、怒りの結果は自分の死を招きます。恨みが人殺しとなり、その罪を持っているものは、神様との関係が持つことができないために、その人は死ぬ。故にヨハネは「すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」と言うのです。
そのような、どうしようもない神様の方に顔を向けることのできないわたしたちに、ヨハネはこのように言います。14節、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。」わたしたちが、死を乗り超えて、生き続けるには、神様との関係をもう一度結ぶ必要があります。しかし、わたしたちはその関係を自分の力では、結ぶことができません。いくら神様に顔を向けようとしても、自分のことばかりが気になって、神様を見ること、思うことができない。カインのように、神様の選びを、尊重できずに、自分のことばっかりを考えてしまう。神様を恨み、隣人を恨み、そして自分自身を恨む。そんなわたしたちを神様は嫌っておられるのではないか。神様はそのような罪深いわたしを、神様の怒りでもって滅ぼされるのではないかと、わたしたちは怯えもします。そんなわたしたちが、神様との交わりに生きられないわたしたちが、どうして、命へ移れるのか。その答えは3章16節に書かれています。わたしたちが、死から命へと移ることができたのは「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」とあるように、イエス様がわたしたちのために、十字架にかかって死んでくださったからです。カインのように怒り、顔を伏せて顔を挙げられず、しゃがみこんでいるわたしたちに、イエス様がイエス様の方からわたしたちに近づいてきてくださいました。そして目の前で「顔を上げなさい」と声をかけてくださっています。神様を恨み、隣人を恨み、自分自身を恨む。「そんなわたしを父なる神様は嫌っておられるのではないか」とそう思っていたわたしたちに、イエス様は近づいてこられて、「わたしの父は、あなたを愛しておられ、救いたいと考えておられる」と語りかけてくださっています。「父なる神様は罪深いわたしを、怒りでもって滅ぼされるのではないか」と、そう怯えるわたしに、イエス様は近づいてこられて、「あなたの代わりに、わたしがその父の怒りを担って死んだのだ」とおっしゃいます。その言葉を聞いたわたしたちは、イエス様になんてことをしてしまったんだと思います。自分のせいでイエス様が死んでしまった。わたしのせいでイエス様は苦しみ血を流し死んでしまった。「イエス様おゆるしください」とその言葉をイエス様に伝えた時、イエス様はわたしの隣で「すでにわたしはあなたをゆるしている」「そのために十字架にかかったのだ」とわたしたちに伝えてくださっています。これが十字架からのイエス様のメッセージです。
16節「そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」この十字架からのイエス様のメッセージによって、わたしたちは、神様がどれほどわたしたちを愛しておられるかを知りました。神様は、愛する独り子をささげられるほどに、わたしたちを愛してくださいました。自分を「愛する」ということしか知らなかったわたしたちが、イエス様によって、「愛される」ということを知りました。ヨハネは言います。「わたしたちは愛を知った、だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」と。これは、わたしたちにとって、とてつもなく高い要求です。イエス様が命を捨ててそのようにわたしを救ってくださったと知っていても、「とてもそのようなことは真似出来ません」というのがわたしたちの本心であると思います。しかし、実はクリスチャンになるものは、一度死にます。それは、洗礼です。洗礼は、わたしたちがイエス様の十字架に結ばれて、イエス様と共に葬られその死に与ることであると、パウロはロマ書においてそのように語っています。イエス様の死は、わたしのためだけの死ではありません。イエス様の死は、隣人、兄弟のための死でもあります。従って、わたしたちが、初めて兄弟のために命を捨てるということは、洗礼を受けるということです。それが、兄弟のために命を捨てることの始まりです。しかし、ヨハネは、ここでは既に洗礼を受けた人に語りかけているため、洗礼を受けた後も、兄弟のために命を捨てるということをわたしたちに要求しています。この命を捨てるという行いの根本になることは、自分が自分自身に向けていた愛を、隣の人に向けるということです。かつてわたしたちは、自分を愛していた時、自分自身を救いたかった。自分を愛するということは、自分を救いたいということです。その自分を救いたいという愛を、隣の人に向けるということは、隣の人を救いたいと思うことです。隣の人を救いたい、兄弟を救いたい。そう思えるのは隣の人を愛しているからです。イエス様はわたしたちを愛してくださっているが故に、わたしたちを救いたいとお思いになられ、その思いの通りに行動してくださった。イエス様にしかできない究極の方法でわたしたちを救ってくださいました。わたしたちはイエス様の行いを完璧に真似することはできません。わたしたちは隣人を愛して、救いたいと思う。それを実践するなかで、もっと高い愛の示し方は、命を捨てることです。この命を捨てるというのは、イエス様のなさったこととおなじではありません。そして、またもう一つのことを、ヨハネは言っています。それは、17節で、自分の富があり、そして兄弟が必要なものがなくて困っている時に、あわれみの心を開き、自分の富をもって、兄弟を助けるということです。これはわたしたちにもできそうなことです。命を捨てること、隣人に施すこと、その両者に共通していえることは、それは隣人が苦しんでいるときに、神様からわたしに注がれた愛、神様から頂いた恵みを、惜しまず隣人に与えるということです。
そのような具体的な行いを例にあげて、ヨハネはわたしたちに誠実に愛し合おうとすすめます。わたしたちはこの行いによって、自分が神の子になるわけでもなく、自分が神様に認められて救われるということでは決してありません。それらの行いは詰まるところ、自分のためだけです。それは隣人のために行いをしていることではないのです。もし完全に自分のためではない「愛の行い」を行えたとしても、それはイエス様がわたしたちに愛を注いでくださって、わたしたちが育てられることによって、結んだ愛の実の結果によるものです。すべての行いはそのイエス様によります。ですから、その行いをなすときに、私たちは、いつも愛の源流である神様と交わらなくてはなりません。その愛の源流から、愛を受けなければ、どの行いも、意味がありません。ですから、行いをする時、私たちはカインのように神様から顔そむけることはできません。まず神様に顔を向けて、神様と交わりを持ちます。その交わりは、この教会の礼拝にあります。そして初めて、神様の愛を知り、愛を頂き、わたしたちは初めて顔をあげて、隣人に顔を向けることができます。
ですから、わたしたちが誠実に愛し合うということをするためには、まず、顔を上げて隣人に顔を向けてお互いに顔を見あうということが必要となります。そして顔を見てお互いに話をする。その交わりなしには、命を捨てることも、施しすることも、ただ自分勝手に、恩着せがましく、行なっているということになってしまいます。隣人と交わりをもって、その人を知る、そして助けたいと思う、救いたいと思う。そこから、わたしたちは、自分が頂いた救い、恵みをこの人にも知ってほしい、分け与えたいという思いが沸き上がってくるのです。その思いとともに、わたしたちは自分に向けられていた愛を隣人に差し出します。それがヨハネの言う、誠実に愛するということです。
ですから、今週はまずわたしたちは、顔を上げて神様を見つめましょう、そして神様にあらゆる思いを祈りで聞いていだきましょう。そして顔を上げて隣人の顔を見ましょう、そして交わりを持つことから始めましょう。そして、いつも神様とつながり、常に神様の愛を頂きながら、その愛で隣人を愛し、そして隣人から愛される、そのような互いに愛し合う愛の旅路を今日から歩みだしましょう。