「造り上げる言葉」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 第11章1-9節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第14章1-19節
・ 讃美歌; 4、54、454
霊的な賜物についての問い
コリントの信徒への手紙一は、コリントの教会から使徒パウロのもとに寄せられたいくつかの質問に答える、 という形で書かれている部分が大きなウエイトをしめています。今読んでいるあたりもそういう所で、12章から 14章が一つのまとまりを持ち、ある質問に対する答えとなっています。それはどのような質問だったのでしょうか。 12章1節に「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことをぜひ知っておいてほしい」とあります。霊的な賜物について、 つまり、聖霊によって一人一人に与えられる賜物、働きやそれを行う力、能力についての質問がコリント教会からパウロのもと に寄せられたのです。
パウロはこの質問に対してまず、聖霊の中心的な賜物は、「イエスは主である」という信仰の告白だと 12章の始めのところで語りました。イエス・キリストこそ自分の救い主であり、主であられる、という信仰こそが、聖霊の与える 第一の賜物であり、その他の全ての賜物はこれと結びついているのです。この第一の賜物と矛盾するものは、たとえどんなにすば らしい、人間業を超えたような働きであっても、聖霊の賜物とは言えないのです。
このことを確認した上でパウロは、聖霊の賜物は一つではない、様々な違った賜物がそれぞれに与えられているのだということ を語っています。そして、その賜物相互の間に、優劣や上下の関係はない、様々な異なった賜物を与えられている者たちが、 洗礼によって一つのキリストの体の部分となり、互いに補い合い支え合いながら共に歩んでいくのが教会というものだ、という ことを語ってきたのです。そして先週読んだ12章の最後、31節前半にはこうありました。「あなたがたは、もっと大きな賜物 を受けるよう熱心に努めなさい」。あなたがたは既にそれぞれ様々な聖霊の賜物をいただいている、しかし、もっと大きな賜物 を与えられるように熱心に求めなさい、というのです。そこで段落が区切られ、後半の「そこで、わたしはあなたがたに最高の 道を教えます」によって13章へと入っていきます。クリスマスに備えるアドベントの期間に読んだこの13章のテーマは「愛」 です。愛こそが、聖霊の与えてくれる「もっと大きな賜物」なのです。そしてこの愛という賜物は、他の賜物と比較してこちらの 方が優れているとか、こちらの方が大事だというのではなくて、他の全ての賜物を生かす土台のようなものだ、ということが語 られていました。どんなに優れた賜物を持っていても、愛がなければ、その賜物は生きないし、人を生かすものにならないのです。 それゆえに、愛は最高の賜物であると同時に最高の道です。愛という道を通ってこそ、様々な賜物はその目的地へと到達すること ができるのです。
預言と異言
私たちは12章13章でこれらのことを読んできました。そして本日から14章に入ります。その冒頭に、「愛を追い求め なさい」と言われているのは、これらのことを受けてのことです。12章31節に「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に 努めなさい」という勧めがあり、その「もっと大きな賜物」とは愛であることが13章で示され、それを受けて「愛を追い 求めなさい」と言われているのです。14章は、この教えを、ある具体的な事柄に当てはめて展開していきます。愛を追い 求めて生きるとは具体的にはどういうことなのかが、いわば応用問題のように語られていくのです。その具体的な事柄とは、 預言と異言です。この二つは、12章28節以下にある聖霊の賜物のリストの中にありました。預言も異言も、聖霊によって 与えられる賜物の代表的なものなのです。14章は、もっぱらこの二つの賜物のことについて語っていきます。コリント教会 からパウロのところに寄せられた、聖霊の賜物についての質問は、具体的には、預言の賜物と異言の賜物をどう受けとめ、 教会において、また特に礼拝においてそれをどう位置づけたらよいのか、ということだったのです。パウロはその質問に 答えるための前提として12、13章を語ってきたのです。そしていよいよ14章において、質問の核心についての、具体的 な答えを語っていくのです。
まずは、預言と異言それぞれの意味を知っておかなければなりません。新共同訳聖書の後ろの付録に「用語解説」があります。 そこを見てみたいと思います。「預言」については付録の42頁にこのように解説されています。「神の霊感を受けた人(預言者) が語る言葉。本来の意味は、神(あるいは他の人間)のために、代わって語ること。神の意志によって起こる出来事、 神の裁きと救いについての告知である。新約では、主として旧約の預言者が語ったメシアの到来に関する言葉を指す。 初代教会の場合には、聖霊に感じて語る言葉の意味である。」そしてそこに、本日の第一コリント14章1~5節が 参照箇所としてあげられています。聖書全体において、預言という言葉は幅広い意味を持っているので、それをこれだけの 説明にまとめてしまうのには無理がありますが、しかしこの解説からもはっきりと分かるのは、聖書において預言とは、 未来の出来事を言い当てる言葉ではない、ということです。旧約聖書の、メシア即ち救い主の到来に関する預言は、未来の 予告であるとも言えますが、しかしそれは当たったとかはずれたというような類いのものではなくて、むしろ「神の意志に よって起こる出来事、神の裁きと救いについての告知」なのです。つまり預言とは、神様のご意志、ご計画を語り伝える言葉です。 それは今日の私たちで言えば「説教」です。そういう言葉を、聖霊が与え、語らせて下さる、それが預言の賜物なのです。これに 対して、異言の意味は同じ用語解説の21頁にあります。これまでにも読んだことがありますが、もう一度確認しておきたいと 思います。「一般の人には理解しにくい信仰表白の言葉。コリントの信徒への手紙一の12章、14章によると、異言を語る能力は 聖霊によって与えられる『霊的賜物』(カリスマ)の一つである」。聖霊の賜物のことを、聖書の原語のギリシャ語ではカリスマと いいます。それは今では日本語にもなっていて、「カリスマなんとか」というのがよくテレビなどに登場しますし、ほかの人にはな い特別な指導性、人を引き付ける力のある人のことを「あの人にはカリスマ性がある」などとも言います。この言葉はもともとは、 聖霊の賜物のことを意味する聖書の言葉なのです。つまり14章は預言のカリスマと異言のカリスマについて語っているわけですが、 これはどちらも「言」という字が用いられているように、言葉における賜物です。しかし同じ言葉でも、異言は一般の人には理解 できない言葉です。それは難しくて理解できないということではなくて、霊的興奮状態の中で発せられる、意味をなさない、わけの わからない音声だからです。それに対して預言は、先程見たように、神のご意志、ご計画を語り伝える普通の言葉です。つまり それは意味がわかる、内容のある言葉です。初代の教会には、預言と異言の両方のカリスマが与えられていました。そして コリント教会では、預言よりも異言のカリスマの方が、賜物としてより優れていると考えられており、多くの人が異言の賜物を 祈り求め、またそれを持っている人々が礼拝において我れ先に異言を語る、ということが起こっていたのです。そのことによって 生じた混乱状態の中から、パウロのところに、これらの賜物をどう位置づけたらよいかという質問が来たのです。
誰に向かって語るか
パウロはこの質問に対して、1節後半ではっきりとこう答えています。「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。 これは、聖霊の数ある賜物の中で、預言の賜物をこそ求めなさい、ということではありません。ここでの問題はもはや、預言と異言に 絞られているのです。だからこれは、異言の賜物ではなく、預言の賜物をこそ求めなさい、ということです。コリント教会の多くの 人々は、異言の方が一段上の、より優れた、求められるべき賜物だと思っていたのに対して、パウロは、預言こそより優れた賜物であり、 追い求められるべきものだと言っているのです。何故そうなのか、そのことが2節以下に語られていきます。2節と3節において、 異言と預言との比較がなされています。異言は2節にあるように、「人に向かってではなく、神に向かって語る」言葉で、それゆえに 「誰にもわからない」のです。それに対して預言は「人に向かって語られ、人を造り上げ、励まし、慰める」のです。このようにここ で預言と異言の違いが、誰に向かって語られている言葉か、という違いとして見つめられていることは非常に重要です。異言は神に 向かって語られ、預言は人に向かって語られる、異言と預言の違いはそこにあるのです。神に向かって語ることと人に向かって語る ことと、どちらが貴く、大切なのでしょうか。私たちの信仰的感覚からすると、神に向かって語ることの方が人に向かって語ること よりも尊いことのようにも思えます。コリント教会の人々もそう思ったのでしょう。人間の言葉で人に向かって語る預言よりも、 人にはわからない神様の言葉で、あるいは13章1節にあったようにこれは「天使たちの言葉」とも言われていたようですが、 そういう特別な言葉で神様に向かって語りかけていく異言の方が、より神秘的だし、それによって神様と自分が近くなったように 思えるのです。けれどもパウロはここで、神に向かって語る言葉よりも人に向かって語る言葉の方が大事だとはっきり言っています。 その理由は、神に向かって語る言葉はだれにも分からないのに対して、人に向かって語る言葉は、人を造り上げ、励まし、慰める からです。神に向かって語られる異言は、意味不明の言葉だから、人には何も伝わらないのに対して、人に向かって語られる預言は、 人を造り上げ、励まし、慰めるのです。つまりパウロは異言と預言の違いを、人にどのような益をもたらすか、ということにおいて 見つめているのです。それは言い換えれば、愛において語られているのはどちらか、ということです。13章で、どのような優れた 賜物も、愛なしには何の益もないと語られました。その愛とは、自分の利益を求めず、むしろ人の利益になるように、人のために なるようにすることです。その愛によって語られているのは、異言よりもむしろ預言の方なのです。それゆえに預言こそが追い 求められるべき賜物なのです。1節に「愛を追い求めなさい」とあり、それに続いて「特に預言の賜物を熱心に求めなさい」と言われて いることは、そういう意味でしっかりつながっているのです。
教会を造り上げる言葉
預言こそ愛によって語られる言葉である。そのことは4節においてよりはっきりと示されています。「異言を語る者が自分を 造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」とあります。異言を語る者は自分を造り上げている。つまり異言は、 自分の信仰を深め、自分と神様の関係を緊密にするけれども、しかしそれは自分のことだけに止まり、人には何の益ももたら さないのです。それに対して預言は教会を造り上げます。3節では、預言が人を造り上げ、励まし、慰めると語られていました。 それはある人を個人的に向上させたり、励ましたり慰めたりするということではありません。預言において語られるのは、 神様のご意志、ご計画です。それは具体的には、主イエス・キリストにおいて示されたご意志、ご計画です。神様が、その独り子 イエス・キリストを私たちのためにこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、 そして復活して新しい命、永遠の命の先駆けとなって下さった、そのことによって神様が、私たちを罪の支配から救い、神様の恵み の下に置いて下さっている、この主イエスによって神様は私たちを愛し、罪を赦し、導いて下さる、そういう神様のご意志、 ご計画を預言は語るのです。その預言によって、私たちは、主イエスを信じ、神様の恵みを信じる者となり、洗礼を受け、キリスト の体である教会につながる者とされるのです。預言とはこのように、教会を造り上げていく言葉です。預言が語られてこそ、人は キリストと出会い、その救いにあずかり、教会に加えられ、他の兄弟姉妹と共にキリストの体である教会へと造り上げられていく のです。そしてそこでこそ、キリストによる励まし、慰めを受けることができるのです。預言はそのように、主イエス・キリストに よる励ましと慰めによって生かされる共同体を造り上げていく言葉です。自分だけが神様と対話し、信仰を深めていくという異言 とはそこが違うのです。
異言を語っていないか?
パウロは異言と預言の違いを6節以下でいくつかの喩えによって語っていきます。第一には、楽器がただめちゃくちゃに音を 鳴らしているのでは音楽にならず、人の心に何も伝わっていかない、異言はそれと同じだというのです。あるいは、軍隊におけ る合図のラッパには決められたメロディーがあるのであって、それに従って吹かれなければ何の合図かわからず、行動が起こせない、 異言はそういう意味のわからない合図と同じだというのです。さらには、意味をなさない言葉である異言が語られる場合、語る人と 聞く人との関係は外国人どうしと同じだとも言われています。お互いに理解できない外国語でしゃべりあっているようなもので、 そこには意志の疎通が生じないのです。これらの喩えによって語られている、人と人との心が通じない、言葉が伝わらない、 意志の疎通ができないという事態は、異言が語られることにおいてのみではなく、様々な場面で私たちの間に起っているので はないでしょうか。私たちの間では、ここで言う異言が語られることはほとんどありません。私自身も、異言というのを実際に 聞いたことはありません。ただ知識として知っているだけです。そういう意味では、この預言と異言の話は、私たちの教会とは あまり関係がないことにも思えます。けれども、異言が語られるところにこういうことが起る、とパウロが語っていることを 読んでいくならば、それは私たちと無関係であるどころか、むしろそれは私たちが日々経験している現実だと言わなければ ならないのです。私たちは、自分の語る言葉が相手に通じない、意志の疎通ができないという苦しみを体験します。同じ日本語を 話しているのに、外国人どうしのように通じないということがあるのです。そこでは、自分の語っている言葉が相手にとっては 異言となっており、相手の言葉も自分にとって異言となっているのです。なぜそうなるのか。私たちはそこで、自分の語っている 言葉を吟味しなければなりません。私たちの言葉が人に対して異言になってしまうのは、私たちが、自分を造り上げることしか頭に ないからでしょう。神様に向かって語っているつもりでも、つまり正しいことを語っているつもりでも、それが自己満足の、 自分のためだけの言葉になってしまっており、人と共に神様の恵みの下で生きるための言葉になっていないなら、つまり簡単に 言えば、独りよがりの愛のない言葉になっているなら、その時、私たちの言葉は異言になってしまうのです。お互いにやかましく 異言を語り合いながら生きている、それが私たちの現実なのではないでしょうか。
バベルの塔
これは人間の罪によって引き起こされている現実です。そのことを教えているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、 創世記11章のいわゆる「バベルの塔」の物語です。それまでは一つの言葉をしゃべっていた人間たちが、この出来事を通して、 言葉を乱され、いろいろな違った言葉を語るようになった。お互いの言葉がお互いにとって外国語となり、言葉が通じなくなり、 心が通わなくなり、意志の疎通ができなくなったのです。何によってそのようなことが引き起こされたのでしょうか。それは、 人間が、自分たちの領域を天にまで、神様のもとにまで届かせ、神様と肩を並べる者となろうとしたからです。自分が神のように なろうとする、神様の下で神様に従って生きるのではなく、自分が主人になり、自分の思い通りにしようとする、そういう 思い上がりの罪によって、私たちの言葉は相手に対して異言となり、お互いに言葉の通じない者、心と心が通わない者、 愛し合うことのできない者となってしまっている、「バベルの塔」の話はそういうことを教えているのです。
造り上げる言葉を語るために
お互いが異言を語り合っているような状態から、私たちはどうしたら抜け出せるのでしょうか。それは、私たちの言葉が 異言ではなく預言になることによってです。そのために私たちは、預言の賜物を熱心に求めていかなければなりません。 預言を語るとは、わけのわからない音声ではなくて普通の言葉で語るようにする、ということではありません。普通の言葉を 語っていても、それが異言になってしまうということを、今見てきたように私たちは体験しているのです。本当の意味で預言を 語る者となるとは、人に向かって語る言葉、言い換えれば、自分をではなく人を造り上げる言葉を語る者となることです。 それはさらに言い換えれば、人を愛する言葉を語る者となることです。愛を失っているがゆえに、私たちの言葉は異言に なってしまうのです。愛を追い求めることによってこそ、私たちの言葉は異言から預言へと変えられるのです。その愛を、 私たちはどこに追い求めればよいのでしょうか。それは私たちが聞いている預言の言葉にです。預言の言葉は聖書に記され ています。その聖書の説き明かしである説教が、今日私たちが与えられている預言の言葉です。そこに、主イエス・キリストに よる神様の私たちへの愛が示されているのです。私たちはこの預言の言葉によって、神様の独り子であられる主イエスが、 天から降り、私たちと同じ人間になって下さり、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことを聞くのです。 天におられたまことの神が、地上を生きる人間のもとへと降りて来て下さったのです。人間が上へ上へと昇っていこうとした バベルの塔とは全く反対のことを、主イエス・キリストはして下さったのです。この主イエスの、十字架の死にまで降りてきて 下さったへりくだりの恵みが、私たちに神様の真実の愛を教えてくれるのです。この神様の愛を告げる預言の言葉によって私たちは、 自分がいかに傲慢な罪人であるかを知らされます。そしてその罪人である私たちを、神様が独り子主イエスの十字架の死によって 赦して下さった恵みを知り、その愛の中で生きる者とされるのです。私たちが、独りよがりの、自己満足の異言ではなく、人に 向かって語りかける言葉、人と心を通わすことのできる言葉、人を愛し、人と共に造り上げられていくための言葉を語る者となる ためには、この主イエスのへりくだりの恵みによって生かされる者となることが必要なのです。愛を追い求め、預言する賜物を 熱心に求めるというのは、このことをこそ求めていくことです。その時、私たちの語る言葉は変えられていきます。私たち一人 一人が、人を造り上げ、励まし、慰める言葉を、キリストの体である教会を破壊するのではなく築き上げていくような言葉を 語る者とされていくのです。