「愛がなければ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; ヨナ書 第4章1-11節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第13章1-7節
・ 讃美歌; 231、237、481
愛と平和
本日より、アドベント、待降節に入りました。アドベントとは、「到来」という意味です。2000年前のクリスマスにこの世にお生まれになった主イエス・キリストの第一の到来を覚えると共に、世の終わりにもう一度来られる、主イエスの第二の到来、再臨に備えていく信仰を養っていく時です。
今年のアドベントの礼拝において、どの聖書箇所からみ言葉に聞こうかと考えました。昨年は、「平和」というテーマを掲げて、それに関係する箇所を選びました。今年も、教会の正面に、「クリスマスに平和の祈りを」と書かれたバナーを掲げました。平和を祈る思いは今年も同じです。しかし今年は、礼拝においてコリントの信徒への手紙一を連続して読んで参りまして、ちょうどその第13章にさしかかろうとしています。この第13章は「愛の賛歌」とも呼ばれており、愛について集中的に語られている箇所です。そこで、本日のアドベント第一主日と来週の第二主日には、この13章を読むことにしました。厳密に言うと、まだ12章の終わりのところ、27節以下が残っているのですが、そこは新年に回すことにして、私の思いの中では、今年のクリスマスのテーマを、「愛と平和」としたいと思っております。
もっと大きな賜物―愛
さてコリントの信徒への手紙一の第13章は、ここだけでも、例えば結婚式などでよく読まれます。この部分は、文体が他の所とは違っていて、詩のような形で書かれています。新共同訳はそのことを意識して訳しています。12章や14章は「~なのです」という文体であるのに対して、13章は、例えば1節「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」、こういうのを「体言止め」というのですが、詩的な響きを生み出す文体です。また、2節「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。このように、「~です」とか「~である」という説明の文章とは違う仕方で訳されているのです。そういう文体の相違から、この13章は、もともとは手紙の一部として書かれたものではなくて、独立した、愛についての詩だったのではないか、とも考えられています。それをパウロがここに引用したのかもしれないのです。
しかしそうだったとしても、この13章がここに、つまり12章と14章の間に置かれていることには、大きな意味があります。つまりこの「愛の賛歌」は、コリントの信徒への手紙一の文脈の中にしっかりと位置づけられているのです。そのことが、12章とのつながりに表れています。本日は13章1節からを読んでいただきましたが、段落の区切りは13章からではなく、12章31節の後半からになっています。聖書の章や節は後から便宜的につけられたものですから、章の切れ目を段落の切れ目にしなければならないことはありません。パウロが「ここから第13章」と書いたわけではないのです。むしろ話は切れ目なくつながっています。12章で語ってきたのは、霊的な賜物、聖霊の賜物についてでした。教会の兄弟姉妹一人一人に、それぞれ違った賜物が聖霊によって与えられている、それらがあいまって、一つの「キリストの体」としての教会が成り立っているのだ、ということが語られてきたのです。そして後に回してしまった27節以下には、教会には様々な賜物の違いによっていろいろな務めに立てられている人がいる、ということが語られています。それを受けて31節前半には「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言われているのです。様々な務めを果たすための賜物よりももっと大きな賜物がある、それをこそ熱心に求めなさい、と言っているのです。その「もっと大きな賜物」こそ「愛」です。他のどの賜物にも増して熱心に求められるべき愛という賜物のことが、31節後半の「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」という言葉に導かれて語られていくのです。
最高の道―愛
ところでこの31節後半に、「最高の道」と言われていることに注目したいと思います。「最高の賜物」を教えます、ではなくて、最高の「道」と言われているのです。ここにすでに、愛というものが、いくつもある他の賜物の中での最高のものではないことが示されています。愛は、他の賜物と並ぶ一つの賜物ではなくて、「道」なのです。道というのは、そこを通ってこそ目的地に行けるものです。どんなにすばらしい賜物を持っていても、この道を通らなければ目的地には行けない、つまり、その賜物が生かされず、実りを生むことができないのです。13章1~3節が語っているのはそのことです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。それぞれの節に、「愛がなければ」とあります。これは直訳すれば「わたしが愛を持っていなければ」という言葉です。愛を持っていなければ、どんなに優れた、よい賜物を持っていても、それらは何の役にも立たない、と言われているのです。
異言
1節には「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも」とあります。異言というのは、新共同訳聖書の後ろの付録にある用語解説によれば、「一般の人には理解しにくい信仰表白の言葉」です。霊的な興奮状態になって、言葉にならない音声を発する、それが、信仰を言い表し、神様を賛美する言葉として位置づけられ、それを語ることができるのは神様からの特別な賜物によると考えられていたのです。「人々の異言、天使たちの異言」と二種類に分けられているのは、異言が人間の心から出たものであろうと、天使から与えられたものであろうと、ということでしょう。当時、異言を「天使たちの言葉」と呼ぶことがあったようです。天使たちの世界では、人間の言葉とは違う、人間には理解できない言葉が語られている、異言を語る者はその天使たちの言葉を語っているのだ、と考えられていたのです。しかし、そのような特別な信仰的な言葉を語る賜物を持っているとしても、愛がなければ、その言葉は「騒がしいどら、やかましいシンバル」と同じだ、つまり、ガンガンとうるさく耳障りなだけで、何も伝わって来ないし、不快感を与えるだけなのです。
このことが最初に取り上げられていることからも、コリント教会において異言がいかに大きな問題だったかがわかります。コリント教会では、異言を語る賜物が非常に重んじられ、もてはやされていました。そのため教会の集会、礼拝において、我先に異言を語り始めるようなことが起り、礼拝が混乱するということが起っていたのです。そのことは、この後の14章に詳しく語られていきます。そこでパウロは、みんなが異言を語っているところに初めて来た人は、「この人たちは気が変だ」と思うだろうと言っています。つまり異言によっては、新しく来た人に、大事なことが何も伝わらないのです。異言は、それを語っている人だけの、独りよがりの言葉です。他の人のために語られる言葉ではありません。パウロが「愛がなければ」と言っているのはそのことです。パウロは、異言が神様の賜物であることを認めています。しかしその賜物をどう用いるか、その道において、愛がなければ、それはただやかましいだけの、不快な騒音にしかならないのです。
預言、知識、信仰
2節には、預言する賜物、あるいはあらゆる神秘とあらゆる知識に通じているという賜物、さらには、山を動かすほどの完全な信仰のことが語られています。預言というのは、未来を言い当てることではなくて、異言と対照的に、人に分かる言葉で信仰を語り、福音を宣べ伝える言葉です。今日私たちが使う言葉としては、「説教」や「奨励」に当たると考えればよいでしょう。そしてこれも14章の先取りになりますが、パウロは、異言と預言とでは預言の方により重きを置いています。人々の信仰を養い、教会を建て上げていくのは異言よりも預言だと言っているのです。また、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じているというのも、信仰における隠された真理や深い知識を知っており、それを人々に語り伝える賜物を持っているということです。そして「山を動かすほどの完全な信仰」、これは、主イエスが、「信じて疑わずに、山に向かって海に入れと命じたらその通りになる」とおっしゃったことから来ています。何の疑いもない、一点の曇りもない信仰です。これらは、独りよがりの異言とは違って、信仰における最も尊い、すばらしい賜物であると言うことができます。しかしパウロはそれらも、「愛がなければ」無に等しいと言うのです。それらの賜物も、愛という道を通って用いられるのでなければ、本当に良い実を結ばないのです。
自己犠牲
3節には、さらに驚くべきことが語られています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」。全財産を貧しい人々のために使い尽くす、などということは、私たちにはほとんど出来ないことです。しかし中にはそのような生涯を送る人もいます。古くはシュヴァイツァーとか、最近ではマザー・テレサとか、もっと無名の人でも、そのように生きている人は確かにいます。そういう人たちのことを私たちは、すばらしい愛の人と尊敬し、感嘆するのです。しかしパウロは、そのような自己犠牲の行為すらも「愛がない」ものであり得ると言うのです。「誇ろうとしてわが身を死に引き渡す」というところは、口語訳聖書では「自分のからだを焼かれるために渡しても」となっていました。この違いは元になっている写本の違いです。「誇ろうとして」となっている写本と、「焼かれるために」となっている写本とがあるのです。「誇ろうとして」という読み方は、すばらしい愛の行為と見えることの背後に潜む人間の誇りの思いをえぐり出しています。私たちは、良いことをしようとします。それは純粋な善意や道徳心、また信仰から出ることですが、その良いことをしていく中で、私たちの心には、自分の良い行いを誇る思いが生まれます。自分はあの人よりも良いことをしている、自分の方があの人より立派だ、と思って喜ぶ思いがどうしても起こってきます。そしてその誇りを満足させるために、ますます良いことに励むということになるのです。そのような誇りのためにわが身を死に引き渡すことすらも人間はします。それは決して悪いことではありません。人間誇りを失ったらおしまいだ、とも言えるのです。しかしそれは愛によることかというと、そうではない。そこでは、他者を愛することよりも、自分の誇りが第一となっているとも言えるのです。
パウロはこのように、愛こそが、あらゆる賜物が本当に生かされる道だと言っています。また、一見この上もない愛の行為と思われることが、実は愛なしになされることがあり得ることを指摘しています。そこに、愛の重要さと、また難しさがあると言えるでしょう。かくも重要であり、かくも難しい愛とは、それではどのようなものなのでしょうか。そのことが、4~7節に語られているのです。
愛は忍耐強い
愛とは何かという問いに対して、皆さんはどう答えるでしょうか。そこでまず真っ先に出てくるのはどんな言葉でしょうか。その答えと、パウロがここで語っていることを比較してみると面白いと思います。パウロはまず真っ先に「愛は忍耐強い」と言っています。口語訳聖書では「寛容である」でした。「忍耐強い」と言うと、「努力してこつこつと」というような意味にもなりますが、この場合にはむしろ「寛容である」ことです。もとの言葉の意味は、感情を爆発させるまでに長い時間をかける、というようなことで、要するに、短気でないこと、相手に対してすぐに怒らないことです。忍耐強いという訳はそこで生きてきます。つまり、相手に対する怒りを忍耐強くがまんすることです。次の「情け深い」もそれとつながります。自分に対して悪を行う者に対して情け深くあること、それが愛の第一の内容だとパウロは言っているのです。これは、愛とは何かという問いへの私たちの答えとはずいぶん違うのではないでしょうか。私たちは、愛とは相手を思いやることだとか、親切にすることだというように、相手に対して積極的に何かをすることを第一に考えます。しかしパウロは、むしろ相手のことを忍耐すること、寛容な思いを持つことこそ愛だと言うのです。これは考えようによっては、ずいぶん消極的な話だとも思えるかもしれません。しかし私たちは、積極的に人を愛そうとして、その思いが相手に届かずに挫折し、そこに逆に憎しみが生まれたりするということを常々体験しているのではないでしょうか。そのようになるのは、私たちの積極的な愛が、自分勝手な、独りよがりの愛になっているからです。本当に相手を愛するためには、先ず相手を受け入れることが第一なのです。そのためには忍耐が、寛容が、情け深さが必要なのです。私たちはこのことをもっと意識しなければならないのではないでしょうか。
ねたまない
その後のところでパウロが並べていることは、皆、「~しない」という否定的な言葉です。愛するとは、何かをすることであるよりも、何かをしないことだというのです。先ず「ねたまない」ことです。この言葉のもとの意味は「求めない」です。それは、人の持っているものを求めない、欲しがらないということで、だから「ねたまない」と訳せるのです。人が持っているものを自分も欲しいと思う、子どもの喧嘩もそこから始まることが多いのです。愛を破壊するのはこの「求める」思いです。「求めない。そうすれば」で始まる言葉を集めた詩集が今ベストセラーになっている、というニュースを見ました。現代の私たちは、いろいろなものを求め過ぎることによって不平不満に満たされてしまっている、という意識が多くの人々の中にあるということでしょう。しかし「求めない」ことは、自分の現状に満足し、足ることを知るための極意であるのみでなく、人を愛することにおいて欠かすことのできない道だと聖書は教えているのです。
自慢せず、高ぶらない
次の「自慢せず、高ぶらない」は今の「ねたまない」の裏返しだと言うことができます。自分の持っているものを誇り、自慢し、人を見下す思いは、ねたみと裏表の関係にあります。「自慢したい」と思っている人ほど、人の持っているものをねたむ思いが強いのです。ねたみの思いというのは、自慢したい、誇りたいという思いから生まれるのです。そういう思いに捕えられていると、自分より良いものを持っている人が皆、自慢している、誇っているように思えて、憎らしくなるのです。
礼を失せず
次に「礼を失せず」とあります。口語訳では「不作法をしない」でした。礼儀とか作法というものを、形式的で愛がないことと考える向きもあります。もう少し広く考えると、社会におけるルールや、団体における決まり、規則のようなものまでそこに含めることができるでしょう。「規則ではそうかもしれないが、そこは愛をもって曲げてこうした方がよいのではないか」というような言い方が、特に教会においてはよく起こります。けれどもそれは本当の愛のあり方ではありません。決められている秩序やルールを守ることこそが、人を愛することです。そうでないと、自分勝手な思いを人に押しつけることになります。また、相手の行動が、決められた秩序やルールの中でなされるようにしてあげることこそが、その人を愛することです。そうでなければその人のしていることは、たとえ動機は純粋であっても、ルール違反になり、人々に理解されなくなってしまうのです。愛するということが、ただ感情的な共感や支持ではなく、礼節をわきまえることと結びつかなければならないというこの指摘は重要なことだと思います。
自分の利益を求めず
「自分の利益を求めず」とあります。「利益」という言葉は原文にはないのであって、直訳すれば「自分自身に属するものを求めない」となります。人のものを求め、欲しがることが「ねたみ」でしたが、これは、自分自身に属するもの、つまり自分の当然の権利や自由を求めない、それに固執しない、他者のためにそれを放棄するということです。パウロは8章において、偶像に供えられた肉を食べることについて、それを食べる自由が信仰によって与えられているが、それによって弱い兄弟をつまずかせることがあるならば、その自由を放棄する、と言っています。9章でも、伝道者が教会によってその生活を支えられることは当然の権利だが、自分は福音の前進を少しでも妨げることがないように、その権利を放棄する、と語りました。自分の権利に固執し、たとえ当然の権利であっても、それにしがみついている間は、人を本当に愛することはできないのです。相手のために自分の当然の権利や自由をも放棄するところに、愛するということは成り立つのです。
いらだたず、恨みを抱かない
「いらだたず、恨みを抱かない」は、先程の忍耐強いと同じように、人に対する怒り、恨みの思いを制御することです。ところでこの「恨みを抱かない」という言葉は、「人に悪をかぶせない」と訳すこともできます。そうするとこれは、「人の悪を数え立てない、人のことを悪くとらない」ということになります。そしてそれは、次の「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」ということともつながります。これは「自分が不義を行ってそれを喜ぶことをしない」という意味であるよりも、人の不義を喜ばない、というふうに読んだ方が文脈に合うように思います。人の不義、罪を喜ぶ、それは、人を批判し、攻撃することを喜ぶこと、また、人が罪を犯しているのを見て、自分がその人よりも優位に立ったように感じて喜ぶことです。そのように、人の不義、つまり欠点や弱点、悪い所を見つけ出して喜ぶのではなくて、人の中に真実を、つまり良い所、長所をこそ見出してそれを喜ぶ、それが愛するということなのです。
愛は意志的なもの
7節の「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」は、4節以下のまとめであると言えます。愛とは、どのような時にも、信じることやめず、希望を失わず、忍耐をもって愛し続けることなのです。ここに示されている愛の姿は、私たちが感覚的に、情緒的に抱いている「愛」のイメージとはかなり違っていると言わなければならないでしょう。本当の愛とは、感情的な、気分的な、情緒的な、一時のものではないのです。むしろ、強い意志と決意を伴う、持続的な心のあり方なのです。
主イエス・キリストの到来によって
パウロはこのような愛を、人間の追い求めるべき単なる理想として掲げているのではありません。このような愛を目指しましょう、という理想を語っているだけなら、この教えは私たちの現実に対して何の力も持たない虚しい言葉になってしまうでしょう。パウロはそんなことを語っているのではありません。パウロも、そして私たちも、この愛に生きた方を、具体的に知っているのです。それは主イエス・キリストです。ここに並べられていることはその一つ一つが、主イエス・キリストが私たちを愛するゆえにして下さったことです。主イエス・キリストは、神様に背く罪人である私たちに対してどこまでも忍耐強くあられ、神の子としてのご自分の自由や権利を捨てて、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。パウロも私たちも、この主イエス・キリストにおける神様の具体的な、肉を裂き、血を流す愛の中で生かされているのです。
アドベントに
本日共に読まれる旧約聖書の箇所として、ヨナ書の第4章を選びました。ここにも、神様の忍耐強い愛が描かれています。神様の命令で、罪の中にある町ニネベの滅亡を預言したヨナは、神様がその町の人々の悔い改めによって町を滅ぼすことを思い止まられたことに文句を言っています。自分の面目が丸つぶれだと怒っているのです。しかし神様はそのようなヨナに、ニネベの町の人々を惜しむご自身のみ心を懇ろに教えようとしておられます。ヨナが、主の忍耐強い愛を知って、その愛に生きる者となることを願っておられるのです。
主イエス・キリストのご降誕に備えるアドベントの時を歩む私たちに、神様は同じ願いをもって臨んでおられます。独り子主イエスの到来は、神様が、どのような時にも信じることやめず、希望を失わず、忍耐をもって私たちを愛し続けて下さっていることの現れなのです。その愛に応えて、まことに欠けの多い者ですが、主イエスの示して下さった愛に生きていくことこそ、主イエスの到来に備える信仰です。そのように歩む中でこそ、私たちそれぞれに与えられている様々な賜物は、私たちを本当に生かし、また人をも生かすものとなっていくのです。