主日礼拝

主の晩餐

「主の晩餐」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; アモス書 第8章4-14節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第11章17-22節
・ 讃美歌; 16、393、542

 
集まる群れとしての教会
 先週の礼拝の説教において申しましたが、コリントの信徒への手紙一の11章から14章にかけては、教会の集会、礼拝についてのことが語られています。「教会」というと今日私たちはすぐに教会の建物、教会堂を思い浮かべてしまいますが、しかしこの手紙が書かれた初代の教会の当時は、教会堂などはありませんでした。建物はなかったけれども、教会はあったのです。それはどのような仕方で存在していたかというと、信者たちが集まって集会、礼拝をする、そこに教会が存在していたのです。教会というのは信仰者の集まりです。教会という言葉の原語は「エクレシア」ですが、それは「呼び集められた者の群れ」という意味なのです。それを「教会」と訳したのはよかったのかどうか、疑問です。「教会」というとどうしても「教える会」というイメージになります。何かを教えてくれる所、教わりに行く所、という感じになり、カルチャーセンターの一種のように考えられてしまうのです。しかし教会とは本来、神様によって呼び集められ、神様のみもとに集められた者たちのことです。ですから「集まる」ということが教会の本質なのです。どんなに立派な教会堂が建っていても、人々が集まって礼拝がなされていなければ、そこに教会があるとは言えません。逆に初代の教会のように建物はなくて、個人の家か、何らかの集会所のような所でも、人々が集まって礼拝を守っているなら、そこには立派な教会があるのです。
 そのように教会においては「集まる」ことが基本的に大事です。集まること、そして礼拝を行うことは、教会にとって手段ではなく目的です。教会が教会として歩むための本質的なことです。私たちは、それぞれクリスチャンとして生活しつつ、時々集まって親睦を深め、励まし合って力を得て、またそれぞれのクリスチャンとしての生活に戻っていくのではありません。それだと、クリスチャンとしての生活において礼拝は補助的な事柄になります。そして「自分は礼拝には行かなくてもクリスチャンとして生きられる」と思ったり、「1か月に1回ぐらい行けば、1年に1回ぐらい行けば大丈夫だ」ということにもなるのです。しかしそれは根本的に間違いです。「クリスチャンとして生きる」とは、良いことに励んで生きるとか、一生懸命世のため人のために尽くすことではなくて、神様の招きに応えて集まり、礼拝を守って生きることなのです。集まること、礼拝することは、クリスチャンとして生きるための手段ではなくて、目的そのものなのです。「集まる」ということの信仰における重大な意味を、私たちはよくわきまえなければなりません。そしてそれゆえにこそ私たちは、病気や高齢のために、またいろいろな事情によって礼拝に集まることのできない兄弟姉妹のことをこの場で覚え、その人々のためにとりなし祈り、先週行われたような週日聖餐礼拝を行って、普段来ることができないでいる方々にも礼拝をする機会を提供しようと努力するのです。名簿に名前だけ載っていればそれで事足りるような集団であるならば、そのようなことは必要ないことになるでしょう。

悪い結果を生む集まり
 さてそのように、共に集まるということが私たちの信仰において根本的に大事なことなのですが、その集まりが、良い結果ではなく悪い結果を招いてしまうことがある、ということが今コリント教会において起っている、とパウロは本日の箇所で語っているのです。17節に「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです」とあります。集まって集会、礼拝を共に守る事が、益にならず、むしろ悪い結果を生んでしまう、それはどういうことなのでしょうか。18節の冒頭でパウロは「まず第一に」と言っています。パウロが第一に指摘しているのは、「あなたがたが、教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています」ということです。コリント教会には仲間割れがあった。そのことはこの手紙の最初の方で既に指摘されていました。「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」というような党派争いがあったのです。そういう仲間割れ、対立のある人々が共に集まる時に、そこにはかえって言い争いが起り、対立が深まっていくということがあります。そういうことでは、共に集まることが良い結果ではなく悪い結果を生んでしまうことになる、パウロはまず第一にそういうことを見つめているのです。しかし18節の後半には、「わたしもある程度そういうことがあろうかと思います」とあります。これは次の19節とつながる言葉です。19節には「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません」とあります。「適格者」というのはあまりよい訳ではないと思いますが、「テストされて本物であることが証明された者」というような意味です。つまり、どの教えが本当に神様のみ心を正しく伝えているのか、主イエス・キリストによる救いの福音に本当に即した教えはどれか、ということが明らかになるためには、いろいろな意見の相違、対立も「避けられないかもしれない」と言っているのです。いや、ここの原文はもっとずっと強い言葉であって、「争いもなければならない」という言い方です。口語訳聖書は19節を「たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい」と訳していましたが、こちらの方が原文に近い訳です。パウロは、教会の中で意見の対立があること自体は必ずしも悪いことではない、と言っているのです。
 しかしここでは、教会の集会や礼拝を、悪い結果を生むものにしてしまっている「仲間割れ」があることが見つめられています。その仲間割れのゆえに、20節にあるように、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」ということになってしまっているのです。この20節は「それでは」という言葉で19節とつなげられています。この訳では、「仲間争いも避けられない。しかしそれでは主の晩餐を食べることにならない」という意味になります。けれども原文においては、19節と20節をつないでいる言葉はそういう逆説的な接続詞ではありません。19節と20節のつながりはもっと曖昧なのです。ここでパウロが言っているのはこういうことかもしれません。彼は第一に、コリント教会における党派争いのことを挙げました。しかしそれについては、意見の対立によってかえって真理が明らかになるということもあるのだから、絶対に悪いとは言わない、そういう対立はあっても、共に集まって主の晩餐を食べることはできる、と一歩譲っているのです。しかし、共に主の晩餐を食べることを不可能にするような仲間割れが、今あなたがたの間に起っている。この仲間割れによってこそ、教会の集会は良い結果でなく悪い結果を招くものとなってしまうのだ。これが、パウロがここで言おうとしていることなのではないかと思うのです。共に主の晩餐を食べることを不可能とする仲間割れとはどのようなものなのでしょうか。

主の晩餐
 そのことを考えるために先ず、「主の晩餐」とは何であるかを知っておかなければなりません。晩餐とはもちろん夕食のことですが、それが「主の」と呼ばれています。「主の」という言葉はここではいろいろな意味を含んでいます。一つには「主イエス・キリストが定めて下さった」ということ、もう一つは「主イエス・キリストの恵みにあずかる」ということ、さらに、「主イエス・キリストが今もそこに臨んで下さり、そこで私たちに出会って下さる」ということです。そういう「主の晩餐」、それは今日の私たちにおいては「聖餐」と呼ばれる食事、礼拝の中で信仰者が、パンと杯を共にいただくことを指しているのです。それが「晩餐、夕食」と呼ばれるのは、これが定められたのは主イエスと弟子たちのいわゆる「最後の晩餐」の席においてだったからです。この最後の晩餐において、主イエスが特別の意味を込めて弟子たちに与えられたパンと杯に信仰者が共にあずかるのが聖餐です。それゆえに、午前中の礼拝においてなされていても「主の晩餐」と呼ばれるのです。

聖餐と愛餐
 この後の23節以下は、私たちがいつも聖餐にあずかる時に、「聖餐制定のみ言葉」として聞いている箇所です。そのことからも、「主の晩餐」とは聖餐のことだと分かるのですが、ただ、私たちが今日あずかっている聖餐のイメージで本日の所を読むと、何を言っているのかよくわからない、ということになります。21節に「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」とあるのです。これは私たちの聖餐とは全く結びつかないことです。このことを理解するためには、当時の礼拝のことを知らなければなりません。信者たちが集まって行う礼拝において、私たちで言う聖餐にあずかっていたわけですが、それは私たちのように小さなパンの一切れとぶどう液をほんの一口いただく、というのではなくて、みんながそれぞれの家から持ち寄った食べ物、飲み物を共に食べ、飲むという食事として、その食事の中で行われていたのです。そういう共同の食事が、原語のギリシャ語で「アガペー」と呼ばれていました。「アガペー」とは「愛」という意味です。それが日本語に訳されて「愛餐」という言葉が生まれました。私たちは、クリスマスやペンテコステ、そして先日の教会創立記念の礼拝の日に、みんなで共に食事をする「愛餐会」を行なっています。つまり私たちにおいては、聖餐と愛餐とは区別されているわけですが、当時の教会においてはそれが一つになっているような食事が集会の中でなされていたのです。

豊かな者と貧しい者
 このことを頭に置いて21節をもう一度読んでみます。「食事の時各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」。つまり、各自が食べ物を持ち寄って食事をするのですが、先に来た者たちが自分の分を食べてしまう、そのために、後から来た人たちは十分に食べることができずに空腹のままでいなければならない、そのようにして、一方には満腹して酔っ払っている者がおり、片方にはおなかをすかしたままの人がいる、ということが起っているのです。「先に来た者と後から来た者」と申しましたが、そのことはこの後の33節を読むことによってわかります。33、34節は、本日の所に語られている問題についての具体的な指示です。そこを読んでおきたいと思います。「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう」。「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいる」ということにならないように、主の晩餐のために集まるときは互いに待ち合わせなさい、つまりみんなが来ることができる時間を見計らって、その時間に集まりなさいというのです。このことは、単なる時間の設定の問題ではありません。先に来るとか後から来るという違いがどうして起るかというと、先に来ている人たちというのは、裕福な、時間に余裕のある人たちなのです。後から来る人たちというのは、貧しい、遅くまで仕事をしなければ食べていけない人たち、あるいは奴隷の身分で、言い着けられた仕事を全部済ましてからでなければ集まることのできない人たちです。ですから、先に来ることができる人たちは、持って来る食事も豊かな、豪華なものだったでしょう。それを彼らが先に来て食べてしまう。後から疲れてやって来る貧しい人たちは、十分なものを持って来ることができない、あるいは何も持って来ることができないかもしれません。しかし彼らが来た時には、持ち寄られたものは大方食べ尽くされていて、彼らは、満腹して酔っている豊かな人たちを見ながら、空腹のままでいなければならない、そういうことが起っていたのです。パウロは、このようなことでは主の晩餐を食べたことにはならない、と言っているのです。つまりここで見つめられている仲間割れとは、意見の相違による対立ではなくて、豊かな者と貧しい者との問題なのです。豊かな者が、自分たちの喜びと満足のことしか考えず、貧しい者のことを少しも顧みない、そういうことでは共に主の晩餐にあずかっていると言えるか、と問われているのです。22節に「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません」とあります。「貧しい人々に恥をかかせようというのですか」というのは、今言ったことです。共に神様の召し、招きを受けて集まり、礼拝をしているはずの教会において、貧しい者がないがしろにされ、片隅に追いやられてしまうということがあってはならない。それは「神の教会を見くびる」ことです。神様はそれらの人々をもご自分の民として召し集め、大切にしておられるのです。それらの人々をないがしろにすることは、その神様のみ心をないがしろにし、神様のみ心よりも自分の喜びや満足を求めていくことです。教会の集まり、集会、礼拝が、そのように神様のみ心よりも自分の喜びや満足のためになされるならば、それは何の益をも生まない、むしろ悪い結果を招くものにしかならないのです。

聖餐における一致
 パウロはコリント教会の集会におけるこのような事態を見つめつつ、「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのか」と言い、先程読んだ34節では、「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」と言っています。つまり、食事は自分の家で済ませて来なさいということです。教会に集まってそこで空腹を満たす食事をするのではなくて、それは各自で済ませてから集まり、教会では、本来の「主の晩餐」のみを共にいただくようにしなさい、ということです。つまりパウロはここで、聖餐と愛餐を分けなさいと言っているのです。パウロのこのような教えによって、聖餐と愛餐は次第に区別されていき、礼拝の中で行われる主の晩餐は今日私たちが守っている聖餐になっていったのです。聖餐は、それによって肉体の空腹を満たすための食事ではありません。しかしそれは、主イエス・キリストによって定められ、主イエス・キリストの恵みにあずかり、主イエス・キリストがそこに臨んで下さる主の晩餐なのです。これにあずかることによって私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの恵みによって豊かに養われ、生かされるのです。この主の晩餐を集まって共にいただくことが私たちの信仰の中心です。私たちは、いろいろな意見の相違や考え方の違いはあっても、共にこの主の晩餐にあずかることにおいて一つなのです。共に主の晩餐にあずかっている、主イエス・キリストの恵みによって養われ、生かされている、その一致の中でならば、いろいろな意見の対立があり、激しい論争がなされても、そのことを通してかえって、神様の本当のみ心が明らかにされていくのです。

愛餐の交わり
 そしてまた、パウロがここで聖餐とは区別し切り離した愛餐、共に食事をすることも、聖餐とは違った形で教会の中に位置づけられました。教会において、共に集まって食事をすることは、聖餐とは違った意味でやはり主の晩餐であり、神様の前での一つの大事な集まり、集会なのです。そこにおいて、ここに指摘されているような、豊かな者と貧しい者との差別があってはなりません。今日私たちの教会において行われる愛餐会においては、「空腹の者がいるかと思えば酔っている者もいる」ということはありません。私たちの教会の場合問題はむしろ、礼拝に集った者が皆愛餐会に出席することが物理的に不可能であることです。結果として、一部の者たちのみの愛餐になってしまっています。このことは常に課題として考えていかなければなりません。しかしそれだけでなくて、ここに語られているような、経済的に豊かな者と貧しい者との違いによって教会の集会が悪い結果に陥ることが、別の形で私たちの間においても起こり得る、ということも考えておかなければならないでしょう。またこれは、経済的に豊かな者と貧しい者との間にのみ起ることではありません。いろいろな賜物を豊かに与えられている者とそうでない者、教会のために賜物を用いて奉仕する時間を確保できる者とそうでない者の間にも、同じようなことが起り得ます。神様は教会に、いろいろな違いを持った人々を招き集めておられるのです。ですから私たちの間には、いろいろな点で、豊かな者と貧しい者が混在しているのです。そのような私たちの集まり、礼拝が、神様の召し集めに相応しくない、悪い結果を招いてしまうものとなる危険は、いろいろな所に潜んでいます。そうならないために最も大事なことは、豊かな者、それは経済的にも、賜物においても、時間においても、様々な点においてですが、豊かに与えられている者が、貧しい者、弱い者のことを、主の晩餐に共に招かれ、あずかっている者としてどれだけ思いやり、尊重し、共に歩むことができるか、ということです。自分の考えや主張あるいは好き嫌いによって、主が招いて下さっている兄弟姉妹をないがしろにしてしまうことのないように、私たちはよくよく気をつけなければならないのです。

み言葉の飢えに陥らないように
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、アモス書8章4節以下には、貧しい者、弱い者のことを思いやることなく、搾取する者たちへの神様の怒りが記されています。その怒りによって、彼らは飢えに苦しむ者となるのです。その飢えは、パンに飢えることではなくて、神様のみ言葉を聞くことのできない飢えです。豊かな者が自分の豊かさに満足し、それを享受しているだけで、貧しい者、弱い者と分け合い共に生きようとしないならば、経済的にはどんなに豊かでも、神様のみ言葉による養い、恵み、導きを失って、飢えに苦しむことになるのです。私たちも、このようなみ言葉の飢え、魂の飢えに陥らないように、つまり私たちの集まりが、礼拝が、集会が、貧しい者、弱い者をないがしろにするものとなって神様の怒りを受けるようなことのないように、気をつけていかなければなりません。
 私たちの魂を本当に養い、導く神様のみ言葉が、礼拝において私たちに語られており、聖餐において私たちはそのみ言葉の養いを目に見える印によって、この体をもって、具体的に味わい、与えられています。教会は、神様によって召し集められ、礼拝において、み言葉と主の晩餐に養われつつ歩む群れです。主が召し集め受け入れて下さっている全ての人々を、私たちも受け入れて共に礼拝を守り、主の晩餐にあずかり、み言葉によって共に養われつつ、恵みの賜物を分ち合いつつ、共に歩みたいのです。

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