主日礼拝

男と女

「男と女」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第2章18-25節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第11章2-16節
・ 讃美歌; 6、165、514

 
礼拝に関する教え
 礼拝においてコリントの信徒への手紙一を読み進めていますが、本日は11章2節以下を読みます。ここからは、これまでの所とは違う事柄が語られていきます。これまでの所には、偶像礼拝の問題、それと関連して、偶像に供えられた肉を食べることについての教えが語られていました。本日の所からは、今度は、教会における礼拝の問題、それをどのように守り、整えていったらよいか、ということについて語られていくのです。そういうことを語る部分が、14章の終わりまで続いていきます。これから読んでいく部分は、教会における礼拝の問題を語っているところだ、ということをまず頭に置いておきたいのです。  それは、このことをきちんと認識しておかないと、本日の箇所に語られていることの意味を取り違えることが起こるからです。ここには、男と女の関係についての教えが語られています。そして例えば3節には「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男」と言われているし、8、9節には「男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」とあるのです。これらの箇所を読むと、ある人々は直ちに、「これは女性差別だ、女性を男性の下に従属させようとする人権無視の教えだ」と叫び出します。そのような短絡的な反応に陥らないために、ここに語られていることの内容をまずきちんと読み取っていかなければなりません。そのために、今申しましたこと、ここには教会の礼拝の問題が語られているのだということをわきまえていることが大事なのです。ここに語られているのは、日常生活における男女の一般的な関係のあり方についての教えではないのです。
 礼拝の問題が語られているということがどこから分かるかというと、4節に「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に」とあり、5節にも同じように「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に」とあることからです。「祈ったり、預言したりする」時のことが語られている。それは、教会の集会、礼拝においてのことです。祈るというのはこの場合、自分一人でいわゆる密室の祈りをすることではなくて、教会の人々が集まって礼拝をしている中での祈りです。預言するというのは、未来のことを言い当てることではなくて、神様のみ言葉を語る、今日の私たちの言い方では、説教をする、あるいはもう少し広く言えばみ言葉を語る、ということです。それは教会の集会、礼拝においてなされることです。それらのことを、男がする時と女がする時では、ある違いがあるべきだ、ということが語られているのです。

男女が共に神を礼拝する
 私たちが先ずここで確認しておかなければならないのは、パウロの当時の教会において、このように、男性と女性が共に礼拝において祈り、預言をするということが一般的になっていた、ということです。それが一般的だったからこそ、そこでこういう違いはあるべきだ、ということが教えられているのです。初代の教会の人々は、教会の礼拝において祈ったりみ言葉を語ったりすることを、男性の専売特許だなどとは考えませんでした。聖書をよく読んでおられる方は、この箇所と、この後の14章に出てくる、「婦人たちは教会では黙っていなさい、語ってはならない」と教えられていることとは矛盾するのではないかと思われるかもしれません。それについてはその所で改めてふれることになりますが、今一言だけ言っておくと、あの14章の記事はむしろある特殊な事情のもとでの教えであって、決して一般的原則を語っているのではありません。基本的な考え方はむしろこの11章にあるように、男性も女性も共に教会において祈り、預言をするということにあるのです。

新しい事態にどう対処するか
 しかしそこにおいて、男女の間にはある違いがあるべきだ、とパウロはここで教えています。その違いとは、頭にものをかぶるか、かぶらないか、ということです。男は何もかぶらずに、女はかぶってそのことをすべきだ、というのです。この女性のかぶり物は、当時のユダヤ人の女性が外出をする時にはいつもつけていたもので、今日も、女性は礼拝の時にヴェールをかぶるという形でこの教えを受け継いでいる教会もあります。イスラム教の保守派において、女性は人前では頭や顔を隠すということともつながるところがあるかもしれません。いずれにせよ、これはパウロが突然そのようなことを言い出したのではなくて、当時のユダヤ人たちにおける一般的な風習だったのです。パウロはそれを守れと言っているのです。ということは裏を返せば、それを守らない人が出てきたということです。礼拝において、女性がかぶり物をせずに祈ったり預言したりすることが起ってきていたのです。つまりパウロはここで、何も前提のない中で、礼拝における服装はどうあるべきか、という話をしているのではありません。そうではなくて、それまで行われてきた礼拝のあり方を変えようとする、新しくしようとする革新的な動きに対して、ちょっと待て、これまで行われてきたことにも意味があるのだから、それをきちんと考えてみなければならない、と言っているのです。2節に、「あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います」と語られているのはそういう意味です。伝えられた教えを守っていくというのが、信仰の基本的な姿勢です。しかしいつの時代にも起ってくるのは、伝えられた教えと、現在の問題、社会の新しい状況、あるいは社会に一般的な新しい考え方とが合わないという事態です。そのような時にどうするか。伝えられた教えを、これは古い時代のもので、もう現代には合わない、と言って捨ててしまうのか。しかしそれでは、私たちが、自分の考えを基準として教えを判断し、選んだり捨てたりすることになります。それでは、神様のみ言葉に従うなどということはどこかへすっとんでしまいます。従うのではなくて、私たちが、教えを評価判断する主人になってしまうのです。それは信仰の正しいあり方ではありません。私たちは、伝えられた教えと現代の状況とが合わないと感じる時に、伝えられた教えを捨てて、新しい現代に合う教えを求めていくのではなくて、むしろそこでこそ伝えられた教えをさらに深く掘り下げ、そこに示されている神様のみ心をより深く聞き取っていく努力をするべきなのです。そのことの中からこそ、新しい事態、新しい問題に対処する指針も与えられていきます。本当に建設的な、教会を建て上げていくような新しさ、改革はそのようにして生まれるのです。人間の思いで、伝えられた教えをもう古臭いと言って捨て、何か新しい教えを持って来ようとすることは、教会の破壊をもたらすのみなのです。

頭(かしら)とは?
 パウロがここで語っているのは、礼拝において男は頭にかぶり物をせず、女はそれをする、という以前からの風習を深く掘り下げていった時に、そこにどのような神様のみ心を汲み取ることができるか、ということです。そういうことをきちんと考えずに、新しいことに飛びついていくのはよくない、と言っているのです。そこで3節の「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」という言葉についてですが、「頭(かしら)」という言葉は文字通り「頭(あたま)」です。頭(あたま)に何かをかぶるとか、かぶらないということは、自分の頭(かしら)は誰であるかということと関わっている、とパウロは言っているのです。問題は、この「頭(かしら)」という言葉の意味です。これを「主人」という意味にとると、「女の主人は男だ」と言っていることになり、女性差別だ、ということになるのです。しかしこの「頭(かしら)」はそういう意味ではありません。何故なら、これと並んで「キリストの頭は神」と言われているからです。主イエス・キリストと父なる神様との関係は、主人と僕の関係ではありません。主イエスは神の独り子であり、神から生まれた方です。そういう関係がここでは「キリストの頭は神」と言い表わされているのです。ですからこの「頭(かしら)」は、主人、支配者という意味ではなくて、どこから生まれたかということ、少し難しい言い方をすれば、「存在の源泉」を示しているのです。同じように「すべての男の頭はキリスト」というのは、キリストは全ての男の主人である、ということではなくて、全ての男はキリストから、キリストによって造られたということです。これは、神様による天地創造、そこにおける人間アダムの創造のことを指しています。それがキリストによってなされたというのは、神の独り子であられる主イエス・キリストは三位一体の神の第二の存在として、永遠の昔からおられ、天地創造のみ業に関わっておられた、ということです。それゆえに全ての男の存在の源泉はキリストなのです。

順序という秩序
 そして「女の頭は男」です。ここでは、女が男から造られたという、本日共に読まれた旧約聖書創世記第2章18節以下が意識されています。創世記第2章の人間の創造の物語においては、神様は先ず男アダムをお造りになり、「彼に合う助ける者」として、男のあばら骨から女エバをお造りになったのです。8、9節の「男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」というのもこのことを言っています。女の存在の源泉は男である、そういう意味で、「女の頭は男」と言っているのであって、女の主人は男だ、と言っているのではないのです。
 それにしても9節の「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」というのはかなり刺激的な言い方です。女は男に仕えるために造られたと言っているようにも思われます。しかしそこでやはり創世記2章18節の、「彼に合う助ける者」という言葉に立ち返らなければなりません。「彼に合う」という言葉は、「向かい合う」という意味です。向かい合って共に生き、相手を助ける、男と女とはそういう関係にあるものとして造られたというのが、この言葉の言い表していることです。つまり「助ける者」というのは「補助者(ヘルパー)」ではありません。女は男のヘルパーではなくて、パートナーなのです。従ってそれは片方が一方的に相手に仕えるとか、従属するという関係ではないのです。この9節も、そういう従属関係、上下関係を言っているのではなくて、まず男が、そして男との関係において女が造られたという神様の創造の順序を語っているのです。
 この順序は、どうでもよいことではありません。創世記の第3章には、最初の人間アダムとエバが、神様に背き、罪を犯したことが語られています。その時に、神様はまず男アダムに、それから女エバに、その罪の責任を問い、罪に対する罰をお与えになったのです。蛇の誘惑によって禁断の木の実を最初に取り、食べたのは女エバの方でした。しかし神様はまず男アダムに、その責任を問われたのです。造られた順序はそのまま神様に責任を問われる順序でもある、つまりこれは、神様のみ前に立つことにおける順序なのです。先ず男が、それから女が、神様のみ前に立ち、応答して生きることを求められている、そこに、神様のみ前で生きる人間の秩序があるのです。神様のみ前で生きる人間の間に、上下関係はありません。しかしそこには順序という秩序があるのです。
 その秩序に従うことのしるしとして、礼拝におけるかぶり物がある、とパウロは言っています。男が礼拝においてかぶり物をかぶらないのは、7節にあるように、男の頭(あたま)は彼の頭(かしら)、つまり存在の源であるキリストの栄光を映すものだからです。それに対して、女の頭(あたま)は、その頭(かしら)、つまり出所である男の栄光を映すものである。しかし礼拝において現わされるべきものは神の栄光、キリストの栄光なのだから、女はかぶり物をすることによって、男の栄光を隠して、神に、キリストに栄光を帰すべきだ、これがここでのパウロの論理です。彼は、女は礼拝において頭にかぶり物をする、という以前からの習慣に、このように、神様が人間を造られた順序という秩序の現れを見ているのです。それゆえに、その習慣を大切にすることは神様に栄光を帰すことになるのだ、と言っているのです。

伝統と習慣
 しかしこのパウロの論理は、私たちにはわかりにくいものです。特に、頭(あたま)が自分の頭(かしら)、つまり存在の源泉の栄光を現わすということは、果たしてそういうふうに言えるのか、疑問がわいてきます。それはパウロの当時もそうだったのでしょう。だからパウロはそこに、他の証拠を持ってきて、この考え方を補強しようとしているのです。それが13節以下です。ここには、「自然そのものがこう教えているではないか」と語られています。その自然の教えとは、男の長い髪は恥であるのに対して、女の長い髪は誉れである、ということです。ここでは髪の毛が、頭をおおうものとされています。女性に長い髪の毛が与えられているのは、女性は頭をおおうことが相応しいということを神様が自然を通して教えておられるのだ、というのです。しかしここで「男の長髪は恥だが、女の長髪は誉れである」と言われていることは、自然の教えと言うよりも、人間の習慣や風習によることであって、地域によって、民族によって、時代によって、その習慣や風習は違ってきます。ですからこのパウロの論証は必ずしも成功しているとは言えません。ある習慣や風習のもとではこうも言えるかもしれないが、それとは別の風習を持つ人々にはそれは言えないのです。私たちも、これが自然の教えだとは考えません。年をとっても髪の毛がふさふさとしている人は神様の栄光を現していない、などということはないし、私のように頭が薄くなればより神様の栄光を映し出している、というわけでもないのです。パウロは16節で「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません」と強いことを言っていますが、それは、自分たちの常識や習慣においてはこうだ、という意味に理解すべきことでしょう。本当に守り受け継ぐべき変えてはならない伝統と、時代や状況の変化によって変えていってもよい習慣、ならわしとを区別することは、パウロにおいてもなかなか難しいことだったのです。

礼拝の精神
 このように、パウロがここでかぶり物について語っていることは、やはり当時の社会的習慣や一般常識の制約の中でのことです。そういう意味でこの教えを、キリスト教会がいつでもどこでも普遍的に守るべき教えとする必要はありません。聖書にこう書いてあるから、来週から女性は皆ヴェールを被って礼拝をしましょう、などというのは無意味なことです。私たちがパウロの伝えた教えを守り、受け継いでいくというのはそういうことではありません。そういう表面的なことが問題なのではなくて、このことを通してここに語られているもっと根本的なことに私たちは目を向けなければならないのです。そしてそれは、聖書が、創世記第2章が語っていることでもあります。パウロはここで、創世記第2章が語っている、人間が男と女として神様に造られたことの意味を深く掘り下げているのです。そこでパウロが聞き取ったことは、神様が人間をお造りになった時に、まず男が、そして男との関係の中で女が造られた、そういう順序があるということです。その順序は、人間の生活、男と女の関係に、ある秩序をもたらします。それは既に申しましたように、上下関係、支配と従属の関係ではありません。11節12節に語られていることが大事です。「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです」。女は男との関係の中で、男のパートナーとして造られた、そのことによって男も、女との関係の中で、パートナーである女と共に生きる者となったのです。9節の「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られた」という言い方だと、女は男無しには生きられないが、男は女無しにも生きられるというふうにも取られがちですが、そうではありません。「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はない」。つまり、女が男のパートナーとして造られたがゆえに、男と女は共に、もはや相手なしにはあり得ない、お互いに、相手との関係において生きる者とされたのです。その意味で、どちらが上とか下、どちらかが支配し他方は従属するということはありません。どちらも共に、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかり、キリストの体である教会の枝とされ、神様の前に一人の信仰者として立つ者とされているのです。それゆえに、礼拝において、男も女も共に、祈り、預言をするのです。しかし同時にその礼拝において、神様がお定めになった順序という秩序が確認されなければなりません。神様が男を造り、男と共に生きるパートナーとして女を造り、そのようにして男と女が共に生きるものとして人間を造って下さった、その順序において示されている神様のみ心を受け入れ、それに従っていく、そのことによって、人間の栄光ではなく、神様の栄光こそが現され、ほめたたえられていく、それが私たちの礼拝の精神でなければならないのです。そのような礼拝がささげられていく所にこそ、男も女も、互いに相手を尊重し、大切にしつつ、共に生きる、よい関係が生まれるのです。男と女のそのようなよい関係というのは、結婚、夫婦の関係においてのみのことではありません。人間の社会は、男と女によって成り立っています。その両者が、互いに相手を尊重し、大切にし、共に生きることは、人間が集まる所どこにおいても必要なことです。教会の兄弟姉妹の交わりにおいてもそれは同じです。教会においても、そして社会においても、男と女が、本当によい協力関係を築いていくために必要なことは、昔ながらの、多くの場合男性優位の風習に、昔からの常識として固執していくことでもなければ、女性が自らの権利を主張するために闘争していくことでもなく、男性も女性も共に、神様が自分たちを造って下さり、お互いの関係の中で生かして下さっている、そのみ心を思い、そして全ての源である父なる神様と主イエス・キリストに栄光を帰する、そういう、み言葉の秩序の下に整えられた礼拝がささげられていくことなのです。

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