主日礼拝

成長させてくださる神

説 教 「成長させてくださる神」副牧師 川嶋章弘
旧 約 詩編第105編16-24節
新 約 コリントの信徒への手紙一第3章1-9節

キリスト者は成長する
 私が主日礼拝の担当をするときには、コリントの信徒への手紙一を読み進めています。本日から第3章に入ります。この箇所でパウロが大前提としているのは、キリスト者は成長する、キリスト者は成長しなくてはならない、ということです。私たちは神の導きによって教会へと招かれ、信仰を与えられ、洗礼を受けてキリスト者となります。しかしそれがゴールではありません。確かに洗礼を受け、キリストによる救いにあずかることは、罪と死の支配から神の恵みの支配のもとに移される決定的な出来事です。しかしそれはキリスト者にとってゴールではなく、むしろスタート地点だと言ってよいのです。聖書は洗礼を受けることを新しく生まれる、とも言い表しています。洗礼を受けたときは誰もが、実際の年齢は何歳であっても、キリスト者としては生まれたばかりの赤ん坊だということです。この手紙を書いたパウロは、洗礼を受けたときには生まれたばかりの赤ん坊であるキリスト者が成長していくことを、大人になっていくことを、当然のこととして語っています。洗礼を受けたときのまま、赤ん坊のままでよいとは決して言っていません。成長して、大人になる必要があると言っている。私たちはまずこのことを受けとめる必要があります。

今でも乳飲み子のまま
 本日の箇所の前半1~4節で、パウロはコリント教会の人たちが成長していない、ということを厳しく指摘しています。1節に「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」とあります。「霊の人」とは、洗礼を受けキリストによる救いにあずかり聖霊を受けた人ということです。一方「肉の人」とは、2章14節の「自然の人」、あるいは3章3節や4節の「ただの人」と同じで、要するに「生まれながらの人」ということであり、神なしに自分中心に生きている人ということです。つまりパウロはコリント教会の人たちに「あなたがたには、洗礼を受け聖霊を受けた人に対するように語ることができず、生まれながらの人、神なしに自分中心に生きている人に対するように語っている」と言っているのです。もちろんコリント教会の人たちは、すでに洗礼を受けてキリスト者となっていました。先ほど申したように洗礼を受けることは新しく生まれることですから、彼ら彼女たちは「生まれながらの人」ではなく新しく生まれた人であり、神なしに自分中心に生きている人ではなく神中心に生きている人であるはずなのです。そのはずなのに、「肉の人」に対するように語るしかなかった、とパウロは言います。コリント教会の人たちが洗礼を受けたときのまま、赤ん坊のままで成長していなかったからです。だからパウロは彼らのことを、「キリストとの関係では乳飲み子である人々」と言っています。洗礼を受けたときからほとんど成長していない乳飲み子であり、生まれながらの人同然であると、神なしに自分中心に生きている人同然である、と厳しく指摘しているのです。
 2節以下ではこのように言われています。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです」。かつてパウロがコリント教会を建てたとき、教会のメンバーの多くは洗礼を受けたばかりの人たちであったはずです。その意味で、皆、乳飲み子でありました。だからそのとき彼らが固い物を口にすることができず、乳しか飲めなかったのは当たり前のことです。しかしパウロがコリントを去り、数年を経たにもかかわらず、「今でも」彼らは固い物を食べることができずに、乳しか飲むことができないでいる。このことこそが問題です。乳飲み子のままで、「相変わらず肉の人」のままで成長していないことが問題なのです。

十字架の言葉を語る
 乳飲み子には固い食物は与えず、乳を飲ませるというのは、一見したところ分かりやすいたとえのように思えます。しかしパウロがコリント教会の人たちに「あなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした」と言うとき、「乳」や「固い食物」は何を指しているのでしょうか。そもそも1節で言われている、「霊の人に対するように」語るや、「乳飲み子である人々に対するように」語るとは、どういうことなのでしょうか。このことを、「霊の人」に対しては、キリストの十字架と復活による救いを語るけれど、まだ成長していない乳飲み子である人々に対しては、十字架と復活というような難しいことは避けて、もっと簡単なこと、もっとソフトなことを語ると捉えるなら、その理解はパウロの考えとはかけ離れたものとなります。パウロはこの手紙の1章23節で「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言っていましたし、2章2節でも「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と言っていました。パウロはコリントで、いえどこであっても「十字架の言葉」を語り、「十字架につけられたキリスト」を語りました。まだ洗礼を受けていない人たちや、洗礼を受けたばかりの乳飲み子である人たちにも、「十字架の言葉」を、「十字架につけられたキリスト」を、すなわち福音を語ったのです。
 このことは私たちの教会が何を語り続けるべきなのかを示しています。私たちは、伝道していくために、罪とか十字架の死とか復活というような難しいこと、躓きを与えるようなことを語るのは避けたほうが良いのではないかと思うことがあります。そのようなことは教会に慣れてきてから段々と語っていったらよい、と考えるのです。福音を曲げようとしているわけではないでしょう。むしろ伝道に真剣に向き合っているからこそ、そう考えます。しかしパウロは、それは間違っていると言います。躓きを恐れて「十字架につけられたキリスト」を語らないのではなく、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であったとしても、「十字架につけられたキリスト」を語り続けなくてはならない、と言っているのです。私たちにとって、教会にとって、躓きを避けるために「十字架の言葉」を語らない、というのは大きな誘惑です。しかしこの誘惑に負けて、私たちの教会が「十字架につけられたキリスト」を語らないとしたら、結果的に私たちは福音を曲げてしまうことになるのです。

届く言葉で
 しかしそうなると、「霊の人に対するように語る」のと「乳飲み子である人々に対するように語る」のとの違いは、つまり「固い食物」と「乳」の違いは何でしょうか。その違いは説教の内容の違いではなく、説教の語り方の違いではないかと思います。パウロは、乳飲み子にも大人にも、同じ「十字架の言葉」を、同じ福音を語ったけれど、その語り方には違いがあったということだと思うのです。その意味で、聞き手に届く言葉で、分かる言葉で説教を語ることも大切です。教会が「十字架につけられたキリスト」を語り続けるというのは、聞いている人が分かっても分からなくてもよいから語り続けるということではありません。教会は「十字架につけられたキリスト」を語り続け、しかもできるだけ相手に届く言葉で語るよう努めていくのです。

しっかり噛みしめて聞かない
 このように「固い食物」と「乳」の違いをパウロの語り方の違いとして受けとめることができるのですが、しかしここで私たちは語り手よりもむしろ聞き手に、コリント教会の人たちに注目しなければならないとも思います。そうすることによって別の受けとめ方が示されます。どういうことでしょうか。「固い食物」と「乳」の違いは、パウロの語り方の違いではなくて、むしろコリント教会の人たちが、パウロが語る十字架の言葉を、固い食物をしっかり噛みしめるように聞いたのか、それとも牛乳を流し込むようにろくに噛むことなく聞いたのかの違いなのではないでしょうか。同じ福音が、同じ「十字架につけられたキリスト」が語られたとしても、それをしっかり受けとめて聞くこともあれば、十分に受けとめることなく聞くこともあります。同じ福音が、ある人にとっては「固い食物」になり、ある人にとっては「乳」にしかならないのです。コリント教会の人たちは、十字架の言葉を「固い食物」としてしっかり受けとめず、「乳」としてしか受けとめませんでした。洗礼を受けてから時間を経た「今でも」十字架の言葉をしっかり噛みしめて聞こうとしないから、彼らは「相変わらず肉の人」であったのです。

ねたみや争いが絶えず
 その結果、コリント教会で起こっていたことが3~4節で語られています。コリント教会では、「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言って」、いわゆる分派争いが起こり、「お互いの間にねたみや争いが絶えな」かったのです。アポロは、パウロが去った後、コリントにやって来てコリント教会を指導した人です。聖書の知識が豊富で巧みな弁論術を身につけていました。そのアポロを支持する人たちが「アポロ派」を作りました。それに対して自分たちの教会の創設者であるパウロをこそ重んじるべきだと言う人たちが出てきて、「パウロ派」を作りました。そして互いに相手をねたみ、争っていたのです。ねたみは、自分と相手を比べることによって起こります。自分と相手を比べて相手のほうが優れていたり、相手に先を越されたりすると、相手をねたみ、憎むのです。自分のほうが劣っている、負けていると認めるのは、ひどく傷つくからです。傷つくことによって相手をねたみ、憎む。そこに争いが起こります。パウロは、そのようなコリント教会の人たちが、「肉の人」であり、「ただの人として歩んでいる」、「ただの人にすぎない」と言っているのです。教会員の間に「ねたみや争いが絶えない」ことに、彼らが成長することなく乳飲み子のままであることを見つめているのです。

自分の力で成長できるという思い違い
 しかし実は、不思議に思われるかもしれませんが、コリント教会の人たちは、自分たちが成長していないとは、乳飲み子のままであるとは、まったく思っていませんでした。むしろ自分たちは成長している、立派な大人だと思っていたのです。この手紙から分かるのは、コリント教会の人たちが高ぶっていたということであり、自分を誇っていたということです。それは、自分たちは成長している、と思っていたということでもあります。彼らは自分の知恵や力を頼みとして自分を誇っていました。自分の知恵や力によって自分が成長していることを、立派になっていることを誇っていたのです。彼らが分派争いをしていたのも、ただアポロに惹かれたからとか、パウロを創設者として重んじたからだけではないでしょう。アポロ派にあるいはパウロ派に入ることで、自分がより成長でき、より立派になれると思っていたのです。だからお互いを比べて、相手のほうが成長しているように、立派なように思えると相手をねたみました。そこに憎しみが生じ、争いが起こったのです。
 最初にキリスト者は成長しなければならない、と申しました。私たちが、キリスト者は成長しなくてもよいと思っているとしたら、それは誤りです。しかしキリスト者の成長については、もう一つの誤りがあります。それは自分の力で成長できると考えることです。コリント教会の人たちは、自分の力で成長している、大人になっていると思っていました。成長するためにアポロ派やパウロ派を作って、分派争いをしてよいと思っていました。しかしパウロは、それではまったく成長していない、大人になっていない、乳飲み子のままだと言っています。彼らはキリスト者の成長についてまったくの思い違いをしていたのです。この思い違いに、私たちもしばしば陥ります。キリスト者は成長しなければならないと言われると、私たちは自分の力で立派な人、いわゆる敬虔な人になることが成長することだと勘違いしてしまうのです。そのように考えて、ほかの人と比べて、あの人は自分より立派だと羨んだり、あの人は全然だめだと裁いたりします。その結果、教会にねたみや争いが絶えない、ということが起こります。それでは自分では成長しているように思っていても、実はまったく成長していない。乳飲み子のままでしかないのです。

成長させてくださる神
 では、私たちの成長はどのようにして起こるのでしょうか。そのことが5節以下で語られています。その中心は6、7節です。このように言われています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。パウロが「植えた」と言われているのは、彼が開拓伝道をしてコリント教会を建てたからであり、アポロが「水を注いだ」と言われているのは、彼がパウロの働きを引き継いで教会を指導したからでしょう。しかしパウロやアポロがコリント教会の人たちを成長させたのではありません。神が成長させてくださった、とパウロははっきり言い切ります。私たちはなかなかここまで言い切れません。神が成長させてくださると信じていないわけではないけれど、ついつい〇〇先生のお陰で、〇〇さんのお陰でキリスト者として成長できたと言ってしまいます。そう言ってはいけないということではない。そう言ってもよい。でもそのとき、神が成長させてくださった、という確信を持っているかどうかです。大切なのは〇〇先生でも〇〇さんでもなくて、成長させてくださる神です、という確信を持っているかどうかなのです。パウロはコリント教会の人たちに、自分の力で成長するのではない、アポロ派やパウロ派に入ることで成長するのでもない、神が成長させてくださる、と語ります。そのことを弁えていないから、あなたがたは成長することができず乳飲み子のままなのだ、と語っているのです。
 この「成長させる」と訳された言葉は、旧約聖書では基本的に神がしてくださる神のみ業として語られています。共に読まれた詩編105編24節に「主は御自分の民を大いに増やし 敵よりも強くされた」とありますが、この「増やし」が「成長させる」と同じ言葉です。主なる神がご自分の民を増やし、成長させます。「増やし」、「成長させる」のはあくまでも神のみ業なのです。だからパウロがこの言葉を用いて、「成長させてくださったのは神です」と言うとき、「自分もアポロもあなたたちを成長させたけれど、やっぱり一番は神様です」と言っているのではありません。「あなたたちを成長させるのは神様だけだ」と言っているのです。加えて、この「成長させる」という言葉は、文法的には継続する行為を表しています。一回だけ成長させると言われているのではない。成長させ続けると言われている。神だけがコリント教会の人たちを、そして私たちを成長させ続けてくださるのです。キリスト者は成長しなくてはなりません。しかしその成長は私たちの力によるのではなく神のみ業によるのです。

仕えた者
 もちろん、成長させてくださるのは神であるから、パウロやアポロには何の価値もない、と言われているのではありません。5節で「この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と言われています。パウロもアポロもコリント教会の人たちを信仰に導きました。彼らの語るみ言葉を通してコリント教会の人たちは信じたのです。しかしそれは彼らが成し遂げたことではなく、神が成し遂げてくださったことです。だから彼らは「仕えた者」と言われています。パウロもアポロも、神がコリント教会の人たちに信仰を与え、彼らを成長させるというみ業に仕えたのです。パウロとアポロが担った働きには違いもありました。だからパウロは「植える者」と言われ、アポロは「水を注ぐ者」と言われています。それぞれの働きは、「主がお与えになった分に応じて」と言われているように、神が与えてくださったものです。パウロとアポロは神から異なる働きを与えられていたのです。しかし同時に8節で「植える者と水を注ぐ者とは一つです」とも言われています。それは一つの目的のために働いている、仕えているということです。パウロとアポロは異なる働きを与えられ、異なる賜物を与えられ、しかし一つの目的のために神に仕えました。それゆえ彼らは9節にあるように「神のために力を合わせて働く者」なのです。

神の畑
 9節の終わりに「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とあります。「神の建物」については次回にして、コリント教会の人たちが、そして私たちが「神の畑」と言われていることに目を向けたいと思います。私たちは、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と聞くと、自分たちは植えられた種、蒔かれた種であるように思ってしまうことがあります。種である自分が芽を出し、成長して実をつけるというイメージを持ってしまうのです。しかしここではそのように言われているのではありません。私たちは種ではなくて、種が蒔かれる畑なのです。それでは種とは何でしょうか。主イエスがお語りくださった「種を蒔く人のたとえ」を思い起こせば、主イエスご自身がたとえを説き明かして、種は「神の言葉」だと言われていました。そうであればパウロが撒き、アポロが水を注いだ種とは「神の言葉」ではないでしょうか。そして私たちは神の言葉が蒔かれる畑なのです。パウロやアポロが語る神の言葉を通して、神がコリント教会の人たちを耕し、成長させてくださいます。同じように礼拝で語られる神の言葉を通して、神が私たち一人ひとりを耕し、成長させてくださるのです。だから私たちは「神の畑」、神が耕してくださり、成長させてくださる畑なのです。

十字架の言葉を自分のこととして聞く
 神がみ言葉によって私たちを成長させてくださるなら、私たちは何もしなくて良いのでしょうか。キリスト者は成長しなくてはならない。しかしその成長は神が与えてくださる。それなら結局、私たちは何もしなくてよいということなのでしょうか。そうではありません。主イエスのたとえで言えば、私たちは「良い土地」である必要があります。「良い土地」とは、「御言葉を聞いて受け入れる人たち」である、と主イエスは言われました。本日の箇所に即して言えば、「十字架の言葉」を、乳を流し込むようにろくに噛むことなく聞くのではなくて、固い食物をしっかり噛みしめるように聞く、ということでしょう。神はみ言葉によって私たちを成長させてくださいます。そうであれば私たちはみ言葉を、「十字架の言葉」をしっかり受けとめる必要があるのです。しっかり受けとめるというのは、自分のこととして受けとめるということです。「十字架につけられたキリスト」が語られても、自分に関係ないこととして聞くなら、大昔にイエスという人が十字架で死んだというだけです。精々凄い人がいたと思うぐらいです。しかしそうであってはならない。キリストが十字架につけられたのは、この私のため、この私の罪のためだった。キリストが十字架で死んでくださることによって、この私が救われた。十字架につけられたキリストに、独り子を死に渡してまでこの私を救ってくださった神の愛が示されている。そのように受けとめることこそが、しっかり受けとめることであり、「十字架の言葉」を固い食物としてしっかり噛みしめて聞くことなのです。礼拝で語られる「十字架の言葉」を、私たちが自分のこととして受けとめることを通して、神は私たちを成長させてくださいます。「十字架の言葉」が告げている神の一方的な愛をしっかり受けとめることによってこそ、私たちは自分と相手を比べて、互いにねたみ争うことから解放されていきます。それこそが、神が私たちに与えてくださる本当の成長なのです。
 私たちは成長しなくてはなりません。その成長は、「十字架の言葉」を通して神だけが与えてくださいます。私たちは成長するほど、高ぶり、誇り、立派になるのではなく、成長するほど神の愛をますます豊かに受けて、神の前に低くなり、小さくなり、神に仕えていく者、「神のために力を合わせて働く者」とされていくのです。

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