2026年2月15日
説教題「サウロの回心」 副牧師 川嶋章弘
エゼキエル書 第18章30~32節
使徒言行録 第9章1~9節
サウロの回心
使徒言行録を読み進めて、本日から9章に入ります。この9章の前半では、小見出しにもあるように、「サウロの回心」と呼ばれる出来事が語られています。サウロとはパウロのことであり、サウロ(サウル)はヘブライ語の名前、パウロはラテン語の名前のギリシア語の形です。彼は生まれた時からサウロとパウロの二つの名前を持っていました。ですからサウロが回心した際に、名前を変えて、パウロと名乗るようになったのではありません。13章以降に記されているように、このパウロの異邦人伝道によってキリスト教はヨーロッパへと広がっていきます。後に大きな働きをなすことになるサウロが、決定的な、人生を二分する出来事を経験しました。それが、この「サウロの回心」と呼ばれる出来事です。本日は、その前半部分1~9節に目を向けていきます。
殺そうと意気込んで
使徒言行録は、すでにステファノが殉教する場面において、サウロをちらっと紹介していました。7章58節で、ステファノを都の外に引きずり出して石を投げ始めたときに、証人たちが「自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」と言われていました。つまり青年サウロは証人たちの着ている物をあずかることで、石を投げることはなくても、ステファノの殺害に加担していたのです。だから8章1節で、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」と言われています。このときサウロは、ステファノの殉教を目の当たりにしました。人々に石を投げつけられながら、ステファノが「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び、祈ったことを目の当たりにしたのです。しかし私たちは間違えてはなりません。サウロは、このステファノの死を目の当たりにしたから、回心に導かれたのでは決してありません。殺されようとしているその時に、石を投げる人たちの罪の赦しを求めて祈るステファノの姿に心を打たれ、あるいは良心の呵責を覚えて、サウロは回心に至ったのではまったくないのです。そのことはこのステファノの殉教が起こった後、8章3節で、「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」、と語られていることからも分かります。そしてこれを受けて、本日の箇所の冒頭1節で、「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」と言われているのです。「意気込んで」と訳された言葉は、「息をする」とか「息を吐く」という意味の言葉です。サウロは息を吐くように、キリスト者に対する殺意を吐き出していました。物騒な表現ですが、「あいつらを殺してやる、殺してやる」と息巻いていたのです。使徒言行録は、サウロがステファノの死を目の当たりにして、心を打たれたとか、良心の呵責を覚えたとか、そのようなことはまったく語っていません。むしろステファノの死を目の当たりにしたにもかかわらず、サウロがますますキリスト者に対する殺意を募らせたことを語っているのです。
散らされたキリスト者を捕まえるために
サウロがそのようにますます殺意を募らせたのには理由がありました。ステファノの死をきっかけとして、ユダヤとサマリアの地方に散らされて行った人たちが、そこでキリストの福音を宣べ伝え、伝道したことによって、多くの人たちがその福音を信じ、洗礼を受けて、キリスト教会のメンバーとなったからです。ステファノを死に追いやることで、キリスト教会の息の根を止めたと思っていたのに、むしろその死をきっかけとして、キリスト教会がエルサレムを越えて、ユダヤとサマリアの全土に広がっていったことは由々しき事態であったに違いありません。だからサウロは、エルサレムから散らされて行った人たちを捕まえて、エルサレムに連行しようとしたのです。それで、1節後半から記されているように、「大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求め」ました。大祭司の手紙を求めたのは、ダマスコの諸会堂に対して権限を持って、その仕事を行うためでした。そしてその仕事が、「この道に従う者を見つけ出したら」、つまりキリスト者を見つけ出したら、「男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」ことであったのです。大祭司からの権限も得て、サウロはエルサレムから散らされたキリスト者を捕まえるために、ますます殺意を募らせてダマスコへと向かったのです。
熱心に神に仕えていた
このようにサウロは、ステファノの死をきっかけとしたキリスト教会の拡大に対して敵意を募らせたわけですが、しかしそもそもサウロが、キリスト教会と敵対し、キリスト者を迫害していたのは何故なのでしょうか。使徒言行録22章3節以下では、サウロ自身が自分の過去についてこのように語っています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」。サウロは「キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人」であり、ステファノと同じように、ユダヤの外で生まれ育ったディアスポラのユダヤ人、ギリシア語を話すユダヤ人でした。またサウロは「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」たとも言われています。ガマリエルは、5章34節で「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル」と言われていた、あの人物です。サウロは、当代随一の律法の教師ガマリエルから、ユダヤ教ファリサイ派としての最高の教育を、「律法について厳しい教育」を受けました。サウロはファリサイ派の次世代を担うホープであったに違いないのです。そのサウロにとって、神様を信じ、神様に従うとは、十戒を中心とする律法を厳格に守ることにほかなりませんでした。彼は当時の自分について、22章3節で「熱心に神に仕えていました」と言っています。熱心に律法を守ること、また律法を守らない者たちを熱心に迫害することが、神様に仕えることであり、神様に従うことであり、神様の御心にかなった正しいことである、と信じていたのです。そのサウロにとって、ユダヤ人は律法を単なる規則としてしまった、「生ける言葉」ではなく「死んだ言葉」としてしまった、というステファノのあの批判は、到底受け入れられるものではなかったのです。
自分の正しさや熱心に駆られて
私たちが間違えてはならないのは、サウロは神様を信じていなかったから、キリスト者を迫害したのではない、ということです。神様を信じ、その神様に熱心に仕えようとして、激しい殺意をもってキリスト者を迫害していたのです。私たちは、神様を信じていながら、神様の御心を履き違え、自分の正しさや熱心に駆られてキリスト者を迫害したこのパウロの姿を見て、なんて愚かなのだろうと思うのではないでしょうか。しかし私たちも自分自身を振り返るならば、サウロとそう変わらないと思うのです。もちろん私たちはユダヤ人ではありませんから、以前から神様を知り、信じていたわけではありません。またキリスト教会と敵対し、キリスト者を迫害していたわけでもないでしょう。その点を考えるなら、サウロと私たちには確かに違いがあります。けれども私たちも、サウロと同じように自分の正しさや熱心に駆られて生きていたのではないでしょうか。自分の正しさを、自分がこうあるべきと思うことを求めて熱心に生きてきたし、自分の正しさを拠り所とし、自分の熱心や頑張りを人生の土台として生きてきたのです。しかし私たちは自分の正しさや熱心に駆られるときに、しばしば酷いことを語り、行います。しかもその酷さに気づくどころか、むしろ自分の正しさを誇ることすらあるのです。自分の正しさを少しでも否定され、批判されたように感じると、サウロのように殺意までは抱かなくても、「あいつは許せない」という激しい怒りを抱きます。怒りに駆られ、自分の正しさを否定し、批判した人たちを攻撃することに熱心になり、その人を傷つけてしまいます。相手を打ち負かし、言い負かすことが正義であるかのように思ってしまうのです。
このような生き方が、私たちの社会においてエスカレートしているように思えます。それぞれが自分の正しさを主張し、自分と違う意見の人たちを激しく批判し、その人を言い負かそう、打ち負かそうとしています。「あいつは間違っている、あいつは許せない」と息巻いて、自分の正しさを貫くことで満足を得ているのです。しかしそのような社会は非寛容な、居心地の悪い、息苦しい社会です。互いに相手を傷つけ、相手に対する不信感を、怒りを募らせているだけなのです。このように自分の正しさと熱心に駆られているサウロの姿は、決して他人事ではありません。私たち一人ひとりの姿であり、私たちの社会の多くの人たちの姿でもあるのです。
わたしは、あなたが迫害しているイエスである
自分の正しさと熱心に駆られ意気込んでダマスコに向かったサウロでしたが、3節以下にあるように、ダマスコに近づいたとき、「突然、天からの光が彼の周りを照らし」ました。それで地に倒れたサウロは、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞きました。ここでサウロが、「なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いたことに注目しなくてはなりません。「なぜ、キリスト教会とキリスト者を迫害するのか」と聞いたのではなく、「なぜ、わたしを迫害するのか」と聞いたのです。それでサウロも、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねました。するとこのような答えがありました。5節後半。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。原文の順序に従って訳せば、「私はイエスである、あなたが迫害しているイエスである」となります。この言葉を聞いたとき、サウロは十字架で死なれ復活され、今も生きておられる主イエス・キリストに出会ったのです。十字架で死なれた主イエスが復活されて、今も生きておられることを知ったのです。そして同時に、キリスト教会とキリスト者を迫害することによって、自分が主イエスを迫害していたことに、ほかならぬ神様と敵対していたことに気づいたのです。
改心でも、改宗でもなく
ですからここでサウロは、自分がしてきたこと、キリスト教会に敵対し、キリスト者を迫害してきたことは間違いだった、悪いことだったと気づいて、もう二度とこんなことはしないようにしよう、と反省したのではありません。「改める心」と書いて、「改心」という言葉があります。「悪い心を改めること」を意味する言葉です。これまでの自分の言葉や行いを反省して、心を改めて生きようとすることです。しかしそのような「改心」には、復活の主イエスとの出会いは必要ありません。自分で反省して、心を改めれば良いだけ、心を入れ替えて心機一転頑張れば良いだけです。サウロに起こったことは、心を改める「改心」ではなかったのです。加えて言えば、サウロに起こったことは、「宗教を改める」と書く「改宗」でもありません。「改宗」というのは、「従来信じていた宗教から、別の宗教を信じるようになること」です。要するに今まで信じていた神様を信じるのをやめて、別の神様を信じるようになることです。しかしサウロはそうではない。信じている神様が変わったのではありません。同じ神様を信じているのです。しかし「私はイエスである、あなたが迫害しているイエスである」という主イエスのお言葉を聞いて、これまで自分は神様を信じ、神様に熱心に仕えてきたつもりでいたけれど、実はむしろ神様と敵対していたのだ、と気づかされたのです。自分の正しさを拠り所とし、自分の頑張りや熱心を人生の土台として生きることによって、自分が神様と敵対して生きていたことに気づかされたのです。それは、反省して心を入れ替えれば、何とかなるというような、生易しいことではまったくありません。それまでの自分の生き方が否定され、自分の正しさや熱心が打ち砕かれること、自分の拠り所を、自分の人生の土台を壊され、失うことであったのです。
起きて町に入れ
サウロは、自分が神様と敵対していたことに気づかされたとき、自分は神様によって滅ぼされても仕方がない、と思い至ったに違いありません。神様と敵対していたのであれば、滅ぼされて当然であったからです。ところが復活の主イエスは、神様と敵対し、滅ぼされて当然のサウロに、地に倒れて起き上がれないサウロに、このように語りかけました。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。復活の主イエスはサウロに、「あなたにはまだなすべきことがある、神様があなたに与えてくださる使命がある、だから起きてダマスコの町に入り、そこでなすべきことを知らされるのを待ちなさい」と語りかけたのです。復活の主イエスのこのお言葉を聞いて、サウロは地面から起き上がりました。しかし目を開けても、何も見えなかったので、人々がサウロの手を引いてダマスコに連れて行ったのです。
回心
サウロの回心の「回心」は、「回る心」と書きます。自分の心が180度向きを変えることを意味します。自分自身に、自分の正しさや熱心に向いていた心を、神様の方に向けること、それが「回心」です。しかしサウロの回心がそうであったように、私たちは自分の力で回心することが出来るわけではありません。自分の力で自分の心の向きを180度転換させることなど出来ないのです。私たちの心はいつも自分自身に、自分の正しさや熱心に向いています。自分の正しさや熱心に駆られて、隣人に対して酷いことをしてしまいます。それでいてそのことに気づけず、むしろ自分の正しさを誇ってしまうのです。そのような私たちが、自分の心を180度転換することができるとしたら、それは、自分の内側からの力によってではなく、自分の外側からの力によってでしかあり得ません。その外側からの力が、復活の主イエスとの出会いにほかならないのです。復活の主イエスが出会ってくださり、語りかけてくださることによってでしか、私たちの回心は起こり得ないのです。復活の主イエスとの出会いを通して、私たちは自分が神様と敵対していたことに気づかされます。神様に背き、神様と敵対し、自己中心的に、自分勝手に生きてきた自分は、滅ぼされても仕方のない者だと気づかされるのです。それは、それまでの生き方を否定され、自分の正しさや熱心が打ち砕かれることであり、それまでの自分の拠り所、自分の人生の土台を壊され、失うことでもあります。しかしそのように神様の前に崩れ落ち、滅ぼされるしかない私たちに、復活の主イエスは、「起き上がりなさい」と、「あなたにはまだなすべきことがある」と語りかけてくださるのです。
キリスト者として歩む中で
このことが私たち一人ひとりの回心において起こったことです。そう言われると、自分が洗礼を受けたときには、このように受けとめられなかった、と思われるかもしれません。確かにそうかもしれません。私自身も洗礼を受けたときに、自分の回心をこのように受けとめられていたわけではありません。しかしそれは、サウロも同じだったのではないでしょうか。サウロもこのとき自分に何が起こっていたのか、よく分かっていたわけではない、言語化できていたわけではないと思います。しかし後に彼は、ローマの信徒への手紙でこう書いています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました……敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(5章8、10節)。自分は神様の敵であった、神様に敵対していた、罪人であった。しかしその自分のために、キリストが十字架で死なれることによって、神様は自分への愛を示してくださった、と言っているのです。滅ぼされて当然の自分を滅ぼすことなく、それどころか愛してくださり、「サウル、サウル」と深い愛情を込めて語りかけてくださり、「起きて町に入りなさい、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と語りかけてくださった。サウロは、後から振り返ってこのことに気づきました。神様の愛を受けて生きる中で、自分の回心において何が起こったのかに気づいていったのです。
私たちの回心は、復活の主イエスとの出会いによって与えられます。しかし私たちは、洗礼を受け、キリスト者として神様の愛を受けて歩んでいく中で、回心において何が起こったのかに気づいていきます。復活の主イエスが自分に出会ってくださり、深い愛情を込めて自分の名前を呼んでくださり、神様の敵であり、罪人であった自分を滅ぼすのではなく、愛してくださり、「起きなさい」と、「あなたには使命がある」と確かに語りかけてくださった、と段々と気づいていくのです。
目が見えなくなる
サウロは目が見えなくなりました。それは、サウロがこれまでとはまったく違う仕方で、自分自身や世界を見るために必要なことであった、と言えるでしょう。もちろん目に見えるものが変わるわけではありません。18節でも「サウロは元どおり見えるようになった」と言われています。しかし再び目が見えるようになったとき、サウロは自分を見つめて生きるのではなく、神様を見つめて生きるよう変えられました。神様と敵対していた自分を、独り子を十字架に架けてまで愛してくださる神様を見つめて、その恵みのご支配を見つめて生きるよう変えられたのです。自分の正しさを拠り所とし、自分の熱心や頑張りを人生の土台として生きる者から、神様の愛を拠り所とし、その恵みのご支配を人生の土台として生きる者へと変えられたのです。
だれの死をも喜ばない
共に旧約聖書エゼキエル書18章30節以下をお読みしました。その31、32節で、神様は預言者エゼキエルを通してこのように語っています。「お前たちの犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。神様は、御自分に背き、敵対しているサウロの、そして私たちの滅びと死を望まれませんでした。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない」と告げてくださったのです。この神様の御心のゆえに、独り子イエス・キリストは十字架に架かって死んでくださり、復活されました。そして今も生きて働かれる復活の主イエスが、サウロと私たち一人ひとりに出会ってくださり、語りかけてくださり、神様に立ち帰らせてくださったのです。
復活の主イエスによって
私たちは洗礼を受け、救いにあずかり、キリスト者となりましたが、しかしなお神様を見つめるより、自分自身を見つめ、自分の正しさや熱心に駆られて隣人に対して酷いことをしてしまう者です。しかしその私たちに、この礼拝においても、復活の主イエスは聖霊のお働きによって出会ってくださり、私たちの名前を呼んで、「神様に立ち帰って、生きなさい」と、「神様が与えてくださった使命のために、起き上がりなさい」と語りかけてくださっているのです。復活の主イエスによって、私たちは自分自身を見つめて生きる者から、神様を見つめて生きる者へと変えられます。自分の正しさを拠り所とし、自分の熱心や頑張りを人生の土台として生きる者から、「あなたの死を喜ばない」と語りかけ、私たちの代わりに独り子を十字架に架けてくださった神様の愛を拠り所とし、その恵みのご支配を人生の土台として生きる者へと変えられるのです。私たちは礼拝で復活の主イエスと出会い、その語りかけを聞くことによって、再び起き上がり、この世へと遣わされ、それぞれに神様が与えてくださった使命にお仕えしていくのです。そのように生きる私たちを用いて、自分の正しさと熱心に駆られているこの社会に、神様の愛が証しされていくのです。