12月24日 クリスマス讃美夕礼拝
説教「すべての民に与えられる大きな喜び」牧師 藤掛順一
新約聖書 ルカによる福音書 第2章1〜21節
横浜指路教会の創立150周年
皆さん、横浜指路教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。多くの方々と共に、イエス・キリストの誕生をお祝いすることができることを心から喜んでいます。2024年ももうあと一週間となりましたが、皆さんにとって今年はどのような年だったでしょうか。私ども横浜指路教会にとっては、今年は特別な年でした。この教会は今年、創立150周年を迎えたのです。1874年、明治7年の9月13日がこの教会の創立の日です。生みの親とも言えるのは、ヘボンというアメリカ人でした。「ヘボン式ローマ字」のヘボンです。彼は若くして医学博士号を得た医師でしたが、若いころから、まだキリスト教を知らない国々の人々にイエス・キリストを宣べ伝えることを志していました。そして妻クララと共にしばらく中国で伝道をしていましたが、クララが病気になったのでアメリカに帰り、ニューヨークの大きな病院の院長をしていました。しかし日本が開国して外国人が行くことができるようになることを聞いて、自ら志願して、1859年、安政6年の横浜開港の年に、アメリカ長老教会からの医療宣教師として、横浜に来たのです。その時彼は44歳でした。しかし当時はまだキリシタン禁制の時代ですから、キリスト教の布教活動をすることはできません。先ずは医師として病人を無料で治療することによって日本人と出会い、日本語を学んでいきました。そして最初の本格的な和英、英和辞書である「和英語林集成」を編纂し出版しました。その時に、日本語の言葉をアルファベットで表記する仕方を考えたのが「ヘボン式ローマ字」です。そのようにしてヘボンは、日本語と英語との間に橋をかけたのです。彼がそのことを通して目指していたのは、聖書を日本語に翻訳して出版することです。それは何人かの仲間たちとチームを組んでなされましたが、その中心にいたのはヘボンでした。今私たちが日本語で聖書を読むことができる、その土台を築いたのはヘボンだったのです。ヘボン夫妻のもとには英語を学ぶために若者たちが集まって来ました。そこから今日まで続く二つの学校が生まれました。一つは明治学院、もう一つはフェリス女学院です。そして同じようにヘボンのもとに集っていた人たちがその感化を受けて洗礼を受け、その人たちによって設立されたのがこの指路教会です。ヘボンは日本に来て幅広い働きをしたわけですが、彼が最も願い、また目指していたのは、この指路教会の設立だったと言えるでしょう。この教会は、イエス・キリストによる救いを全世界の人々に宣べ伝えたい、という志を持って、ニューヨークでの病院の院長という安定した地位を捨てて、開国したばかりの日本に来たヘボンの下で生まれたのです。
ヘボンを動かした「大きな喜び」
ヘボンはどうしてそのような志を持ったのでしょうか。その秘密が、実は先ほど朗読された聖書の言葉の中にあるのです。先ほど読まれたのは、ルカによる福音書第2章の、イエス・キリストの誕生の物語です。その8節以下には、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れて、「今日ダビデの町(つまりユダヤのベツレヘム)に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたことが語られています。天使はそのお告げの最初に「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。救い主イエス・キリストの誕生は、「すべての民に与えられる大きな喜び」だと告げたのです。このことこそ、ヘボンが、開国はしたけれどもなおキリスト教は禁じられている日本に行ってイエス・キリストを宣べ伝えようという志を抱いた理由です。救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったというクリスマスの出来事は、すべての民に与えられる大きな喜びなのです。すべての民とは、この世界のすべての人々です。しかし世界の中にはこの喜びをまだ知らない人たちがいる。その人たちに、神が与えて下さったこの大きな喜びを伝えたい、という思いにつき動かされてヘボンは日本に来たのです。ヘボンが日本でした幅広い働きはすべて、イエス・キリストがこの世に生まれて下さったことによって与えられた大きな喜びを日本の人たちに伝え、その喜びを分かち合うためだったと言うことができるのです。
そんな喜びは本当にあるのか
私たちも今日、クリスマスを共に喜び祝うことによって、天使が告げ、ヘボンがそれによってはるばる日本にまで来た「すべての民に与えられる大きな喜び」にあずかっています。世界中のすべての人々に神が与えて下さっている喜びを私たちも与えられているのです。でも私たちは、そんな喜びって本当にあるのだろうか、と思います。今や日本でも、クリスマスは一つの喜ばしい年中行事となっています。町は美しいイルミネーションで飾られ、家族や恋人とおいしい食事をして、クリスマス・カードやプレゼントを贈り合う喜びの時となっています。しかしその喜びは、ヘボンが日本に行くことを決意したように私たちを新しく生かす本当の喜びとなっているでしょうか。またそれは「すべての民に与えられる大きな喜び」となっているでしょうか。
このクリスマスを、困難なつらい生活の中で迎えている人たちは日本にもたくさんいます。まもなく一年となる能登半島地震と、夏の水害のダブルパンチを受け、復興への歩みがなかなか進まずにいる人々のことを思わずにはおれません。能登半島には私共の日本基督教団に連なる教会、伝道所が四つあり、それぞれとその関係の幼稚園などがいろいろな被害を受けています。再建はまだまだこれからです。本日受付のところに置いた献金箱にお献げいただいたものはそのために用いさせていただきますので、ご協力をお願いしたいと思います。
苦しみ、悲しみ、悲惨さの中に響く天使の声
そして世界に目を向けるなら、ウクライナにおいてもパレスチナ、ガザ地区においても、激しい戦いが続いており、人々の命が日々失われています。憎しみが憎しみを、報復が報復を生む憎しみの連鎖を止めることができない中で、人々の苦しみは募るばかりです。そのような中で、「すべての民に与えられる大きな喜び」などと言われても、そんなものいったいどこにあるのか、と思わずにはおれないのが現実です。また私たち一人ひとりの個人的な生活においても、この一年の間に、つらいこと、悲しいこと、納得できないことを体験して、心を乱され、怒りや絶望を覚えていることもあるでしょう。「すべての民に与えられる大きな喜び」など自分には無縁だと感じている人もおられると思います。そのように様々な苦しみ悲しみがあり、悲惨な出来事があり、人間の罪に満ちているこの世界と私たちに、天使の、「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という声が響いている、それがクリスマスなのです。
私たちの苦しみ悲しみを共に担って下さる神
イエス・キリストの誕生はどうして、すべての民に与えられる大きな喜びなのでしょうか。それは、このことによって、神が人間となって私たちと共にいて下さる、という恵みが実現したからです。神は、高い天からこの世界や人間を見下ろしているのではなくて、人間となってこの世を生きて下さり、私たちと共にいて下さるのだ、ということがこのことによって示されたのです。先ほど読まれた聖書の箇所の前半のところには、ヨセフが、身重になっていたマリアと共にガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで旅をしなければならなかったことが語られていました。それはローマ皇帝アウグストゥスの、住民登録の命令によってでした。住民登録は、支配者であるローマがその領土の住民から税金を取るためになされるものです。支配者の横暴のために、弱い庶民がしたくもない旅を強いられたのです。その旅先のベツレヘムでイエス・キリストは生まれました。しかも彼らは宿屋に泊まることができなかったために、生まれたばかりのイエス・キリストは飼い葉桶に寝かされたのです。そこから、キリストは馬小屋で生まれたと言い伝えられるようになりました。お産をして赤ちゃんを寝かせる場所としては最悪だと言わなければならないでしょう。クリスマスの出来事とは、神の独り子であるイエス・キリストが、そのような人間の貧しさ、苦しみ、悲しみ、悲惨さのどん底に来て下さり、身を置いて下さった、ということだったのです。神は、高い天からこの世界や人間を見下ろしているのではなくて、人間となってこの世を生きて下さり、私たちと共にいて下さる、というのは、そういう具体的なことなのです。そしてこのことはイエス・キリストのご生涯の全体を貫いています。生まれたばかりで飼い葉桶に寝かされたイエスは、最後には十字架につけられて殺されました。その苦しみと死は、私たちの罪を全て背負っての、私たちの身代わりとしての死だったのだ、と聖書は語っています。私たちは様々な苦しみ悲しみをかかえてこの世を生きていますが、それだけでなく、神を神として敬わず、従わず、無視して生きています。それを聖書は「罪」と言うわけですが、その罪のゆえにこの世界と私たちの人生には様々な悲惨なことが起っているのです。憎しみが憎しみを生む悪循環から抜け出せないことものその一つです。イエス・キリストは、そういう私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。それによって、私たちは罪を赦され、神と共に生きる者とされたのです。イエス・キリストがこの世に生まれ、飼い葉桶に寝ている乳飲み子となられたのは、罪の中にあり、苦しみ悲しみを負ってあえいでいる私たちと共にいて下さり、私たちを担って下さるためだったのです。苦しみ悲しみの中にあり、罪に陥っている私たちを、神の子イエス・キリストが共にいて担って下さっている、そのことこそ、すべての民に与えられる大きな喜びなのです。
天に栄光、地に平和
天使がこの喜びを告げると、そこに天の大軍が現れ、神を賛美したとあります。「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」。この賛美は、神ご自身が、独り子イエス・キリストが貧しい姿で生まれ、飼い葉桶に寝かされたことを喜んでおられることを示しています。神の独り子が私たち人間の罪と苦しみと悲惨さとを担って下さるために人となった、そこにこそ、神の栄光が現されているのです。そしてこのことによって、神は地に平和を与えようとしておられます。独り子をこの世に生まれさせ、飼い葉桶の中に寝かせ、そして十字架の死に至る生涯を歩ませることによって、私たちを担い、背負い、救って下さった、その神の愛を私たちが受け止めて、「すべての民に与えられる大きな喜び」にあずかり、それに応えて生きていくことによってこそ、私たちは、争い、対立に満ちているこの地に平和がもたらしていくための、神の「平和の器」となることができるのです。それは、ヘボンが神の愛を伝えるための器として幕末の日本に遣わされたのと同じことだと言えます。そしてそのことは、クリスマスにこの世にお生まれになったイエス・キリストに従い、キリストが歩まれた道を私たちも歩んでいくことによってこそ実現します。この讃美夕礼拝で私たちが毎年祈っている「アッシジのフランチェスコの平和の祈り」も、そのことを祈り求めていると言えます。この世の現実の中で、この祈りのように生きることはとても難しいことです。しかし憎しみが憎しみを、報復が報復を生む悪循環に陥っているこの世界に、平和を築いていくためには、この祈りを祈りつつ生きることこそが、最も具体的であり現実的な道だと言えるのではないでしょうか。そしてそれは、クリスマスに天使が告げた「すべての民に与えられる大きな喜び」の中でこそ実現するのです。