主日礼拝

様々な賜物

「様々な賜物」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:コヘレトの言葉 第5章17-19節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章3-8節
・ 讃美歌:51、122、393

自分をどう評価するか
 先週の主日礼拝においても、本日と同じローマの信徒への手紙第12章3節以下を読み、「何によって自分を評価するか」という題で説教しました。パウロはここで、私たちが自分をどう評価するか、ということを問題にしています。私たちはいつも自分で自分を評価しながら生きています。自分で自分を高く評価できると思えば安心するし、逆に自己評価が低くなり、自分はダメだと思うと不安を覚えるのです。だから私たちは自分の良い点、高く評価できるところはできるだけ大きく見たいし、自分の欠点、問題があるところはなるべく見たくない、そのために、自分を過大に評価することに陥りがちです。パウロはそれに対して、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と言っています。「自分を慎み深く評価する」ことを勧めているのです。しかしそれは、自分は本当は10点だと思っているのを8点ぐらいの評価に止めておいて、「私なんか全然ダメですよ」といつも言っていればよいということではありません。パウロが教えているのは、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」自分を評価することです。そしてこの「度合い」という言葉は「量り」と訳すべきだ、と先週申しました。「度合い」と言うと、多いか少ないかという量の問題になります。しかしパウロはここで、私たちが自分を評価する量り、物差しそのものが変わることを求めているのです。生まれつきの私たちは、自分が何を持っているか、どんな能力、才能があるか、ということによって自分を量り、評価しています。そういう量りで自分を評価する時に必ず起っているのは、他の人との比較です。自分が持っているものや能力が多いか少ないかを私たちは、他の人が持っているものや能力と比較することによって初めて判断することができるのです。例えば自分が得ている年収が多いか少ないかは、世間において自分より沢山得ている人が多ければ「少ない」ということになるし、自分より少ない人が多いなら「まあまあ多い方だ」ということになるのです。同じことが、自分はどれだけ善い行いをしているか、どれだけ愛があるか、どれだけ良い性格か、などの全てのことにあてはまります。人との比較の中で、自分の相対的な評価が、為替のレートのように上がったり下がったりし、それに一喜一憂しているのが私たちなのではないでしょうか。自分が持っているもの、能力、才能によって自分を評価していることによってそういうことが起るのです。

キリストの福音という新しい量りによって
 パウロはここで、他の人との比較によって左右されることのない、全く別の量りが神によって与えられている。あなたがたはその新しい量りによって自分を評価することができる。その新しい量りで自分を評価して生きることがキリスト信者の生活なのだ、と教えているのです。神が与えて下さった、自分を評価する新しい量り、それは信仰の量りです。しかもそれは、信仰がどれだけあるかという「度合い」を量るのではなくて、信じている事柄、信仰の内容によって自分を評価するということです。私たちに与えられている信仰の内容、それは一言で言えば「イエス・キリストの福音」です。神の独り子イエス・キリストが、生まれつきの罪人であり、自分の力で救いを得ることができない私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって私たちの罪の赦しを実現して下さった、そして主イエスの復活によって、私たちにも、復活と永遠の命の希望が与えられており、イエス・キリストを信じる信仰によって私たちはその救いにあずかることができる、それが「キリストの福音」です。このキリストの福音という量り、物差しによって自分を評価するなら、そこには先ず、自分が救われようのない罪人であることが見えてきます。そして同時に、そのような罪人であるこの自分のために、神の御子が命を捨てて下さり、罪の赦し、贖いを成し遂げて下さったこと、神は御子の命をも与えて下さるほどに自分を愛して下さっていることも見えてくるのです。キリストの福音によって自分を評価する時、このように自分の罪がはっきりと示されますから、自分の良い所だけを見つめて思い上がり、「自分はこれでよいのだ」という過大評価に陥ることはできなくなります。しかしまた同時に、自分の欠点、罪、そして悩みや苦しみがいかに大きくても、それによって、もう自分はダメだ、生きている価値がない、と絶望してしまうこともできなくなります。神がそのような自分を愛し、自分のために独り子主イエスが命を与えて下さったからです。このキリストの福音に基づいて自分を量り、評価することが、「自分を慎み深く評価する」ことなのです。

一つの体が築かれていく
 そして先週の説教においても終わりの方で少し触れましたが、キリストの福音という新しい量りによって自分を見つめ、評価するようになることによって、私たちの、他の人を見つめる目、特に教会における信仰の仲間たちを見つめ、評価する目もまた新しくなり、変えられていくのです。自分自身を新しい量りによって量り、評価することによって新しい自分が見えてくると同様に、他の人をも新しい目で見つめ直していくようになり、信仰の仲間との間に新しい交わりが築かれていく、それがキリスト信者に与えられる新しい生活なのです。信仰の仲間たちとの間にどのような新しい交わりが築かれていくのでしょうか。そのことが4、5節に語られているのです。4、5節にこのようにあります。「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。他の人たちと共に「一つの体」を形づくっていく、そしてお互いがその一つの体の部分となって共に生きていく、それが、キリストの福音という新しい量りによって自分と他の人とを評価するところに与えられていく新しい交わりです。他の人と自分とを比較しながら生きているところには、このような「一つの体」としての交わりは生まれません。比較においては、どちらが上か下か、どちらがより優れているか劣っているか、ということが常に問題になるのです。そして自分の方が上だ、優れていると思うと、相手を見下す高ぶりが生じます。そこには「一つの体」としての交わりが生まれるはずはありません。また逆に自分の方が下だ、劣っていると思う所には妬みやひがみの思いが生じます。そこには、人の優れた点にケチをつけようとし、何かと粗捜しをするようなことが生じます。それもまた「一つの体」としての交わりを破壊するものです。つまりお互いどうしで比較し合っている所には、「一つの体」は築かれていかないのです。しかし私たちの自分を見つめる目が変わっていくならば、つまり自分が持っているものや能力を他の人との比較において確かめようとすることをやめて、罪深く弱い者である私たちのために主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことを見つめるようになるならば、私たちはもう人と自分を比べる必要はなくなるのです。どちらがより優れているかを気にする必要はなくなるのです。主イエス・キリストにおける神の愛が自分に注がれており、それによって支えられ、生かされていることを知るなら、自分は人より上だとか、少なくとも人並みだと思うことによって自分を支えようとしなくてもよくなるのです。そしてその時私たちは、他の人を受け入れ、共に歩み、一つの体を築いていくことができるようになるのです。

人を正しく評価するとは
 それは私たちが他の人のことを本当に正しく評価することができるようになる、ということです。自分との比較によって他の人を量っている間は、私たちは人のことを正しく評価することはできません。自分より優れている人はできるだけ低く見ようとするし、自分より劣っている人はますます見下していくのです。しかし神から信仰の量りを与えられた者は、自分のことだけでなく、他の人のことも、キリストの福音によって評価する者となるのです。つまり自分の罪が、キリストが十字架にかかって死んで下さらなければ救われようのないほど深いことを示されると同時に、他の人もそのような罪人であることを当然のこととして受け止めることができるようになります。そしてその自分がキリストの十字架の死によって罪を赦され、神の救いの恵みを与えられているように、他の人も同じキリストによる罪の赦しをいただいていることを見つめ、受け入れる者となるのです。そのように他の人を、自分と共にキリストによる救いにあずかっている者として見つめていくことによって、私たちは他の人を正しく評価することができるようになるのです。人を正しく評価するとは、その人の悪い所を見つけ出して粗捜しをするのではなくて、良い所を見出し、それを見つめ、喜び、尊重し、生かしていくということです。お互いがそのようにお互いの良い所を認め、喜び、尊重し、生かしていく所に、「一つの体」としての交わりが生まれるのです。そのような交わりを生んでいくような評価こそ、人についての正しい評価であると言えるでしょう。信仰によって自分自身を評価する新しい量りが与えられることによって、他の人への評価も新しくなり、そこに「一つの体」としての交わり、共同体が生まれるのだ、とパウロはここで教えているのです。

キリスト信者の生活の場は教会
 この手紙の12章以降は、キリストによる救いを受けた信仰者がどのように生きていくか、というキリスト信者の生活のことを語っているのだということをこれまでにも繰り返し申してきました。そのための最初の具体的な勧めとして「自分をどう評価するか」という問題が取り上げられているのです。そのことについて先週の説教で、この「自分をどう評価するか」ということは、私たちの生き方の根本に関わる重大な問題なのだと申しました。しかしこのように4、5節へと読み進めて来ることによって分かるのは、パウロがここで「自分をどう評価するか」という問題を真っ先に取り上げているのは、それが自分の生き方において重大な問題だからというだけではない、ということです。自分をどう評価するかという問題は、私たちが他の人とどのような交わりに生きるか、どのような共同体を築いていくかと結びついているのです。キリストの福音によって自分を評価する者となることによって、私たちは新しい共同体の一員として生きる者とされるのです。その新しい共同体とは、5節に「キリストに結ばれて一つの体を形づくっており」とあるように、主イエス・キリストと結ばれ、一つとされている共同体、キリストの体である教会です。教会の一員となって、信仰の仲間たちと共に一つの体を形づくって生きていくことこそがキリスト信者の生活の基本的なあり方なのです。キリスト信者の生活は、決して自分一人で生きる個人的な生活ではありません。キリスト信者は、「キリストに結ばれた一つの体」を仲間たちと共に形造り、おのおのがその部分として生きるのです。キリストの福音はそのような交わり、共同体を生み出すものであり、その共同体、教会こそ、キリスト信者の生活の場なのです。

それぞれ異なった賜物を持っている
 キリストに結ばれた一つの体としての教会の交わりにおいて私たちは、他の人の良い所を見出し、喜び、尊重し、生かしていきます。それは6節にある「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」ということを信じて生きるということです。キリストの救いにあずかった信仰者それぞれに、神の恵みによって異なった賜物が与えられています。その賜物をお互いに認め合うことから、キリストに結ばれた一つの体としての交わりが始まります。このことは、自分が神の恵みによって賜物として与えられているものとは違う賜物が、同じ神の恵みによって他の人に与えられていることを認める、ということです。つまり私たちは、自分がよいと思い、これこそ神の賜物だと思っているものだけが神の賜物であると思うことから解放されなければならないのです。自分と人とを比較する思いから解放されるというのはそういうことです。自分と人とを比較する時に私たちは必ず、自分の持っている基準、物差しで人を量っているのです。しかし私たちは信仰を与えられることによって、自分の持っている基準、物差しを捨てて、信仰という、新しい、神が与えて下さる基準、物差しによって自分をも人をも評価する者とされるのです。その信仰という基準、物差しは、私たちが持っている基準、物差しとは違います。そこにおいては、神の恵みによる賜物は一つではありません。様々な異なった賜物が、神の恵みによってそれぞれの信仰者に与えられているのです。そのことを認めることによって初めて、「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」ということが成り立つのです。

様々な賜物の二本の柱
 さてパウロは6節の後半から、信仰者たちに与えられている異なった賜物を並べています。「預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善」です。これらの賜物が当時の教会の人々に与えられており、それが発揮されることによって教会が生きていたのです。その中で真っ先に挙げられているのは「預言」です。これは、これから起ることを言い当てるという予言のことではありません。預言の預は「預金」の預であり、これは神の言葉を預かり、人々にそれを語り伝える言葉、ですから今の言い方では「説教」に当るものです。パウロはこの預言の賜物を何よりも大事にしました。預言がきちんとなされ、み言葉がしっかりと語られ、聞かれることによってこそ教会はキリストの体として築かれていくのです。そういう意味で預言の賜物は教会にとって最も重要なものだと言うことができます。
 次に挙げられているのは「奉仕」です。預言と並ぶ第二の賜物としての奉仕は、苦しみや悲しみの中にある人、貧しい人、困っている人を支え助ける愛の働きを意味しています。この「奉仕」の原語は「ディアコニア」です。教会においてその愛の働き、奉仕を司る務めとして後に「執事」、原語では「ディアコノス」が生まれました。この教会にも置かれている「執事」は「奉仕する者」という意味の言葉です。この「預言」と「奉仕」は、キリストの体である教会が築かれるために、信仰者に与えられている神の賜物の中心となる二本の柱です。つまり教会は、み言葉が語られ、愛の働き、奉仕がなされることによってこそキリストの体として築かれるのです。
 この二本の柱に付随するものとしてさらにいくつかの賜物が見つめられています。「教え」と「勧め」は「預言」に付随する賜物です。「預言」によって語られた神の言葉をさらに説明し、教えるのが「教え」の賜物であり、そのみ言葉に基づいて一人ひとりの生活に支え、慰め、励ましを与えていくのが「勧め」の賜物です。「預言、教え、勧め」によって私たちの生活が神の言葉によって導かれ、正され、整えられていくのだと言えるでしょう。
 「施し、指導、慈善」は、「奉仕」に付随する賜物です。「施し」や「慈善」は、社会的な弱者、病気の者や貧しい者を支えていく働きです。「指導」は様々なことに関わりますが、「施し」と「慈善」の間に置かれているということは、教会の施しや慈善の働きにおける指導、それを率先して行っていく賜物のことではないかと思われます。要するにこれらは、教会が愛の働き、奉仕に生きるための賜物です。
 私たちはここに語られている様々な賜物の二本の柱をしっかり捉えておきたいと思います。パウロの時代の、まだ生まれて間もない教会において、神の言葉を語り、それによって一人ひとりの生活を導いていく賜物と、弱い者、貧しい者を助け支えるという愛の働きの賜物とが共に見つめられ、生かされていたのです。つまり今日の社会では「福祉」と言われている働きを元々は教会が担っていたのです。近代国家においてそれは国が担うこととなり、そのための制度が整えられていきました。それは国のあり方としては大きな進歩であると言えます。しかし私たちは、本来教会に、信仰者たちに、奉仕、施し、慈善という賜物が与えられていたことを忘れてはならないのです。教会はその成立の当初から、つまりまだ小さな弱い群れであり、決して余裕があるわけではないし、また迫害にさらされている中において、これらのことを神から与えられた賜物であり使命として担っていたのです。「執事」という職はこの奉仕、施し、慈善を教会が行っていくために立てられた務めなのです。

自分を評価することからの解放
 さてパウロはこれらの様々な賜物がキリスト信者一人ひとりに与えられており、お互いが賜物を認め合い、喜び合い、生かし合うことによって「キリストに結ばれた一つの体」である教会が形づくられることを語っています。しかし私たちはここを読む時に、自分にはここに語られているような賜物は与えられていない、と思ってしまうかもしれません。預言つまり説教をしたり、教えや勧めをしたり、弱い人、貧しい人を助ける奉仕をするような賜物が自分にあるとは思えない。賜物のない自分は教会に連なって歩む資格がないのではないか、キリスト信者として失格なのではないか、そんなふうに思ってしまいかもしれません。しかしそれは全くの間違いです。ここでこそ私たちは、神が与えて下さっている新しい量りによって自分を評価しなければなりません。私たちはもはや、自分に何が出来るか、つまり自分にどんな賜物が与えられているか、によって自分を評価することから解放されているのです。私たちの評価は、賜物によって決まるのではありません。神は私たちが神のために何かを出来る賜物があるからではなくて、神のためどころかむしろ神に敵対して生きている私たちを、独り子主イエスの十字架の死によって赦し、救って下さり、ご自分の子として下さったのです。神は私たちを、何が出来てどんな役に立つか、ということによってではなくて、子として愛して下さっているのです。だから私たちは、自分や他の人に与えられている賜物を見つめる時にも、人と自分とを比べてはならないのです。自分にはどんな賜物が与えられている、あの人はそれに比べてどうか、ということを考えてはならないのです。そのようなことで得意になったり、落ち込んだりするのは、私たちを子として愛して下さっている神の愛を無にすることです。私たちが信仰者としてなすべきことは、この神の愛をしっかり受けて、自分の賜物を量るのではなくて他の人に与えられている賜物を認め、喜び、感謝することなのです。つまりここに並べられている賜物が自分にあるだろうかと考えるのではなくて、これらの賜物を与えられている兄弟姉妹がいることを認め、喜び、感謝し、その賜物が生かされ、より豊かに発揮され、教会全体がその益を受けることができるようにすることです。そのように人の賜物を喜び、感謝し、それを引き出していこうとしている人というのは、本人は意識していなくても、周囲から見て、まことに豊かな賜物を与えられている人だと感じられるのです。しかしそんなことも本当はどうでもよいことです。要するに私たちは、自分にどんな賜物が与えられているかを考えなくてよいのです。神はそんなことで自分を評価してはおられないからです。他の人に与えられている様々な賜物をこそ神の恵みとして評価し、喜び、感謝し、自分に関しては、神が与えて下さっているもので足ることを学ぶことが大事です。それが、本日共に読まれた旧約聖書、コヘレトの言葉5章17節以下に語られていることです。神が与えて下さっている賜物に満足して生きることが教えられています。それができるのは、神がこの私のために、独り子イエス・キリストの命を犠牲にして、罪の赦しを与え、自分を神の子として下さり、復活と永遠の命の約束を与えて下さっているからです。神がそのように自分を愛して下さっているのだから、自分の評価はもういいのです。それよりも、人に与えられている賜物を正しく評価し、生かすことの方がよほど素晴しいことです。そこには、「キリストに結ばれた一つの体」が築かれていきます。主イエス・キリストのもとで一つの体を共に築いて行く豊かな交わりへと私たちは招かれているのです。

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