「心と口をもって」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ヨエル書 第3章1-5節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第10章1-13節
・ 讃美歌:321、196、452
自分の義ではなく神の義を
礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めてきまして、今第10章にさしかかっています。10章の1~13節については既に二度、最初は1~4節について、二度目は5~13節について説教をしてきました。しかしまだ触れることのできていない節もありますので、本日は、1~13節全体からみ言葉に聞きたいと思います。旧約聖書のいろいろな箇所からの引用がなされているこの箇所は、なかなか分かりにくいところです。また前回この箇所を読んだのは何週間か前ですので、本日は、これまでにお話ししてきたことを振り返ることから始めたいと思います。
パウロがこの手紙の9章からのところで語っている主題は、自分の同胞であり、元々神に選ばれた民だったはずのユダヤ人たちが今、神の独り子イエス・キリストによる救いを受け入れずに敵対しているということです。どうしてそのようなことになったのか、また彼らユダヤ人たちはどうなってしまうのか、という問いとパウロはここで格闘しているのです。第10章に入って彼が語っているのは、彼らユダヤ人たちは神に対して熱心だったが、その熱心は正しい認識に基づいていなかった、ということです。3節にあるように、彼らは「神の義」を知らず、「自分の義」を熱心に求めたのです。ユダヤ人たちは神から与えられた律法を守ることに熱心でした。彼らは律法を、自分の義、つまり自分の正しさを立てるために熱心に行っていたのです。しかしパウロは、律法は自分の義を立てるために与えられたのではない、と言っています。それが4節です。「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」。キリストこそが律法の目標、目指すところである。つまり、キリストによって神が与えて下さる「神の義」にあずからせることこそが律法の目標なのです。「信じる者すべてに義をもたらす」、それが「神の義」です。つまり「神の義」とは「信仰による義」です。人間が善い行いをすることによってではなくて、キリストの十字架の死と復活によって神が与えて下さった罪の赦しを信じる信仰によって、神が私たちを義として下さる、つまり神が私たちに「よし」と言って下さるのです。その神の義を求めるのではなくて、律法を守ることで自分の義を立て、自分が立派な者になることによって救いを得ようと熱心に頑張っている、それがユダヤ人たちの陥っている間違いなのです。
律法はあなたの近くにある
パウロはこの、律法の目指すところは人間の義を立てることではなくて、信仰によって与えられる神の義にあずかって生きることなのだということを、旧約聖書からの引用によって語っています。6節以下で、信仰による義についてこう述べられている、として引用されているのは、申命記第30章12節以下です。そこがどのように読まれ、引用されているのかについては前回の説教でお話ししましたが、それをまとめると次のようになります。「神が与えて下さった御言葉つまり律法は、天の高みにあるのでも、海の彼方にあるのでもない。だから、特別な力を持った人が大変な努力をして天に上ったり、海の彼方まで行って取って来なければ私たちのものとならず、行うことができないようなものではない。律法はあなたのごく近くにある。あなたの口にあり、心にある。だからあなたはそれを行うことができる」。パウロは申命記30章12節以下をこのように読んでいるのです。そしてパウロはここに、律法とはそもそもどのようなものかが示されていると考えています。人間が懸命に努力して、それこそ天に上るぐらいに自分を高めることによって初めて律法に到達して義となることができるのではない。神が私たちの近くに、私たちの口や心に、律法を置いて下さったのだから、その神の恵みによって私たちは律法の指し示す義を得ることができる。だから律法は、自分の力で自分の義を立てるためのものではなくて、神の恵みによって義とされて生きるためのものなのだ、それがパウロの律法理解なのです。
天に上ることも底なしの淵に下ることも
そしてこれも前回の説教で申しましたが、パウロは申命記の「海の彼方に行って」というところを、「底なしの淵に下る」と言い替えています。申命記は、「天に上る」と「海の彼方に行く」というセットで語っているのに対して、パウロは、「天に上る」と「底なしの淵に下る」というセットで考えているのです。それは、彼がここで、天から降って来られ、十字架にかかって死んで下さり、そして復活して天に上られた主イエス・キリストを見つめていることを示しています。私たちは、義を獲得するために、もはや天に上る必要はありません。何故なら主イエス・キリストが既に、天からこの世界に降りて来て下さったのだし、私たちの先駆けとして復活して天に上って下さったからです。また私たちは、自分の罪の償いのために底なしの淵に下る必要もありません。何故なら主イエス・キリストが既に、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、陰府にまで下られたからです。底なしの淵とは、その陰府つまり死者の世界であり、また罪と苦しみによる絶望の淵のことでしょう。そこに、主イエス・キリストが、私たちに代って下り、そこから復活して下さったのです。この主イエス・キリストによる救いのゆえに、もはや私たちは自分の義を立てるために天に上る必要もないし、自分の罪のゆえに絶望の淵に下る必要もないのです。それなのにもしも私たちがなおも自分の義、自分の正しさを立てることに固執しようとするならば、つまり自分で天に上って行こうとするならば、それは主イエス・キリストが天から下り、天に上って下さったことを無意味なことにしてしまって、キリストを天から引きずり降ろすようなことなのです。あるいは、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しが与えられているのに、私たちがなおも自分の罪や苦しみによって絶望の淵に陥っていくならば、それは主イエス・キリストが私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、死んで陰府にまで降られたことを無意味なこと、無駄なことにしてしまい、キリストを死者の中から引き上げてしまうことになるのです。このようにパウロは、律法について語っているこの申命記の言葉を、主イエス・キリストを信じる信仰による義、神の義を証しする言葉として読んでいるのです。
主イエス・キリストによって
ですからパウロは、8節で引用されている「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という申命記30章14節を、主イエス・キリストのことを語っている言葉として捉えています。だからそれに続いて「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」と言っているのです。主イエス・キリストが既に天から下り、十字架の死と復活による救いのみ業を成し遂げて下さっており、その主イエスによる救いを告げる信仰の言葉が、既に私たちの近くに、私たちの口と心に置かれている、私たちはこの主イエス・キリストを信じることによって神からの義、信仰による義を与えられるのです。
心で信じ、口で告白して救われる
信仰の言葉が私たちの口と心に置かれているから、それを信じることによって神に義とされ、救われることができる。そのことをパウロは9節でこのように語っています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。主イエス・キリストを信じる信仰の言葉があなたの口にある、それはあなたが口で「イエスは主である」と公に言い表していることだ、またその信仰の言葉があなたの心にある、それはあなたが心で「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じていることだ、そのようにあなたの口と心に信仰の言葉が置かれているなら、あなたは神によって義とされ、救われているのだ、とパウロは言っているのです。これこそが「信じる者すべてに義をもたらす神の義」です。そして彼はこの信仰によって与えられる神の義のことを10節で、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と言い直しています。9節では、8節の申命記の引用に合わせて、口、心という順序だったのが、10節では心、口という順序になっています。それは、先ず心で信じて、その信仰を口で言い表す、というのが通常の順序だからです。つまりここには、主イエス・キリストを信じて義とされ、救われることが私たちにおいてどのように起るのかが見つめられているのです。
主イエスの復活を信じる
信仰による義、神の義は、先ず私たちの心に、イエス・キリストによる救いを信じる信仰の言葉が置かれ、与えられることから始まります。その信仰の言葉は、9節に言われていたように、神がイエスを死者の中から復活させられた、ということです。父なる神による主イエスの復活が、私たちが心で信じることの中心とされていることに注目しましょう。私たちは、主イエスの十字架の死をこそ私たちのための救いのみ業の中心として見つめていることが多いのではないでしょうか。それは決して間違ってはいないのですが、しかし十字架の死を見つめるだけに留まってしまうと、神の救いのみ業、信仰によって与えられる神の義の一部のみで全体が見えていないことになります。主イエスの復活にこそ、私たちの罪と死とに対する神の恵みの勝利があるのです。ですから、私たちのために十字架につけられて死んだ主イエスを信じるだけではなくて、私たちのために復活して下さった主イエスをも信じることが大事なのです。しかもその復活が、「神がイエスを死者の中から復活させられた」とあるように、父なる神のみ業であることが重要です。主イエスが自分の力で死者の中から復活してきたのではないのです。復活の新しい命は神によって与えられるものです。主イエスもそれを父である神から与えられたのです。そのことが、私たちにも同じ復活の命を神が与えて下さるという希望の根拠となるのです。主イエスが自分の力で復活したのなら、それは私たちの希望の根拠とはなりません。私たちにはそんな力はないからです。父なる神が主イエスを復活させて下さったからこそ、その復活は私たちの復活の先駆けとしての意味を持ち、父なる神が私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるという希望がそこに与えられるのです。従って、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」というのは、キリストの復活が歴史的事実だったと信じることとは違います。大切なのは、そこに与えられている神による罪の赦しの恵み、つまり神の義と、復活の命、永遠の命の約束を信じることです。先程の言葉で言えば、主イエス・キリストの十字架と復活によって、神の義を与えられた私たちは、もはや自分で天に上る必要も、また絶望の淵に陥る必要もない、という救いを信じることです。それを信じる時にこそ私たちは、主イエスの復活を、神が私たちの救いのために行って下さった事実として信じ受け入れることができるのです。神が私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるという救いの恵みを信じることを抜きにして、死者の復活があったかなかったかと考えていても答えは得られないし、それは無意味なことなのです。
「イエスは主である」と言い表す
さて私たちの心に、キリストの復活によって神が与えて下さった救いを信じる信仰の言葉が置かれるなら、私たちの口にも、その信仰を「公に言い表す」言葉が置かれ、与えられていきます。信仰には、心で信じることと共に、口で言い表すこと、つまり神と人々の前で信仰をはっきりと表明することが不可欠なのです。心で信じるだけでなく、口で公に言い表すことによって救われる、それが聖書の教えです。そこには疑問や反論も出てくるかもしれません。何故心に信じるだけではだめで、口で言い表さなければならないのか、心に信じてそのように生きればよいではないか、口で言い表したところで、それが口先だけの、言葉だけのことになってしまったら何の意味もない、大事なのは、言葉ではなくて行動だ、心に信じて、それを行動に移せばよいのであって、なまじ口で言い表そうとすると嘘になったりするのだ、と思ったりするのです。それはもっともなことのようにも思えます。しかし、このような思いの根底には、信仰を「理論と実践」という図式で捉えようとする私たちの思いがあります。信仰がある「理論」ならば、それは確かに言葉で語っているだけで実践が伴わなければ無意味だ、ということになります。しかしパウロはここで信仰の「理論と実践」を語っているのではありません。心で信じるべきことは、「神がイエスを死者の中から復活させられた」ことです。それは理論ではなくて、主イエス・キリストにおいて神が私たちの救いのためにして下さったみ業です。この神のみ業による救いにあずかって生きるところにはおのずから、口で「イエスは主である」と言い表すことが伴うのです。それは理論を口先で語ることではなくて、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、私たちの先駆けとして死者の中から復活したイエス・キリストが私たちの「主」となって下さった、自分はこの主イエス・キリストの下で、この方に従って生きている者だ、と言い表すことです。「イエスは主である」と口で言い表す時、私たちは自分が主イエスの救いにあずかった者であり、主イエスに従う者、その僕であるということを公に表明しているのです。洗礼を受ける時に私たちはそのことをしています。「イエスは主である」という信仰を言い表して洗礼を受けるというのは、自分の主人はもう自分ではなく主イエスだ、自分は主イエスの僕として生きていく、ということの表明なのです。また「イエスは主である」と言い表すことは、イエスに向かって「あなたこそ私の主です」と呼びかけて、主イエスに向かって祈りつつ生きる者となることでもあります。イエス・キリストの十字架と復活による救いを心で信じていても、そのイエスを主と呼ばず、そのイエスに向かって祈らないなら、それは主イエスの十字架と復活を本当に自分のための救いの出来事として受け止めてはいないことになるでしょう。ですから、「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」というのは、切り離すことのできない一つのことを語っているのです。
共にいて下さる主イエスの導きによって
そして、これも間違えてはならないのですが、心で信じることも口で言い表すことも、どちらも私たちが自分の力によってすることではありません。私たちが心で信じて、口で言い表す、そういう私たちの立派な行いによって義とされ、救われるということではないのです。もしそうならそれは神の義ではなくて人間の義、自分の義です。心で信じることも、口で言い表すことも、8節に語られていたように「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」からこそできるのです。イエス・キリストが近くに、共にいて下さり、キリストによる救いの恵みを告げる神のみ言葉、信仰の言葉を神が私たちの口に、心に、置いて下さっているのです。つまり主イエス・キリストが聖霊の働きによって私たちをこの礼拝に招き、信仰の言葉を語りかけて下さっているのです。私たちが心で、神がイエスを死者の中から復活させられたと信じることも、口で「イエスは主である」と公に言い表すことも、どちらも聖霊の働きによって、共にいて下さる主イエスの導きによって実現するのです。
同じ言葉を語る
「公に言い表す」と訳されている言葉は以前の口語訳聖書では「告白する」でした。この言葉の元の意味は、「同じ言葉を語る」ということです。信仰を告白するとは、自分も同じ言葉を語る者となることなのです。つまり「イエスは主である」という信仰を私たちが告白する時、私たちはこれまでその信仰に生きてきた、そして今その信仰に生きている多くの信仰者たちと同じ言葉を語る者とされるのです。それはつまり教会に加えられるということです。教会とは、心で、神がイエスを死者の中から復活させられたと信じて義とされ、口で、イエスは主であると告白して救われた者たちの群れです。私たちは信仰を告白して洗礼を受けることによって教会に加えられ、同じ信仰の言葉を語る群れの仲間となるのです。
失望することがない
教会に加えられ、同じ言葉を語る者となった私たちはどのように生きていくのでしょうか。11節には「主を信じる者は、だれも失望することがない」とあります。共にいて下さる主イエスが私たちの心と口に信仰の言葉を与えて下さり、私たちが同じ信仰の言葉を兄弟姉妹と共に告白していく時に、そこには、失望することのない歩みが与えられるのです。それは私たちがどんなことがあっても失望しない強い者になるということではありません。私たちは失望してしまうことがあるし、罪と苦しみによって底なしの淵に陥っていくような思いを抱くこともあります。しかし、私たちのために天から下ってきて、十字架の苦しみと死とを引き受け、陰府にまで下り、そして復活して下さった主イエス・キリストが共にいて支えて下さっているのです。このイエス・キリストという主の下で生きるなら、私たちは決定的に失望してしまうことはない、つまり絶望してしまうことはない、それはあり得ないのです。
同じ主のもとで違ったものが一つになる
また12節には、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」とあります。ここで見つめられているのは、同じ信仰の言葉を告白する者となることによって、私たちの間の人間としての様々な違いが乗り越えられ、同じ主の恵みの下に一つとされるということです。教会においては、人間的な様々な違いが「イエスは主である」という告白によって克服されていくのです。しかしそれは、それぞれの個性が失われて、皆が画一化されて同じような者になるということではありません。ユダヤ人とギリシア人とは様々な点で全く違う人々であって、決して足して二で割るようなことが出来るわけではありません。その違いは違いとしてあり続けるのです。しかし、人間の思いにおいてはその違いのゆえに決して一つになれないような者たちが、同じ信仰の言葉を語ることにおいて、その違いを乗り越えて共に生きることができるのです。私たちの間には様々な違いがあります。それぞれの個性があります。それは時として、ユダヤ人とギリシア人のように決して一つにはなり得ないような違いでもあります。その違いが生かされつつ、しかし主にあって一つとなることは、「イエスは主である」ということを根本として代々の教会が例えば使徒信条において言い表してきた一つなる信仰、それを「公同の信仰」と言いますが、その信仰を共に告白することによってこそ実現するのです。13節には、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるヨエル書3章からの引用の言葉「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」があります。「だれでも」、どのような人でも、人間的にどのようにお互いに違いがあろうとも、心と口とをもって、イエス・キリストを信じ、イエスは主であると告白し、主イエスの名を呼び求める者は、神の義にあずかり、救われるのです。教会とは、そういう救いの出来事が起る所です。だから教会の歩みにおいて私たちが目指すべきことは、人間の義ではなくイエス・キリストによって与えられている神の義を信じて追い求め、その信仰の告白の一致において、様々に異なった人生を歩み、違った賜物を与えられ、まことに多様な人生経験に生きている私たちが一つとされ、主イエス・キリストのみ名を共に呼び求めていくことなのです。そのことを覚えつつ、この後の教会総会において、昨年度の教会の歩みを主の前に振り返り、それを今年度の歩みに生かしていきたいと思います。