「神の憐みによる救い」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:出エジプト記 第33章18-19節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第9章6-18節
・ 讃美歌:13、122、469
神の自由な選び
先々週の主日礼拝においても、本日と同じローマの信徒への手紙第9章6-18節を読みました。その日の説教において主に見つめたのは、ここに語られている、旧約聖書に出てくる二組の兄弟たちのことです。アブラハムの息子であるイサクとイシュマエル、そしてイサクの双子の息子であるヤコブとエサウです。これらの兄弟たちはいずれも、神が選んでご自分の民の最初の先祖とし、祝福の源となさったアブラハムの子であり孫でした。しかしこの二組の兄弟たちの内の片方は神の祝福を受け継ぐ者として選ばれ、もう片方は選ばれなかったのです。神は、アブラハムの子の内、イシュマエルではなくてイサクを選び、イサクの子の内エサウではなくてヤコブを選んで、祝福の担い手となさったのです。そしてそれは、選ばれた方の人が選ばれなかった人と比べて優れていたとか、信仰が深かったということではありませんでした。特にヤコブとエサウの場合、11、12節に「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました」と語られています。エサウではなくてヤコブが選ばれたのは、人間の側の何らかの条件によってではなくて、その後に語られているように「自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるため」だったのです。パウロはこのように、同じアブラハムの子孫たちの間にも、神の自由な選びがあり、ある者は救いのご計画の中に置かれ、ある者はその外に置かれたということを、旧約聖書の事例を挙げて語っているのです。
敵対しているユダヤ人たち
彼がこのことを語っているのは、これまでに何度もお話ししてきたように、自分の同胞であるイスラエルの民、ユダヤ人たちの多くが、神が遣わして下さった独り子であり救い主である主イエス・キリストを受け入れずに敵対している、という事実を、信仰においてどのように受け止めたらよいのだろうか、という問いへの答えを求めてです。ユダヤ人たちは、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であり、神に選ばれ、祝福を受け継いでいるはずの民でした。ところが今その多くが、神が主イエスによって与えて下さった救いを受け入れずに敵対しているのです。それは、彼らに与えられていたはずの神の選びと約束が効力を失ったということなのだろうか。神が彼らを選んでおられたのに、彼らが背いたためにその選びは実を結ばなかったのだろうか。ということは神のご計画が人間の罪によって失敗に終わったのだろうか。そういう問いがパウロ自身の心の中に、深い悲しみと嘆きを伴ってうず巻いているのです。しかしパウロは6節で「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」と語っています。神がお語りになった言葉が、人間の罪によって効力を失ったり、失敗に終わったりすることがあるはずはない、と彼は信じているのです。その確信と、しかし今、選ばれた民であるはずのユダヤ人が救いにあずかっていないという現実とのギャップが彼を苦しめているのです。そのことを彼は聖書に、それは今日で言うところの旧約聖書ですが、そこに語られている神のみ言葉に真剣に問うていきました。そして示されたのが、この二組の兄弟たちの話であり、そこに示されている、神は常に自由な選びによって救いのご計画をお進めになる、ということだったのです。つまり、神の祝福、言い換えれば救いは、血筋によって自動的に継承されていくのではない。神の自由な選びのみ業がそこには働くのです。だから、今ユダヤ人たちが主イエスを受け入れず、神による救いから落ちてしまっているように見える、そのことも、神の自由な選びのみ心によって起っているのです。
神に不義があるのか
神は自由な選びによってご計画を進めていかれる、これは大変つまずきに満ちた教えであり、疑問や反発が生まれます。人間の側がどうであるかに関係なく、神が自由に、ある人を選び、ある人を選ばないというのは、あまりにも勝手過ぎないか、それはえこひいきというものではないか、そんな神は正しくないのではないか、と私たちは思うのです。そういう反発が起ることはパウロも承知しています。それで彼は14節で「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない」と言っています。「神に不義がある」、それは要するに「神は正しくない、勝手だ、えこひいきだ」ということです。神の自由な選びという教えは、そのように正しくないように感じられるのです。しかしパウロは「決してそうではない」と言っています。自由な選びによってご計画を進めていかれる神は、決して不義な、正しくない、勝手な方ではないのです。このことこそ、パウロがここで語っていることであり、私たちが今日この礼拝において聞き取るべきみ言葉なのです。
憐れもうと思う者を憐れむ神
そのためにパウロは15節で「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という旧約聖書の言葉を引用しています。そしてそれを受けて16節で「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と言っています。つまり、自由な選びによってご計画を進めておられる神のみ心は、人間の意志や努力に対する見返りとしてではなくて、ただ自由な憐れみによって人を救って下さろうとしておられる恵みのみ心なのだ、ということです。この15節の引用は、「私が自分の好きな者を選んで憐れんで何が悪いか」と神が開き直っているようにも感じられます。これは本日共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記の33章19節からの引用ですが、このみ言葉がどのような流れの中で語られているのかを知らなければなりません。これは、神によって立てられて、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出し、約束の地への歩みの先頭に立っているモーセに対して語られた神のみ言葉です。イスラエルの民は、奴隷の身からの解放という神の大いなる救いの恵みを頂いてここまで導かれて来たのです。33章において彼らがいるのはシナイ山です。ここで神は彼らと契約を結び、彼らの神となり、彼らをご自分の民とする、と約束して下さったのです。ところがその前の32章には、モーセが神との契約に基づく掟である十戒を授けられるために山に登っている間に、麓にいたイスラエルの民が、金の子牛を造って神として拝み、お祭り騒ぎを始めたことが語られていました。彼らは、自分たちを奴隷の地から解放し、契約の恵みを与えて下さった主なる神を裏切り、目に見える偶像を求め、それを拝むようになったのです。山を降りたモーセは彼らの神に対する裏切りの罪を激しく責め、悔い改めを促し、そして神が民の罪を赦して下さるように願うために再びシナイ山に登りました。神はモーセの執り成しによって民を滅ぼすことを思い留まって下さいましたが、33章3節に語られているように、「わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである」とおっしゃいました。つまり、約束の地へと入っていくこれからの歩みにおいては、もうイスラエルの民と一緒に行くことはしない、一緒にいると、彼らの罪への怒りによって彼らを滅ぼしてしまいかねないからだ、とおっしゃったのです。そうおっしゃる神にモーセは必死にすがり、神ご自身が共に行って下さるようにお願いしました。それが12節以下です。神はモーセの必死の願いによって思い直して14節で「わたしが自ら同行する」と言って下さいました。しかしモーセはそこでさらに、神がイスラエルに対する恵みと好意をはっきりと示して下さるように願ったのです。これはまことに大胆な、またずうずうしい願いです。今しがた、生ける神を捨てて偶像を拝んだばかりの民にこのような恵みを求める権利などあるはずはありません。しかしモーセはこの恵みを求めずにはおれないのです。神が恵みと好意を示して共に歩んで下さらなければ、モーセもイスラエルの民も、一歩も前へ進むことはできないのです。生きていくことができないのです。だからずうずうしいと言われようが何と言われようが、神の恵みと好意を求める他ないのです。それがモーセの必死の思いでした。そのモーセの必死の願いに応えて神が語って下さったのが、19節の「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」というみ言葉だったのです。このみ言葉によって神は、「私は、私の自由な恵み、憐れみによってあなたとイスラエルの民を選び、恵みを与える。それはあなたがたの側のいかなる条件によるのでもない、私の自由な恵みだ、その恵みによって私はあなたがと共に行く」と宣言して、恵みを示して下さったのです。神の自由な選びとはこのようなものだ、とパウロは言っているのです。つまりそれは、本来は滅ぼされるべき罪人を、その罪にもかかわらず、そういう人間の側の条件を全く無視して、ただ神の自由な憐れみによって赦し、恵みと慈しみを与えて下さるということです。神の選びとは、気紛れにある人を選び、他の人を捨てる、というようなことではないのです。神は救われ得ない罪人を選んで、恵みを与え、救いにあずからせて下さるのです。
ヤコブを愛し、エサウを憎んだ
13節には、ヤコブとエサウについて「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というみ言葉が引用されていました。これも15節と並んで、そして15節以上につまずきに満ちた、つまり「神に不義がある」と思わせる言葉です。人間の側の何の条件にもよらず、ある者を愛しある者を憎むというのは、まさにえこひいきであり、いわれのない差別以外の何でもないではないか、と感じるのです。しかしこのみ言葉も今の15節と同じように、それが語られた文脈の中で捉えなければなりません。これはマラキ書1章2節から3節にかけての引用です。そこを読んでみます。「わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。しかし、あなたたちは言う。どのように愛を示してくださったのか、と。エサウはヤコブの兄ではないかと主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」。このように、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉はそれだけで独立しているのではありません。ここには、神とイスラエルの民の対話があります。神は「わたしはあなたたちを愛してきた」と言っておられます。ところが民は「どのような愛を示して下さったのか」と言っています。つまり、神が私たちを愛していると言うが、どのように愛されているのか、本当に愛してくれているのか、はっきりしない、分からない、と言っているのです。それゆえに彼らは、神の愛にちゃんと応えていない、神に従っていないのです。そのような民に対して神は、彼らへの真実な愛を示すために、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と言っておられるのです。私は兄であるエサウではなく、あなたがたの先祖である弟ヤコブを選んだ、そのように本来の順序を曲げてまで私はあなたがたを愛しているのだ、ということです。つまりこの言葉は、神がヤコブを、その子孫であるイスラエルの民をいかに愛しているかを語っているのです。神がどのように自分たちを愛しておられるのか、本当に愛してくれているのか分からない、と言っている民に対して、神は、「私はあなたがたを選んだのだ、エサウとその子孫ではなく、あなたがたを自分の民としたのだ、それはあなたがたの正しさや信心深さによってではない、私の自由な愛によってだ。えこひいきとも思われるような仕方で、私はあなたがたを愛している、そのことが分からないのか…」と語りかけておられるのです。
神の自由な恵みと憐れみによる救い
パウロが神の選びということにおいて見つめているのはこういうことです。つまり、神がこの私を、私の中には何の理由も根拠もないのに、むしろ罪人でしかないのに、自由な恵みと憐れみによって愛して下さっている、選んで下さっている、ということです。それはある意味では確かにえこひいきです。神が自分をえこひいきして下さっている。神による救いとはまさにそういうことです。このように神が私を愛し、えこひいきして下さっているのは不義でしょうか。正しくないことでしょうか。しかしもしも神が一切えこひいきをせず、私たちが満たしている条件をきちんと判定して、それに従って、十の者には十の、八の者には八の、五の者には五の恵みや救いをお与えになるのであればどうでしょうか。私たちは誰一人として救われないのではないでしょうか。滅びるしかないのではないでしょうか。神が、私たちの側の条件を一切無視して、えこひいきをして下さったからこそ、私たちは救われるのです。神の恵みにあずかることができるのです。その救いが、神の独り子イエス・キリストによって私たちに与えられました。主イエス・キリストは神の子でありながら、人間となってこの世に来て下さいました。そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。そのようにして神が私たちの罪を赦し、救いにあずからせ、神の民として下さったのです。私たちはこの救いの恵みを受けるのに相応しい者では全くありません。神は私たちを全く自由な恵みによって救って下さったのであり、大いなるえこひいきをして私たちを愛して下さったのです。その神は不義な方ではなくて、まことに愛に満ちた方なのです。
神がかたくなにする者
このようにパウロは、神が自由な選びによって救いのご計画を進められるとは、私たちの側の正しさや立派さによってではなく、ただ神の憐れみによって救いを与えて下さるということなのであって、私たちはそのことを感謝すべきなのだ、と言っているのです。ただ私たちはそこでどうしてももう一つのことが気になります。それは、選ばれていない人の存在です。具体的には、主イエス・キリストを受け入れず、神の救いにあずかっていない人々がいる、ということです。パウロにとってそれは、自分の同胞であるユダヤ人たちでした。その人々は神の選びの恵みを受けていないことになる、そのことを信仰においてどのように捉えたらよいのかがパウロにとっての大きな問題だったのであり、私たちにとってもそれはどうしてもひっかかること、気になることです。パウロはこのことについて、17、8節で、やはり旧約聖書を引用しつつ語っています。そこで彼が取り上げているのは、出エジプトの話に出て来るエジプトの王ファラオです。彼はイスラエルの人々をあくまでも奴隷としてエジプトにつなぎ止めて置こうとしました。モーセを通して引き起こされた数々の災いによってついに屈服してイスラエルが立ち去ることを認めた後も、思い直して、大軍勢を率いて後を追ってきたのです。つまりファラオはイスラエルの敵であり、神の民を迫害し、苦しめる者です。そのファラオについて神はこう語っておられるのです。「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」。これは出エジプト記9章16節からの引用です。この箇所が語っているのは、神に逆らい、神の民を苦しめているファラオも、神ご自身がそのような者としてお立てになったのだ、ということです。つまりファラオが神の民を苦しめているのは、神のみ手が彼にまでは及んでいないからではなくて、むしろ神ご自身が彼をそのような者として選んだからなのです。つまりここにも、神の選びのみ業があるのです。そのことを語っているのが18節の「このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」という言葉です。神は、私たちを、自由な憐れみによって選び、信仰を与え、救いにあずからせて下さると同時に、同じ選びによってある者を頑なになさり、救いを受け入れずに逆らう者となさるのです。神の選びには確かにそういうことがあるのです。それは神の不義なのでしょうか。正しくないこととして非難されるべきことなのでしょうか。
救いのみ業の前進のために
その結論を急ぐ前に、パウロがこのことにおいて見つめていることを正しく知らなければなりません。彼は、ファラオが神によって頑なにされたのは、ある目的のためだったと語っているのです。その目的とは、「あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるため」ということです。つまりファラオが頑なになり、イスラエルの民をなかなか去らせようとしなかったために、数々の災いによって神の力が示され、そのみ名が全世界に告げ知らされていったのです。そのようにして救いのみ業が前進していくために、神はファラオを頑な者としてお立てになったのです。つまり、神がある者たちを頑なになさり、救いを受け入れずに逆らう者としてお立てになるのは、神がその者たちをも用いて救いのみ業を前進させるためなのです。ここでパウロが見つめているのはもはやファラオのことではありません。同胞のユダヤ人たちのことです。ユダヤ人たちは今、主イエス・キリストに敵対し、逆らっています。救いから落ちてしまっています。しかしそれもまた神の選びの中で起っていることであって、神はこのことを通して救いのみ業を前進させて下さることをパウロは見つめているのです。それは具体的には、ユダヤ人たちが主イエスによる救いを拒んだことによって、主イエスによる神の救いの恵みが、それまでは選ばれた民ではなかった、救いの外に置かれていた異邦人たちにも及んでいったということです。元々の神の民であるユダヤ人が拒んだことによって、主イエス・キリストによる救いが今や全世界に広められつつあるのです。パウロはまさにそのために、異邦人に福音を宣べ伝える者として立てられ、用いられているのです。
神の自由な選びを信じて
パウロがこのことを語っているのは、この後の11章においてです。そしてその11章には、そのように異邦人にキリストによる救いがもたらされることを通して、今度は逆にユダヤ人たちも目覚めさせられて、主イエスを救い主として受け入れ、信じる者となり、救いにあずかっていくという、神の遠大な救いのご計画が語られています。つまりパウロは、同胞であるユダヤ人たちが今、主イエス・キリストを受け入れず、救いから落ちてしまっていることを、だから彼らはもう救われない、滅びへと定められてしまっているとは考えていないのです。彼らがもう一度、自分たちに元々与えられていたはずの神の選びの恵みを受け入れて、救いにあずかっていく希望を抱いているのです。つまり、神の選びを信じるというのは、救われるか滅びるかは最初から決まっていて、選ばれている者は救われるが、選ばれていない者にはどう頑張っても希望はないからあきらめろ、という教えではありません。神は自由な憐れみによって私たちを救って下さる方です。私たちはその神の自由な憐れみのみ心によって選ばれて今こうして教会に集い、礼拝を守っています。私たちはそれが自分の正しさや努力によるのではなく、神の自由な恵みによることを覚えて心から感謝するのです。そして私たちの周囲には、主イエスを信じていない、むしろ敵対している人々がいます。その人たちと私たちの間に、人間的に何か違いがあるわけではありません。私たちの方がより正しいわけでも、立派な人であるわけでも、より努力しているわけでもありません。しかしどういうわけか、私たちは選ばれており、その人たちは今は選ばれていないのです。それは不思議なことです。しかし神に不義があるのではありません。元々選ばれる価値のない私たちが、自由な憐れみによって選んで下さった方に向かって、全ての者を同じように選ばないのは不公平だ、と非難することはできないのです。むしろ私たちがするべきことは、今は選ばれていない、救いにあずかっていない、と思われる人々も、皆、神のみ手の中にあることを信じることです。神が自由な憐れみを注いで下されば、その人々も直ちに救いにあずかるのです。つまり神は、今は信じていない、救いにあずかっていない人々をも救いにあずからせて下さることがおできになるのです。人間の側の条件に一切よらない、自由な恵みによる選びだからこそ、そういうことを信じることができるのです。私たちは、この神の自由な選びによる救いの恵みが自分に与えられていることを喜びと感謝をもって信じ、そして今はまだその救いにあずかっていない人々が、同じ神の自由な選びによって主イエス・キリストを信じる者となり、同じ救いの恵みにあずかることを希望をもって信じて福音を宣べ伝えつつ、その人々への神の恵みと憐れみを祈り求めていきたいのです。