主日礼拝

キリストの霊によって

「キリストの霊によって」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エゼキエル書第36章25-28節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第8章1-11節
・ 讃美歌:124、358、436

罪を処断してくださった
 ローマの信徒への手紙は、初代の教会の最大の伝道者だったパウロが、自分が宣べ伝えている福音、つまり主イエス・キリストによって与えられた神の救いの恵みとはどのようなものであるのかを、まだ訪れたことのないローマの教会の人々に書送った手紙です。主イエス・キリストにおいて神が成し遂げて下さった救いのみ業が第8章3節においてこのようにまとめられています。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。神は御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送って下さった、それが主イエス・キリストです。父である神は、この主イエスの肉において、私たち人間の罪を罪として処断して下さったのです。処断するとは、有罪の判決を下し、処罰し、滅ぼすことです。普通、罪を処断するとは、罪を犯した人を有罪とし、処罰することです。しかし神がして下さったのは、御子イエスの肉において罪を処断し、罪を滅ぼして、それによって罪人である私たちを救って下さり、罪から解放して下さることでした。神が御子において罪を処断して下さったことによって、罪人である私たちは赦され、救われたのです。

十字架の死による罪の赦し
 神は御子イエスの「肉において」罪を罪として処断された、と語られています。主イエスの肉において、ということで第一に見つめられているのは、主イエスが人間として歩まれた地上のご生涯です。主イエスは、町々村々を巡り歩きながら、神の国、つまり神の恵みのご支配の到来を宣べ伝え、病に苦しむ人々を癒し、差別され虐げられていた人々のところへ行って友となられました。そのような主イエスのご生涯は奇跡的な治療者や社会活動家としての歩みではなくて、人々の様々な苦しみ悲しみ、そして罪をご自分の身に背負って下さる歩みでした。人間の苦しみ悲しみの根本には罪があります。自分の罪によって苦しむこともありますし、他の人の罪によって苦しめられることもあります。あるいは社会が構造的に陥っている罪があって、それによる苦しみを受けることもあります。病気も昔は罪の結果と考えられていました。現在の私たちは、罪のバチが当たって病気になるのではないことを知っていますが、しかし病気にしても他の様々な不幸にしても、私たちの心が神から離れ、自分を主人とし、自分の思いによって生きようとする罪に陥っている時に、その苦しみは果てしなく大きくなるのです。同じ苦しみの情況にあっても、心が神の方を向いており、神の恵みのみ心を信じて自らを委ねているなら、苦しみの中にも平安と支えが与えられることを私たちは体験します。そういう意味で、苦しみと罪とはやはり深く結び付いているのです。苦しみの原因は罪、という因果関係は必ずしも成り立たなくても、苦しみは罪によってより深くなり、深刻なものとなるのです。主イエスのご生涯は、人々の苦しみ悲しみを肉において背負うことによって、その根本にある人間の罪と戦い、罪を処断し、その支配から人々を解放しようとする歩みだったのです。そのクライマックスが十字架の死です。主イエスは私たちの全ての罪をご自分の肉に引き受けて、私たちに代って死刑の判決を受け、十字架にかけられて死なれたのです。本来罪人である私たちが受けなければならない十字架の死を、神の御子である主イエスが代って受けて下さったのです。この出来事によって神は罪を処断して下さいました。主イエスの肉における十字架の死によって罪が罪として処断されたから、私たちは罪を赦されて新しく生きることができるのです。

復活による死の支配からの解放
 しかし、主イエスの「肉において」ということにおいてもう一つ見つめられているのは復活です。肉において十字架にかかって死んだ主イエスを、父である神は肉において復活させて下さったのです。それは神が、主イエスの肉を捕えた死の力を打ち破り、もはや死に支配されない永遠の命を生きる者として下さったということです。主イエスの肉において処断され、滅ぼされたのは罪だけでなく死でもあったのです。罪と死とは不可分に結びついています。死は、私たちに命を与えて下さった神がそれを取り去られることですが、神に背き逆らう罪によって神との関係が破れてしまっているために、死は私たちにとって恐ろしいもの、滅びとなっているのです。ですから神が罪を処断して私たちに赦しを与え、罪の支配から解放して下さるとき、そこには死の支配からの解放も与えられます。罪を赦され、神との関係を回復された者にとっては、死はもはや滅びではなく、主イエスの復活にあずかって永遠の命を与えられていくための一歩となるのです。主イエスの肉における死によって罪が処断され、主イエスの肉における復活によって死が処断された、それが主イエス・キリストの肉において神がして下さった救いのみ業です。このみ業のゆえに、1節にあるように、今やキリストを信じ、キリストに結ばれている者は罪に定められることはないのです。

律法の要求が満たされる
 第8章のテーマは、この主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによって私たちがどのように新しくされ、どのような喜びと希望に生きることができるか、です。パウロはそのことを4節で「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」と言い表しています。「わたしたちの内に律法の要求が満たされる」、それがキリストの福音によって与えられる新しさなのです。「律法の要求が満たされる」とはどういうことでしょうか。原文を見ますと「律法の要求」とう言葉は単数形です。つまりここで見つめられているのは、律法に記されている一つ一つの戒めが満たされていくことではなくて、律法全体の精神、ないしは律法がその全体として求めている一つの事柄が満たされることです。それはどのようなことなのでしょうか。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エゼキエル書第36章25?28節がそのことを語っています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」。ここには、神が新しい心を与えてその人々をご自分の民として下さることが語られています。石の心を取り除き、肉の心を与える、ともあります。イスラエルの人々はこの時、神の言葉を受け入れない石のように頑な心に陥っていました。主なる神が与えて下さった律法を守らず、自分たちが勝手に造り出した偶像を拝むことによって、彼らは主なる神の民として歩めなくなっていたのです。そのような石の心を主が取り除き、瑞々しく柔らかい肉の心を新しく与えて下さる、それによって彼らは偶像から清められ、主の掟に従う神の民として再び歩むようになる、そういう神による救いがここに預言されているのです。律法の要求が満たされるというのはこういうことです。つまりそれは、一つ一つの戒めが守られるというよりも、新しい心、石の心ではない肉の心が与えられることによって、神と人々との間に本来の正しい関係、交わりが回復され、人々が神の民となることです。律法は、神の民が神との間に正しい関係を持って歩むために与えられているものであって、その要求が満たされるとは、神と共に、神に従って生きる神の民が生まれることです。この律法の要求が、キリストを信じて生きる信仰者たち、つまり教会において満たされ、教会が新しい神の民として築かれていくのです。パウロは第8章で、キリストによって与えられる救いの知らせ、福音のまとめ、締めくくり、結論としてこのことを語ろうとしているのです。キリストによる救いとは、キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって私たちを赦して下さった、ということです。私たちは自分の努力や善い行いによってではなくて、主イエスを救い主と信じる信仰のみによってこの罪の赦しにあずかり、救われます。しかしそれで終りではありません。パウロはキリストの福音のまとめ、締めくくり、結論として、罪の赦しにあずかった私たちが新しい心を与えられ、律法の要求が私たちの新しい歩みの中で満たされていくこと、つまり私たちが新しい神の民として歩んでいくことをこの第8章で語っているのです。キリストの救いにあずかった者に与えられるこの新しい心、新しい生き方、そこに築かれる新しい神の民をも見つめなければ、福音を正しく捉えたことにはならないのです。

肉ではなく霊に従って歩む
 キリストの福音によって私たちは新しく生かされます。しかしパウロはそのことを、誤解を与えないように非常に慎重に語っています。パウロが恐れている誤解とは、福音によって私たちに与えられる新しさが、私たちの、新しくなろうとする願いや努力によって達成されるものと考えられてしまうことです。そうなってしまうと、それは結局「神のみ心に従って正しく生きるように努力しましょう」という倫理、道徳の教えになってしまいます。倫理や道徳の教えは福音つまり喜ばしい知らせではありません。倫理、道徳によって人が新しくなり、神に従う者となることはないのです。人間の道徳的努力によって神に従う者となることが出来るならば、神が御子イエス・キリストをこの世に遣わす必要はなかったのです。そのことをパウロは既に2節で「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです」と言い表していました。人間が努力して律法を守り行うことによって神の民となることは出来なかったのです。それが「肉の弱さ」、つまり罪によることです。それゆえに神は御子を遣わして下さり、その十字架の死によって私たちを新しくし、私たちが神の民として生きる道を開いて下さったのです。その新しく生きることを人間の努力によることにしてしまったら、キリストの十字架は無駄になってしまうのです。そういう誤解が生じてはならない、それゆえにパウロはここで、福音による新しい歩みは何によって与えられ導かれるのかを熱心に語っていくのです。4節に「肉ではなく霊に従って歩むわたしたち」とあるのがその最初です。福音による新しい歩みは、肉、つまり人間の力や努力によって実現するのではなくて、霊、神の霊、つまり聖霊の力と働きによって与えられ、導かれるのです。聖霊の働きの中でこそ、律法の要求が私たちの内に満たされていくのです。そして5?8節には、肉に従うことと霊に従うことの対比が語られています。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」。ここに語られているのは要するに、肉に従って生きることと、霊、聖霊の導きの下に生きることの違いであって、律法の要求が私たちの内で満たされ、私たちが神の民とされて新しく生きることは、肉に従って生きることにおいてはあり得ない、聖霊の導きの下で生きることによってしかそれは実現しない、ということです。ここでいう肉と霊とは、人間の肉体と精神という意味ではありません。肉とは、肉体と精神の両方から成る人間とその営みのことです。その全体が「肉の弱さ」の下に、つまり罪の支配下にあるのです。6節には「肉の思いは死であり」とあります。人間の営みは罪の支配下にあるので、私たちの思いは、たとえ善いことを一生懸命にしようとしていても、死をもたらすものとなってしまっているのです。そのことをパウロは7章において、自分自身のこととして見つめてきました。熱心に神に仕え、律法を守って生きようとしていた自分の努力そのものが罪の支配下に置かれており、神が遣わして下さった救い主イエスを拒み、み心に敵対するものとなってしまっていた、そのことに気づかされた彼は「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫んだのです。それが、肉の思いに従って歩む、生まれつきの私たちの姿なのです。7節には「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」とあります。罪の支配下に置かれている私たちの思いは、根本的に神に敵対しており、み心に従っていない、従いえないのです。だからその肉においてどんなに一生懸命努力しても、本当に新しくなることは出来ません。律法の要求が満たされ、神の民として新しく生きることはそこには実現しないのです。

霊に従って歩む
 それでは、福音によって新しく生きることはどのようにして実現するのでしょうか。それは「霊に従って歩む」ことによってです。その霊は、私たちの心の中にある何らかの霊ではなくて、神の霊、聖霊です。私たちの内側にある力によってではなくて、外から、神から与えられる力によって生かされ、導かれて歩むことによってこそ、私たちは新しく生きることができるのです。そのことを9節は「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」と言い表しています。神の霊、聖霊が、私たちの内に宿って下さるのです。この「宿る」という言葉は、「家を建てて住む」「定住する」という意味です。神の霊が外から、神からやって来て、私たちの内に家を建てて住んで下さるのです。家を建てて住むというのは、しばらく滞在して去って行くという仮住まいではありません。そこを終の住処とし、生涯そこに住み続けるということです。人間の人生においては勿論家を建てても引越しを余儀なくされることはありますが、神の霊、聖霊は、私たちの内に定住して下さり、生涯宿り続けて下さるのです。それよって私たちは、肉ではなく霊の支配下に置かれ、人間の力や努力によって生きるのではなく、聖霊のお働きを受け、その導きによって生きる者とされるのです。そのように霊に従って歩む者となることによって、私たちの内に律法の要求が満たされていき、神の民として新しく生きる者とされていくのです。

キリストの霊によって
 私たちがキリストの福音によって新しくされるのは、このように私たちの力や努力、精進によるのではなくて、聖霊が宿りみ業を行って下さることによってです。しかし聖霊が宿りみ業を行って下さることを、私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。パウロは9節で、今読んだように「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」と語った後、後半において「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と言っています。「神の霊」が「キリストの霊」と言い換えられているのです。聖霊が宿るとは、キリストの霊が宿ることです。つまり、聖霊が私たちの内に宿り、み業を行って下さることによって、主イエス・キリストによる救いが私たちの内に現実となるのです。聖霊のみ業を、何となく霊的なものの存在を感じる、というようなことと一緒にしてはなりません。聖霊を信じることは、オカルトの世界に足を踏み入れることとは全く違います。私たちの内に宿って下さる聖霊は、主イエス・キリストの霊であって、主イエス・キリストによる救いに私たちをあずからせ、私たちの内にキリストによる救いを信じる信仰を起こし、それを根付かせて下さるのです。聖霊が宿って下さることによって私たちは、「キリストに属する者」、「キリストと共に生きる者」、1節の言葉で言えば「キリスト・イエスに結ばれている者」となるのです。礼拝前の求道者会において学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」の冒頭の問1において、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いへの答えとして、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と語られています。「キリストに属する者」となるとは、「ハイデルベルク信仰問答」が語っているように、体も魂も、生きるにも死ぬにも、イエス・キリストのものとなることです。「キリストの霊」である神の霊が宿って下さることによって私たちは、「キリストに属する者」となり、それによって、生きるにも死ぬにも私たちを慰めるただ一つの真実な慰めにあずかるのです。

キリストが内におられるなら
 そして10節には「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、〝霊〟は義によって命となっています」とあります。聖霊が宿って下さることによってキリストに属する者となる、それはキリストが私たちの内にいて下さる者となることです。そしてキリストが内にいて下さるなら、「体は罪によって死んでいても、〝霊〟は義によって命となって」いるのです。私たちの生まれつきの、肉の弱さの中にいる人間としての歩みは、罪によって死んでいるようなものです。信仰者になってもそれは変わりません。キリストを信じ、伝道者として生きているパウロが「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫んでいることがそれを示しています。しかしそのような死ぬべき体を生きている私たちの内に聖霊が宿って下さり、み業を行って下さるなら、私たちの内にある何かではなくて、宿って下さっている聖霊が命となって下さっているのです。

死ぬはずの体をも生かしてくださる
 聖霊が私たちの命となって下さっている、そのことをパウロは11節でこう語っています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。ここでは聖霊が「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれています。「イエスを死者の中から復活させた方」は父なる神です。その父なる神が聖霊のお働きによって私たちの内に宿り、導いて下さるのです。死の力を打ち破って死者を復活させ、新しい命を与えて下さる力を持った父なる神が、聖霊によって私たちの内に宿り、私たちの死ぬべき体をも生かして下さるのです。私たちは、死ぬべき体をもって生きています。それは肉体においていつか必ず死ぬ、というだけのことではなくて、どうしようもなく罪に支配されているがゆえに、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆かずにはおれないということです。しかし私たちは、主イエスを復活させた神が、私たちの内に宿らせて下さっている聖霊によって、私たちの死ぬはずの体をも生かして、永遠の命にあずからせて下さることを信じることが許されています。聖霊は私たちを、主イエス・キリストに属する者、キリストと結ばれた者とし、その十字架の死による罪の赦しにあずからせて下さるだけでなく、その復活の命にもあずからせて永遠の命を生きる者として下さるのです。洗礼を受け、主イエス・キリストと結ばれた信仰者の内にはこの聖霊が宿っています。この聖霊のお働きによって私たちは新しくされ、まことの慰めを与えられ、喜びと希望の内に生きまた死ぬことができるのです。

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