主日礼拝

洗礼の恵み

「洗礼の恵み」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第98編1-9節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第6章1-11節
・ 讃美歌:314、532、536

もはや罪の中に留まることはあり得ない  
 本日は、ローマの信徒への手紙第6章1~11節よりみ言葉に聞くのですが、前回私が主日礼拝を担当した時にも同じ箇所から説教をしました。それは2月14日でしたが、あの日は午前中大雨が降りました。私も、馬車道駅から教会に歩いて来るまでの間に、ズボンは勿論靴の中までびしょびしょになり、靴下は水が絞れるぐらいになりました。そういう天候に妨げられてあの日は礼拝に来ることができなかった方が大変多かったのです。幸いなことに本日も同じ箇所から説教をする予定にしておりましたので、前回の説教をも一部振り返りながら語っていきたいと思います。  
 この第6章に入ってパウロは、彼が語っている主イエス・キリストによる救いの福音に対してユダヤ人たちから浴びせられている批判を取り上げ、それに反論しています。その批判を意識しているのが1節の、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という文章です。律法を守るという善い行いによってではなく、キリストによる罪の赦しを信じることによって救われる、というパウロの教えでは、その救いの恵みをより豊かに受けるために沢山罪を犯した方がよいということになるではないか、という批判がユダヤ人たちから寄せられていたのです。それはつまり、パウロが語っている福音は、神の掟である律法を守り、神の前で正しく生きようとする人間の努力を否定するもので、人を罪の中に留まらせ、倫理や道徳を破壊する、という批判です。それに対してパウロは2節で「決してそうではない」と言って激しくそれを否定しています。その根拠として彼が語っているのが2節後半の、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」ということです。イエス・キリストによる罪の赦しにあずかった私たちは、罪に対して死んだのだから、もはや罪の中で生きることなどあり得ないのだ、と言っているのです。

洗礼を受けるとは  
 このことは主イエス・キリストを信じる信仰に生きている、あるいは生きようとしている私たちにとって大きな問いかけです。キリストの十字架による罪の赦しという神の救いの恵みを信じて生きている者は、罪に対して死んでいるのだから、もはや罪の中に留まっていることなどあり得ない…、しかし私たちは本当にそうなっているでしょうか。むしろ、キリストによる救いを受けた者としてなすべきこと、あるべき姿がはっきりしているのに、そのように生きることが出来ない自分がいることを私たちは感じているのではないでしょうか。そして私たちは、キリストが自分の罪を赦して下さっている、という恵みを、そのことの言い訳にしてしまってはいないでしょうか。つまり、罪の赦しの恵みの上にあぐらをかいて、罪の中に留まっていることはないでしょうか。しかしパウロは、そのようなことは決してない、あり得ない、と言っているのです。彼がその根拠としているのが3節です。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」。私たちは洗礼を受けたのだ、洗礼を受けたことによって罪に対して死んだのだ、だから私たちはもはや罪の中に留まることなどあり得ない、罪の中で生きることはできないのだ、と言っているのです。キリストを信じて生きるとは、洗礼を受けて生きることです。そして洗礼を受けることによって私たちは決定的に変えられるのです。パウロはこの第6章においてそのことを集中して語っていきます。洗礼を受けた者に何が起ったのか、が語られているのです。このことは、既に洗礼を受けてクリスチャンとして生きている者にとって重大なことであると同時に、これから信仰に生きることを考え、求めつつこの礼拝に集っておられるいわゆる求道中の方々にとっても重要なことでしょう。本当に信仰に生きるには、洗礼を受けなければなりません。その洗礼とは何なのかがこの第6章に語られているのです。

キリストに浸される  
 洗礼を受けるとはどういうことでしょうか。3節に、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」とあります。キリスト・イエスという言い方は、キリストであるイエスということであり、神によって遣わされた救い主であるイエスという意味ですが、洗礼を受けるとは、その救い主イエスに結ばれることです。以前の口語訳聖書ではここは「キリスト・イエスにあずかる」と訳されていました。「結ばれる」「あずかる」と訳されている元の言葉は実は単純な「…の中へと」という言葉です。ですからここは直訳すれば「キリスト・イエスの中へと洗礼を受けた」となります。洗礼を受けた、という言葉も、その元の意味は「水に浸す、沈める」です。洗礼は元々は全身をどぶんと水に浸されるという仕方でなされていました。ですからここは「キリスト・イエスの中に浸された、沈められた」とも訳せるのです。ある説教者は「キリスト・イエスにすっかり浸されてしまったわたしたち」と訳しています。洗礼を受けるとは、私たちが主イエス・キリストにすっかり浸され、キリストと一つになることなのです。キリストと一つとなって生きる、それが信仰に生きることです。本当に信仰に生きるには洗礼を受けなければならないと言ったのはそのためです。洗礼を受けないで信仰に生きようとすることは、キリストを外から眺めてあれこれ批評しながら生きるということで、それは思想や信条ではあっても、信仰ではないのです。

キリストの死と復活にあずかる  
 私たちが洗礼を受けてキリストに浸され、一つとなったのは、キリストの「死にあずかるため」だったとこの3節は語っています。この「あずかる」も、先程の「結ばれる」と同じ「…の中へと」という言葉です。つまり洗礼を受けるとは、主イエス・キリストの十字架の死の中に身も心も全て浸され、キリストと共に死ぬことなのです。そのことは次の4節ではさらにこのように語られています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」。洗礼によって私たちは、キリストと一緒に死んで葬られるのです。礼拝において毎週告白している使徒信条に、主イエス・キリストが「死にて葬られ」とあります。「死んだ」だけでなく「葬られた」とも語られているのは、主イエスが本当に死んでしまったことをはっきりさせるためです。洗礼において私たちも、その主イエスの死にあずかり、主イエスと共に死んで葬られる、つまり主イエスと共に完全に、徹底的に死ぬのです。洗礼によって私たちは主イエス・キリストを信じる者となり、教会の一員とされるのですが、それはこの世の様々な団体の入会の儀式とは違います。洗礼において私たちは死んで葬られるのです。  
 しかし死んで葬られて終わりではありません。その先があります。それが4節後半です。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。十字架につけられて死んだキリストは三日目に復活なさいました。キリストの十字架の死にすっかり浸された私たちは、このキリストの復活にも浸されるのです。キリストがイースターの朝、葬られていた墓から父なる神によって復活させられたように、私たちも新しい命に生きる者とされる、その恵みが洗礼において与えられるのです。つまり主イエス・キリストの十字架の死と復活が私たちの事柄となり、私たち自身にそれが起る、洗礼を受けるとはそういうことなのです。  
 5節はそのことを、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と言い表しています。「キリストと一体になって」とありますがその「一体になる」という言葉は直訳すれば「共に植えられる」です。苗木を植えるというイメージが用いられています。洗礼を受けることによって私たちはキリストと共に植えられるのです。どのような苗木としてか、それが「その死の姿にあやかるならば」ということです。ここは口語訳では「その死の様に等しくなるなら」でした。原文を直訳すると「彼の死と同じ姿へと」です。ですから5節前半は「もし私たちがキリストの死と同じ姿へと共に植えられたなら」と訳せるのです。そのような苗木として植えられた私たちはどのような木へと育っていくのか。それが「その復活の姿にもあやかれるでしょう」です。これも直訳すれば「彼の復活と同じ姿になるであろう」です。主イエスの十字架の死と同じ姿で植えられた苗木である私たちは、復活した主イエスと同じ姿の木へと育っていくのです。洗礼はそこへ向けての歩みの出発点なのです。

罪から解放され、永遠の命を生き始める  
 6、7節にはこのように語られています。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています」。洗礼においてキリストと共に死んで葬られるのは、「わたしたちの古い自分」です。その古い自分は「罪に支配された体」です。生まれつきの古い自分は罪に支配されてしまっている、そのことをパウロはこの手紙の最初の方でしつこいほどに語りました。特に5章12節以下には、最初の人間アダムの罪以来、人間は皆生まれつき罪に支配されていることが語られていました。罪に支配されているとは、自分の力でそこから抜け出すことができない、ということです。罪の力は、私たちが反省して努力することによってそれに打ち勝つことができるような生易しいものではないのです。私たちをその罪の支配から解放することができるのは神のみです。神はそのために独り子主イエスをこの世に遣わして下さいました。その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。このキリストの十字架の死によって神ご自身が私たちを罪の支配から解放して下さったのです。そしてこの救いの恵みに私たちをあずからせるために洗礼を定めて下さったのです。洗礼において、罪に支配された生まれつきの古い自分がキリストと共に十字架につけられて死に、それによって罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならない者とされる、つまり罪の支配から解放されるのです。パウロが2節で「罪に対して死んだわたしたち」と言ったのは、この洗礼を受けたわたしたち、ということです。つまり「罪に対して死んだ」というのは、もう罪とは縁を切って正しく生きようと決心した、というような私たちの心の持ちようの話ではありません。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストと、洗礼において一つとされ、この私が主イエスと共に死んで葬られ、罪に対して死んだ者とされた、それが「罪に対して死んだ」ということです。そのように主イエスの十字架の死と私たちとを一つに結びつけるのが洗礼です。洗礼を受けて主イエス・キリストにすっかり浸されることによって、主イエスの十字架の死が私の死となり、そのことを通してキリストの復活の命が私にも与えられるのです。  
 その復活の命のことが9節に語られています。「そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません」。主イエス・キリストの復活は、一旦は復活したけれどもしばらくしてまた死んでしまった、というものではありません。キリストは、もはや死ぬことのない者へと、もはや死に支配されることのない、永遠の命へと復活なさったのです。そのキリストの復活の命、永遠の命が、洗礼において与えられ、私たちも新しく生き始めるのです。つまり洗礼において私たちは、罪に支配された古い自分に死んで、主イエスの復活にあずかって生きる者へと新しく生まれ変わるのです。この「死んで新たに生まれ変わること」こそが、洗礼において私たちに与えられる恵みなのです。

罪に対して死んで、神に対して生きる  
 これらのことが10節と11節にまとめられています。10節に「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」とあります。キリストは罪に対して死なれた、それは罪との関わりにおいて死なれたということです。その罪はキリストの罪ではなくて私たちの罪です。キリストは私たちの罪との関わりにおいて、それを全て背負って死んで下さることによって、罪の赦し、贖いを実現して下さいました。しかもそれは「ただ一度」のことでした。それは一度限りで繰り返される必要のない決定的なことだったのです。私たちの罪の赦しが主イエスの十字架の死において決定的に成し遂げられたのです。そしてキリストが生きておられるとは、復活して今も生きておられるということです。そのキリストは、神に対して生きておられる、神の子として、神に与えられた永遠の命を生きておられるのです。そのキリストに私たちが心と体の全てにおいてすっかり浸され、キリストと一つとされるのが洗礼です。その洗礼を受けた者のことが11節に語られています。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。「あなたがた」とは、洗礼を受けたあなたがたです。洗礼を受けたあなたがたも、キリストの死にあずかって罪に対して死に、罪の支配から解放され、そしてキリストの復活にあずかって、神に対して生きている、神の恵みの中で、神の子とされて、キリストと共に永遠の命を生き始めている、それが洗礼の恵みなのだ、とパウロは告げているのです。

「考えなさい」  
 この11節においてとても大事なのが、これは前回にもお話ししたことですが、最後の「考えなさい」という言葉です。洗礼を受けた自分が、キリストの十字架の死にあずかって罪に対して死に、キリストの復活にあずかって神に対して新しく生きている、永遠の命を生き始めている、そのように「考えなさい」とパウロは言っているのです。ここは口語訳聖書では「認むべきである」と訳されていたと前回申しました。洗礼の恵みは、それが自分に与えられていると「考える」あるいは「認める」べきものなのです。ということは、洗礼の恵みは、私たちが自分の感覚においてそれを「感じる」ことができるものではない、ということです。私たちは、洗礼を受けたからといって、自分が罪に対して既に死んでおり、罪から解放されてもはや罪の中にはいない、だから罪の中に留まることなどあり得ないということを、自分の感覚において実感することは出来ません。洗礼を受けた私たちにも、弱さがあり、罪があり、不信仰があります。罪に支配されてしまっている古い自分がなお生きており、罪から解放されてなどいないことを思い知らされることばかりなのです。しかしそこで、洗礼を受けたのにそんなことではだめだ、自分が罪から解放されており、永遠の命を生き始めていることをもっと実感できるようにならなければいけない、と思うなら、それは結局自分の努力や力で救いを獲得しなければならない、ということです。律法をきちんと守ることによって救いを得る、というのと同じことになります。そういうことが求められているのではありません。私たちに求められているのは、罪に対して死んで、神に対して生きていることを「実感する」ことではなくて、そのように「考える」こと、それを「認める」ことなのです。それは言い換えれば、「信じる」ことです。洗礼を受けたことによって、罪に支配された古い自分が死んで、キリストの復活にあずかって新しい命を生き始めていることは、感じるべきことではなくて、信じるべきことなのです。

感じることと信じること  
 信じるというのは、ただそのように思い込むことではありません。自分に都合のよいことを自分で自分に暗示をかけて信じ込むようなこととは全く違うのです。洗礼の恵みは「感じる」ものではなくて「信じる」ものだ、ということの意味を正しく捉えなければなりません。「感じる」というのはこの場合、自分が自分のことをどのように感じているか、つまり自分の目に自分がどのくらい罪から解放されて新しい命に生きているように見えているか、そういう自分の感覚によって自分自身のことを見つめ判断することです。それに対して「信じる」というのは、自分の感覚によって自分を理解し捉えることをやめて、神のみ言葉によって、神が宣言しておられることに従って自分を見つめることです。自分が自分のことをどう感じているか、自分の目で見てどれくらい罪から解放されているかではなくて、神が自分のことをどう見ておられるのかを、神の言葉から聞き、それを受け入れる、それが神を信じるということです。要するに、自分の感覚よりも神のみ言葉の方が正しいと認め、それを受け入れ、信じるのです。「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」とパウロが言ったのはそういうことです。洗礼を受けることによって、キリストの十字架の死と復活にあずかり、罪に対して死んで、神に対して生きる者とされるという恵みは、神が全能の力によってして下さっている神のみ業であって、神は洗礼を受けた者に、「あなたは罪に対して既に死んでおり、キリストと共に神に対して生きているのだ」と宣言しておられ、私たちに、自分の感覚や実感よりも、そのみ言葉の方を信じ、認め、受け入れることを求めておられるのです。

洗礼の恵みを大胆に信じて  
 既に洗礼を受けた者には、この神のみ言葉を、自分に対して語られている宣言をしっかり受け止め、自分の実感に逆らってそれを信じることが求められています。そこで自分の感覚や実感に固執して、自分が何を出来るとか出来ないということにこだわっていると、私たちはいつまでたっても罪から解放された新しい命を生きることはできないでしょう。み言葉が告げている恵みを大胆に信じるところにこそ、自分の力によってではなく、聖霊の力によって新しく生きる道が開かれていくのです。また、主イエスを信じる信仰に生きることを今考え、求めつつ礼拝に集っておられる方々には、罪に支配された古い自分が死んで罪から解放され、主イエスと共に新しい命、永遠の命を生きて行く、という洗礼の恵みへと神が皆さんを招いておられることをぜひ知っていただきたいのです。自分は罪人であり弱い者で立派なクリスチャンになどなれそうもないから洗礼を受けることなどできない、という誰もが抱く当然の思いは、しかし間違っています。神の言葉は、そういう私たちの思い、感覚、実感を打ち砕いて、神が備えて下さっている洗礼の恵みへと皆さんを招こうとしているのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編98編は、主なる神が驚くべき救いのみ業を成し遂げて下さったから、これまでの古い歌ではなく、新しい歌を歌おう、と呼びかけています。神の独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活とに心も体も浸され、主イエスと一つとされて、主イエスが生きておられる永遠の命にあずかって生きる者とされる洗礼を受けることによって、私たちも、神の驚くべき救いのみ業にあずかって、新しい歌を歌うことができます。罪の支配の中に座り込んでいる私たちが立ち上がり、喜びの歌を歌って主の救いのみ業をほめたたえつつ、罪の力と戦っていく者となることができるのです。

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