「贖い主キリスト」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:出エジプト記第25章10-22節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第3章21-26節
・ 讃美歌:451、141、379
召天者と共に礼拝する
本日私たちはこの礼拝を、召天者記念礼拝として守っています。お手元に、召天者名簿をお配りしました。1986年以降、教会員として天に召された方々、また教会で葬儀が行われた方々のお名前がここに記されています。この教会の141年の歴史において、これ以前にも勿論多くの人々が教会員として生き、そして天に召されました。私たちが顔も名前も知らない多くの方々のことをも覚えて私たちは今この礼拝をしているのです。それは決して、召天者の冥福を祈るためではありません。このことは昨年のこの召天者記念礼拝においても申しました。私たちがこのような礼拝をしないと、これらの方々の冥土での幸福が、キリスト教的に言えば天国での平安が保障されないわけではないし、まして、私たちが供養をしなければ死んだ人々が浮かばれないとか天国に行けない、などということはありません。聖書の信仰においては、主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、死んだ人々は、「召天」という言葉が示しているように、天に召されたのです。天とは神のみもとです。そこに主イエスもおられます。これらの方々は、神のみもと、主イエスのみもとに召され、地上の人生における苦しみや悲しみの全てから解放されて、既に平安を与えられているのです。そのことは遺された私たちが地上でその人たちのために何かをすることによってようやく実現するのではなくて、神の恵みによって既に与えられている恵みです。ですから召天者記念礼拝は、亡くなった方々のために行うものではありません。私たちはむしろ、亡くなった方々と共に神を礼拝するのです。天に召された方々は今、神のみもとで、父なる神をほめたたえ、礼拝しています。その方々の天における礼拝に声を合わせて、私たちは地上で、共に神をほめたたえ、礼拝するのです。葬儀の時には最後に必ず頌栄29番を歌うことにしていますが、その歌詞は「天のみ民も、地にある者も、父、子、聖霊なる神をたたえよ。とこしえまでも」です。天に召された方々と、地にある私たちが、共に声を合わせて神をほめたたえ、礼拝するのです。そこにこそ、召天者の方々と私たちとをつなぐ絆があります。神を礼拝することによってこそ、私たちは先に天に召された方々とのつながりを持つことができるのです。
死への備え
そしてこの礼拝において私たちは、私たちもいつか天に召され、召天者の仲間に加えられていく、その備えをしていると言うことができます。礼拝において私たちは、自分の死に備えているのです。召天者記念礼拝だけがそうなのではなく、毎週の主の日の礼拝がいつでもそうです。考えてみれば、来週またここで礼拝ができるという保障はどこにもありません。私たちの命は、たとえ元気な若者であっても、今週の内に終わるかもしれないのです。今日のこの礼拝が、地上における最後の礼拝になるかもしれないのです。今週訪れるかもしれない自分の死に備える思いでこの礼拝を守る、それが毎週の礼拝の正しい守り方です。しかし、礼拝が死への備えであるのは、今週の内にも死んでしまうかもしれないから、というだけのことではありません。私たちは死んだらどうなるのでしょうか。天に召され、神のみもとに行って、そこで何をするのでしょうか。それは私たちには今ははっきりとは分かりません。いつか必ず分かる日が来るのですから、今急いで知ろうとしなくてもよいでしょう。しかし一つだけ分かっていることがあります。それは、私たちは死んだら神のみもとに召され、そこで神を礼拝する者となる、ということです。私たち人間が神のみもとに行って、そのみ前においてすることの中で、最も自然なまた相応しいことは、神を拝み賛美すること、つまり礼拝することです。私たちが今地上でしている様々なことの中で、礼拝こそが、死んで神のみもとに召されてからもすることになるただ一つのことなのです。その他のことは全て、死ねば終りになります。死んでも続けられる仕事や趣味はありません。神を礼拝することのみが、私たちがこの地上でもなし、死んだ後天においてもしていくことなのです。そういう意味で、毎週の礼拝は死への備えであると言えるのです。
地上の礼拝と天の礼拝
そのように申しますと、天に召されてからは四六時中礼拝をすることになるのか、それは窮屈で退屈でご免被りたい、と思う人もいるでしょう。でも安心して下さい。このように日曜日に教会に集まり、聖書が読まれ、讃美歌を歌い、牧師の長い説教を聞かされるというのは、地上における礼拝の姿です。しかし天に召されてからの、神のみもとにおける礼拝は、神と、そして独り子イエス・キリストと直接お目にかかり、あるいはそのみ腕の中に抱かれての礼拝です。そこには教会もなければ聖書も説教もありません。聖書に記され、教会において語られている神の救いの恵みそのものを、その完全な喜びと平安を、私たちは天における礼拝で味わうことができるのです。天における礼拝は完成された礼拝です。私たちが地上で守っている礼拝はその影のようなものであり、天における礼拝の喜びと平安のほんの一端を味わい、試食しているだけです。ですから天における礼拝には、窮屈だとか退屈だとか説教が長いとかよく分からないなどということはありません。私たちが今、週に一度の礼拝においてまことに不完全な仕方で、ほんの一口だけ味わっている神の救いの恵み、その喜びと平安を、召天者の方々は、神のみもとで、常に、豊かに味わっておられるのです。
神の義を与えられて
このように召天者の方々は、天における、神のみもとにおける礼拝の恵みに入れられているわけですが、その方々はどうしてその恵みを得ることができたのでしょうか。人間誰でも死ねば自動的に神のもとに行ってそのような礼拝をするようになるわけではありません。それは神によって与えられる恵みです。「召天者」とは、神によって天に召された者です。神が召して下さって初めて「召天者」となれるのです。それではこれらの方々はどのようにして召天者とされたのでしょうか。生きている間に特別に良い行いをし、善行を積んだからその報いとして天に召されることができたのでしょうか。そうではありません。本日の新約聖書の箇所であるローマの信徒への手紙第3章21節以下がそのことを語っています。ここには「神の義」という言葉が繰り返し語られています。先週の説教においてお話ししたのですが、この「神の義」というのは、神が、ご自分の義つまり正しさを、義ではない、正しくない、つまり罪人である人間に与えて下さり、人間を義なる者、正しい者と見なして下さる、つまり罪を赦して下さるということです。神の義を与えられて義なる者とされることが、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる救いなのです。この救いにあずかった者が、死んで神のみもとに召され、つまり召天者とされて、喜びと平安に満ちた礼拝の恵みを与えられるのです。つまり召天者の方々は「神の義」を与えられた方々なのです。その神の義はどのようにして与えられるのか、23、24節にそれが語られています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。神の義つまり神の救いは、誰にでも自動的に与えられるのではありません。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」とあるように、私たちは皆、根本的に、神に背き逆らっている罪人です。神を敬い従うことを良しとせず、自分が主人になり、自分の思い通りに生きようとしています。その結果神をも隣人をも愛することが出来なくなり、神とも隣人とも、良い関係を築くことができずに破壊してしまうことばかりを繰り返してしまうのです。そのような罪人である私たちは、この世においても、死んだ後においても、神のみ前で喜びと平安の内に礼拝をすることなど本来できないのです。しかしそのような罪人である私たちが、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」と聖書は語っています。これこそが、聖書が語るキリスト教の救いの中心です。キリスト教を信じるというのは、このことを信じることなのです。このように神の恵みによって義とされたことを信じるがゆえに、私たちは、今この地上においても、神のみ前に出て礼拝をすることができるし、召天者の方々が、神のみもとで今喜びと平安の内に礼拝をしていると信じることができるのです。
イエス・キリストによる贖い
私たちを義とする「キリスト・イエスによる贖い」とはどういうことでしょうか。「贖い」とは、代金を払って買い取ることです。身代金を払って捕虜や奴隷を解放するという意味もあります。ある人や力の支配下に置かれている者をその支配から解放するために代償を払うことです。この言葉は旧約聖書では、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を、神がモーセを遣わして奴隷状態から解放して下さった、出エジプトの出来事を現す言葉として用いられています。それと同じ贖いの業を、主イエス・キリストが私たちのためにして下さったのです。私たちは罪の力に支配されています。勿論私たちが罪を犯すのは自分の意志によってであり、それを何かのせいにすることはできません。しかし自分の意志によってその罪から抜け出すことが出来るかというと、それは出来ないと言わざるを得ないのです。罪は私たちを支配している力であり、私たちは罪の虜となっており、自力でそこから脱出することが出来ないのです。その私たちを罪の支配から解放するために、主イエス・キリストが代償を払って下さった、それが「キリスト・イエスによる贖い」なのです。
主イエスが私たちのために払って下さった代償のことが25節にこう語られています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」。この文章の主語は神です。キリスト・イエスによる贖いの業、主イエスが私たちのために代償を払って下さったことは、キリストの業であると同時に、もっと根本的には神のみ業だったのです。神が、その独り子主イエスを「罪を償う供え物」として立てて下さったのです。私たちを贖い、義として、神のみ前に立つことが出来るように、礼拝をすることが出来るようにして下さったのは、神ご自身なのです。神はそのために独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その命を、私たちの救いのための身代金、代償として支払って下さったのです。
罪を償う供え物
神は主イエスを、「罪を償う供え物」として立てた、と言われていますが、この「罪を償う供え物」という言葉は、原文では一つの単語です。そしてその言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の個所である出エジプト記第25章に出て来る言葉のギリシャ語訳なのです。出エジプト記25章17節以下には、「贖いの座」を作りなさいという命令が語られています。この「贖いの座」が訳されて「罪を償う供え物」という言葉になったのです。そこでこの「贖いの座」について見ていきたいと思います。出エジプト記25章以下は「幕屋」の作り方を語っています。幕屋は、荒れ野を旅しているイスラエルの民が神を礼拝するための場所です。カナンの地に入って定住してからはそれが神殿へと発展していきました。先ほど朗読された10節以下には、その幕屋の中に置かれる「箱」の作り方が語られています。この箱は、16節にあるように、神が与えて下さった掟の板、つまり十戒を記した石の板を納めるためのものです。「契約の箱」と呼ばれるこの箱が、幕屋の最も奥にある至聖所の中に置かれるのです。そして「贖いの座」とは、この箱の蓋です。純金で作られ、一対のケルビム、それは翼のある、天使のような怪物のようなものですが、それが両端に翼を広げた姿で向かい合って置かれています。そして22節にこうあります。「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、即ち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」。つまりこの契約の箱の蓋である「贖いの座」は、神がそこで人々にご自身を現し、語りかけて下さる、神と人間との出会いの場、交わりの場という意味を持っているのです。それが「贖いの座」と呼ばれているのは、一年に一度、イスラエルの民全体の罪の贖いのための儀式がそこで行われるからです。そのことはレビ記16章に語られていますが、年に一度、大祭司が至聖所に入り、この「贖いの座」に、罪を償う供え物として動物の血を注ぐことによって、民全体の罪の贖いをするのです。そのことからこの掟の箱の蓋は「贖いの座」と呼ばれているのです。「神が、キリストを立てて、罪を償う供え物とされた」という言い方は、当然この贖いの儀式を意識しているのです。それによって、25節の「その血によって」という言葉の意味が分かります。イスラエルの民全体の罪の贖い、赦しのために犠牲の動物の血が「贖いの座」に注がれたように、私たちの罪の贖い、赦しのために、主イエス・キリストの血が注がれたのです。血は命を現しています。犠牲の動物の血が注がれたということは、その命がささげられたということです。同じように主イエスの血が注がれたということは、主イエスの命が犠牲としてささげられたのです。それが主イエスの十字架の死です。神は、独り子である主イエスをこの世に、一人の人間として遣わし、その主イエスが十字架にかけられ、血を流して死ぬことによって、私たちを罪の支配から解放するための贖いの業を行なって下さったのです。それが「キリスト・イエスによる贖いの業」です。私たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって罪の贖い、赦しを与えられているのです。その恵みを信じることによって義とされ、神のみ前に出て礼拝をすることが出来る者とされているのです。
無償で与えられる恵み
24節にあったように、それは「無償で」与えられる恵みです。つまり「ただで」です。私たちは、この救いの恵みをいただき、義とされ、神を礼拝することができるようになるために、何の代償も支払う必要はないのです。そのために支払われるべき代償は、全て、主イエス・キリストが、その十字架の死によって既に支払って下さっているからです。それはあたかも、私たちがお財布を出して支払いをしようとしたら、「いや、お代はもういただいていますから」と言われるようなものです。私たちの知らないうちに、神が、独り子主イエス・キリストの十字架の死という代償を、私たちのために支払って下さっていたのです。そのことを知らされてびっくり仰天し、そして喜び、感謝して、神のもとに、主イエスのもとに馳せ参じて、神をほめたたえ、礼拝しながら生きていく、それが信仰をもって生きることです。私たちはこの信仰によって、神を礼拝しつつこの世を生きていくのだし、この信仰によって来るべき死に備えていくのです。召天者の方々は、この主イエス・キリストによる贖いの恵みを信じることによって、神の義を与えられ、そして今、神のみもとで、主イエスの十字架の死による贖いの恵みを感謝しつつ、神をほめたたえ、喜びと平安の内に礼拝をしているのです。
この神の救いの恵みは、繰り返しますが無償で与えられるものです。召天者の方々が、地上の人生においてどんなよい業を行ったか、どんな優れた業績をあげ、あるいはどんな良い人だったか、ということと全く関わりなく、神が、み子イエス・キリストの十字架の死によって、この方々の罪を贖い、義として下さったのです。私たち人間がすることは、この神の恵みによって与えられている義を感謝していただくことです。その恵みに対して「アーメン」と、つまり「本当にその通りです。それは真実です」と告白することです。それが信仰であり、その信仰によって私たちは、この世においても神を礼拝しつつ生きる者とされ、そして死んだ後も、神のみもとに召されて、喜びと平安の内に神を礼拝する者とされるのです。
神の恵みに身を委ねて
この恵みに私たちがどれだけ十分に応えているか、感謝と応答の生活を送っているか、それはまことに心もとないものであると言わなければならないでしょう。それは今覚えている召天者の方々においても同じだったでしょう。しかし神は、私たちが十分に恵みに応えていないからといって、神の義、贖いの恵みを取り消してしまうような方ではありません。ですから私たちは、余計な心配をせずに、神の恵みに自分の身を委ねればよいのです。また、この召天者名簿の中には、洗礼を受けておられなかったけれども、教会で葬儀が行われた方々も含まれています。ご家族の信仰のゆえに、教会で葬儀が行われたのです。私たちは、それらの方々のことをも、私たちを無償で義とし、贖って下さる神の恵みにお委ねすることができます。それゆえに、それらの方々もまた召天者名簿に記されているのです。
私たちの歩みは罪に捕えられており、それによって様々な悲惨なことがあります。主の恵みに応えていく私たちの信仰にもいろいろと欠けがあり、全く不十分なものです。私たち自身もそうだし、召天者の方々も皆そうでした。しかし私たちは、み子イエス・キリストを私たちの罪を償う供え物として立てて下さった神の贖いの恵みの下に置かれており、その恵みに信頼して身を委ねることを許されているのです。その神の恵みにこそ、召天者の方々が今神のみもとで喜びと平安に満ちた礼拝を与えられていると信じる根拠があるのだし、私たちが、それぞれの地上の人生を、主の日の礼拝を守りつつ生きていく、その信仰の歩みを支える土台もまた、み子イエス・キリストによる贖いの恵みなのです。