主日礼拝

倒錯

「倒錯」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:エレミヤ書第2章1-13節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第1章18-32節
・ 讃美歌: 4、225、361

罪に陥っている人間
先週に続いて、ローマの信徒への手紙の第1章18節以下を読みま す。その冒頭の18節の「不義によって真理の働きを妨げる人間のあ らゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」という 文章が、この18節以下の言わばタイトルとなっています。人間の不 信心と不義に対して神は怒りを現されるのだ、ということをこの18 節以下は語っているのです。そして19-23節には、その不信心と 不義、つまり神がお怒りになる人間の罪の内容が語られています。先 週はそのことを中心にみ言葉に聞きました。その罪とは21節の言葉 で言えば「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することも せず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」とい うことです。それは具体的には23節にあるように「滅びることのな い神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取 り替えた」ということ、つまり偶像を造って神として拝むことだと言 われています。ここでパウロが見つめている人間の罪の根本にあるも のは何なのかを先週お話ししました。それは、被造物である人間が、 創造者である神との区別、違い、隔たりを見失って、神を人間やこの 世界のものに引き寄せてしまうこと、つまり自分の思いによってコン トロールできる、自分のための神としてしまうことです。「神を知り ながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、む なしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」というのはそういうこと ですし、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這 うものなどに似せた像と取り替えた」というのも、創造者である神の 滅びることのない栄光と、被造物であり滅び去るものである人間やこ の世のものとの区別、違い、隔たりを見失ってしまうことです。従っ てこれは、偶像を安置して拝んでいるかどうか、という表面的な問題 ではありません。天地の創造者であられる神と、被造物である人間と の間の越えることのできない隔たりを意識して、恐れをもってみ前に ひれ伏し礼拝するのでなく、自分のよく分かる、自分の思い通りにな る身近で手頃な神を求めてしまうことが問題なのです。目に見える偶 像を拝んではいなくても、私たち人間は皆この罪に陥っているのです 。

罪に引き渡された人間の倒錯
神はこのような私たちの罪に対して、天から怒りを現されます。神 がその怒りをどのように現されたのかを語っているのが24節以下で す。24節前半に「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なこと をするにまかせられ」とあります。神は、私たち人間が欲望のままに 生きるに任せられたのです。そのことは26節にも語られています 。「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました」。ここに 二回語られている「任せられた」という言葉は「引き渡す」という意 味の言葉です。神は人間を罪へと、欲望に従って生きることへと引き 渡したのです。神の怒りはそのように現されました。人間の罪に対す る神の怒りは、何かの罰を下すという仕方によってではなくて、その 罪に人間を引き渡し、その罪の結果をとことん体験させる、というこ とによって現されているのです。
そのように罪に任され引き渡された結果人間はどのようなことをし ていったのでしょうか。24節には「そのため、彼らは互いにその体 を辱めました」とあります。26節以下にはそのことがさらに詳しく 、「女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との 自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきこと を行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」と語られ ています。これは明らかに、いわゆる「同性愛」のことを言っていま す。パウロはそれが、神が人間を罪に任せ、引き渡した結果生じてき たことだと言っているのです。同性愛などのいわゆる「性的少数者」 についての認識は、この当時と現在とでは大きく変わっています。先 日、アメリカの連邦最高裁が、同性どうしの結婚を認める判決を下し ました。つまりアメリカでは、同性婚を認めないという主張は憲法違 反となったのです。この決定に戸惑いを覚えている人も少なからずお り、特にキリスト教会はこれにどう対応するか、難しい選択を迫られ ています。私たちの社会も次第にそのようになっていくのでしょう。 医学的にも、性的少数者は一定程度の割合で必ずおり、つまりそれが 自然なのだと言われるようになっています。パウロはここで、当時の 社会で常識とされていた倫理観に基づいて語っていますが、倫理観は 時代と共に変わっていくのです。ですから私たちはパウロがここで語 っていることを、同性愛を認めるか認めないかという問題に限ってし まってはなりません。神が人間を罪に任せ、引き渡したことによって 起ったことの根本は、25節にある「神の真理を偽りに替え、造り主 の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです」ということです 。それをさらに普遍的に語っているのが28節です。「彼らは神を認 めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのた め、彼らはしてはならないことをするようになりました」。罪に引き 渡された人間は、神を認めようとせず、神ではないものを拝み、仕え 、その結果無価値な思いに陥り、してはならないことをするようにな ったのです。これが罪に引き渡された結果です。その代表的な現れと してパウロは、当時の倫理観に基づいて同性愛のことをあげたのです 。ですからここで同性愛のことにこだわることは危険です。同性愛が 罪で、それさえしていなければ罪に陥っていないように考えてしまっ たら、それはパウロの言っていることとは全く違うのです。罪の根本 は、創造者である神を見上げ、礼拝し、従うのでなく、造られた物ば かりに目を向け、それを第一にして拝んだり仕えたりすることです。 創造者と被造物との正しい関係を見失い、それをひっくり返して、被 造物を第一にしてしまうのです。「神の真理を偽りに替え、造り主の 代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」とはそういうことです。 つまりそれは先程も申しましたように、偶像を拝むという表面的な行 為だけを言っているのではなくて、創造者と被造物との関係を逆転さ せてしまうことを意味しているのです。それが、本日の説教の題であ る「倒錯」ということです。倒錯とは、正しい秩序をひっくり返し、 逆転させてしまうという意味です。パウロはその分かりやすい例とし て、当時の常識に基づいて同性愛をあげたのです。しかし彼が見つめ ている倒錯はいわゆる「性的倒錯」だけではありません。29節以下 には、創造者と被造物との正しい関係の逆転、倒錯の現れとして様々 なことがあげられています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に 満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人を そしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたく らみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」。これらの罪 は全て、神が人間を罪に任せ、引き渡したことの結果、人間が神と自 分との正しい関係を逆転させてしまったことによって生じてきたのだ 、とパウロは言っているのです。

人間関係における罪
ここに並べられていることはどれも、人間どうしの関係における罪 です。「神を憎み」というのだけは神に対する罪だと言えるかもしれ ませんが、「人をそしり」と「人を侮り」の間に「神を憎み」が置か れているのは、人をそしったり侮ったりすることと、神を憎むことと は表裏一体であり、切り離すことができないことを示していると言え るでしょう。そこにも現れているように、ここに並べられている人に 対する罪、人間関係を破壊してしまう罪は、創造者である神との正し い関係の逆転、神と人間との秩序をひっくり返してしまう倒錯から生 じているのです。「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られ た物を拝んでこれに仕えた」という神との関係の倒錯によって、神と の良い関係が失われただけでなく、人との間の良い関係を破壊してし まうこれらの罪が生じているのです。
それゆえに私たちがここで考えるべきことは、ここに並べられてい る数多くの罪の中で自分はどれとどれに陥っているだろうか、という ことではありません。天地の創造者である神の前で、自分が造られた 者、被造物であることをわきまえて、神を神としてあがめ、感謝し、 礼拝するという正しい関係を逆転させ、神を自分のコントロールの下 に置こうとし、自分の思いや願いに応えてくれる神を求めている私た ちは、置かれた状況次第でこれらのどの罪にでも陥っていくのです。 そしてそのような私たちが築いている社会も、これらの罪に満ちてい るのです。
自分が被造物であることを忘れ、創造者である神の守り、導きを見 失った人間は、自分の力しか頼るものがありません。だから自分で自 分や家族や仲間たちのものをしっかりと確保し、守ることに必死にな らざるを得ないのです。そこに、むさぼりの罪が生じます。そのむさ ぼりによってこの社会には今富の集中が起り、格差が広がり、貧しい 者が顧みられなくなっているのです。そのような格差は人々の間に不 和を生じさせ、社会の一体性を失わせています。また神が私たちそれ ぞれを良いものとして造り、それぞれに相応しい賜物を与えて養い、 導いて下さっていることを見失った人間は、つまり神の自分に対する 愛を見失った人間は、自分と他の人とを見比べることによってしか自 分の価値を確かめることができません。そこには、優越感を感じて高 慢になり人を侮ることや、逆に劣等感の中でねたみを覚えて人を憎ん だり悪口を言ったりすることが起ります。そのねたみは殺意をも生じ させていくのです。陰口を言い、人をそしり、侮ることは人を殺すの と同じです。いじめとかハラスメントによって人の人格を否定し、殺 すことがこの社会に満ちています。それらの根本には、神の自分に対 する愛を見ることができないということがあるのです。神の愛を見る ことができない人間は、神を愛することができず、むしろ憎むように なります。それは自分が自分であることを喜べない、自分で自分を愛 せないということです。神を愛せない人は自分自身を愛することもで きないのです。自分自身を愛しておらず、喜んでいない人は、人のこ とをも愛し喜ぶことができません。人に対して悪意を抱き、陰口を言 い、人をそしり、不和を生み出していってしまうのです。また天地を お造りになった神のご支配、導きを見つめていない人間は、人間を越 える権威への畏れを失います。全ては相対的になり、この世の力関係 、かけひきのみで事が決まると考えるようになるのです。そこにはご まかしが、嘘が生じます。人間の目さえごまかせれば大丈夫、という 感覚が生まれるのです。31節の「無知、不誠実、無情、無慈悲」は 、このような神への畏れの喪失から生じるのではないでしょうか。「 無知」とはまさに創造者への無知、自分が被造物であることの無知で あり、人間を越えた神のご支配、人間をお審きになる神への無知です 。それが不誠実を生み、そこには他の人を大切にする思いを失った無 情、無慈悲が生じるのです。

罪は倒錯である
パウロはこのように、創造者であられる神との関係における逆転、 倒錯が、人間どうしの関係、交わりにおける倒錯を、愛を失った不適 切な関係を生じさせていることを見つめています。要するに私たちの 罪の根本には神に対する罪があり、神との関係の破れがある、そのた めに人間どうしの罪が生じており、その罪によって人間関係が破れて しまっており、社会全体が不義、悪に支配されてしまっていることを 見つめているのです。このパウロの指摘から私たちが受け止めるべき ことは、人間はこのような罪に陥っているのだ、ということだけでは ありません。パウロは、このような罪に陥っている人間のあり方を、 倒錯した、ひっくり返った、つまり本来あるべきでない姿として見つ めているのです。そのことを知ることが大切です。私たちは、これら の罪に陥っている状態をむしろ自然なこと、人間としての本来の姿だ と思ってはいないでしょうか。このような罪を犯しつつ生きているこ とが人間らしいあり方であって、罪を犯さないで生きるというのは理 想論、建前に過ぎない、とどこかで思っているのではないでしょうか 。そのように思っている所には、自分の罪を本当に真剣に問題にし、 それを悔いることは生まれません。むしろ32節にあるように「彼ら は、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知ってい ながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認し ています」ということになるのです。つまり、自分の罪も他人の罪も 、そして社会における罪も、是認しており、罪を本当に罪として、あ ってはならないこととして問題にしない、ということです。だから「 自分は罪人だ」と口で言っていても、そのことを本当は問題に感じて いない、罪人であって当たり前だ、それが自然なんだ、ぐらいに思っ ているのです。パウロがここで語っていることは、そのような私たち の思いを打ち砕きます。罪を犯しているということは、私たちの歩み が倒錯した、ひっくり返った、本来の姿を失った不自然なものになっ ているということだ、そしてそのような私たちの罪に対して、神は怒 りを現されるのだ、とパウロは語っているのです。

罪の結果を味わっている私たち
その神の怒りは、先程も申しましたように、人間を罪に任せ、引き 渡すことにおいて現されました。神は私たちが心の欲望によって不潔 なことをするに任せ、恥ずべき情欲に任せられたのです。創造者であ る神を認めようとしない人間を、無価値な思いに引き渡したのです。 先程見た私たちの罪、私たちが築いているこの社会に満ちている罪は 、神が私たちを無価値な思いに引き渡し罪を犯すに任せたことによっ て起っているのです。つまり神は私たちに、自分の罪のもたらす結果 を徹底的に味わわせようとしておられるのです。私たちの間には、あ らゆる不義、悪が満ちています。その根本にあるのは「むさぼり」で あり、そのためにこの社会に悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念 が溢れています。私たちの人間関係も、陰口を言い、人をそしり、人 を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らうこと によって破壊されています。私たちも、この社会全体も、無知、不誠 実、無情、無慈悲に満ちています。これら全てのことの根本には、私 たちが「神を認めようとしない」こと、つまりこの世界を造り、私た ちに命を与えて下さった神の愛を認めようとせず、その神を愛するこ とをせず、むしろ憎んでいるという罪があります。その罪の結果とし て、私たちはこれらの「無価値な思い」に引き渡されているのです。 私たちはこのことを、神への恐れをもって受け止めなければなりませ ん。私たちは人間関係の破れによって起る様々な悲惨な出来事を体験 する時、またこの社会に不義、悪が満ちていることを見る時に、神が おられるならどうしてこんな悲惨なことが起るのか、神はなぜこのよ うな不義、悪を放っておかれるのか、と思ったりします。しかしそれ は私たちの罪の結果なのであり、神は私たちに自分たちの罪の結果を 味わわせておられるのです。私たちはそこに示されている神の怒りを 知り、私たちが創造者である神と被造物である人間との正しい関係を ひっくり返してしまっている、その倒錯の結果としてこのような悲惨 なことが起っていることを見つめなければならないのです。

主イエスを引き渡した神
神が私たちを罪の結果に任せられ、無価値な思いに引き渡すことに よって、人間の罪に対する怒りを現された、そのことを見つめるとこ ろにこそ、その罪からの救いを与えて下さる神の恵みもまた見えてき ます。24節の「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことを するにまかせられ」の「まかせる」と、26節の「それで、神は彼ら を恥ずべき情欲にまかせられました」の「まかせる」は「引き渡す」 という言葉だと先程申しました。28節の「神は彼らを無価値な思い に渡され」の「渡す」もそれと同じ「引き渡す」という言葉です。つ まりこの箇所には、神が人間を罪の結果へと「引き渡した」というこ とが三回語られ、強調されているのです。この「引き渡す」という言 葉は、この手紙の8章32節にも出てきます。そこにはこのように語 られています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しま ず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜ら ないはずがありましょうか」。「御子をさえ惜しまず死に渡された」 その「渡す」が「引き渡す」という言葉です。つまりこの言葉は、父 なる神が独り子主イエスを十字架の死に引き渡して下さり、それによ って私たちに罪の赦しを与え、救いを実現して下さったことを語る言 葉でもあるのです。この言葉は新約聖書において、主イエスの十字架 の死を語る場面で頻繁に用いられています。神は人間を罪に引き渡し 、無価値な思いに引き渡して、その悲惨さを味わわされましたが、そ れだけでなく、その罪の悲惨さの中に置かれている私たちのために、 御子イエス・キリストを死に引き渡し、それによって私たちに罪の赦 しを与えて下さったのです。人間を罪に引き渡すことによって、私た ちの罪に対する神の怒りが現されましたが、神はその怒りを私たちに 代って背負う者として御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡し て下さったのです。私たちはそのことをも共に見つめることを許され ています。自分たちの罪の結果である悲惨さを味わい、神の怒りを恐 れをもって覚える私たちは、同時にそこで、私たちの罪を私たちに代 って全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリス トを見つめ、その主イエスが神の怒りを私たちに代って受けて下さっ たことを見つめることができるのです。

キリストによる救いの中で
18節以下の、人間の罪に対して神が怒りを現されたことを語って いる部分は、その前の16、17節を前提として、そこと共に読まれ なければならない、ということを先週も申しました。16、17節に は、神が主イエス・キリストにおいて、神の義を、つまり神がご自身 の義によって罪人である私たちを救って下さる、その救いの恵みを啓 示して下さったことが語られていました。その神の義、神による救い の啓示と共に、人間の罪に対する神の怒りは現されているのです。つ まり主イエス・キリストによって神が与えて下さっている救いの恵み の中でこそ、人間の罪とそのもたらしている悲惨さとを見つめるべき ことがここには語られているのです。神が私たちを罪に引き渡したの で、私たちは無価値な思いに支配され、あらゆる不義、悪に陥ってい る、私たちはその現実を、主イエス・キリストの十字架による赦しの 恵みの中でこそしっかりと見つめることができます。そして神がその 無価値な思いから私たちを救い出して、天地を造り私たちに命を与え て下さっている創造者なる神を礼拝し、感謝して神の下で生きるとい う正しい、正常な関係を回復して下さること、それによって私たちの 隣人との関係も、互いに愛し合う良い関係へと新たに築き直されてい くことを、私たちは信じ求めていくことができるのです。

関連記事

TOP