「創造者と被造物」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編第19編1-15節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第1章18-23節
・ 讃美歌: 3、117、223、77
16、17節を土台として
主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めていますが、い ろいろ他のことが入って来たために、前回この手紙からみ言葉に聞い たのはおよそ一ヶ月前の6月7日でした。その日にも本日と同じ1章 18-23節を読みました。その冒頭の18節に、「不義によって真 理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から 怒りを現されます」とあります。人間の不信心と不義に対して神が怒 りを現されることがこの18節以下に語られているのです。19節以 下には、その不信心と不義、つまり神がお怒りになっている人間の罪 の内容が語られています。ですからこの箇所の要はやはり18節です 。人間の罪に対して神が怒りを現される、そのことを私たちはここか ら先ずしっかりと聞き取らなければならないのです。それゆえに前回 の6月7日の説教では、18節のみを取り上げ、19節以下には触れ ませんでした。本日は19節以下の罪の内容をも見つめていきたいと 思います。しかしその前に、前回、6月7日にお話ししたことをもう 一度振り返っておきたいと思います。それが、人間の罪に対して神が 怒りを現されることを語っているこの部分を正しく読むための前提、 土台となるからです。前回お話ししたことの中心は、その前の所 、16、17節と18節のつながりでした。翻訳では、17節と18 節の間には段落があり、新しい小見出しまでつけられていますが、そ れらは後からつけられたものであって、原文には区切りも小見出しも ありません。また18節の原文には「なぜなら」とか「というのは」 などと訳すことができる接続詞があって、17節と繋げられているの です。17節には、福音には神の義が啓示されている、と語られてい ました。福音とは、神の御子イエス・キリストの十字架の死と復活に よる救いの知らせです。イエス・キリストによって実現した福音によ って、神の義が啓示されているのです。「神の義」の意味は 、16、17節の説教においてお話ししましたが、神がご自分の義、 つまり正しさを与えて、罪人である私たちを義として下さる、つまり 救って下さることです。キリストの十字架と復活による福音において 、この神の義、つまり神による救いの恵みが啓示されている、と17 節は語っているのです。18節はそれを受けて、この神の義つまり救 いの恵みと同時に、人間の罪に対する神の怒りも現わされているのだ と語っている、それが前回お話ししたことの中心です。キリストの十 字架と復活の福音において神の義が啓示される時に、そこには同時に 人間の罪に対する神の怒りも現され、啓示されているのです。17節 の「福音には神の義が啓示されている」の「啓示されている」と 、18節の「神は天から怒りを現される」の「現される」は、原文に おいて全く同じ言葉だ、ということも指摘しました。つまりキリスト の十字架と復活による福音において、神の義、神の救いの恵みが啓示 され、同時に人間の罪に対する神の怒りも啓示されたのです。 このことが、この箇所を正しく読むための前提、土台です。つまり 1章18節から始まる部分には、人間の罪とそれに対する神の怒りが 語られており、3章20節までそれが続くのですが、それらは決して そのことだけで見つめられ、語られているのではなくて、イエス・キ リストの十字架と復活による福音の中で、神の義、つまり神がご自身 の義を与えて罪人である私たちを救って下さる、その恵みと共に見つ められ、語られているのです。具体的には、18節以下は 、16、17節と結びつけて、その前提の下で読まれなければならな いのです。そこで、16、17節を改めて読んでおきます。18節以 下を読んでいくための前提としてここをいつも頭に置いておかなけれ ばならないのです。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人 をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力 だからです。福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めか ら終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によ って生きる』と書いてあるとおりです」。
人間の不信心と不義
さてこの福音の光の中で、神の義と共に現されている神の怒りとは どのようなものでしょうか。それは、「不義によって真理の働きを妨 げる人間のあらゆる不信心と不義に対して」の怒りです。その不信心 と不義について19-23節に語られているのです。その内容を見て いきます。19節には「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼ら にも明らかだからです。神がそれを示されたのです」とあります。私 たち人間には、神について知りうる事柄がある、神がそれをお示しに なったのだから、それは明らかなのだ、というのです。その神につい て知りうる事柄とは何か。それが20節です。「世界が造られたとき から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に 現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らに は弁解の余地がありません」。神について知りうる事柄、それは「目 に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性」です。神は私たち の目には見えないけれども、永遠の力と神としての性質を持っておら れる、神ご自身がそのことをお示しになったので、私たちはそれを明 らかに知ることができるのです。神がそれをお示しになったのは、こ の世界をお造りになったことによってです。世界が造られた時から、 造られたもの、被造物に、この神の見えない性質、その永遠の力と神 性が現されているのです。「従って、彼らには弁解の余地がありませ ん」、それは、「知らなかった」と言い逃れはできない、ということ です。ここから人間の不信心と不義との内容が示されていきます 。21節「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝 することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くな ったからです」。被造物を通して神がご自身を示して下さっており、 それによって神を知ることができるのに、神を神としてあがめること も感謝することもしない、それが人間の不信心と不義です。むなしい 思いにふけり、心が鈍く暗くなった、とも言われています。それは 22、23節のことです。「自分では知恵があると吹聴しながら愚か になり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這う ものなどに似せた像と取り替えたのです」。つまり、永遠の力と神性 を持った目に見えない神を、人間や獣などの目に見える像にしてしま い、偶像礼拝に陥った、それが「むなしい思いにふけり、心が鈍く暗 くなった」ことの具体的な内容です。つまり人間の不信心と不義との 根本にあるのは偶像礼拝なのです。これが、19-23節において見 つめられている人間の罪であり、それに対して神は怒りを現されるの です。
疑問
さて私たちはここを読んだ時にどのように感じるでしょうか。ここ に語られている罪、不信心や不義に自分自身も確かに陥っている、と 思うでしょうか。神を神としてあがめることも感謝することもしてい ないというのはその通りだ、と思うかもしれません。この世の多くの 人々は、神様のことなど考えずに、神様をあがめて礼拝するとか、感 謝することなしに生きている、いやクリスチャンとなり、教会の礼拝 をこうして守っている私たちだって、神様を本当に神様としてあがめ 、相応しい感謝を表して生きているかと問われれば、いやむしろ神様 を忘れて自分のことばかりに夢中になっているのが現実だ、と思うわ けです。だから確かに人間は誰もが、神を神としてあがめることも感 謝することもしないという罪に陥っているのかもしれない。けれども 、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うもの などに似せた像と取り替えた」というのはどうだろうか。確かにこの 世には、目に見える像を神や仏として拝んでいる人々が沢山いる。偶 像礼拝に捕われてしまっている人々がいる、しかし私たちはそのよう なことはしていない、教会には目に見える像は何もないし、うちの教 会には十字架すらもない、だから偶像礼拝の罪は私たちとは無縁だ。 と思うかもしれません。そうすると、ここに指摘されている人間の罪 は、少なくとも私たちには半分ぐらいしかあてはまらない、というこ とになります。そしてさらに、20節に語られている「世界が造られ たときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被 造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、 彼らには弁解の余地がありません」というのは本当だろうか、という 疑問が湧いてきます。被造物を見れば、神の目に見えない性質、永遠 の力と神性を、弁解の余地がないほどに知ることができると言えるの だろうか。むしろ被造物によって神を知ることができる、という捉え 方からこそ、神を人間や鳥や獣などに似せた像として拝む偶像礼拝が 生まれるのではないだろうか、とも思うのです。ですからこの 19-23節でパウロが語っている人間の罪、不信心と不義は私たち にとって分かりにくいし、なかなか自分自身の事柄として捉えること が難しいものだと思います。
創造者と被造物
そこで、19節以下をもう一度、違う仕方で読みたいと思います。 先程は、言葉と文章の意味をなぞることによって、表面的にここに語 られていることを捉えたわけですが、ここを本当に理解するためには 、もっと深い意味ないしはパウロが根本的に見つめていることを捉え る必要があるのです。それを捉えるための鍵となるのは20節の「世 界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力 と神性は被造物に現れており」という文章です。そしてその中でも注 目したいのは、「世界が造られたときから」と「被造物」という言葉 です。そこに、パウロがここで見つめている根本的なことが示されて います。それは、神がこの世界をお造りになった、ということであり 、この世界の全ては神による被造物である、ということです。神は創 造者であり、私たち人間を含めたこの世界の全ては被造物である、創 造者である神と、被造物である私たちおよびこの世界との間には、は っきりとした違い、区別、隔たりがある、それがパウロがここで語っ ていること全体の前提であり、土台なのです。この前提に立って読ま れなければ、パウロがここで語っていることを正しく理解できません 。そこに、私たちにとってこの箇所が分かりにくいことの原因がある のです。つまり私たちが自然に受け継いでいる日本的、東洋的なもの の考え方、捉え方においては、この前提が共有されていないからです 。日本的な感覚には、創造者と被造物という区別はそもそもありませ ん。この世界の、特に自然の様々なものと神とは連続しているのです 。ですから、この世界の、自然の中の様々なものを通して神が示され 表されているというのは私たちにとってむしろ自然な感覚です。そこ から、自然の様々なものを神として拝むことが生じるのだし、先程申 しましたように、神を人間や鳥や獣の像にして拝むことも生じるので す。それが弁解の余地のない罪だという指摘は、創造者と被造物との 間にははっきりとした区別、違い、隔たりがある、という前提に立つ ことによって初めて分かるのです。
区別、違い、隔たり
パウロはそのように、神は創造者であり、この世界の全ては被造物 であって神とは区別されるべきものだ、という前提のもとに語ってい ます。それはパウロが考えたことではなくて、旧約聖書が語っている ことであり、神の民イスラエルにおいて受け継がれてきた信仰です。 本日は詩編19編を共に読む箇所として選びましたが、その詩の冒頭 の「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」は、天とか大空 という被造物が、創造者である神の栄光を示している、と歌っている のです。つまり天や大空を見つめてそれらをほめたたえるのではなく て、それらを創造された主なる神をほめたたえるのです。また6、7 節には太陽のことが歌われていますが、それも太陽を賛美しているの ではなくて、その太陽を造り、それが毎日昇って沈むようにお定めに なった神をほめたたえているのです。天や大空や太陽も、創造者であ る神とははっきりと区別された被造物であり、それ自体を拝んだりほ めたたえるものではないのです。パウロがここで、世界が造られた時 から被造物において明らかにされているとしている神の永遠の力と神 性とは、この創造者としての栄光であり、「これを通して神を知るこ とができます」と言っているのは、被造物からの類推によって神がど のような方か分かるということではなくて、被造物は自らが被造物で あることを明確にすることによって、創造者としての神の栄光を示す ことができる、ということです。つまり被造物は、創造者である神と の区別、違い、隔たりを明確にすることによって、お造りになった神 を指し示すのです。その区別、違い、隔たりをきちんと見つめること なく、創造者である神を被造物である人間やこの世界のものに引き寄 せて、つまり人間が自分の思いによってコントロールできるもののよ うに捉えてしまうこと、それが「神を知りながら、神としてあがめる ことも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が 鈍く暗くなった」ということです。神を神としてあがめ、感謝すると は、創造者である神と被造物である自分との隔たり、違いを意識して 、人間の思いでどうすることもできない神の栄光をほめたたえ、その 神から与えられた恵みに感謝することです。その隔たり、違いを見失 って、神を自分の思いや願いによって動かし、自分のために便宜をは かってくれる存在を神としようとすることが「むなしい思い」であり 、それは心が「鈍く暗く」なっていることなのです。偶像を拝むこと において起っているのもそういうことです。「滅びることのない神の 栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え た」。創造者である神の滅びることのない栄光と、被造物であり滅び 去るものである人間やこの世のものとの区別、違い、隔たりを無視し て、両者を取り替えてしまうことが偶像礼拝なのです。創造者と被造 物の間には区別、違いがあり、越えることのできない隔たりがある、 という前提の下では、それはまさに「弁解の余地のない」罪なのです 。
私たちの罪
この罪は、私たちの誰にとっても決して無関係ではないでしょう。 私たちは、自分たちは偶像を拝んではいない、この教会には目に見え る像はない、と言って安心していることは出来ません。パウロがこれ を語った当時、ユダヤ人たちは偶像礼拝を厳しく否定し、そこから遠 ざかっていたのです。しかしパウロがここで指摘しているのは決して 、ユダヤ人以外の異邦人の罪ではありません。神の民であるユダヤ人 も含めて、いや神の民である彼らこそ、この罪に陥っているとパウロ は指摘しているのです。それは偶像を安置して拝んでいるかどうか、 という表面的なことではありません。神が天地の創造者であられ、自 分たちとこの世界の全てが神によって造られた被造物であることを認 めて、その神と人間との違い、越えることのできない隔たりを意識し て、恐れをもってみ前にひれ伏し礼拝するのでなく、神を自分に近い 所に引き降ろして、自分のよく分かる、自分の思い願いを適えてくれ る神を拝もうとする罪をパウロは見つめているのです。それは、偶像 を拝むことなく教会で礼拝をしている私たちだって同じように陥る罪 です。いやむしろ私たちの方が、天地創造の神を示され、自分たちと この世界が被造物であることを知らされている分だけ、その罪に対し て弁解の余地がないと言わなければならないでしょう。22節には 、「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり」とあります。私 たちも、神との正しい距離感を失うことによって、神のことが分かっ たようなつもりになり、自分は世間の人々よりも神を知っている、な どと傲慢にも思ってしまいます。そのように言いつつ、神を本当に「 神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思 いにふけり、心が鈍く暗く」なっている、それがまさに私たちの現実 なのではないでしょうか。
神の怒り
神はこのような私たちの罪に対して、天から怒りを現されます。そ れは私たちが悪いことをしたので神が怒っておられる、ということで はありません。問題は、被造物である私たちが、創造者であられる神 とどのような関係をもって生きているか、どのような距離感をもって 生きているかなのです。創造者と被造物との隔たりを忘れ、自分が神 によって命を与えられ、賜物を与えられ、守られ導かれて人生を歩み 、そして神によってその命が終わることを忘れて、自分の意志や力に よって生きているように思い、その自分の思いや願いのために神がど れだけ役に立つかと考え、神を自分の懐の中に入れておいて必要な時 にだけ登場させようとしている私たちは、神との正しい距離感を失っ ているのです。滅びることのない神の栄光を滅び去る自分の下へと引 きずり降ろしているのです。神はそのことに対してお怒りになります 。そして私たちとの正しい距離を保とうとなさいます。それは神が私 たちとの間に正しい関係を築こうとしておられるということです。神 の怒りは、私たちとの関係を破壊し、私たちを滅ぼそうとしているの ではなくて、私たちとの関係を正しく築こうとしているのです。
キリストの十字架と復活によって
ここにおいて、本日最初に確認したことが意味を持ってきます 。18節以下は16、17節の前提に立って読まれなければならない 、ということです。つまり神の怒りは、キリストの十字架と復活によ る福音において神の義が、つまりご自分の義を与えて下さることによ って罪人を救って下さる神の救いの恵みが啓示されたことと共に現さ れたのです。神の怒りはキリストによる救いの恵みの中でこそ現され たのです。私たちは創造者である神との距離感を見失い、神を自分の コントロールの下に引きずり降ろそうとする罪に陥っています。神と の正しい関係を損なってしまっています。主なる神はその罪人である 私たちのために、独り子主イエス・キリストを人間としてこの世に生 まれさせ、遣わして下さいました。創造者である神と被造物である人 間の間の越えることのできない隔たりを、神の子である主イエスが人 間となることによって乗り越えて下さったのです。この独り子主イエ スによって神は、私たちとの間に正しい関係を築いて下さいました。 神と人間との隔たりは、独り子を遣わして下さった神の恵みによって のみ乗り越えられるのです。私たち人間が、神との隔たりを自分で乗 り越え、神を自分のもとへと引きずり降ろそうとすることは罪であり 、私たちはその罪によって神との関係を損なってしまっています。人 間となられた主イエスは、その私たちの罪を全て背負って下さり、そ の罪に対する神の怒りを引き受けて、十字架にかかって死んで下さい ました。私たちの罪に対する神の怒りは、私たちの上にではなく、十 字架において独り子主イエスの上に下されたのです。その主イエスを 神は復活させ、永遠の命を与えて下さいました。この主イエスの十字 架の死と復活において、神は私たちとの間に正しい関係を新しく築い て下さったのです。
聖餐の恵み
主イエスの十字架と復活によって神が私たちとの間に築いて下さっ た新しい関係の印として、本日共にあずかる聖餐が与えられています 。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、神の独り子主イ エスが人間となり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下 さったことによって、神と人間との間の隔たりを乗り越えて、私たち との関係を新しく築いて下さった、その救いの恵みを、つまりキリス トの福音を味わい知るのです。その福音を味わい知る時に、被造物で ある私たちが創造者である神との隔たりを忘れて、自分のよく分かる 、自分のための神を造り出そうとすることがいかに愚かなことであり 、神との正しい関係を破壊する罪であるかもそこに見えてくるのです 。神はその私たちの罪に対して、天から怒りを現されます。しかしそ の怒りを、十字架の上で肉を裂き血を流して死んで下さった主イエス が背負って下さったので、私たちには罪の赦しが与えられています。 私たちの罪を乗り越えてよい関係を結んで下さる神の恵みを、私たち は聖餐において味わい知るのです。