「神の恵みの業」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編第71編1-24節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第1章16-17節
・ 讃美歌: 336、356、447
歴史を変えた箇所
本日ご一緒に読むローマの信徒への手紙の第1章16、17節は、聖書全体の中でも大変重要な箇所です。ここに、教会の信仰の中心となる事柄が凝縮されて語られているのです。そしてこの箇所は、キリスト教の歴史においても大きな意味を持っています。私たちプロテスタント教会が誕生した、マルティン・ルターによる宗教改革に、この箇所が大きな影響を与えたという歴史的事実があるのです。それについては後で触れますが、ルターは本日の箇所の17節「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」、ここから、当時のカトリック教会が見失っていたまことの福音、喜ばしい救いの知らせを聞き取ったのです。彼がその福音に忠実に生きようとしたことによって、宗教改革が起りました。本日のこの箇所は、キリスト教会の歴史、ひいては世界の歴史を変えた箇所だとも言えるのです。
福音を恥としない
この16、17節には、ローマの信徒への手紙の主題ないしは結論が語られていると言うことができます。この後語られていく全てのことは、この16、17節の説明であると言ってもよいのです。先週の礼拝では8~15節を読み、そして説教において、この8~15節はこの手紙の序文に当ると申しました。つまり本日の16節から、いよいよ本文に入るのです。パウロはその本文の最初に、直ちに、一番大切なこと、この手紙の結論とも言えることを語っているのです。しかしそれは決して唐突なことではありません。パウロの思いにおいては、16節はその前の15節と自然につながっています。今読んでいる新共同訳聖書のように、15節と16節の間に段落を設けて、「福音の力」などという小見出しまで付けてしまうと、16節からは全く新しいことが語られているように感じられてしまいますが、実際には16節は15節の続きです。そのことは、翻訳には現れていませんが、原文においては16節に「なぜなら」という接続詞があることから分かります。つまり16節は、新しいことを語り出しているのではなくて、15節までに語られたことの根拠、理由を語っているのです。15節までのところでパウロが語ってきたのは、ローマの教会を訪れ、そこでも福音を告げ知らせたいと願っているということです。それは1節にあったように彼が「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」からです。神の福音を告げ知らせるという使徒としての務めをローマでも果したいと彼は願っているのです。その願いを15節までに語ったパウロは16節で、「なぜなら、わたしは福音を恥としないからだ」と、その願いの根拠を語っているのです。つまり「わたしは福音を恥としない」という16節の言葉は、パウロが使徒として、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、福音を告げ知らせる使命に生きており、ローマでもその使命を果そうとしている、そういう具体的な歩みの中で語られているのです。彼がこれから訪ねようとしているローマは、当時の世界を支配していたローマ帝国の首都であり、皇帝のお膝元です。人間の力、権力やそのもたらす富が集中し、生き馬の目を抜くような熾烈な争い、野望、駆け引き、陰謀の渦巻く中で多くの人々が暮らしている、そういう大都市です。そのローマにこれから行って福音を告げ知らせようとしているパウロは、「わたしは福音を恥としない」と語らずにはおれなかったのです。
この言葉に込められている思いは、「わたしは福音を喜び、それを人々の前ではっきりと告白し、恐れることなくそれを宣べ伝える」ということでしょう。しかしそのことが「恥としない」という否定の文章で言い表されていることに意味があります。つまりそこには、福音を「恥じる」ことが意識されているのです。福音を恥じるとは、今言ったことの反対、福音を喜ぶことができず、人々の前でそれをはっきりと告白することができず、恐れに捉えられてそれを大胆に宣べ伝えることができない、ということです。私たちはそういうことをしばしば感じ、体験しているのではないでしょうか。しかしそれは弱い私たちだからそうなのであって、大伝道者パウロはそんなことは全くなかったのではないか、と思ったりするわけですが、パウロがこういう言い方をしているということは、彼もまた、福音を恥とする思いが自分の中にあることを意識し、その思いと戦っていたということです。特にローマという、この世の権力の支配の中心であるような町に行って伝道しようとするに当って、ともすれば福音を恥じる思いに捉えられてしまいそうになることを、パウロ自身感じていたのだと思います。私たちが置かれているのもそのローマと同じような状況です。キリストを信じている者が圧倒的に少数であり、全く別の力や論理によって人々が生きているこの日本の社会で、キリストの福音を信じてそれを宣べ伝えようとする時に、私たちも恐れと不安を覚え、ともすれば福音を恥とする思いに陥ります。そして自分がキリストを信じている者であることを人々に隠そうとすることが起るのです。そういう恐れや不安に打ち勝って「わたしは福音を恥としない」と言えなければ、信仰を持って生きることも、伝道することもできないのです。
神の力
私たちが「わたしは福音を恥としない」と言えるためには何が必要なのでしょうか。福音を恥としない強い意志と、困難の中でも恐れや不安に負けない不屈の信仰が必要なのでしょうか。パウロはそうは考えていません。パウロがここで見つめているのは、自分の意志の強さや信仰の深さではなくて、福音そのものの力です。そのことが16節後半に語られています。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言っています。彼は、福音を信じる自分の力がどうかではなくて、福音そのものが神の力であることを見つめているのです。しかもそれは、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」です。「ギリシア人」はここではユダヤ人以外の全ての人々つまり「異邦人」を代表しています。ですから「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」とは世界の全ての人々に、ということです。全ての人々に、「信じる」ことによる救いをもたらす、そういう神の力が福音には働いているのです。その神の力を信じ、それに信頼することによってパウロは、自分の中にもある福音を恥とする思いと戦っているのだし、その信頼によって「わたしは福音を恥としない」と言うことができたのです。同じ戦いの中にある私たちが、しばしば福音を恥とする思いに陥ってしまうのは、私たちの決意や意志や信仰の力が足りないからではなくて、福音が神の力であり、しかも信じる者全てに救いをもたらす力であることが本当に分かっておらず、その神の力に信頼していないからです。福音に働いている神の力よりも、この世の力、人間の力の方に現実味を感じてしまうことによって、私たちは福音を恥とするようになるのです。ですから「福音を恥としない」ために必要なのは、私たちが強い意志や不屈の信仰を持つことではなくて、福音に働いている神の力を知ることです。信じる者全てに救いをもたらす神の力がそこに本当に働いていることを知ることができたなら、私たちは福音を恥としない者となることができるのです。
福音には神の義が啓示されている
さて先ほどから「福音」という言葉を繰り返し語っていますが、それは神からの救いの知らせ、喜ばしい知らせ、という意味です。パウロはその福音の中心的な内容を1章の2~4節でまとめていました。そこに語られていたのは、神の独り子である主イエスが、ダビデの子孫としてこの世に、人間となって来て下さり、十字架の死と復活によって、私たちのための救いのみ業を実現して下さったということです。つまり福音の中心は神の独り子主イエスの十字架の死と復活です。そこに、信じる者すべてに救いをもたらす神の力が働いているのです。しかし、主イエスの十字架と復活はどのようにして、信じる者すべてに救いをもたらすのでしょうか。
そのことを語っているのが次の17節なのですが、17節の冒頭には、「福音には、神の義が啓示されています」とあります。ここに「神の義」という言葉が初めて出て来ました。この言葉はこれからこの手紙の至る所に出て来る、ローマの信徒への手紙の主題と言ってもよい大事な言葉です。「神の義」とは何かを語るために、これだけの分量の手紙が書かれたのです。ですから「神の義」の意味を一言で表現するのは難しいことです。ここではとりあえず文字通りに、「神が義であること、神の正しさ」というふうに考えておきましょう。読み進める中で、このとりあえずの捉え方が次第に修正され、より正しい意味が見えてくるでしょう。
さてこの17節冒頭には、イエス・キリストの十字架と復活を中心とする「福音」にこそ「神の義」が啓示されていると語られています。そして原文においてはこの17節にも16節と同じく「なぜなら」という接続詞があるのです。つまり、福音が信じる者すべてに救いをもたらす神の力であるという16節の理由、根拠をパウロは17節で、その福音に神の義が啓示されているからだ、と語っているのです。神の義こそがすべての人々に救いをもたらす神の力であり、その神の義が啓示されているからこそ、福音は福音つまり喜ばしい救いの知らせなのです。この「福音には神の義が啓示されている」ということこそ、マルティン・ルターが再発見した真理でした。この真理の発見によって宗教改革が起り、プロテスタント教会が生まれたのです。このルターの再発見とは何だったのかを知ることは、この箇所の意味を知るためにも、また私たちプロテスタント教会の信仰の中心を知るためにも大事なことです。
神の義の再発見
ルターはもともと修道士でした。彼が修道院に入り、厳しい決まりに従って祈りと労働と聖書の学びに全てを献げる生活をすることによって求めていたのは、神による救いの確信と、それによる平安でした。それを求めてルターは人一倍熱心に、真面目に誠実に修道生活に励んだのです。しかしいくら熱心に励んでも、神による救いの確信は得られず、平安も得られませんでした。それは彼が、自分が神の前で正しい者、義なる者であるとはどうしても思えなかったからです。修道院の厳しい戒律を一所懸命に守っても、それで自分が神の前に義なる者、正しい者、救われるに価する者になったとは思えなかったのです。その時彼を悩ませていたのが、他でもない「神の義」という言葉でした。彼はこの言葉を、「神が義なる方、正しい方として、その義の尺度、ものさしで人間の行ないをいつも計っておられ、私たちが神の義にかなっているか、義なる者となっているかをテストしておられる」というふうに教えられ、そう理解していたのです。そのように「神の義、神の正しさ」というものさしで計られたら、どんなに熱心にしっかりと修道生活に励んでいても、とうてい自分は義なる者とは言えない、神の義にかない救われる資格のある者となっているとは思えなかったのです。普通の修道士なら、修道院の決まりに従って生活していれば、自分は神の義にかなう者となっていると思ってしまうところですが、ルターはそうは思えなかった、そこにルターの偉大さがあったと言えるでしょう。とにかく彼は、自分は神の義にかなっていない、神の義によって裁かれたら滅ぼされるしかない、という思いから逃れることができずに、いつまでも救いの確信と平安を得ることができなかったのです。ところが、そのような思いで聖書を読んでいる中で彼は、どうにも理解に苦しむ箇所に出会いました。その一つが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第71編です。その2節に「恵みの御業によって助け、逃れさせてください」とあります。彼はこれが理解できなかった。それが何故かはこの新共同訳からは分かりません。以前の口語訳聖書ではここはこうなっていました。「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」。つまり新共同訳で「恵みの御業」と訳されている言葉は「あなたの義」つまり「神の義」という言葉なのです。この「あなたの義、神の義」が71編には五回出て来ます。15節の「わたしの口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り」、この「恵みの御業」も口語訳では「あなたの義」です。16節の最後の行の「ひたすら恵みの御業を唱えましょう」も「ただあなたの義のみを、ほめたたえるでしょう」です。19節の「恵みの御業」も「あなたの義」ですし、最後の24節の「わたしの舌は絶えることなく恵みの御業を歌います」も「あなたの義」です。このようにここには「あなたの義」「神の義」が繰り返し出て来るわけですが、詩人はその言葉を全て喜びと感謝の思いで語っています。中でも2節は「あなたの義によって助けてください」となっていて、神の義が自分を救うように語られています。また15節では「あなたの義」と「御救い」とが並列されています。ルターが理解に苦しんだのはこのことでした。ルターにとって「神の義」は、神がご自分の正しさによって人を裁く厳しいものさしであり、恐ろしいものでこそあれ、喜ばしいものや救いをもたらすものではないのに、この詩人はそれを喜ばしい救いの言葉として語っている、それは何故なのかが分からなかったのです。同じように理解できなかったのが本日のローマの信徒への手紙第1章17節です。ここは原文の語順に従って訳せば「神の義は福音の中に啓示されている」となります。「神の義」が「福音」つまり喜ばしい救いの知らせの中に示されているとはどういうことか、ルターにとって神の義は福音どころか、裁きの宣言、自分は救われないという悪い知らせでしかなかったのです。神の義が福音の中に啓示されているとはどういうことか、ルターはそのことを日夜神に、そして聖書に問い続けたのです。そして彼がついに発見した、あるいは神によって示されたのは、「神の義」とは、神がその正しさによって人を裁くものさしではなくて、神がご自分の義によって罪ある人間を義として下さる、という意味だということでした。つまり「神の義」は、神が義なる方、正しい方であられる、ということだけを言っているのではなくて、神がご自身の義を与えることによって罪人を義として下さり、救って下さることを意味しているのです。詩編71編における「あなたの義」もそのように捉えれば、詩人がそれを喜びと感謝をもって語っているわけがよく分かります。そしてそれゆえに新共同訳ではその言葉が「恵みの御業」と訳されたのです。「神の義」を「恵みの御業」と訳すことは、全く違う言葉への置き換えですが、神の義の内容からすればそれは正しい置き換えなのです。そのことをルターは発見した。つまりルターの発見は「神の義」を「恵みの御業」と訳すこともできる、ということだったのです。あるルター学者は「神の義」についてこのように説明しています。これは子供が誕生日にもらったプレゼントを「これはお父さんのプレゼントだ」と友達に自慢しているのに似ている。「お父さんのプレゼント」という時の「の」は、プレゼントしてくれたのはお父さんだ、お父さんからのプレゼントだ、ということを意味しているが、同時に、これは僕がもらったプレゼントで、今これは僕のものだ、ということをも意味しているわけです。「神の義」という言葉もそれと同じで、もともとは神のもの、神ご自身の義だけれども、それが今自分に与えられ、自分の義となっている、つまり神の義によって自分が義なる者とされ、神の前に正しい者とされ、救われていることを意味している。「神の義」とはそういうものなのです。それゆえにこれは福音、喜ばしい救いの知らせです。罪に満ちており、どんなに努力しても自分で義なる者となり、救いに相応しい者となることができない私たちに、神がご自分の義を、正しさを与えて下さり、私たちを義なる者、正しい者として下さる、つまり私たちの罪を赦して下さる、それが「神の義」です。その神の義は、主イエス・キリストの十字架と復活において実現し、与えられました。神の独り子であられる主イエスが人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのです。それによって神は私たちの罪を赦し、帳消しにして下さいました。そして主イエスの復活によって、私たちをも、主イエスと共に神の子としての新しい命を生きる者として下さったのです。この主イエスの十字架と復活によって、神はご自分の義を私たちにプレゼントして下さり、全く義ではない、罪人である私たちを、義として下さった、それがキリストの福音なのです。このキリストの福音にこそ、神の義が啓示されているのです。
信仰から信仰へ
キリストの福音において啓示されているこの神の義は、信じる者すべてに救いをもたらします。神からの義が、お父さんからのプレゼントのように私たちに差し出されているのです。そのプレゼントを喜んでいただくことが信じること、信仰です。私たちがキリストの福音において啓示されている神の義をいただくために必要なただ一つのことが、この信じること、信仰なのです。17節の真ん中の「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」という文章はそれを語っています。これはかなりの意訳です。口語訳聖書はここを「信仰に始まり信仰に至らせる」と訳していました。これも言葉を補った訳で、直訳すれば「信仰から信仰へ」です。この言葉をどう解釈するかについてはいろいろな捉え方がありますが、忘れてはならないのは、これは「神の義は福音において啓示されている」という文章の一部だということです。ですからここで基本的に語られているのは、福音における神の義の啓示は信仰なしにはあり得ないということでしょう。私たちが主イエスの十字架と復活を中心とする福音において神の義を示され与えられて義とされ、罪を赦されて救われる、そのことは、徹頭徹尾信仰において実現するのです。最初は神の義をいただいて義とされるが、その後は自分の努力でより正しい者となり、自分で義を積み重ねていくことが必要だ、というのではないのです。私たちは、最初から最後まで、徹底的に、信仰によってのみ、つまり神の義をプレゼントとしていただくという仕方によってのみ、義とされ続けるのです。そういう意味でこの新共同訳の「初めから終わりまで信仰を通して実現される」という訳は内容を正確に捉えていると言うことができるのです。
正しい者は信仰によって生きる
17節の最後のところの「正しい者は信仰によって生きる」という、ハバクク書2章4節からの引用も同じことを言い表しています。「正しい人」と訳されているのは「神の義」の「義」と同じ言葉から来ている「義なる人」という言葉です。義なる人は信仰によって生きる、それはただ信仰によってのみ生きる、ということです。その信仰とは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が与えて下さる義をいただくことです。自分で何らかの義、正しさ、拠り所、誇りを築いてそれによって生きていくのではなくて、神が独り子キリストによって与えて下さった義によってのみ、つまり神の恵みの業によってのみ生きる者、それが「義なる者、正しい人」なのです。パウロが語っているこの「信仰のみによって義とされる」という真理をルターが再発見したことによって宗教改革が起り、プロテスタント教会が誕生しました。神の義とは主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、義として下さる神の恵みの業であり、私たちは信仰によってのみその救いにあずかることができる、この福音にこそ、信じる者すべてに救いをもたらす神の力が示されています。この神の力を信じ、それに信頼することによって、私たちもパウロと共に「わたしは福音を恥としない」とはっきりと言うことができるのです。