「いかなる場合にも対処する秘訣」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:箴言 第30章7-9節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第4章10-14節
・ 讃美歌:341、153、459
<貧しさと豊かさ>
パウロは、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と言います。
「いついかなる場合にも対処する秘訣」。そんな秘訣があれば、ぜひ知りたいと思います。
どんな場合にも動じないで上手く対処をしたい。世の中の浮き沈みを上手く渡っていきたい。自分の境遇や、変化する状況に動揺させられたくない。
誰もがそのように思っているのではないでしょうか。
パウロはその秘訣として、11節にあるように「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」のだと言います。ここは口語訳聖書では、「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」と訳されていました。どんな境遇に置かれても、満足する。十分に足りているということを学ぶ。すると、満腹していても、空腹であっても、ものが有り余っていても、不足していても、いついかなる場合にも対処することが出来る、といいます。
「どんな境遇でも満足する」と言うと、基本的には「貧しく暮らすすべを知っている」とパウロが言っているように、大変な状況、あまり持っていなくても、貧しくても、あるもので満足すること。悪い境遇でも、与えられた環境を受け入れ、じたばたしないこと。そんな風に考えるのではないでしょうか。
しかし、本当の貧しさというのはとても深刻なものです。将来のこと、明日のこと、そして今日の食事のことさえも、不安を覚えなければならず、自分の境遇を辛く思う、悔しく思う。漠然とした不安の中で、今日もまた一日を過ごす。先行きも見えないし、何かもう一つ狂ってしまえば、生活がすぐに崩れるのが目に見えている。そんな中で、「満足しなさい。足りていると思いなさい。」と言われても、できるものではありません。
一方、ここでパウロが「豊かに暮らすすべも知っている」と言っているのは注目すべきことです。とても豊かで、それこそ物が有り余っているなら、良い環境にいるなら、その人は満足しているかというと、そうではない、と言っているのです。豊かに暮らすにも、秘訣が必要なのです。
豊かであれば、今持っているものを失いたくないと思うでしょうし、上には上がいますから、もっと欲しい。もっと豊かになりたいと、望むようになるかも知れません。豊かさには上限がありません。「わたしは貧しい」と思っている人でも、本当の貧しさかどうかは別です。誰かと比べれば、誰だって、誰かよりは貧しくなるでしょうし、誰かよりは豊かなのです。持っているのに全然満足していない、ということは、わたしたちによくあることかも知れません。
また、貧しさ、豊かさには、それぞれの誘惑があります。本日の旧約聖書の箴言には、「貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」とあります。
わたしたちは、豊かになることを望んでいます。だれも貧しいのが好きという人はいないでしょう。しかし、ここでは「貧しくもせず、金持ちにもせず」と言っています。
本当の貧しさの中では、苦しみ、不安、悩みから抜け出すために、食べるために、必死さのあまり、良くないことをしてしまうかも知れない。
また、豊かで満ち足りていれば、今日のパンを心配して、神に、今日、わたしを養って下さい、今日の糧を与えて下さいと、真剣に祈ることが無くなってしまうかも知れない。今日一日食べられたことが、当たり前のように思えて、神に養われ、生かされていることに感謝するのを忘れてしまうかも知れない。そんな人の弱さを、よく見つめていると思います。
そしてこれらは、物質的な貧しさや豊さだけではなく、病や苦しみ悩み、失敗や挫折の中にあるような逆境の時と、健やかな時、成功や達成を得た時、幸福感を味わっているような順境の時にも、「満足しないこと」や、それに伴う「誘惑」というのは、当てはめることが出来るでしょう。
それでは、一体どこに、わたしたちが「満足している」「満ち足りている」と言えるものがあるのでしょうか。何によって、わたしたちは、本当に満たされるのでしょうか。
本日の聖書箇所は、小見出しにあるように、フィリピ教会の人々がパウロのために送った贈り物に対する、パウロの思いが書かれているのですが、それは次回に述べることにして、本日は、このパウロが語る「自分の置かれた境遇に満足すること」「いついかなる場合にも対処する秘訣」、に注目して、み言葉に聞いていきたいと思います。
<秘訣を授かる>
さて、このパウロの時代に盛んだったギリシャ哲学においても、どうやって本当に人が満足できるのか、ということを真剣に考えていました。本日の11節の「満足すること」という言葉は、ギリシャ哲学のストア派の中で、「自足すること」「自分で足りること」という意味で使われた言葉だそうです。パウロはその言葉を使っています。
哲学のことはよく分かりませんが、それは何事にも心が動じないようにする、処世術のようなもので、「完全に自分だけで満足する生活」を求めることだったそうです。
そのために、ある人々は、世の中のすべてに無関心になり、何が起きても心が動じないように、精神的な訓練をして、貧しさも豊かさも、どんなことからも解放され、そのままで満たされている、「自足できる人間」になろうとしました。
それは、大変ストイックに、鉄の意志をもって訓練しなければ、その境地に達することは難しいでしょう。
わたしなんかは、些細なことですぐ心が激しく動き、喜んだり不安になったりしますので、彼らの目指す人間には、とてもなれそうにありません。
わたしたちが、自分が貧しいのか豊かなのか、上手くいっているのか失敗しているのか、幸福なのか不幸なのか、その人生を判断する基準は、実際に多くのことを現実の中で経験して、自分が幸せを感じたり、苦しみや悲しみを感じたり、また人と比べて優越感や劣等感を感じる中で、身に染みて培われてきた価値観であり、判断基準です。
そして、どういう判断を下したにしろ、より良く、より満たされることを望んでいきます。しかしそれは、最初に申し上げたように、いつまでも満ち足りるということがありません。
その中で、わたしたちが心を石のように固くして、それらの身に沁みついた人生の価値判断の中から抜け出し、幸せも悲しみも感じないようにして、何が起きても動じない。自分の中ですべて完結させ、いつも満足していると思うようにする。そのようにして秘訣を得ることは到底無理なことでしょう。
しかし、パウロは12節で「秘訣を授かった」と言っています。つまり、自分が精神的修養をして得たとか、努力の末に獲得したとかではなく、この秘訣は他から「授かった」「与えられた」ものだと言っているのです。
そして続けて13節で「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言うのです。「お陰で」と訳されていますが、直訳すれば、「わたしを強めてくださる方の『中にあって』、わたしにはすべてが可能です」となります。
このわたしたちの人生の価値観を変えることが出来る方がいる。経験や、知識や、今わたしが捕らわれているものを取り払って、自分の置かれた境遇に満足することを、本当の意味で可能にして下さる方がいる。それが、わたしを強めてくださる方、イエス・キリストだと、パウロは言うのです。
それは、「わたしを強めて下さる方のお陰で」、つまり「お陰で」は「中にあって」と訳せると言いましたが、「主イエス・キリストの中にあって」可能となります。自分の人生を自分の手で握っているのではなく、主イエスの中に、自分の人生を置いてしまうことによって、すべてが可能となるのです。
<主イエス・キリストとは誰か>
さて、このわたしを強めてくださる方、主イエス・キリストとは、一体どのような方なのでしょうか。この方は、わたしと何の関わりがあるのでしょうか。
それは、同じフィリピの信徒への手紙の2:6~11に語られていました。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
このキリストという方は、神の身分、神の御子であったのに、御自分を低くして、人間と同じ者になられた、とあります。それは、造り主である神を忘れ、神から遠く離れ、神の恵みを自ら捨て去るようなことをして滅びに向かっていた、わたしたち人間を、罪の中から、滅びの中から救い出すためです。
主イエスは、神の御子でありながら、低くなられて、わたしたちと同じ体を持ち、痛みも、苦しみも、悩みも感じる方となって下さり、神から遠く離れてしまった、わたしたちの所まで来て下さいました。だから、わたしの苦しみ、悩み、悲しみを、この方はすべてご存知です。そして、わたしたちの罪も、神に逆らい、また隣人を傷つけ、人を赦すことも、愛することも出来ない、その罪も、よく知っておられます。そして、罪の中で滅びに向かっているわたしたちが、神の赦しを得、神の御許に帰ることが出来るように、命の道を歩むことが出来るように、救い出して下さったのです。
その方法とは、神の御子である主イエスご自身が、わたしたちの苦しみも悩みも、そして神に逆らった罪も、すべてを御自分の身に引き受けて、十字架で死なれる、ということによってでした。
とんでもない方法です。わたしはこの方を知らなかったのに、この方はわたしのために死なれたのです。しかし、そのような仕方で、主イエス・キリストは、わたしたちを救って下さいました。また天の父なる神は、罪を赦すために、御自分の御子を与えて下さるほどに、わたしたちを愛して下さっていることを示して下さいました。この御子の十字架の死によって、あなたの罪を赦すから、新しい命を与えるから、神のもとに立ち帰り、神の恵みのもとで、神と共に生きる者になりなさいと、招いて下さったのです。
そして、神は、この御子イエスを復活させて下さいました。罪を赦されたわたしたちにも、永遠の命を与え、終わりの日にわたしたちも主イエスの復活に与ることが出来る、という希望と約束のためです。主イエスは、世のすべてに、死という、わたしたちに絶対的な力を振るうかのような力にさえも、すでに打ち勝っておられることを、お示しになるためです。
<キリストの中に>
この主イエス・キリストの救いを信じること。それが、主イエス・キリストの中に入るということです。それは洗礼を受けることに示されています。
主イエスの救いが、わたしのためであったと信じたなら、その人は洗礼を受けます。洗礼は、元々は水に全身を浸すやり方でしたが、これは、まさにわたしたちをキリストの中に、全身を、体も心も命もすべて浸すことなのです。このとき、聖霊なる神が働いて下さり、わたしたちを、キリストと一つ結び合わせて下さいます。そして、罪の自分がキリストの十字架において共に死に、そして、復活のキリストの命に新しく生きる者とされるのです。そのようにして、わたしたちを、主イエス・キリストの中へ入れて下さるのです。
この救いは、わたしたちの人生における経験や知識を全く超える仕方で、常識をはるかに超えた仕方で、外から、神から、与えられるものです。これは神の御業です。
わたしたちは、この人間にとって非常識な、まったく新しい出来事、キリストと一つにされるという出来事によって、自分の経験や価値観で、自分の人生を判断することから解放されるのです。
キリストの中に自分が置かれた時、わたしの人生を造り上げるのは、富や、人生の出来事などではないことを知ります。わたしを造り上げるのは、神の恵みです。
そこに立って、キリストの中に立って、改めて自分の人生を見つめるなら、貧しさや豊かさ、成功や失敗、健康や病などが、わたしの人生を支えたり、台無しにしたりするのではないということに気づかされていきます。
神が、御自分の御子をわたしのために与えて下さるほど、わたしを愛して下さっている。神が、わたしをそれほどに価値あるものとして見て下さっている。そのように、神の愛の眼差しの中で、自分の人生を見つめ、また神を見つめて、歩むことが出来るようになるのです。
これが、秘訣を授かるということでしょう。
神が、私の命を支えておられるのです。たとえ貧しくても、必ず神が、今日一日必要な糧を与え、養って下さると、心から信頼し、安らいでいてよいのです。また貧しさや苦しみは、わたしたちの祈りを強め、神に頼らなければ生きられないことを明らかにしてくれます。
また豊かであっても、それは神から与えられ、委ねられたものです。そこでは謙遜を学ばされるかも知れません。そして、奢ることなく、感謝してそれを受けとり、喜び、またそれに固執せずに、神のために、隣人のために用いるようにされるでしょう。
そのようにして、どのような境遇に置かれたとしても、キリストの中にあって、神の恵みによって、満足しているから、貧しくても、豊かでも、そのことに捕らわれず、神を思うことが出来る。いついかなる場合にも対処することが出来る。すべてが可能であると、パウロは言うのです。
パウロがこの手紙を書いているのは牢獄の中です。命の危険と隣合わせです。しかし、そのような状況でも、パウロはこのように、「自分の置かれた境遇に満足する」と言う。喜びの手紙と言われるほどに、何度も主にある喜びを語る。生きるにも死ぬにもキリストと言う。キリストのために苦しむことも恵みだと言う。
強めてくださる方の中にあって、復活しすべてに勝利しておられる主イエス・キリストの中にあって、パウロにはすべてが可能なのです。
<習い覚える>
さて、この中ですでにキリストと一つにされている兄弟姉妹が多くいますけれども、信仰者は既にそのように秘訣を授かっているのなら、いついかなる場合にも対処できるようになっているのでしょうか。
実際に、そのような秘訣を授かり、しっかりと自分のものにしている方もおられると思います。境遇に左右されず、神の恵みをしっかり受け止めて、どのような時にも、神の平安を得られている人は、本当に幸いな人です。
しかし、自分はまだ、そうなってはいないな、と思われる方も多いかもしれません。わたしもそうです。
キリストを信じ、洗礼を受け、罪を赦されたわたしと神との関係は、以前とは明らかに一変しています。キリストと一つにされています。その、目に見えない、神に与えられている恵みの現実の方が、本当は確かで揺るぎないものです。
でも、洗礼を受けて、次の日から生活が劇的に変化するのではありません。昨日の続きの今日を生きていきます。そこでやはりわたしたちは、目に見える現実の力に圧倒され、心を揺るがされます。また誘惑に遭い、この世のことについつい心が引き込まれてしまうのです。少しでも何かあるとジタバタしてしまう。心が乱れ、不安になり、神様に向かって嘆きを叫ぶ。また、一方で、良いことがあるとすぐに調子に乗る。順調な時は神への感謝を忘れてしまう。上手くいけば自分の功績を誇り、人に認めらようとする。
わたしたちは本当に弱く罪深いものです。
しかしその中で、パウロのこの言葉に改めて注目してみましょう。
4:11の後半の部分ですが、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」とあります。
「境遇に満足すること」というのは、努力や訓練によって達するものではなく、神から秘訣を授かることによって、わたしを強めてくださる方の中に入ることによって、可能になるのだということを聞いてきました。
そして、それは、急に可能になる、昨日の今日で、そのように自分の置かれた境遇に満足できるようになる、とは言っておらず、「習い覚えること」なのだと、パウロは言っているのです。
この「習い覚える」という言葉は、「覚え知る」「経験する」という意味の言葉です。つまり、パウロは、「自分の置かれた境遇に満足することを実際に経験してきました」と言っているのです。
満足することは、「自分はこれで満足なんだ、十分なんだ」と思い込んだり、恵みが与えられているから、どんな時も満足しなくてはいけない、というものではありません。それは本当に満足していることにはなりません。キリストと共に歩む生活は、精神論や理想論ではありません。
パウロは、実際に貧しい中で、悩み苦しみの中で、命の危険の中で、しかしキリストによって満たされている、ということを確かに経験してきたのです。空腹の時、不足している時、しかし満足している。豊かな時、満腹している時、物が有り余っている時、しかしそれらのものによらずに、キリストによって満たされている。そのことを経験してきたのです。恵みの体験を積み重ねていったのです。
そうして、神への信頼をいよいよ増していき、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と、確信を持って言うようになったのでしょう。
わたしたちも、わたしを強めてくださる方のお陰で、このことが可能なのです。
この方の中にあって、日々の中で、人生の中で、確かに十字架と復活の恵みが、わたしを支えていることを実感させられていきます。もう起き上がれないほどに絶望する時、復活の主だけが、希望を与え、立ち上がる力を与えて下さいます。一つ一つの出来事の中で、キリストに満たされること、励まされ、慰められ、強められる経験をしていきます。それはみなさんにも、確かに、覚えがあるのではないでしょうか。
今朝、わたしたちの姉妹が天に召されたことを聞きました。わたしたちの現実では、大きな喪失感と、悲しみに覆われています。しかし、この姉妹も、わたしたちも、共にキリストの中にいます。キリストの永遠の命に与っています。わたしたちが自分ではどうしても満たすことが出来ないものも、十字架と復活のキリストは、その希望と慰めによって、わたしたちを満たして下さることがお出来になるのです。わたしたちは、そのことを信じ、またその恵みを経験させられていくのです。
わたしたちは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えていく。どのような境遇でも、必ず神に満たされていることを経験していきます。
わたしたちにとっての、世の様々な良い出来事、悪い出来事は、神の恵みが減ったり、増えたりして起こっているのではありません。神の恵みは、変わらず、いつも注がれ、わたしたちを十分に満たしています。
その恵みを、いつもしっかりと見つめることが出来るように。世の現実に目を曇らされることなく、聖霊によって信仰の目をしっかりと開かれるように。キリストの中にあって、まことの命に生かされている、確かな恵みの現実を見つめることが出来るように、祈り求めたいと思います。
そして、わたしたちは、キリストと共に歩む日々の中で、一つ一つ、恵みの経験を与えられ、癒され、励まされ、強められること、感謝し、神を礼拝することを積み重ね、わたしがキリストの中にあること、どのような時にも神の恵みに満たされているということを、習い覚えていくのです。