主日礼拝

へりくだられたキリスト

「へりくだられたキリスト」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章1-11節
・ 讃美歌:208、356、229

 来週からアドベント、主イエスがお生まれになったクリスマスを待つ、そのような期間に入ります。クリスマスとは、神の独り子が、人々の救いのために、まことの人となって、わたしたちの世に来て下さった出来事です。
 わたしたちは、主イエス・キリストを信じる信仰を告白するとき、この方が、まことの神であり、まことの人である、ということを告白します。神が人になられた。神がそこまでご自分を低くされ、へりくだられた。それは、わたしたち罪人が救われるために必要なことでした。しかしわたしたちは、このキリストのへりくだり、「まこと神が、まことの人となられた」ということを、本当にしっかりと受け止めているでしょうか。
 本日は、この「へりくだられたキリスト」について述べられている、5~8節を中心に、共に聞いていきたいと思います。

 このフィリピの信徒への手紙を書いたパウロは、フィリピの教会に、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」しなさい、と言います。また、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と勧めます。
 そうしてこの後に、主イエスが、神であられたが人となられ、へりくだられた、ということを言うのです。

 「キリスト・イエスにもみられるもの」というと、まるでキリストもそのようにへりくだったのだから、わたしたちも見倣ってへりくだりましょう、というように聞こえるかも知れません。わたしたちの信仰生活は、確かに、キリストに従って、キリストを目指して、生きていくという側面があります。
 しかし、わたしたちの歩みは、キリストを模倣することが第一の目的ではありません。ただキリストに感化されて、他人よりへりくだって、素晴らしい生き方を見倣って生きていきましょう、というのであれば、それはイエス・キリストという方でなくても良いのです。イエス・キリストを模範的な人物とするなら、キリストは世界の偉人や、素晴らしい大勢の人々の中の一人となってしまうでしょう。実際にそういう見方はよくあって、世界の偉人を扱った漫画などでは、シリーズで「宮沢賢治」に続いて「キリスト」とタイトルが並んでいて、ちょっと複雑な思いになります。
 しかも、この分かりやすい生き方は、しばしば教会を支配しようとすることがあるのです。そうなると、どうなってしまうでしょうか。信仰生活は、わたしたちの行いや業、良い生き方が中心になってしまい、わたしたちの命の根本にある、キリストの救いの御業を、見失ってしまうのです。

 5節は、そのようにキリストのへりくだりを模範としなさい、という意味ではありません。この、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と訳されている言葉は、文語訳という昔の聖書の訳では「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されていました。またあるところでは、「キリスト・イエスにあって抱いている思いを、あなたがたの間でも生かしなさい」と訳しています。主イエスの心を、あなたたちの心にしなさい、「主イエスにあることを、あなたたちの思いとしなさい」ということです。

 「主イエスにあること」とは、何でしょうか。それは6節以下に書かれていることです。パウロはこの箇所を通して、主イエス・キリストとは、どういうお方なのか。そして何をして下さった方なのかをフィリピの教会の人々に、そしてわたしたちに伝えようとしています。わたしたちが様々な思いを致すにあたって、一番に立つべきところ、見つめるところは、ただそこだけなのです。

 6~11節は、当時の教会の讃美歌の一部を、パウロが手紙の中に引用したものだと考えられています。「キリスト賛歌」と言われています。
 ここでまず言われていることは、「キリストは、神の身分であった」ということです。このお方は、神の本性を持っておられる、まことの神である、ということです。神とは、世を造られた方であり、また見えるものも見えないものもすべてを支配される方であり、全能である方です。
 しかし、キリストは、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と書かれています。
 僕とは、支配される者、主人に仕える者、また奴隷のことです。罪に支配され、死に支配され、抑圧され、捕らわれている者。罪の奴隷となっている者。それが、人間という者である、ということです。
 しかし、神の御子である主イエス・キリストは、唯一、罪のない、人間となられました。罪とは、神に逆らい、神から離れることを言います。すべての人間は、この罪の中にいます。
 しかし、ご自分が神の御子であられるキリストは、父なる神の御心に従い、救いの御業を行うために来られたのですから、人間になられても、罪のないお方であったのです。罪のない者でなければ、自分の罪を抱えながら、人の罪の肩代わりをすることは出来ません。
 そして本当は、そのように神の御心に従って、神と共に生きる人間こそ、この人となられたキリストこそ、罪に堕ちる前の、神に造られた、まことの人間のかたちです。
 しかしキリストは、罪がない、ということ以外は、まったく罪の奴隷である人間と同じ者になられました。

 神であるキリストが、僕となり、人間と同じ者になられるということは、ご自身を無にされること、まったく全てを無くされ、すべてを捨てられることだった、と言います。「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」とあります。「固執」というのは、奪い取る、略奪する、という強い意味を持つ言葉です。
 もしわたしたちが、権力や、輝かしいものを持っているとしたら、わたしたちはそれを無くさないように、必死にそれにしがみ付くでしょう。どのようなことをしても、それらを失いたくない、手放したくないと思うでしょう。しかし、キリストは、そう思われなかった。貧しく惨めな僕の身分になるために、自らを捨て去り、神の特権を手放された、というのです。そのようにして、まことの神であるキリストは、まことの人となられました。

 このことは、神が神ではなくなって、人間になった、ということではありません。もしキリストがまったくただの人間になられた、というのなら、その十字架の死が神の救いの御業だとどうして言えるでしょうか。
 誰かの身代わりになって、死んだ。誰かを助けるために、死んだ。そのような出来事は、実際にこの世間で起こることがあります。それは悲しくも勇気ある、立派なことですけれども、しかしその一人の死が、人間すべての罪を赦し、救うことは出来ません。
 この主イエス・キリストの十字架の死は、神の救いの御計画に従って成し遂げられたことです。すべての人間の罪を赦し、救うという、神の御心のために、行われた御業なのです。この神の御業を成し遂げるのは、まことに神の御子であるお方にしか出来ません。この方は、徹頭徹尾、神の御子であられるのです。

 また、「僕の身分になり、人間と同じ者になられた」というのは、キリストは神であるが、一時だけ、仮に人の姿になられた、ということでもありません。たとえば、どこかの王様が庶民の生活を知るために、一時だけ身分を隠して、町で庶民のつもりで生活してみる、というようなことではないのです。また、強く、豊かな者が、自分より弱い、貧しい者のところへ行って、目線を合わせて寄り添ったとか、同情するとか、そのようなことでもありません。
 神である方は、ご自身が、まことに人となられたのです。ご自身が弱い者と、貧しい者となられ、奴隷になられたのです。

 わたしたちは、主イエスが救い主であり、神の御子であると知っているので、どこか、この「まことに人間と同じになられた」ということの具体的な中身を、忘れかけてしまうのではないかと思います。
 主イエスがへりくだられて、ご自分を無にされて、捨てられて、わたしたちと同じ人間になられたとは、一体、どういうことだったでしょうか。

 それは、ベツレヘムの、汚く貧しい馬小屋で、誰かにお世話をしてもらわないと生きられない、小さい、無力な赤ん坊として生まれることでした。また、罪人と同じように洗礼を受けられ、悪魔の誘惑にあわれることでした。人々に裏切られ、迫害されることでした。そして、苦しみ悶えて、「この杯を取りのけてください」とゲッセマネの園で祈ることでした。
 そして、キリストがまことに人間と同じになられたとは、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、痛みと苦しみと絶望の果てに、もっとも神から離れたところにまで、身を置かれるということでした。それは、この方が、すべての人の罪を担われたからです。ですからこの方は、どれだけ神から離れていると思われる者たちも、救うことお出来になります。
 そのようにして、罪人のために死ぬため、罪人を生かすため、神の御子は、まことの人となって下さいました。それが、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」ということなのです。

 7節には、「人間と同じ者になられました」とありますが、ここの「人間」という言葉は複数形で書かれています。つまり、「人間たちと同じ者になられました」と書いてあります。
 これは、すべての人間たち、わたしたち一人一人の、苦しみや、悩みや、怒りや、絶望を、ご存知である、ということです。主イエスは、わたしのために人となって下さり、わたしの苦しみもご存知であり、わたしの罪を負って下さり、わたしのために十字架に架かって下さったのです。
 主イエス・キリストと出会う時、わたしたち一人一人の誰しもが、この方に担われている自分を、見出すのです。
 人知れず抱いている傷も、苦しみの叫びも、神に逆らい、人を愛せない罪も、何もかも、この方が知っておられます。そして、それらすべてと、その根本にある、わたしたちが抱えている罪、神との関係の破れを、人となられた神の御子が、すべて代わりに担い、十字架にかかって死んで下さったのです。
 そのようにして、既にわたしたちには、罪の赦しが与えられています。新しく神のもとで、神と共に生きることへと招かれているのです。わたしたちはただその救いを信じ、受け入れることによって、神の祝福の内を歩むことがゆるされています。

 これが、主イエス・キリストがへりくだられた出来事、キリストがなさったことです。
 イザヤ書53章にあるように「彼は自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ」とあるように、そこまで自分を空しくされました。
 「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」
 この、預言のとおりに、神の御心のとおりに、なったのです。

 キリストのへりくだりは、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。
 へりくだるということは、神に対して従順であり、その御心に従っていくということなのです。しかも死に至るまで、それはキリストにとって、自分を無にして、まったく他の人々の罪を負って、罪人として死ぬ、ということでした。十字架の死は、旧約聖書によれば、「木に架けられた者は神に呪われた者である」とされており、恥と、屈辱に満ちた、まさに神からも人からも捨てられた、そのような死です。
 しかし、それは神の御心であり、救いの御計画の成就のためでした。人となられたキリストは、その生涯から死に至るまで、父なる神に、従順に従われたのです。
 ここに、神に従う僕という、もう一つの僕の意味を見ることができます。
 そして、ローマの信徒への手紙5:18-19には、次のようにあります。
 「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
 一人の人の不従順とは、神に逆らったアダムの罪です。このことから、この世に罪が入り込み、すべての人を罪と死が支配しました。しかし、お一人の従順によって、キリストがまことに神に従い、十字架の死に至るまで御心に従って下さったことで、神の御心が成し遂げられました。わたしたちは皆、罪を赦されて、神の前に正しい者とされて、生きることを赦されたのです。
 このキリストの、神の御前での従順さ、自分を低くして従っていくことが、まことにへりくだる、ということなのです。

 しかし、ここまでのへりくだりは、神の御子でなければ出来ないことです。
 神は、わたしたちの救いのために、あらゆることがお出来になります。神の全能は、奇跡や、偉大な業がお出来になる、ということではなくて、神ご自身がここまでへりくだられて、空しくなられて、わたしたちへの愛のために、救いのために、十字架で死ぬということまで、お出来になるということなのです。それほど、わたしたちを愛して下さっているのです。永遠で、無限で、創造主である神が、時間の中で、有限となり、人間と同じになり、罪ばかり繰り返して滅びへ向かっていく人間のために、僕となられたのです。ご自分が、罪と死の只中に降られて、ご自分を無にして、死なれたのです。
 時にわたしたちは、困難に出会うと、神は自分を放って置かれて、忘れているのではないか、なぜ助けて下さらないのか、なぜ答えて下さらないのかと、思うことがあるかも知れません。しかし、神を忘れているのは、このキリストのお姿を忘れているのは、わたしたちの方ではないでしょうか。
 ここまで、わたしたちのためにへりくだって下さった、十字架のキリストに、まことの神の御心が、神の愛が、これ以上ないほどに現わされているのです。

 このようなキリストのへりくだりを、初めにお話ししたように、わたしたちが真似をして、キリストのようになりましょう、と言っても、そのように歩みたいと願っても、それは到底真似できることではありません。真剣にキリストのへりくだりを思うと、そのような理解は違う、ということがはっきりと分かるのです。

 パウロが、フィリピの教会の人々に、「同じ思い」となり、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言って、「キリスト・イエスにあることを、あなたたちにあって思いなさい」と「キリスト賛歌」を記したのは、わたしたちの生活、人間関係、あらゆる時において思うべきことは、まず、この「へりくだられたキリスト」のことだということです。罪人である自分がそこまで神に愛され、救われ、生かされている者だ、ということです。
 そして、父なる神の御前で、身を低くして、御心に従っていくことが、まことのへりくだりであることを知りました。わたしたちにとって、それはまず、神を礼拝するということでしょう。礼拝する対象である方より、自分を高くすることは出来ないはずです。罪にある時、傲慢にふるまい、自己中心的に生きていた時、わたしたちは御前に立つことも出来ず、神を礼拝することも出来ない者だったのに、キリストがへりくだって僕となり、救いの御業を成し遂げて下さったことによって、今度はわたしたちが高く引き上げられ、神の子とされ、神の御前に立つ者とされて、今ここで、神を崇め、賛美し、礼拝しているのです。
 そして、神の御言葉に支配され、生かされて、日々の生活で、人との関わりの中で、何かの決断の場面で、キリストにあることを思い、神の御前に立ち、御心に従うことを望んでいく者とされるのです。
 わたしたちはキリストにあってそのような思いを抱き、ただその同じ思いで一つとなり、共に歩んでいくようにと、召されているのです。

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