主日礼拝

信仰のための戦い

「信仰のための戦い」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第27編1-14節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙第1章27-30節
・ 讃美歌:12、392、536

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」
 キリストの福音にふさわしい生活。それは一体、どんな生活でしょうか。わたしたちは、キリスト者として、清く正しい生活を思い描くかも知れません。例えば、毎日聖書を読み、熱心に祈り、教会生活を大事にし、神様に、隣人に奉仕する。そのように生活できれば、本当に理想的だし、素晴らしいことだと思います。
 でも実際には、わたしたちの多くは、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と言われたら、拒否反応を示してしまわないでしょうか。自分の生活は、とても理想とかけ離れている。とてもではないけれど、理想的な生活ではない。自分はふさわしい生活なんて出来ない。いつもの自分の生活を振り返ってみて、がっかり落ち込んでしまうかも知れません。
 パウロは、そのような、とても出来そうにない、理想的な素晴らしい生活をしなさい、と言っているのでしょうか。わたしたちは、そのような、キリストの福音にふさわしい生活をすることが出来るのでしょうか。
 
 このフィリピの信徒への手紙は、パウロが伝道して生まれたフィリピの教会の人々に宛てた手紙です。パウロはこの時、キリストを宣べ伝えていたために、捕らえられて牢屋に入れられており、そこから手紙を書いていました。
 パウロは、前回ご一緒にお読みしたところでは、本当は世を去って、キリストと共にいることを熱望しているのだ、と言っていました。しかし、生きていればキリストのためにもっと実り多い働きが出来る。フィリピの教会の人が必要としていることをパウロは助けることが出来る。だから、信仰を深めて喜びをもたらすために、パウロは生きて、フィリピの教会の人々と共にいることにしよう、ということが述べられていました。

 その後に、今日の箇所が続きます。パウロはフィリピの教会の人々に「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と、言うのです。
 この「ひたすら」という言葉は、口語訳聖書という、少し前の聖書の翻訳では、「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい」となっていました。ただ、このことだけをひたすらしなさい。ただ、キリストの福音にふさわしい生活だけをしなさい、ということです。

 まず、「キリストの福音にふさわしい」とは、どういうことなのでしょうか。
 キリストの福音とは、わたしたちを罪から救い出すために、神の御子であるイエス・キリストが、人となってこの世に来て下さり、ご自身の十字架の死によって、滅びにいたるわたしたちの罪を赦し、救って下さったことです。
 わたしたちの罪というのは、神に逆らい、神に背き、神から離れてしまうことです。神に造られたわたしたちは、神によらなければ生きることが出来ないのに、自分勝手に神から離れ、滅びへ向かっていく者でした。しかし、神は、わたしたちのためにご自分の独り子である主イエスを遣わして下さり、その十字架の死によって、すべての者の罪を赦して下さったのです。
 わたしたちが自分では支払うことの出来ない罪の負債を、主イエスがご自分の命を代価として、わたしたちを贖い出して下さったのです。
 その、主イエスの救いを信じる者は、罪の赦しと、また神と共に生きる、新しい命、永遠の命にあずかります。また、主イエスは死者の中から甦られたので、わたしたちも終わりの日に、その主イエスの甦りにあずかることが出来る、という約束が与えられています。
 そのような、わたしたちのための主イエスの十字架と復活が、「キリストの福音」と言われていることです。

 そして、この「ふさわしい」と訳された元のギリシャ語は、重さをはかる、はかり、と関連する言葉で、「同じ値である」とか「~に値する」「~と同じ値打ちがある」という意味です。

 キリストの福音にふさわしい生活。キリストの十字架と復活に値する生活。
 よく考えてみて下さい。
 主イエスの十字架と復活。わたしのために、神の御子が命を捨てて下さったこと。そのことに「ふさわしい」こと、それに値することなど、わたしたちは何か持っているでしょうか。主イエスの命に値することを、何かすることが出来るでしょうか。
 いいえ。わたしたちは、何も持っていないし、何も出来ないのです。
 しかしただただ、一方的に神が愛して下さり、救って下さったのです。
 何か良いものを持っているから、立派だから、優秀だから、救われたのではありません。神に逆らい、愚かで、隣人も自分も傷つけ、まことに自分勝手な、そのようなわたしたちなのです。
 しかし神は、そのようなわたしたちを愛して下さいました。
 わたしを救うために御子の命を与えて下さるほど、御子の十字架の死と引き換えに、わたしの命を救って下さるほど、わたしたちを貴いものとして見て下さいました。
 神は、わたしたちを見て、「あなたは値高く、貴い」と、「あなたを愛している」と仰って下さいます。
 神ご自身が、わたしたちを選び、キリストの十字架と復活の恵みにあずかるのにふさわしい者として、見て下さっているのです。

 キリストの福音にふさわしい生活、キリストの福音に値する生活とは、わたしたちが何か福音に値するようなことをする生活ではありません。
 キリストの福音にふさわしい生活とは、神がわたしたちに、キリストの福音を与えて下さって、十字架と復活によって救って下さって、はじめて可能になる生活のことです。
 それはひたすら、ただ、キリストの福音に生かされている者として生きていくこと。ただ神の恵みによって生きる、神の恵みだけに寄り頼む生活を送る、ということなのです。

 そして次に、「生活を送る」という言葉に注目したいと思います。
 ここで使われている「生活」という言葉は、ギリシャの都市国家などのポリスで生活をする、共同の生活をする、という意味です。また、「市民である」という意味もあります。住んでいる都市で、市民として生活をすること、共同体で生活をすることです。
 そのような「生活」という意味の言葉がここで使われているとするならば、パウロは一体どのような共同体の生活を指して、言っているのでしょうか。フィリピの教会の人々は、そしてわたしたち教会の者たちは、どこの国の市民として生活をするのでしょうか。
 それは、天の国、神の国の市民です。
 同じフィリピの信徒への手紙の3章20節に、「わたしたちの本国は天にあります」という言葉があります。また、口語訳聖書では、「わたしたちの国籍は天にある」という言い方でした。この「本国」や「国籍」、という言葉も、1章27節の「生活」と同じ言葉の名詞形なのです。キリストを信じた者の国籍は天にあります。天とは、神がご支配されているところです。
 主イエス・キリストに結ばれた者は、天に、神のご支配に属する者となっており、神の国の国民となっているのです。
 パウロが「生活をする」と言う時、それは神に属する者として、神の国の市民として生活するということ、キリストを信じる共同体のメンバーとして、共に生活をすることを言っているのです。

 「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送る」とは、キリストの十字架と復活によって救われた者として、ただ神の恵みだけに寄り頼んで、神の国の民として信じる者が共に生きていく、ということです。パウロは、ひたすらそのように生活しなさい、というのです。

 そうすると、この「キリストの福音にふさわしい生活」とは、わたしたちの努力や、自分の力では、どうやっても獲得できないものであることが分かります。
 わたしたちはただ、神の愛によって、神からの恵みだけによって、生きることをゆるされ、罪を赦され、神の子、神の国の民とされているからです。
 わたしたちが神から恵みとして与えられたものしか持っていないのなら、すべてを与えて下さった神に感謝し、その与えられた賜物を、また神に喜んで献げていくことが出来ます。
 また、わたしたち一人一人を、心から愛し、御子である主イエスの命によって救って下さるほど、かけがえのないものとして下さったので、自分も、隣人も愛することが出来る者とされていきます。そして、そのようにしてくださる神を賛美せずにはいられなくなりますし、神の栄光を現す者として生きることは、大きな喜びとなるでしょう。神の国の民とは、そのように神を賛美し、神を礼拝する信仰者の群れなのです。

 そして、パウロは続けます。
 「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろくことはないのだと。」

 パウロは、フィリピの教会の人々がこのキリストの福音にふさわしい生活を送るならば、福音の信仰のために共に戦っていくことになるのだ、と言っています。
 キリストの福音にふさわしい生活を送る時、それは全く波風のたたない、平穏で静かな生活を送れることだ、とは言っていません。むしろ、戦いに身を置くのだと言っているのです。それは福音の信仰のため、つまりキリストを信じ抜くための戦いです。

 では、どのように戦うのでしょうか。
 パウロは、教会の人々が、神の恵みにあずかった、神の民として生きるならば、「一つの霊によってしっかり立つ」ことが出来るのだ、と言っています。
 一つの霊とは、主イエス・キリストが送ってくださる霊、聖霊なる神のことです。救われた者たちは、お一人の救い主によって、一つの霊のもとで一致します。
 信仰は、たった一人で歩んでいくのではありません。国民が一人きりの国などというものはありません。お一人のキリストに共に救われ、共に結ばれた兄弟姉妹がおり、そこには信仰の共同体があるのです。それは、教会です。
 そして、この「しっかり立つ」という言葉は、例えば兵士が砦に配属された時に、そこの持ち場を守るために断固として立つ様子を表す言葉です。
 キリストのご支配のもとに、一つの霊によって、神の国の民が一つになって、断固として立つのです。

 そして、「心を合わせて」とあります。神の民は、心を合わせて、共に戦います。心を合わせること。それは、賜物を分け合い、恵みや喜びを分かち合い、苦しみや悲しみも共にすることです。互いに祈り合って、支え合って、福音の信仰のために戦っていくことです。
 共に同じ恵みにあずかり、共に同じキリストに従っていることが、互いの信仰を励まし、神のご支配を確信させます。

 そのようにして戦うとき、つまり、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送り、神の国の民が一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて、キリストを信じ抜く時、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない、とパウロは言うのです。
 わたしたちの反対者とは、神の国の民の反対者であるということであり、それはつまり、神に敵対する者、ということです。
 それは当時であれば、教会を迫害する者であったでしょうし、また教会の中で分裂を起こそうとする者であったかも知れません。そして今でも、キリスト者であることで、嫌な思いや、苦労をすることがあるでしょうし、また外からだけでなく、内からも、様々な誘惑や、神のご計画を妨げるものがあったりして、わたしたちを神から引き離そうとするものは数多く存在するのです。
 この地上で、神を信じ、神の国の民として生きるなら、そこには多くの衝突や、誘惑や、戦いがあります。

 しかし、それらの神から引き離そうとする力が脅してきたとしても、キリストの福音にふさわしく生活しているあなたがたは、「たじろぐことはないのだ」とパウロは言います。
 これは少し消極的に聞こえるかもしれません。戦う、としきりに言っているのですが、それは相手を打ち負かしてやっつけたり、攻撃して滅ぼしたりすることではないのです。わたしたちが固く立って、「たじろがないこと」が戦いだと言うのです。
 反対者たちが神に敵対する者であるならば、わたしたちは神の支配のもとにいる者なのであり、わたしたちの神は、すべてに勝利しておられる方だからです。神の勝利のもとで、ただその神にだけ、寄り頼み続けること。キリストを信じる信仰に固く立つこと。たじろがないこと。それが、わたしたちの戦いなのです。
 そしてこのことは、反対者たちに滅びを、そしてあなたがたに救いを示すものである、そしてこれは神によることです、とパウロは言います。
 なぜなら、先ほど、「神が」恵みによってわたしたちを選び、キリストの福音にあずからせて下さった、ということをお話ししたように、わたしたちが固く立とうとする信仰そのものが、神から与えられたものだからです。反対者にたじろがず、信仰に固く立つ時、そのことによって、罪人を赦し、生かし、しっかりとわたしたちを立たせるキリストの福音が証しされ、わたしたちの救いが明らかになるのです。
 そして、同時にこのことは、神に敵対する者の滅びを示します。まことにこの反対者と戦って下さるのは神ご自身なのです。

 そしてパウロは、これらのことを言い換えて
 「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と述べます。
 まず、わたしたちに与えられている恵みは、「キリストを信じること」です。「信じること」は、自分の確信や決意ではない、神から与えられたものです。わたしたちにはまず、キリストの救いを信じること、キリストによって生かされているということが、恵みとして与えられています。
 その上で、「キリストのために苦しむこと」も、恵みとして与えられていると言うのです。神に信仰を与えられ、救われたがゆえに、神の国の民であるがゆえに、苦しみがあります。
 地上において神に反対するものとの、多くの戦いがあります。神以外のものに頼れという誘惑があります。自分の力にさえ頼ろうとしてしまいます。
 わたしたちは神のものとされたゆえに、神から引き離そうとする力に遭います。神がキリストを信じる恵みを与えて下さったがゆえに、わたしたちにはそのような信仰の戦いがあり、苦しみがあるのです。
 わたしたちはその神に敵対する力に、抵抗しなければなりません。
 わたし自身は、そのような戦いにおいて、すぐ弱くなります。すぐ心が揺らぐし、気弱になるし、落ち込むし、倒れそうになります。
 だからこそ、わたしたちは、自分の力ではなく、神の力に寄り頼み、神が与えて下さった信仰に固く立って、たじろがないようにする、神を信じ抜く戦いをするのです。また一人でではなく、神の国の仲間と共に戦うのです。祈り合い、励まし合うことができる兄弟姉妹が、わたしたちには与えられているのです。
 わたしたちは共に、罪にも死にも悪にも、すでに勝利しておられる、主イエス・キリストのものになっているのであり、神の国の民とされているのです。
 キリストを信じる者の苦しみは、神の罰や、神に見捨てられたから起こるのではありません。むしろ、神がキリストの福音を与えてくださったがために、神が共におられるがゆえに、神の子とされたがゆえに、覚える苦しみです。
 キリストのための苦しみとは、キリストの救いの恵みを受けた者こそが受ける苦しみなのです。

 先ほど、キリスト者たちが、反対者に脅されてたじろぐことがない、ということが、救いを示すものである、と述べられていました。
 そのように救いが示されることは、キリストの福音を証しし、救いを与えて下さった神に栄光を帰すものとなるでしょう。そうして、キリストのための苦しみを与えられた神の国の民は、神に寄り頼むことで、神との交わりをますます深められ、キリストの恵みをますます知ることになり、その信仰の歩みは、さらに神のご栄光のために、福音の前進のために用いられていくでしょう。
 ですから、キリストを信じている者に与えられる、キリストのための苦しみは、恵みとして与えられているのだと、パウロは言うのです。

 わたしたちが苦しみを覚えても、反対者たちに脅されても、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送って」いるならば。神の国に属し、ただ神にだけ寄り頼み、神の救いと恵みのみに立ち続けるならば、わたしたちは、どんなことがあっても、たじろぐことはありません。
 いや、そうだろうか。脅されたら、やっぱりあたふたするし、たじろいでしまうのではないだろうか。そう思ってしまうかも知れません。でも、それはやはり、自分自身でそのことに耐えようとしているのです。自分の力で反対者に臨もうとしているからなのです。
 わたしたちはキリストの福音によって、生かされている者なのですから、弱さも、罪も、苦しみも、すべてを、キリストにお委ねして良いのです。何があってもたじろがなくて良いし、この方にすべてを任せて、寄り頼んで良いのです。
 神に敵対する者をはじめ、罪や、そして死さえも、あらゆる戦いを、最も激しく戦い、最も苦しみを受けられたのは、わたしたちの救い主であるイエス・キリストです。世のあらゆる戦い、誘惑、苦しみ、悩み、痛み、悲しみをご存知の方です。わたしたちのすべての苦しみ、悲しみをご存知であり、それらをすべてご自身の身に負って下さった方です。
 そして、このお方は勝利者です。罪に、死に、すべての悪に打ち勝ち、わたしたちをその勝利のもとに招いて、ご自分の民として下さいます。そして、終わりの日、主イエスが再び来て下さり、神の国を完成させて下さるのです。
 わたしたちは、この方に救われ、生かされているということを信じます。
 一つの霊によって結ばれているわたしたちは、共に神の民として、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を」送り、どんなことにもたじろがないで、神の恵みに、信仰に、固く立ち続けましょう。

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