夕礼拝

主のみ言葉を信じる

「主のみ言葉を信じる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第20章1-13節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第10章1-13節  
・ 讃美歌:58、360

荒れ野の旅
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書の民数記からみ言葉に聞いています。毎回申しておりますが、民数記は、モーセに率いられて、奴隷とされていたエジプトを脱出したイスラエルの民が、神様が彼らに与えると約束して下さっていたカナンの地に向かって荒れ野を旅していく様子を描いています。本日はその20章1~13節を読むわけですが、最初の1節にあるように、この時イスラエルの民はツィンの荒れ野のカデシュという所に滞在していました。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の2、「出エジプトの道」を見ていただくと、約束の地カナンの南、シナイ半島北東部にカデシュ・バルネアとあります。このあたりがカデシュで、イスラエルの民は荒れ野での四十年の旅路のうち、このカデシュに最も長く滞在したようです。そこから北東方面に向かえば、即カナンへと入ることができます。この地図にもその方向に点線が伸びているわけですが、彼らはそのままカナンに入ることはできずに途中から引き返さなければなりませんでした。何故そうなったかは先月読んだ13、14章に語られていました。彼らが犯した神様への背きの罪のために、約束の地に入ることは四十年延期されてしまい、彼らはその間荒れ野を旅し続けなければならなくなったのです。

不平不満を言う民
 本日の箇所に語られているのは、その荒れ野の旅の中で、飲み水が無くなってしまい、人々がモーセに不平を言ったということです。3?5節に彼らの不平の言葉が記されていますが、その4、5節を読んでおきます。「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか」。イスラエルの民がこのように不平を言ったのはこれが最初ではありません。出エジプト記の17章には、エジプトを出た直後、やはり水が無くなった時に人々がこう言ったと語られていました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」。また民数記の11章には、人々が食物のことで不平を言ったこと6節にこのように語られていました。「誰か肉を食べさせてくらないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」。このようにイスラエルの民は、荒れ野の旅において、水が無くなった、食べ物がない、と不平不満ばかり言っているのです。そこに共通していることは、エジプトにいた時の方がよかった、エジプトを出たのは失敗だった、ということです。奴隷とされていた苦しみを忘れて、エジプトを懐かしがっているのです。彼らが奴隷として苛酷な労働を課せられているその苦しみの叫びを聞いて、主がモーセを遣わし、エジプトから解放して下さったのです。その恵みを思わず、主に感謝もせず、かえって恨み言を言うのは、恩知らずにも程がある、と言わなければならない罪です。彼らはそういう罪を何度も繰り返してきたのです。私たちが神様の立場だったら、とっくの昔に、「こんな恩知らずな奴らはもう知らん」と見捨てていたでしょう。しかし主なる神は、そのような罪に対してお怒りになりながらも、その都度彼らを赦して下さり、水や食べ物を与えて養い続けて来られました。本日の箇所においても、岩から水を出して飲ませて下さったのです。

約束の地に入ることができないモーセとアロン
 こういう同じような話が出エジプト記から民数記にかけて何度か繰り返されているわけですが、本日の箇所にはそれに加えてもう一つのことが語られています。12節にこう語られているのです。「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない』」。これはモーセとアロンに対する主のお叱りの言葉です。主は、モーセたちがここで罪を犯したために、彼らはイスラエルの人々を約束の地に導き入れることはできない、つまり彼ら自身がそこへ入ることはできない、と宣言なさったのです。モーセとアロンは、イスラエルの民がエジプトを脱出することにおいて、またこれまでの荒れ野の旅において、彼らの指導者として導いて来た人たちです。特にモーセは、繰り返し繰り返し神様に逆らい、恩知らずの罪を重ねる民のために、その都度神様に赦しを願い、執り成しをしてきた人です。モーセがいなければこの民はとっくに滅ぼされていたでしょう。そのモーセとアロンが、約束の地に入ることはできないというのです。事実、アロンはこの20章の22節以下で、先ほどの地図を見ていただくと、死海の東側を北上していく道の途中で死にます。モーセも、この点線の最後のところ、ネボ山の上で、ヨルダン川の向こうに乳と蜜の流れる約束の地を望み見ながら死ぬのです。彼ら二人はついに約束の地に足を踏み入れることはできなかったのです。

民の罪のゆえに?
 何故モーセは約束の地を目前にして死ななければならなかったのか、これはイスラエルの人々にとって大きな疑問でした。民数記の次の申命記の第1章には、この疑問に対する答えが民数記とは違う仕方で語られています。申命記1章19節以下には、私たちが先月読んだ民数記13、14章に語られていた話が繰り返されています。イスラエルの民は、約束の地に近づきそこを偵察した時、そこが良い地であることを確認しましたが、主の命令に従ってすぐにそこに攻め上ることをせず、そこに住んでいる人々は我々よりも強くてかないそうにない、自分たちにはとてもこの地を攻め取ることはできない、と恐れうろたえたのです。つまり彼らは、「この地を与える」という主なる神様のみ言葉を信じなかったのです。神様は彼らのその不信仰に対して憤り、今のこの世代の者たちは誰も約束の地に入ることができない、と宣言なさいました。そのために彼らは四十年間荒れ野を旅しなければならなくなったわけですが、そのことを振り返りつつ語っているモーセの言葉の37節に、このようにあります。「主は、あなたたちのゆえにわたしに対しても激しく憤って言われた。『あなたもそこに入ることは出来ない。』」。つまり申命記は、モーセが約束の地に入ることができなかったのは、民の不信仰の罪ためであり、指導者であるモーセは言わばその連帯責任を負わせられたのだ、と語っているのです。

モーセの罪
 それに対して本日の民数記の箇所は、モーセが約束の地に入れなかったのはモーセ自身の罪のゆえだったと語っています。先ほどの12節にあったように、主はモーセとアロンに対して、「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と言っておられるのです。モーセとアロンが、「わたしを信じることをしなかった、わたしの聖なることを示さなかった」とはどういうことなのでしょうか。彼らはどんな罪を犯したのでしょうか。それは、8節における主の命令と、9~11節でモーセが実際にしたこととが食い違っていることを指していると思われます。主は彼らにこのようにお命じになったのです。「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」。ところが彼らが実際にしたことはこうでした。「モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて行った。『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出せねばならないのか。』モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ」。主は、「杖を取れ」とおっしゃいましたが、それで岩を打てとはおっしゃらず、岩に向かって水を出せと命じなさいとおっしゃったのです。この点においてモーセは、主の命令の通りにしなかったのです。主はこのことを「わたしを信じることをしなかった」と責めておられます。つまりそこにモーセの不信仰があると言っておられるのです。これは決して、重箱の隅を楊枝でほじくるようなことではありません。主がお命じになった「岩に命じる」ことと、モーセがした「岩を杖で二度打つ」こととの間には、大きな隔たりがあるのです。「岩に命じる」ことは「岩を杖で打つ」ことよりもより強い信仰を、言い換えれば神様のみ言葉へのより深い信頼を必要とします。杖で打つことには、その杖が持っている魔術的な力を用いる、という感覚が伴っています。あの「ハリー・ポッター」の話にも、「最強の杖」というのが出てきて大事な役割を果しています。あれはまさに魔法使い、魔術の話です。魔術というのは、杖が力を発揮する世界なのです。それに対して「岩に命じる」ということには、魔術的な力が働く余地はありません。モーセは、自分が魔術師ではない普通の人間であって、自分の言葉には岩から水を出すような力はないことを誰よりも一番よく知っているのです。しかし主は彼に「岩に命じなさい」とおっしゃいました。それは、彼が自分の力によって事をなそうとしていたらとても出来ることではありません。つまり岩に向かって水を出せと命じることは、そのようにせよとお命じになった主なる神様の力に信頼し、何の力もない自分の言葉を用いて主が救いのみ業を行なって下さることをはっきりと信じていなければ出来ないのです。つまり主がモーセに「岩に向かって命令せよ」とおっしゃったのは、私の言葉、私の約束を徹底的に信じて、それのみに信頼して行動せよ、ということだったのです。しかしモーセはそうするのではなくて、自分の杖で岩を打ちました。それは、神様のみ言葉を信じるのではなくて、自分の杖に宿っている魔術的な力に頼って岩から水を出そうとしたということです。それゆえに主はこのことを彼の不信仰として責めておられるのです。

過去の経験によって
 モーセは自分の杖に宿っている魔術的な力に頼ってしまったのにはそれなりの理由がありました。モーセの杖は、主なる神様が最初に彼に現れた時以来、数々の奇跡において用いられてきました。エジプト王にイスラエルの民を解放せよと迫る場面でも、エジプトに様々な災いをもたらすためにこの杖が用いられましたし、あの「葦の海の奇跡」つまり海の水が左右に分かれてその間の道を通って向こう岸に渡り、エジプトの追っ手から救われたという話においても、モーセがこの杖を海に向かって差し伸べたことによって水が左右に分かれたのです。モーセ自身がこれまで、自分の杖を通して行われるこれらの奇跡に驚かされ続けてきたと言えるでしょう。そのような体験によって、この杖には特別な力が宿っていると感じるようになっても不思議はありません。そして彼がその杖で岩を打ったのには、さらにもう一つ無理からぬ理由があるのです。先ほど、出エジプト記第17章にも、同じように水が無くなってしまった時に民が不平を言った話があると申しました。その時にも主は岩から水を出して飲ませて下さったのです。その奇跡を語っている出エジプト記17章5、6節を読んでみます。「主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』」。つまりこの時には主は、杖で岩を打てとお命じになったのです。その通りにしたら水が出たのです。今回モーセが、「あの時と同じだ」と思ったとしても不思議はありません。このような過去の体験に基づいて彼は杖で岩を打ったのです。しかし主は今回は違うことをお命じになったのでした。過去の体験に基づいて行動したために、主のご命令に背くことになってしまったのです。

成功体験の落とし穴
 このことは私たちにいろいろなことを考えさせます。神様のみ言葉に聞き従うことが私たちの信仰ですが、そのことは、神様がその都度新たに与えて下さるみ言葉に、常に新しく聞き従っていく、ということによってこそできる、ということをこの話は教えています。私たちはともすれば、常に新しくみ言葉を聞き、そのみ言葉に新しく従っていくのでなくて、ここでのモーセのように、自分のこれまでの経験に頼って、神様に従うとはこういうことだ、こうすればいいんだ、と自分で決めてしまいます。特に、過去にうまくいった経験があると、その成功体験に捉えられ、それと違うことができなくなるのです。過去に与えられた恵みの体験を感謝することは大切ですが、それが自分の「立場」になってしまい、神様が新しいみ言葉を、新しい命令を与えておられるのに、それに聞き従うことができなくなってしまうとしたら、つまりみ言葉によって自分が新しくされ、改革されていくことを拒むようになってしまったら、そこには大きな落とし穴があります。本日の話に即して言えば、出エジプト記における最初の時には主は、杖で岩を打つという行為を通して、主が水を与えて下さることを体験させて下さったのです。しかし今回は、岩に命じるだけで水が出ることを体験させることによって、モーセの信仰を、み言葉への信頼をさらに深めようとしておられたのです。そのように主は私たちの信仰を常に新しくし、成長させようとしておられるのです。そのみ心にしっかり対応して、み言葉によって常に新しくされ、改革されていくことこそ、神様に従うことなのです。それをせずに、これまでの自分の体験に固執し、新しくされること、改革されることを拒んでしまうなら、自分では神様に従っているつもりでも、実際には神様ではなくて自分の思い、考え、経験に捕えられ、それに従っていることになってしまうのです。過去の成功の体験、祝福の体験が、そのように私たちを頑なにし、柔軟性を失わせ、変えられていくことを拒む者としてしまう、ということが起るのです。

居丈高な言葉
 神様のみ言葉に従うのではなくて、自分の思い、考え、経験に捕えられ、それに固執していく時に、私たちは自分を誇り、自分の力を示して人を従わせようとするようになります。モーセがイスラエルの人々の前で語った10節の言葉はまさにそのようになっています。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」。これは、私が岩から水を出してやるのだから有り難く思え、というような言い方です。つまりそこには、主が恵みの力によって奇跡を行って自分たちを守り、養い、導いて下さる、その主の恵みに信頼して生きるという信仰が失われています。この言葉と、杖で岩を二度打ったというモーセの行動は繋がっています。自分の杖に宿っている魔術的な力によって、という思いは、要するに自分が手に入れて持っている力によって、ということであり、その自分の力を人々の前で発揮し、人々を自分に従わせようとすることであり、そのような思いから、このような威丈高な言葉が生まれるのです。モーセが本来ここで語るべきだったのは、「あなたがたは主の恵みに信頼せずに不平不満を言っているが、主はあなたがたのそのような恩知らずの罪にも拘らず、この岩から水を出して飲ませて下さる。その主の恵みのみ業をよく見なさい。そして主を畏れ敬い、信じなさい」ということであり、その上で岩に向かって「水を出せ」と命じるべきだったのです。それをせずに、自分が水を出してやるようなことを言って、自分の杖で岩を打った、それが「わたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」罪だったのです。

次の世代の人々に託して
 この罪のゆえにモーセとアロンは、イスラエルの人々を約束の地に導き入れることができませんでした。つまり彼らは約束の地に入ることができず、荒れ野で死ぬことになったのです。私たちは、それは余りにも気の毒ではないか、と思います。彼らがここで罪を犯したことは確かだろうけれども、しかしエジプトからの解放において、また荒れ野の旅において、モーセがこの民を導き、指導してきたこと、アロンが祭司として民の礼拝を司ってきたこともまた確かです。この一度の罪によって約束の地に入ることができないというのは酷だ、と思うのです。けれども考えてみればこれは、私たちの誰もが体験することです。私たちの人生において、目標として目指してきたこと、そのために努力してきたことを完全に成し遂げ、その実現を見てから死ぬということは、全くないとは言いませんが、ごく稀なことではないでしょうか。たいていは、道半ばにして、目標の完成を見ずに私たちは人生を終えるのです。自分の目指してきたことを成し遂げた、と言うことができる幸せな人もいるでしょうが、その成果を維持していくためにはその後も様々な働きが必要なのであって、本来人間の営みに完成はないのです。ですから私たちは誰でも、未完成なままの働きを次の世代の人々に託して人生を終えていくのです。この世の働きにおいてそうだというだけでなく、神様の恵みのみ業もそのように、世代から世代へと受け継がれつつ前進していくのです。モーセとアロンは、主がイスラエルの民をエジプトから解放して下さり、彼らが荒れ野を旅していく、主のそういう恵みのみ業の担い手、導き手として用いられてきました。しかしイスラエルの民はこれから、約束の地に入り、そこに定住して生きていくという新しい時代を迎えようとしているのです。その新しい恵みのみ業を担い導いていくのは、次の世代の人たちです。新しい世代によって、主の新しい恵みのみ業がなされていくのです。この新しいみ業を受け入れ、それに従っていくことこそ、主に従って生きる私たちの信仰です。そこで自分たちのこれまでの体験に固執し、主のみ心は以前こうだったのだから今もこうであるはずだ、と言って結局は自分の思いを押しつけていくのはよくないのです。約束の地に入ることなく荒れ野で死んでいった、モーセとアロンの兄弟、さらにこの20章1節には彼らの姉妹であったミリアムが死んで埋葬されたことが語られていますが、彼らは決して無念の死をとげたのではありません。彼らは、主の恵みのみ心によってある時代に用いられて充実した人生を歩み、主が次の世代の人々によって新しいみ業を行なおうとしておられる、そのみ心を受け止めつつ、平安の内に召されていったのだと思うのです。

主の恵みのみ業は継続している
 大切なことは主の恵みのみ業が継続しているということです。モーセが杖で岩を打ったのは主のご命令に反することでしたが、しかし主はそこでも岩から水を出して、渇きに苦しんでいる民を救い、養って下さいました。人間の罪にも拘らず主が与えて下さるその救いのみ業が、イスラエルの民の歴史を通して継続し、主イエス・キリストにおいてそれが実現し、今は私たちキリスト教会において、継続されているのです。先程共に朗読した新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の10章1節以下においてパウロは、モーセに率いられたイスラエルの民の荒れ野の歩みを振り返り、彼らが神様によって繰り返し飲み水を与えられたことについて、4節でこう語っています。「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」。彼らが繰り返し岩から出た水で渇きを癒されたのは、実は霊的な岩が彼らから離れずについて来てくれたからであり、その霊的な岩とは主イエス・キリストのことなのです。ということはその岩は今も私たちと共にいて下さり、私たちはキリストを頭とする教会においてその岩から与えられる水をいつもいただいて、渇きを癒され、新しい命を与えられているのです。主なる神様はこの恵みのみ業を、モーセの時代も、その後の旧約聖書の時代も、そして今の教会の時代も、変わることなくなし続けて下さっています。私たちはその恵みのみ業によって救われ、そのみ業の中でそれぞれの人生を歩んでいます。主はそのみ業をこれからも新しく前進させていって下さいます。そのみ心に常に新たに聞き従っていくことによって、み言葉によって新しくされつつ歩み、そして主が、お前の働きはここまで、とおっしゃる時には、次の世代の人々にそれを託していく、そういう信仰の人生を歩んでいきたいのです。

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