「生きている者の神」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第3章1―6節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第22章22―33節
・ 讃美歌:16、519
サドカイ派とは
本日は、マタイによる福音書第22章23節からの御言葉に耳を傾けたいと思います。主イエスのところに、サドカイ派の人々が近寄って来ました。サドカイ派の人々とは、当時の祭司や富裕層に多く「復活はない」と復活を否定していた人々でした。本日の箇所の小見出しには「復活についての問答」とありますが、私たちの1つの関心として、人間は死んだらどうなるのだろうか、という問いを多くの人が持つのではないでしょうか。主イエスのおられた、当時の人々にとっても、この問いは関心のある事柄でした。人間は死んだらどうなるだろうか、という問いは多くの人が持つ疑問ではないでしょうか。サドカイ派と呼ばれる人々は、先ほども申しましたが、復活、肉体の復活というものを否定していました。サドカイ派の人々は、聖書の、当時の聖書とは今の私たちにとっては旧約聖書にあたりますが、旧約聖書の最初の五つの書、創世記から申命記までの「モーセ五書」と呼ばれる書物を重んじていました。旧約聖書の最初の五つの書物は、「律法」とも呼ばれ、その「律法」を重んじていました。「律法」を基準とし、律法に書かれていないことは受け入れないという姿勢でした。サドカイ派の人々とはこのような人たちでした。
ファリサイ派
サドカイ派に対立する考え方として、ファリサイ派の人たちの考えというものがあります。本日の箇所には出て来ませんが、ファリサイ派の人々というのは、サドカイ派の人たちの考え方に対して別の考えを持っていました。ファリサイ派の人たちとは旧約聖書の中でも比較的新しく書かれた書物、ユダヤ人たちの間で言い伝えられてきた教えを受け入れ、重んじていました。そこから出て来る考えというのは、人は死んでも魂が残り、神様が定めておられる時に、復活して、新しい体を与えられるという考え方です。そのような考え方とは、この世の姿からの延長、連続するものとして、考えられていました。本日の箇所ではありませんが、本日の箇所の直前の箇所では、ファリサイ派の人たちは主イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようと相談をしていていました。(15節)ファリサイ派の人々とは、主イエスを陥れようとした人々です。本日の箇所はこの直前の箇所と話と同じに日に起きている事柄なのです。このようにサドカイ派もファリサイ派も同じ旧約聖書に基づきながらも、その解釈によって、対立する考えを持っておりました。サドカイ派は復活を否定し、ファリサイ派もまた復活を認めてはいたものの、その理解とは今ある自分の生活に視点をおいて、復活というものを捉えていたのです。 そして、このサドカイ派の人々が、しばしば持ち出した話が、本日の箇所で主イエスに問うたことだったようです。サドカイ派の人々は主イエスに質問をしていますが、これは質問の形をとって、結局は復活などないと、という自分たちの主張を主イエスに認めさせるものだったのです。
レヴィラート婚
主イエスに投げかけられた問いはこのようなものでした。24節からです。「モーセは言っています。」とは律法では、ということですが、「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならない」という結婚の規定に基づいた質問でした。この結婚の規定は家系を絶やさないための掟です。その規定を持ち出して、サドカイ派は極端な例を持ち出します。七人の兄弟が次々に一人の女性と結婚し、皆子をもうけずに死にしました。そして、彼らの問いは、死者が復活した場合、この女性は誰の妻になるのか、というものです。この問いによってサドカイ派が言いたいことは、死人の復活などあり得ないのだ、ということです。 ファリサイ派の人々の理解とは、人は死んでも魂が残り、神様が定めておられる時に、復活して、新しい体を与えられるというものでした。つまり、死んでも人間の存在は何らかの形で続くというものでした。それに対して、サドカイ派は、復活を否定していますので、死んだ後などはもうないのです。生きている間だけのことが全てなのだと言うことです。サドカイ派が主イエスに問い出した問題は、復活したら起ってくる問題というだけではありません。死んだ後、魂が天国に行く、そこでも同じことが起るのです。たとえば、地上の人生において、妻や夫と死に別れて再婚するということがあります。そして、魂が天国に行った時にどうなるのでしょうか。私たちは、天国で愛する者と再会するという希望を抱いています。愛する者の死において、その再会は大きな慰め、希望となります。では、再婚した人はどうなのか。愛する二人の妻あるいは夫と再会するのでしょうか。天国ではその人は二人の妻あるいは夫を持つ身となるのか。このように死んだ後の世界、死んだ後も存在が続いていくと考えると、そのようなうことが起ってくるのです。 ファリサイ派のそのような考え方に対して、サドカイ派は、そのようなこともないと言うのです。当時のユダヤ人たちは、サドカイ派もファリサイ派も共に、人間を、魂と肉体とに分けてしまう考え方をしておらず、魂と肉体とは切り離すことのできないものであり、神様の造られた人間は本来それを共に備えているものなのです。ファリサイ派の主張する復活は、魂が存続するならば、神様は必ずそこに肉体をも与えて下さる、というものです。その復活を否定するサドカイ派は、魂の存続ということも否定しています。それは、死んだらそれでおしまいで、死後の世界などないと言うことなのです。
復活の時
主イエスは、このサドカイ派の主張に対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われました。続けて「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われました。ここで主イエスは、「復活の時」と言われます。「復活は確かにある」と言われました。人間の存在は死によって、すべてが終わりなのではなく、まだその先がある、ということです。主イエスはそこで、復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになると言われました。この「めとることも嫁ぐこともなく」というのは、地上における結婚の関係が、復活においてはもうなくなるということです。復活においてとは、天国において、死後の存在においてはということです。主イエスの言われる「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」とは、死後の歩みや復活というものを、この世の人生の延長、今ある自分の生活の視点から考えないということです。この世における、生活、その中に含まれる結婚の関係もまた、そのまま死後の、復活の歩みにおいても続くのではないのです。この世における生活とは、体験していること、あらゆる人間関係、与えられる様々な賜物や重荷、賜物、健康や才能などの全てのことです。重荷とは心身の病気であったり障害であったり、いろいろな悩み苦しみのことですが、それらのものが、そのまま死後の歩み、復活の体に延長されていくのではなく、それらのものは、肉体の死において終わるのです。
新しい関係へ
私たちは死んだ後の世界のことは、私たちにははっきりと知ることができません。人間は今知っているこの世の歩みから類推して、その延長上に物事を考えてしまいます。主イエスは、そのような人間の思いに対して、「聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われます。これは、サドカイ派、ファリサイ派だけではなく、私たちに対してもまた主イエスは言われるのです。そして、31節で主イエスは「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。(31節)と言われました。そして、主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という説明を加えておられます。神様とは、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの民の先祖たち一人一人の名を呼んで、彼らの神として、彼らと共に歩んで下さった神です。私たちもまた、この神様によって、名を呼ばれた者です。そしてそのことは、死んだ後の歩みにおいても同じです。死んでしまえばそれで終わりではない、まだその先の歩みがあるのです。神様は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」と宣言されます。死においても私たちの名を呼び、あなたは私の民、私はあなたの神だと言って下さいます。それは、神様が新しい体を与えて下さる復活の希望に生きるということです。復活の希望は、今あるもの延長線上に存在するものではなく、新しいものの到来です。この地上の人生において与えられている賜物も重荷も、全て終わりを迎えます。そして、神様は私たちに、新しい歩みを与えて下さるのです。そのことが、「天使のようになる」というみ言葉の意味です。
天使とは
天使とは神様に造られた被造物ですが、人間以上のもの、人間が持っている様々な制約や罪から解放された存在です。神様により近く仕えるものです。私たちもまた、神様によってそのような新しい者とされます。私たちが地上で与えられていた関係も、よりよい、完成されたものとなります。ですからそこでは、再婚した人は二人の妻や夫を持つことになるのかというようなことを悩む必要はなくなります。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」というのは、そのように、地上における関係を越えた、新しい関係が与えられるということなのです。私たちは死んだ後どうなるかということをはっきりと、見てきたように知ることは出来ません。しかし私たちには、聖書に語られている神様の力が示されています。神様は、天地を造られ、私たちの命を造られ、私たちの名を呼んで下さる方です。その神様の力が聖書には示されています。そして、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を贖い、復活によって新しい命を約束して下さった、神様です。ここにはその神様の力を示されています。聖書には、死んだらどうなるということをはっきり語られていません。私たちが知る必要がないということでしょう。けれども、既に示されていることがあります。私たちが生きているときも、死においても、そして死んだ後も、主イエス・キリストの父なる神様が私たちの名を呼んで下さり、あなたはわたしの民、わたしはあなたの神だ、わたしが名を呼んだ者は生きるのだ、わたしは死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだと宣言して下さっている、ということです。聖書の神とは、私たちの名を呼んで下さり、命を与え、生かして下さる神です。信仰者の歩みとは、そのような神様の恵みを、この地上を生きる時だけでなく、死んだ後にも続くことを信じる歩みです。私たちは、その神様が私たちに、新しい体、復活の体を与えて下さることをも信じることができます。使徒信条では「身体のよみがえり」「死人のよみがえり」を信じると告白しています。信仰告白において、私たちは肉体の復活を信じていることを告白します。死んで、魂が天国に行って、神様のもとで安らぎを得る、それで終わりということではないのです。世の終わりに、神様は私たちに、新しい体、復活の体を与えて下さるのです。どんな体かということを、具体的に、この世の体からの類推、延長で考えることはできません。神様が与えて下さる新しい命において生きるのです。完成されたものとして、新しい者とされるのです。神様は、無からこの世界を、そして私たちをお造りになったお方です。そして、主イエス・キリストを死より甦らされたお方です。主イエス・キリストは肉体をもって復活されました。この主イエスの復活の事実こそが、私たちの復活の保証、初穂なのです。キリストの復活にあずかり、私たちも復活の体を与えられて永遠の命を生きる者とされます。主イエス・キリストの復活にあずかるところに、私たちの希望があるのです。