夕礼拝

深く憐れんで

「深く憐れんで」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第57編1―12節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第20章29―34節
・ 讃美歌 : 433、353

目の見えない人の癒し
 本日はマタイによる福音書第20章29節から34節の御言葉に聞きたいと思います。主イエスの一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆が主イエスに従った、ということから本日の場面が始まります。場面はエリコになります。エリコという町は首都エルサレムの東北にある古い町です。エリコはエルサレムからヨルダンの東に抜ける交通の要所ともなっている場所で、棕櫚の大きな森が茂り、有名な森林地帯からかぐわしい香りが漂っており、芳香の町でもありました。主イエスの一行はこれからエルサレムへと向こうとされます。本日は第20章の終わりですが、次の21章には主イエスがエルサレムへ入られた時のことが語られます。主イエスのエルサレム入城です。それは、主イエスの地上の最後の1週間、即ち捕らえられ、十字架につけられる、その歩みが始まるのです。本日の箇所はその主イエスのご受難が始まる前の、最後の出来事です。
 本日の箇所の内容と同じ内容の記事が他の福音書にも記されております。他の福音書の同じ内容の記事を並行記事と言いますが、マルコによる福音書第10章46節以下、ルカによる福音書第18章35節以下に記されております。マルコによる福音書では一行がエリコに着いた時の出来事として、ルカによる福音書はエリコに近づいたときの出来事として述べています。マタイによる福音書では、主イエスの一行がエリコを出たときのこととして記されているので、厳密に言えば違いがあることになります。けれども、そのような違いがあるにも関わらず、本日の出来事、目の見えなかった人が主イエスによって癒されるという出来事がエリコにおいて起こった出来事であるという点では三つの福音書は一致して伝えております。ルカによる福音書だけは、さらに二つの話をこの後に挿入していますが、大体の話の流れは同じです。また最も古い、マタイも下敷きにしたとされるマルコによる福音書では、この人の名前も記されています。「ティマイの子バルティマイ」とあります。けれどもルカによる福音書では「ある盲人」となっています。またマタイによる福音書でも名前は語られずに、「二人の盲人」と人数が二人になっています。そのようないくつかの違いもありますが、目の見えなかった人が癒されたことを、三つの福音書は共通して語っています。主イエスはエルサレムへ向けて進まれます。それはご受難の歩み、十字架の死に向けての最後の歩みです。その途中に、主イエスは目の見えなかった人を癒したのです。

必死の叫び
 「主イエスと弟子たちはエリコの町を出てエルサレムへ進みます。大勢の群衆がイエスに従いました。それは多くの人々が、主イエスの一行について来たということです。主イエスの教えやみ業に感銘を受け、この方こそ来るべきメシア、救い主なのではないか、という期待を抱きつつ、また主イエスについていけば何かいいことがあるのではと思う、そういう人々が主イエスの一行の後をぞろぞろとついて来たのです。「そのとき、二人の盲人が道端に座っていました。2人の盲人が道端に座っていた、ということは「物乞いをしていた」ということです。この二人の盲人はエリコの町に門のところで、出入りする人々から施しを受けて生活していたのです。当時の社会では、目の見えない人はそのようにして生活を立てるしか方法がなかったのです。マタイによる福音書が2人にこだわっているとすれば、証人としての証言の価値が二人ではないといけないからであったかも知れません。目の見えない人の数が一人であろうと、二人であろうとそれほどの問題のことではないでしょう。目が見えず、光を失っていた盲人です。一人で自立して生活することは難しかったでしょう。人々の情けに寄り縋って生きていかなければならない人々だったのです。

主よ
 その二人の盲人が、主イエスがお通りだと聞いて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。大勢の人々が通っていく、その中のどこに主イエスがおられるのかわからない彼らは、ひたすら大声で、叫び続けたのです。「群衆は叱りつけて黙らせようとした」。その群衆とは、「主イエスに従った」とある人々です。主イエスと関係のない人々ではありません。主イエスに感銘を受け、期待し、ついていこうとしている人々です。しかしその人々が、主イエスの憐れみを切に求めて叫ぶ彼らを黙らせようとしたのです。弟子たちもまた、そのようにして止めさそうとしたかもしれません。弟子たちも含めて、誰もこの盲人たちの叫びを受け止めようとはしなかったのです。しかし彼らは、主イエスに自分たちの声をなんとか聞き取ってもらいたいという必死の思いで叫び続けました。
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。けれども主イエスだけが、彼らのこの叫びを受け止めたのです。主イエスは立ち止まり、二人を呼び、そして彼らの願い通りに、その目を開き、見えるようにして下さいました。誰も相手にしなかった彼らに、主イエスだけは、自ら近寄られ、恵みのみ手を差し伸べて下さったのです。ここに主イエスのお姿、主イエスという方の本質が示されています。主イエスは救いを求める叫びを、主イエスは聞き取って下さり、応答して下さるのです。二人の盲人は、主イエスに向かって、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。人々に叱りつけられても、やかましい、邪魔だ、黙っていろとののしられても、ひるまずに叫び続けました。二人の盲人の叫び声によって、主イエスは気付かれたのです。叫ばなければ、主イエスによる癒しはなかったのです。二人の盲人は主イエスに向かって、ひたすら叫びました。その叫びを聞いて主イエスは、立ち止まって、彼らを呼び、「何をしてほしいのか」と問われたのです。これは考えてみればおかしな問いです。主イエスはこれまでに多くの、病気の人、体の不自由な人を癒してこられました。そして今、目が見えなくて物乞いをしている人が、「主よ、憐れんでください」と叫び求めているのです。その彼らに対して「何をしてほしいのか」などと問われたのです。驚きます。この二人の盲人が「この目を癒していただきたい、見えるようになりたい」と願っていることを主イエスにとっては明らかなはずです。しかし主イエスは敢えて、「何をしてほしいのか」と彼らに問われました。

主イエスに従う
 二人の盲人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えました。主イエスはこの願いを受けて、彼らの目に触れ、見えなかった目を見えるようにして下さいました。彼らが切に願い求めていた癒しの奇跡が起ったのです。彼らの喜びはいかばかりだったでしょうか。そしてその喜びの中で彼らはどうなったのでしょうか。一言で「イエスに従った」と記してあります。二人の盲人は願い通りに目を開かれました。そしうて、主イエスに従ったのです。エルサレムへと歩まれる主イエスについていったのです。二人の盲人は目が見えるようになりと切に願っていたことでしょう。目が見えるようになれば、自分の力で働き、生活を整えていくことができるのです。物乞いをしなくて良いのです。二人は目が開かれたら、そのような生活を贈りたいと願っていたでしょう。主イエスが通られたと聞いて、「わたしたちを憐れんでください」と叫んだ時にも、主イエスのみ前に呼ばれて「何をしてほしいのか」と問われた時にも、目が開かれ、新しい生活を始めるという願いをもっていたでしょう。
 そして、主イエスによってその願いがかなえられました。目が癒され、目が開かれて見えるようになった。そして、二人が考えたことはどのようなことだったしょうか。もし、私たちであったらどうでしょうか。仕事を得て、自分で生活が出来る、家庭を持つことができる、と思ったでしょう。けれども、二人はこのような歩みでなく、全く違う歩みを始めたのです。主イエスに従う歩みです。主イエスは自分の目を開けて下さった方、暗闇から解放して下さった方、光を与え下さった方です。その主イエスと共に歩みたい、この方に従いたい。そのような思いに促され、主イエスに従い始めました。主イエスに感謝しなければならないということではありません。彼らは自分の願い、1番したいことをしたのです。それは、心からの喜びを持って主イエスに従うことだったのです。目が見えるようになって、自分の手で働き、糧を得て、生活をする、家庭を持ち、色々なことが出来ると期待し、目を開かれたいと願っていました。しかし、主イエス・キリストとの出会いによって変わりました。主イエスによって癒しを与えられ、主イエスに「何をしてほしいのか」と問われたのです。願いの通りに目を開かれた時、彼らは、自分たちが本当に求めていたことに気付いたのです。主イエスとの出会いによって、目が開かれたのです。本当に求めていたのは、自分たちの苦しみを本当にわかって下さり、救いを与えて下さるこの主イエス・キリストと共に歩むこと、主イエスという、本当に従っていくに足る、恵みと憐れみに満ちた主を得ることだったのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という彼らの叫びには、彼らの心に秘められたそういう願い求めが現われています。単に肉体の目を見えるようにして下さい」と願っているのではないのです。彼らは、「憐れみの主」を求めていたのです。主イエスは、「何をしてほしいのか」と敢えて問うことによって、彼らの心の奥底にあるこの真実な願い求めを呼び覚まして下さったのです。

憐れみの主
 盲人の叫び「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という叫びは、この二人だけの叫びではありません。「主よ、私たちを憐れんでください」という願いは、私たち一人一人の叫びでもあります。私たちの心の中にある叫びです。私たちも、それぞれ様々な悩みや苦しみ悲しみをかかえて生きています。この盲人たちが「目を開けてほしい」と願ったように、私たちもそれらの様々な問題、苦しみの解決、救いを願い求めます。けれども私たちが本当に求めているもの、意識はしていなくても、実は私たちにとっての本当の問題は、憐れみに満ちた主を見失っているということなのではないでしょうか。本当に従っていくべき、また従っていくに足る主人を得ていないということなのではないでしょうか。
様々な悩みや苦しみ悲しみをかかえている私たちが、恵みと憐れみに満ちた主イエスという主人と出会い、主イエスに従う者、主イエスと共に歩む者とされるのです。そこにこそ、私たちが本当の慰めと支えと守りの内に生き、そして死んでいく道があるのです。

憐れみを求める
 主イエス・キリストの憐れみをひたすら叫び求め、その主イエスの憐れみにすがり、主イエスにつき従って生きる、そこにこそ、私たちの救いがあります。誰かに助けを求める、憐れみを求めるというのは弱い人間の行うことであると思われるかもしれません。それは、本当に自分自身のことがわかっていない、向かい合っていない、自分が見えていないということです。私たちもまたこの二人の盲人なのです。本当に見るべきものが、見えていないのです。自分の罪、自分がどれほどの人間であるか、神様から背き、隣人を傷つけ、苦しませているか、私たちは自分の姿を本当に分かっているでしょうか。
 本日の箇所の直前の20節以下には、主イエスの弟子であった、ゼベダイの二人の息子たち、ヤコブとヨハネの母親の話があります。この母親は他の弟子たちをさしおいて、主イエスの栄光に共にあずかる者となれるように願い出ました。申し出たのは母親ですが、二人の息子たちもそこにおりましたので、彼ら自身の願いでもありました。彼らが主イエスに「お願いがあるのですが」と言ってきた時、主イエスは、「何が望みか」とおっしゃいました。本日の箇所における「何をしてほしいのか」と同じ言葉が使われています。ここでは、主イエスに「あなたがたの願いは何か」と問われた二組の人々の話が並べられているということです。どちらも、主イエスにお願いをし、「何が願いか」と問われています。そして主イエスの弟子、信仰者であった者たちは栄光を求め、道端の物乞いだった盲人たちは憐れみを求めたのです。私たちが主イエスに願い求めていくべきことは憐れみなのです。「主よ、憐れんでください」と願うことが信仰です。さらに言うならば、主イエスに従っていけば何かいいことがある、自分がよりマシな者になり、より栄光ある歩みができると思っていたのが、あの群衆たちです。主イエスに従うこと、つまり信仰をそのように自分がより善い者となり、より栄光を得るためのこととして捉えている者たちは、あの盲人たちを叱りつけて黙らせようとするのです。主イエスの憐れみを切に求める叫びを抑えつけ、妨げる者となってしまうのです。

信仰の歩み
 信仰とは、主イエス・キリストの憐れみを願い求めることです。主イエスはその願いに必ず応じて下さいます。主イエスは救いを与えて下さるのです。この盲人たちが見えるようになった、その場面の書き方には、マタイと、他のマルコ、ルカとでは違いがあります。マルコとルカには、「あなたの信仰があなたを救った」という主イエスのお言葉があります。しかしマタイにはそれがありません。その代わりにマタイにあってマルコとルカにないのは、「イエスが深く憐れんで」という言葉です。マルコとルカが、ひたすら主イエスの憐れみを求める盲人の信仰とその信仰による救いを語っているのに対して、マタイは、主イエスの憐れみによる救いを強調しているのです。私たちの信仰とは、主イエスの憐れみをひたすら願い求めることです。その憐れみを求める私たちの祈り願いに対して、主イエスは深い憐れみをもって応えて下さいます。「深く憐れみ」と訳されている言葉は、盲人たちが「憐れんで下さい」と願っているその「憐れむ」とは違う言葉です。「憐れんで下さい」の方は、普通に「かわいそうに思う」という意味で使われる言葉です。しかし主イエスが「深く憐れむ」、それは、もともとは内臓という意味の言葉から来ており、内臓がゆり動かされるような憐れみ、もっと日本語的に言えば、はらわたがよじれるような憐れみを意味しています。それは主イエスの私たちへの憐れみを表す特別な言葉です。
 主イエスは、「憐れみの主」なのです。私たちの信仰とは、この主イエス・キリストの憐れみをひたすら願い求めることです。その願いに、主イエスは、深い憐れみ、特別な憐れみをもって応えて下さるのです。それは、私たちの罪を背負って十字架にかかり、苦しみの内に死んで下さるという憐れみです。今主イエスは、エルサレムへ向けて、その憐れみの道を歩んでおられるのです。その道の途上で、憐れみを求める二人の人を癒し、ご自身の憐れみの内に置いて下さったのです。主イエスの憐れみの行為である病人の癒し、つまり彼らが目を開かれたことは、主の十字架における根源的な癒し、つまり罪からの救いのしるしなのです。その癒しを受けた彼らは、主イエスに従っていった。それは、この主イエスの憐れみの内に留まり、そこで生きる者となったということです。それは何も特別なことではありません。主イエスの憐れみの下で生きることこそが救いなのです。主イエスのもとを離れては、この救いはないのです。だから彼らにとって、主イエスに従っていくことが一番自然なことなのです。
 信仰の歩みとは、主イエス・キリストの憐れみを求めつつ生きる歩みです。「主よ、憐れみたまえ」と祈り続けることです。「主よ、憐れみたまえ」という祈りは、新約聖書の言葉、ギリシャ語で「キリエ・エレイソン」といいます。それはそのギリシャ語のまま、教会の祈りの言葉となりました。私たちの生きるこの現実の社会、この世界は多くの問題を抱えております。人間の罪によって、色々な問題があります。私たちのその現実の中のただ中に主イエスは来られました。主イエスは深い憐れみをもってこの地上を歩まれました。そして、十字架の苦しみと死を引き受けて、その憐れみを与えて下さいました。復活の勝利のしるしである癒しを与えて下さる主イエス・キリストがおられるのです。私たちはこの主イエスに目が開かれ、主イエスに従い、共に歩んで行きたいと思います。

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