「天の父の御心」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編第23編1-6節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第18章10―14節
・ 讃美歌 : 120、313
はじめに
本日はマタイによる福音書第18章10節から14節の御言葉をご一緒にお読みしたいと思います。本日の箇所の小見出しには「迷い出た羊」のたとえ、と記されています。同じ内容の話しがルカによる福音書第15章3節から7節にも語られています。このたとえ話は主イエスが語られたたとえ話しの中でも有名なものであると思います。子どもたちの礼拝でもこのたとえ話しを歌った讃美歌があります。通常、このたとえ話を取り上げる時はルカによる福音書第15章の方が取り上げられる場合が多いです。本日はマタイによる福音書のテキストから「迷い出た羊」の話を読みますが、ルカによる福音書とは違う文脈の中にこのたとえ話しが置かれています。本日のマタイによる福音書では、第12節から14節までがたとえ話です。そのたとえ話を導き出しているが第10節であり、10節にはこのように記されています。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(10節)主イエスはたとえ話を語られる前に「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」とおしゃっています。「これらの小さな者」とは同じ第18章6節にあります「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」(6節)ということです。「わたし」とは語られる主イエスご自身であり、主イエス・キリストを信じる者の群れである「教会」を指します。第18章は教会の交わりについて述べられています。主イエス・キリストを信じる群れである教会における人々の交わりについて、述べられているのです。
主イエスの警告
そして、前回の6節から9節とは、主イエスを信じる教会の交わりにおける小さな者の一人をつまずかせることへの警告が語られていました。「つまずかせる」とは、その人の信仰の妨げとなるということです。信仰の妨げとは、その人が神様、主イエスを信じ続けることができなくしてしまう、その人が教会の群れから失われる原因を作ってしまうということです。そのように、一人の人をつまずかせることに対して、主イエスの厳しい警告が語られてきました。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」このような主イエスの厳しいお言葉を受けて、本日の10節では「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(10節)と続けて語られているのです。人をつまずかせることとは、信仰の妨げとなり、信仰から離れさせ、相手を軽んじることによって起る、というのです。人を軽んじる思い、軽蔑する思いを抱くこと、低く見ることによって、その人を傷つけ、その信仰をつまずかせるということになるのです。
子ども、小さな者
そして、このことはまた直前の5節と6節の結びつきから語られているのです。5節では「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とありました。主イエスはここで、主イエスの名のために、一人の子供を受け入れることを求めておられるのです。子供を受け入れることの対極にあるのが「小さな者の一人をつまずかせる」(6節)ということです。「小さな者の一人」とは「一人の子供」を言い換えているのです。そして、その小さな者、子供を「受け入れる」ことと「つまずかせる」ことは全く反対の事柄なのです。人を「つまずかせる」ことの原因は、その人を「受け入れない」ということです。人を受け入れてないことから、その人をつまずかせる、信仰を妨げるということが起こるのです。「受け入れられていない」という思いから、信仰のつまずきが生まれるのではないでしょうか。またそのことが「軽んじている」ということにもなります。「受け入れない」と「軽んじている」ということは同じなのです。主イエス・キリストを信じる群れである教会の中の小さな一人を軽んじる思いから、つまずきが生じるのです。
天の父の御顔を仰いで
ですので、10節もまたその前の部分と続いております。軽んじられてしまうような者、小さな者、目立たない、そのような者に対してどのような態度を取るのか、ということが問われているのです。主イエスは「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と言って、更に「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」と言われました。ここでは「彼らの天使」とありますが、主イエス・キリストを信じる信仰者、教会に連なる者たちには「天使」がついているということです。これは、私たちひとり一人を守ってくれる天使ということではなく、「彼らの天使」とあります。「彼ら」とは「これらの小さな者」つまり、軽んじられ、目立たない者ということです。そのような小さな者の一人に「天使」がついているということです。そしてその天使が「いつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」とあります。彼らの天使が父なる神様の近くで、その御顔を仰いでいるのです。天使が父なる神様の近くで、御顔を仰いでいるというのは、神様と天使がついている小さな者の一人と近い関係にいるということです。神様が小さな者の一人と密接な、親しい関係を持っておられるということです。彼らの天使が神様の近くで神様の御顔を仰いでいるということは、神様が小さな者の一人と親しい関係、交わりを持たれ、自分の大切な者としておられるということを示しています。小さな者とは、軽んじられ、目立たず、そして受け入れられない者の一人という意味です。神様はこのような小さな者と親しい関係を持たれ、そして大切に思っておられるのです。神様にとって大切な、ご自分の子供なのです。そのような、神様の大切な者を私たちが軽んじ、受け入れないということがあってはならないのです。主イエスは神様が大切にされている人を、私たちが軽んじ、受け入れないということはあってはならないと教えておられるのです。
喜ばれる神様
そのことを主イエスは次に続くたとえ話の中で語られていきます。主イエスの譬えはこうです。12節からですが「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」と主イエスは語られました。神様にとって、失われた一匹の羊の存在はとても大切なものでした。その大切な一匹が失われてしまうことを決してよしとはされず、悲しまれます。その一匹が探し出され、群れへと戻り、信仰の交わりへと回復されることを願っておられます。そして、群れへと戻ってくることを何よりも喜んで下さるのです。ここに神様のお姿、小さな者への愛が示されています。このような神様のお姿というのは並行箇所であるルカによる福音書15章と同じであります。
見出した者の喜び
ルカによる福音書第15章は「迷い出た一匹の羊」のたとえ話は「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」と並んで記されています。この3つの譬えの共通項は「失われたものが見出される喜び」です。その喜びは、見出された者の喜びではなくて、見出した者の喜びです。迷子の羊のたとえでも、失われた羊を見出した羊飼いが喜んでいます。無くした銀貨のたとえでも、銀貨を探し出した人が喜ぶのです。そして放蕩息子のたとえでも、家を飛び出して放蕩に身を持ちくずした息子が帰ってきたのを、父親が喜ぶのです。
迷子になった羊こそは私たちであり、その私たちを主イエスがまことの羊飼いとして探して連れ帰って下さるのです。放蕩息子のように、父である神様のもとを飛び出し、自分の好きなように生き、与えられたものを無駄にして、行き詰ってしまうのが私たちの姿です。
そのように、神様のもとから失われ、迷子になり、苦しみ悲しみの内に絶望してしまっている、そういう私たちを、まことの羊飼いである主イエスが探しに来て下さり、見つけ出して、神様のもとに、私たちが本当に生きることができる父のもとに連れ帰って下さる、そして神様ご自身がそのことを心から喜んで下さり、私たちを温かく迎え入れて下さる、そういう恵みがこの一連のたとえ話によって語られています。父なる神様は、私たちが悔い改めて、もう一度、まことの父である神様のもとへ帰ろうとする、そのことを喜んで下さいます。ルカによる福音書では私たちの罪を赦し、迎えて下さる神様の恵みが語られています。
九十九匹の私たち
マタイによる福音書において「迷い出た羊」とは、私たちが軽んじてしまう、つまずかせてしまう、これらの小さな者の一人ということです。神様は私たちが軽んじ、つまずかせてしまうその一人の小さな者を、大切に思っておられます。そして、神様はその小さな一人を群れに連れ戻ることを喜ばれ、そのために力を注いで下さるのです。力を注がれるとは、神様の独り子である主イエス・キリストが十字架にかかられたということです。主イエスの十字架によって、私たちを救いへと招いて下さったのです。私たちが軽んじ、つまずかせる小さな一人の者が悔い改め、群れに戻ることにおいてこそ、神様の大きな喜びがあります。この小さな者を私たちが軽んじ、つまずかせてしまう者であるとすると、私たちの立場、姿は「迷わずにいた九十九匹」とも重ね合わせることが出来ます。マタイによる福音書おいては、私たちは「迷わずにいた九十九匹」に自分の姿を見出すことが出来ると思います。しかし、だからと言って、私たちは罪を犯して神様のもとから失われてしまうことはないと言うことが出来るでしょうか。私たちの誰もが迷い出てしまう一匹であります。では、迷い出てしまう一匹と迷わずにいた九十九匹の関係とはどのようなものでしょうか。迷い出てしまう一匹が失われてしまうことの責任が、九十九匹の一人である私たちにあるのではないでしょうか。また、マタイによる福音書では迷い出た一匹の回復を九十九匹に属する私たちがどれだけ真剣に願い、求め、喜ぼうとしているか、ということが問われていると思います。
受け入れる
私たちの羊飼いであられる主イエスは、この失われた一匹の羊の回復、救いのために、全力を尽くされます。全力を尽くされる、命を捧げられるということです。主イエス・キリストは九十九匹を置いて、失われた一匹を捜しに行かれました。主イエス・キリストとはそのようなお方です。私たちの信じる主イエス・キリストとはそのような、羊のために命を捨てる羊飼いであられるのです。そして、主イエスは九十九匹を山に残して、失われた一匹を捜しに行かれ、その一匹を見つけ、喜ばれます。主イエス・キリストを信じる者とは、主イエスと共にこの喜びを分かち合う者です。主と共に喜ぶのです。主イエスと共に喜ぶ者とされる。そのことがまさしく、「これらの小さな者の一人も軽んじない」ということです。主イエスの御心、主イエスのご意思を受け入れることです。「小さな者の一人も軽んじない」者とは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせ」ない者となることです。その小さな者の一人を「受け入れる」ということです。「受け入れる」とは受け入れにくい相手を受け入れるということです。ただ気が合わないというのではなく、それ以上に、いろいろと迷惑をかけられたりするのです。つまり、群れから迷い出ていく一匹の羊とは、他の九十九匹にとって迷惑な存在です。その一匹のためにありつけたはずの牧草にありつけないようなことが起こります。また、羊飼いが自分たちを山に残してその一匹を捜しに行ってしまう時、その間に九十九匹を狼が襲うかもしれません。誰が一体自分達を守ってくれるのか、と心配をしてしまうものです。そのような迷惑な存在です。
主イエスと共に
しかし、羊飼いであられる主イエス・キリストは、その失われ、迷い出た小さな一匹の羊のことを本当に大切に思っています。だから捜し求め、見つけたら喜んで下さるのです。私たちの信じる主イエス・キリストのお姿です。時に私たちは迷い出る小さな一匹を捜される主イエスを受け入れにくいときもあると思います。なぜ、主イエスはそのようにされるのか、と疑問を持ち、疑いの思いを持ってしまうときがあります。自分の都合で、過ちで、その責任で迷い出てしまった一匹を捜しに行かれるのか。主イエスが大切に思っておられる一人の小さな者も、私たちにとって迷惑をかけるような存在かもしれません。それゆえに私たちがともすれば軽んじてしまう者を、受け入れることができないような者かもしれません。しかし、マタイのよる福音書第18章での「迷い出た羊のたとえ」において、私たちが、主イエスと共に迷い出た一匹の羊を捜し求め、受け入れる者となることを求めています。主イエスを信じる者の群れである教会の交わりの姿がそこに示されています。教会における交わりとはこのように主イエスと共に迷い出た一匹を捜し、見出したら共に喜ぶという主イエスを中心とした交わりです。
主イエスによって
ルカによる福音書では私たち自身が失われた羊であり、主イエスがそのような私たちを探し出して救って下さるのです。神様は私たちが探し出され、救われることを大変喜んで下さるのです。本日のマタイによる福音書においてもこの神様が喜んで下さることが当然示されています。私たちは失われた羊、迷い出た一人であるということです。私たち自身もまた群れから迷い出てしまうことも多いと思います。もともと、私たちは父なる神様のもとから迷い出ている者なのです。放蕩息子のように、自分勝手な生き方をし、神様を神様と思わず生きているのです。私たちはそのような罪に陥っている、失われた、迷い出た一匹の羊です。羊は弱い者ですので、迷い出たら自分では帰ることができません。羊飼いが捜しに来て見つけ出してくれなければもう死ぬしかないのです。私たちはそのような者であります。そのような私たちを、神様の独り子であるイエス・キリストが捜し出して下さいました。そして、私たちを捜し、救われるために主イエスはその命をささげてくださったのです。主イエスの十字架の苦しみと死とによって、私たちは罪を赦され、神様のもとに立ち帰ることができるのです。
教会における交わり
主イエスが、その命を懸けて私たち一人ひとりを捜しに来て下さり、見出してくださり、父なる神様のもとに連れ戻して下さいました、この羊飼いである主イエスの救いのみ業によって私たちは、神様の牧場の羊の群れに加えられました。この神様によって集められた羊の群れが教会です。しかし、神様のもとに集められた群れである教会においも、私たちはつまずいて再び迷い出てしまいそうになったりします。与えられた仲間である兄弟姉妹を受け入れることができず、軽んじてしまい、つまずかせてしまったりすることがあります。私たちの信仰の歩みは、ある時はつまずく者であり、ある時はつまずかせる者であります。私たちはある時は九十九匹の方におり、ある時は失われた一匹の方であります。私たち全ての者が皆、これらの小さな者の一人であります。教会の中で、ある人々だけが特別に小さな者であるわけではありません。私たちはお互いに、小さな者であり、罪にまみれた存在です。互いに相手を軽んじ合い、互いにつまずかせる関係です。お互いを受け入れ合えないところで、様々な問題が生じ、関係は壊れてしまうのです。しかし、主イエスは本日の箇所の最初に言われました。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」と。「彼ら」とは、「これらの小さな者」です。「これらの小さな者」とは私たち一人一人のことです。小さな者である私たち一人一人みんなに、天使がついているということです。それは神様が私たちと密接な、親しい関係を持っていて下さるということです。神様は小さな者である私たち一人一人のことを、深く気にかけ、ご自分の大切な民として下さるのです。神様は私たち一人ひとり一人を軽んじることなく、つまずかせられることのないように、大切に思ってくださるのです。神様が私たちを大切に思われている、愛し、探し出し、見出して下さるのです。それは私たちの救いのために、御子イエス・キリストを与えて下えて下さったことに現されています。そして、私たちが互いに軽んじることなく、つまずくことなく、一人もかけることなく、主イエスと共に、主イエスを中心に、この地上において教会を立て上げて行きたいと思います。