「わたしを憐れんでください」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第63編1-12節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第15章21-28節
・ 讃美歌 : 10、134
異邦人の地へ
本日はマタイによる福音書第15章21節から28節をご一緒にお読みしたいと思います。主イエスはティルスとシドンという地方に行かれました。新共同訳聖書についている地図を見ますと、フェニキアの地中海に面したところに、ティルスやシドンという町の名前が記されています。古いフェニキアの海岸沿いの町ですが、そこは長い間貿易によって栄えて来ました。主イエスはそれまで活動をされていたガリラヤ地方から、現在のシリアであるフェニキア地方に移動をされたということがここで記されています。本日の箇所と同じ内容の話しがマルコによる福音書第7章24節から30節においても記されております。マルコによる福音書の方では主イエスが「ティルス」に行かれたということしか記されていません。マタイによる福音書では「シドン」という地名が記されています。主イエスがイスラエルから出た地域、外の異邦人の地、外国の地に出られたということです。そして、主イエスが異邦人の地へ行かれたのはこの時だけです。ですので、このことは主イエスに生涯にとって特別なことでした。ティルスよりももっとイスラエルから離れている場所へ移動されたのです。マタイによる福音書では「シドン」という地名を付け加えることによって、主イエスの特別な出来事、すなわち異邦人の地に出たということを強調したのです。
しかし、本日の箇所である24節で主イエスはこのように仰っています。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」主イエスは、自分は異邦人のためではなくて、イスラエルの家の失われた羊のところしか遣わされていない、と言っておられるのです。それでは、なぜ主イエスはティルスやシドンという異邦人の地へ行かれたのでしょうか。
心を落ち着けて
このときの主イエスを取り巻く状況が第15章の始めに記されています。1節にはこのように記されています。「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。」(15章1節)ファリサイ派の人々、律法学者たちとはエルサレムの最高議会のメンバーたち、ユダヤ当局の人たちです。そのようなメンバーが、ガリラヤの主イエスのもとに来ていたのです。そして、主イエスの弟子たちがユダヤ人たちの言い伝えに背いていることを問題にしてきました。主イエスのことを何とかしなければならないという動きが、エルサレムの都で起こってきたことが示されています。主イエスを結局は十字架にまで追い詰めていくようなユダヤ人の指導者たちの動きがここで次第に露骨になってきておりました。そのような状況において、主イエスはしばらくユダヤ人の指導者たちから身をかわして、心を静かに落ち着けて、心の備えをなさりたいと思われたのでしょう。それゆえに、主イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれたのです。
カナンの女
主イエスはエルサレムのユダヤ当局の者たちが迫る中でしばし、心を静かに落ち着けて、心の備えをなさりたいと思われました。そして、異邦人の地、ティルスとシドンの地方に行かれました。本日の箇所では心静かに落ち着けて、備えるという主イエスの意図を破るような出来事が起こりました。22節です。「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。」
自分の娘が悪霊に苦しめられている母親が主イエスの前に現れました。そして、主イエスに叫び求めた女は「この地に生まれたカナンの女」なのです。カナンというのは、旧約聖書に登場する地名です。当時、敢えて「カナン」という地名を用いるという時には、神の民イスラエルとは区別されたということを示しています。主なる神以外の偶像を崇拝する異教徒という意味です。創世記9章25節には、ノアの言葉として「カナンは呪われよ、奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と書いてある通り、カナンの住民は神の民イスラエルにとっては偶像礼拝のゆえに滅ぶべき異教徒と考えられておりました。
憐れんでください
この異教徒の女が主イエスと出会ったのです。このカナンの女と主イエスの出会いは、明らかに主イエスの意図に反したものでした。ここに登場したのは、自分の娘のことで悩みを持つカナンの女です。
私たちは、自分が何かの重荷を負っている場合はもちろん、苦しいことです。更に、自分が心から愛している者、ここでは自分の娘のこととなりますと、ある意味では自分のこと以上に苦しい、悲しいものです。自分のことなら、我慢するしかない、でも愛する娘のこととなるととても我慢など出来ません。このカナンの女は、「主よ、どうか憐れんで下さい」と叫んだのです。娘を思う母親の切実な願いが響いてきます。マルコによる福音書ではこの女の訴えは間接的に記しております。しかし、マタイによる福音書では女の訴えの言葉そのものが記され、記されています。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」とあります。この女の言葉が直接記されていることによって、この状況を一層、緊迫したものとしています。愛する娘のために、主イエスが娘を悪霊から解放して下さる事を熱心に求めているのです。ここには、3度におよぶ女の願いが繰り返されていきます。それに対して主イエスも三度、対応されています。この女の求めは、路上における激しい叫びでありました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」この女は自分の娘を思う熱い思いに促された言葉です。誰も治すこと出来なかった娘の苦しみを抱え、その救いを主イエスに求めたのです。「主よ、ダビデの子よ」と彼女は言っています。それはイスラエルの民の救い主を意味する言葉です。また「わたしを憐れんでください。」この願いの言葉は、信仰の全ての願いに簡潔に述べた言葉です。後の教会はこの願いを、この祈りを「キリエ・エレイソン」をもって教会の祈りの総括をし、礼拝において繰り返し祈ってきました。この願いの言葉は、この異邦人の女性の必死の祈りの言葉なのです。
主イエスのお答え
主イエスはこの女の心の奥底から絞り出されるような叫びに対して、何もお答えになっていません。私たちはこの主イエスの沈黙をどのように、受け止めたらよいのでしょうか。私たちは、主イエスが苦しみ、悲しみの中にいるカナンの女の叫びに対して答えられることを期待します。しかし、私たちは本日の主イエスの対応に驚きます。23節の前半にありますように「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」のです。この母親の必死の願いに対して、先ず何も聞いていないかのように振舞われます。この主イエスの最初の反応は母親にとっても驚きで、私たちにとってもショックなものです。主イエスにのみ希望をおいて、必死になって助けを求めているのに、主イエスは何も答えられないのです。主イエスは私の苦境に無関心であり、私のことなどどうでもよいと考えているのでしょうか。ここで、この女が主イエスに失望し、主イエスに背を向けて、主イエスの前から去って行っても不思議ではありません。そのような行動を責めることもできません。ここで、主イエスとこの女性の間は遠く離れています。しかし、この女性は諦めません。助けを求めて、叫び続けながら、祈りながら主イエスの後を追うのです。しかし、2人の距離は縮まっていません。それでも、この女性は諦めず必死で叫び続け、祈り続け、主イエスが何かを答えてくださることを信じて叫びます。
私たちはここで色々なことを考えさせられます。私たちの願いに対して神様が答えることが、私たちの信仰ではないのです。神様の願い、神の御心に私たちが答えることが、私たちの信仰です。主イエスがカナンの女の求めに対して黙っておられることは、私たちのまずそのことを確認させております。それでは、神様の御心とは、どういうことでしょうか。23節からです。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。」この部分はマルコによる福音書においては、記されていません。主イエスの沈黙と弟子たちとの問答もマルコによる福音書には記されていません。マタイによる福音書では、主イエスと弟子たちのとの関係は重要な事柄です。弟子たちは、主イエスにカナンの女が叫びながらついてくるので、追い払ってと言います。
弟子たちの対応
そのような中で主イエスの弟子たちが主イエスに近寄って来て願いました。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」弟子たちはここで何を考えて、このように主イエスに願ったのでしょうか。この女があまりにしつこく、執拗に叫び続けるので「うるさくて、たまらないから早く追い払ってと思ったのでしょうか。そのような理由もあるかもしれません。これほど、執拗な叫びを止めさせるには、人間は時に非情になります。この姿もまた人間の弟子の姿です。たとえ、ここで弟子たちがそうなったとしても、非難する資格は私たちにはありません。
しかし、ある聖書学者はこの時の弟子の思いをこのように解釈しました。ここで弟子たちは「いつも、あなたがそうしておられるように、どうぞ娘を癒し、彼女を助けて解放してやって下さい」と思ったのではないかということです。ここでの「追い払ってください」という言葉は「去らせない」「行かせなさい」という意味の言葉でもありますが、この女性の問題を片付けなさいという意味にも取れます。しかも、この言葉は「捕らわれ人を解放する」「病気から開放する」という意味でも使われております。願いが叶えば、女はもう騒ぐことはありません。人間の願いを神に聞かせることではありません。私たちの信仰は御利益宗教ではありません。神の願い、神様が願っておられる、神の御心に人間が答えることが私たちの信仰です。
子犬でさえも
弟子たちの思いがここでどのようなものであったのか、はっきりはしません。しかし、弟子たちの言葉が主イエスと苦しみの中にいる母親の関係の距離を縮める結果となったのです。主イエスは沈黙を守っておられましたが、弟子たちの願いに対して「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました。
「羊」とは旧約聖書以来、イスラエルのことを指しています。この主イエスのお答えはまたしても、異邦人であるこの母親の願いを拒絶するものでした。この母親の思いはどんなものであったでしょうか。悲しくて、絶望的な思いをもって聞いていたでしょう。しかし、この女性は諦めず、屈しません。そして、この女性は主イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言いました。
このような女性の態度に対しても、主イエスはなおもこの求めを拒むような言葉をもってお答えになります。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになりました」この主イエスのお言葉は24節に記されている主イエスのお答えを先の答えを詳しく言い換えたものです。ここでは、イスラエルと異邦人が「子供」と「子犬」に擬えられています。私たちは、ここで人間の事を「子犬」になぞらえるとは、何事だと思います。また「犬」とは、イスラエルの文献ではしばしば異邦人、異教徒を指す、蔑称でした。軽蔑の言葉です。ある解説には「この世の諸民族、すなわち異邦人、異教徒は犬に等しい」とも言われております。それに対応しますと、子供たちとはイスラエルの民のことです。しかし、主イエスはここで「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。主イエスがここで「子供と子犬」と言っておられるのです。
子供と子犬には大きな違いがあります。当然です。しかし、子犬と犬とは違う言葉です。子犬とは家庭にあって大切にされている愛玩用のペットという意味です。しかし、子犬とその飼い主の子供と同じではありません。カナンの女は、主イエスの言葉を聞いて「主よ、ごもっともです。」と主イエスの言葉を認めます。自分は子供ではなく、犬であり、自分は主イエスの救いに当然あずかれるような者ではないということを認めたのです。
主イエスに対する信頼
このカナンの女の言葉は、マタイによる福音書だけが伝えている言葉です。そして、それは異邦人にとっても承認されなければならないものだったのです。その上で、カナンの女は「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言いました。ここに、このカナンの女の謙虚さが現れています。そして、同時に主イエスに対する深い信頼が示されています。また、主イエスへの信頼と同時にこの女性の期待が明らかにされています。マルコによる福音書で、この部分は主イエスがこの女に対して「それほど言うなら、よろしい」となっています。マタイによる福音書では「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」となっています。主イエスはカナンの女性に対してこのように答えているのです。そして、更に「あなたの願いどおりになるように。」と主イエスは言われました。カナンの女にとって、耐え難いほど厳しい主イエスの言葉に反論することなく、批判することなく、ただ主イエスのお言葉が正しいと認めつつ、肯定しつつ、なおも執拗に神の憐れみを求めているのです。主イエス・キリストのみが救いを与えて下さる唯一の方であることを確信して熱心に求めているのです。神様の恵みを執拗に求めて主イエスを離されないのです。食卓から落ちるパン屑には子犬も与ることができるという信仰です。主イエス・キリストだけが人間の困窮を癒して下さるだろうという揺るがない信仰です。主イエスはこの姿を見て、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。そして、そのとき、娘の病気はいやされたとなっています。主イエスはこのカナンの女の願いを叶えられたのです。
神の御心によって
主イエスとカナンの女との出会いは主イエスが意図されていなかったことです。主イエスがティルスとシドンへ行かれたのは、迫って来る厳しい状況に対処する心構えをする静かな時を持つということでした。そのためには、出来るだけ人と会わないことが願わしいのです。マルコによる福音書ではそのことが端的に記されています。主イエスはティルスの地方に行かれました。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。となっています。ここには、意図せぬ出会いがあったのです。主イエスの意図を超えた、父なる神の意図、ご意志がここにあったことが示されています。また、主イエスに願い求めたこの女が異邦人であるということが示されています。その女性が主イエスをイスラエルとしての、救い主、メシアであるという信仰の告白をしています。神様の意図が、神様のご意志がイスラエルの範囲を超えて、異邦人の世界の中で既に行われているということです。神の救いのご意志は、神の民としてのイスラエルによって受け止められました。しかし、それは決してイスラエル以外ではなされないものではないのです。本日の箇所では、ティルス、シドンにおいても神のご意志が示されているのです。主イエスの沈黙において、人間の願いに答える神ではなく、神の願い、神様がなさろうとしていることに、私たちが聞くということが示されています。主イエス・キリストの十字架の出来事は神の御心であり、人間のために神がなさったのです。