夕礼拝

知恵の正しさ

「知恵の正しさ」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 箴言 第8章1―36節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第11章16―19節
・ 讃美歌 : 290、55

主イエスの道備え
 本日は、マタイによる福音書第11章16節からの御言葉をご一緒にお読みしたいと思います。本日の箇所は「今の時代を何に例えられたよいか」(16節)という主イエスの問いかけから始まります。主イエスの「今の時代」とは一体どのような時代のことを指しているのでしょうか。主イエスはどのようなことを念頭に置いて「今の時代」と言っておられるのでしょうか。本日の箇所は、その前のところとつながっています。本日の箇所は11章2節からの始まっております「洗礼者ヨハネとイエス」の流れの中に置かれております。小見出しにもありますように、主イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことが記されております。洗礼者ヨハネは主イエスが公に活動を始められる前に、ユダヤの荒れ野で人々に悔い改めを呼びかけました。少し前の3章11節においてそのことが記されています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」と洗礼者ヨハネは語りました。そしてヨハネは来るべき救い主のために道備えをした人です。自分の後に救い主が現れることを予告しました。そのヨハネは今、牢の中にいます。その事情はこの後の14章に語られていきますが、ヨハネは時の領主ヘロデの罪を厳しく指摘したため、ヘロデ王の怒りを買い牢に捕らえらました。ヨハネは今捕えられている牢獄からついに出ることはなく、命を落としました。ヨハネは悔い改めを迫る審判の預言者として登場し、人々に大きな影響を与えました。主イエスもまた、その救い主としての公の生涯の最初において、ヨハネから洗礼を受けたのです。

信仰の決断を求める
 そして、主イエスは公の生涯、伝道の活動を開始されました。主イエスもまた「悔い改めよ、天の国は近づいた」と伝道を始められました。主イエスは人々に洗礼を授けるということではなく、人々に神様の恵みを宣べ伝えました。そして、主イエスは病気や悪霊につかれて苦しんでいる人を癒しました。そのような主イエスの活動、御業を知ったヨハネが、獄中から弟子を遣わして「来るべき方はあなたですか。」と問わせました。主イエスのお答えは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(5節)でした。そして続く「わたしにつまずかない人は幸いである」との主イエスのお答えは、ヨハネに対して来るべき救い主と信じる信仰の決断を求める御言葉でした。その後、主イエスは人々に、ヨハネのことを語り始めました。9節において、洗礼者ヨハネのことを「預言者以上の者である。」と言いました。13節では、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」と言いました。ヨハネこそ、預言者と律法の時代の終りに立っている者であるというのです。更に14節において、彼、即ちヨハネは「現れるはずのエリヤである。」と言いました。エリヤとは来るべき救い主の先駆けとして道を備えるために遣わされた人です。しかし、その直前に主イエスは「あなたがたが認めようとすれば分かることだが」と加えており、留保をつけて語られました。「聞く耳のある者は聞きなさい」(15節)では言われました。これらの言葉は人々に対して、ヨハネを来るべきエリヤとして認め、受け入れる信仰の決断を求めている言葉です。このように主イエスはここでヨハネ自身に対して、また人々に対しても、信仰の決断を求めておられます。主イエスを来るべき救い主と信じ、自分をその先駆けとして位置づけるという信仰の決断をヨハネに対して、そして人々には、ヨハネを救い主の道備えをするエリヤとして受け入れ、そのヨハネが指し示した主イエスを信じるという信仰の決断を求めておられます。主イエスはそのように信仰の決断を求めておらます。「わたしにつまずかない人は幸いである」「耳のある者は聞きなさい」と語りかけられています。

今の時代
 そのような時こそが主イエスが示されている「今の時代」です。主イエスはここで「今の時代」と言って今の政治的、社会的な状況や現象を示しているのではありません。当時のガリラヤ、ユダヤは事実上ローマ帝国に支配されていました。人々はその政治的、社会的な支配からの解放を願い求めていました。しかし、主イエスの言っておられる「今の時代」はそのような状況を示してはいないのです。救い主の先駆けとしてヨハネが遣わされました。そして神の独り子である主イエスが人々を救うために人となって来られました。主イエス御言葉を宣べ伝え、癒しのみ業を行われました。神の独り子をとおして、神人々に救いの手を差し伸べ、語りかけられました。そのことは信仰の決断を求めておられるということです。主イエスは「今の時代は何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている」と言われました。その呼びかけの言葉は「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」というものです。これはいったい何のことかと私たちは思いますが、これはどうも当時子供たちが遊びの中で歌っていた歌のようです。どのような遊びかというと、婚礼ごっこと葬式ごっこです。「笛を吹く」とは、婚礼のお祝いを真似る子供の遊びです。遊ぶ道具もあまりない当時、婚礼や葬式も子供たちの遊びの種になっていました。しかし、ここの子どもたちは、お互いに文句を言い合っているのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」、それは、婚礼の真似をしているのにみんなで歌ったり踊ったりしようとしたのに、相手が一緒に楽しく遊んでくれないということです。「葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」、それは、葬式を真似る遊びをして嘆きの歌を歌っているのに、それに合わせて嘆き悲しむまねをしてくれない。それでは、婚礼、葬式を真似する遊びが成り立たないというのです。つまりお互いにこうやって遊びたいという思いがあるのだが、相手がそれに乗ってくれないと文句を言っている歌です。主イエスは今の時代は、このように相手が自分の思いを受け入れてくれないと文句を言い合っている子供たちの姿に似ていると言ったのです。

 ヨハネと主イエス
この婚礼と葬式を真似るという対照的な遊びの組み合わせは、深い意味を持っており、18、19節とつながっています。そこには「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」とあります。ここには、洗礼者ヨハネと主イエスとの違いが描き出されています。ヨハネは、「食べも飲みもしない」、つまり、荒れ野に住んで、いなごと野蜜を食べ、非常に禁欲的な生活をしていたのです。それに対して主イエスは、「飲み食いしている」、主イエスはカファルナウムの町の、ペトロの家を根拠地としておられました。そして9章10節にあるように、弟子となった徴税人マタイの家で、大勢の徴税人や罪人たちと一緒に食事をなさった、宴会の席に着かれたのです。そのように、ヨハネと主イエスとでは、生活のあり方が全く違っていました。このように対照的な生活をしているヨハネと主イエス、そのいずれに対しても、人々は違った批判をしております。そして、そのいずれの教えをも受け止めようとしないということです。ヨハネが禁欲的な厳格な生活をしていると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、主イエスが飲み食いしていると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」と言う。そのように、色々な仕方で、結局ヨハネの語りかけも主イエスの語りかけも受け入れようとしないのです。つまり、自分のしたい遊びを相手がしてくれないと文句を言い合っている子供のように、お互いに思いがすれ違っています。一致できない人間たちの姿と、またそのすれ違い対立する思いが描かれています。しかし、共通していることは神様からの救いの御手を拒み、救い主イエス・キリストを受け入れないということなのです。それこそが、主イエスが今の時代の姿として見つめておられることです。つまり、洗礼者ヨハネについて、「あなたがたが認めようとすればわかることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」と言われたけれども、しかし人々はそれを認めようとしないのです。主イエスが「耳のある者は聞きなさい」と言われたけれども、誰も聞く耳を持たないのです。主イエスはそのような時代の現実を指し示しています。
 洗礼者ヨハネの教えは、葬式の歌として描かれています。洗礼者ヨハネは、人々に厳しく悔い改めを求めました。ヨハネの教えは人々に、葬式の歌に合わせて悲しみ嘆くように、自分の罪を嘆き悲しみ、悔いることを求めているのです。それに対して主イエスの教えは全く違います。主イエスの御業は、婚礼の祝いになぞらえられています。それは喜びの祝いです。主イエスも、ヨハネと同様に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って伝道を始められました。ヨハネが「悔い改めよ」ということを述べました。しかし、主イエスは、「天の国は近づいた」と語られました。そして、御言葉を語り、御業を示されました。主イエスが示された天の国、神様のご支配は、神様の深い恵みと憐れみのご支配です。人々の苦しみに同情し、それを取り去り、癒して下さる神様の恵みが主イエスのみ業によって示され、罪を犯して神様から遠く離れてしまっている者を赦され、ご自分のもとに招いて、共に歩んで下さる恵みが、徴税人や罪人たちを招いて食事の席に着かれるお姿に示されているのです。主イエスの教えとみ業には、そのような神様の愛と憐れみと恵みが表されています。それゆえにそれは人々に喜びと祝いをもたらすのです。主イエスを救い主として信じ受け入れる時に私たちは何よりもまずこの喜びと祝いに生きる者とされるのです。主イエスと共に生きることは、花婿を迎えた婚宴の席にいるようなものです。洗礼者ヨハネの教えと主イエスの教えとでは、このような違いがあります。ヨハネは主イエスの道備えをした人です。つまり主イエスの喜びの教えの前提には、ヨハネの説いた悔い改めがあります。自らの罪を思い、嘆き悲しみ、悔いる、そのことが、主イエスによる罪の赦しの恵みへの道備えとなっているのです。自分の罪を認め、悔い改めることなしには、赦しの恵みにあずかることはできません。ヨハネの歌う葬式の歌に合わせて共に悲しむことなしに、主イエスの吹く婚礼の祝いの笛に合わせて踊ることはできないのです。また逆に、主イエスによる罪の赦しの恵み、神様の憐れみのご支配を知ることなしに、本当に自らの罪を見つめ、それを悔い改めることもできないと言うべきでしょう。主イエスの吹く笛に合わせて、立ち上がって踊ることなしに、ヨハネの葬式の歌に合わせて共に悲しむこともできないのです。ヨハネの教えと主イエスのみ業はそのように密接に結び合っています。そして「今の時代」の人々が、そのいずれに対しても、色々と理由をつけて受け入れようとしないことです。

まこととの知恵
 そして、主イエスは「知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言われました。「知恵」とは一体何でしょうか。本日は旧約聖書の箴言第8章をお読みしました。その1節では「知恵が呼びかけ」とあります。知恵自身が、呼びかけ、声をあげる存在とされて描かれています。4節以下がその知恵の呼びかけの言葉です。「人よ、あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる」。知恵が、自らを「わたし」と呼んで、人間たちに語りかけていくのです。12節にも「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている」とあります。そしてさらに22節以下では「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった。わたしはそこにいた。主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」。とあります。主なる神様がこの世界をお造りになった時、混沌であった世界に秩序をお与えになった時「わたし」、即ち知恵がそこに共にいたということです。独立した人格として人々に語りかけることができる者である知恵、天地創造の時に既に主なる神と共にいた者としての知恵が描かれています。この知恵は、後に、神様の独り子主イエス・キリストと結びつけられていきます。この知恵とは独り子主イエスのことだと考えられていったのです。本日の箇所における「知恵」も、主イエスのことであります。主イエスこそまことの知恵であり、その正しさは、その働き、つまり主イエスのみ業やみ言葉によって証明されるのです。その御業やみ言葉とは、5節に語られていたことです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。主イエスは、洗礼者ヨハネに、ご自分のこのみ業をお示しになりました。そして「わたしにつまずなかい人は幸いである」と言われました。これらのみ業から、主イエスこそ来るべき救い主であることを信じる、信仰の決断をお求めになったのです。ヨハネだけではありません。何だかんだと理屈をつけて主イエスを受け入れようとしない今の時代の人々全てに対して、わたしのこれらの働きを見なさい、そして私こそまことの知恵、父なる神から遣わされた救い主であると信じなさいと信仰の決断を求められたのです。そしてそれは私たちにも求められていることです。私たちが主イエスのみ業、お働きとして見つめることを許されているのは、先ほどの5節のことのみではありません。私たちは更に、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、その死に勝利して復活して下さったことを知らされています。私たちに悔い改めを与え、罪の赦しの恵みの中で喜びをもって生きる新しい命を与える神の知恵があります。まことに不確かな、不安な時代を生きる私たちを導き、リードして下さるのは、まことの知恵であられる主イエス・キリストです。

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