夕礼拝

平和があるように

「平和があるように」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第52章7-10節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第10章1-15節
・ 讃美歌 : 11、481

キリストの体である教会
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日と呼ばれる日です。このペンテコステがどのような出来事を記念する日なのかということは、新約聖書使徒言行録の第2章で語られております。
神の独り子主イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さり、
復活されました。復活の主イエスが天に昇られてから十日目、弟子たちが集まっていると、彼らの上に聖霊が降り、彼らは聖霊の力を受けて主イエス・キリストによる救いを宣べ伝え始めた、そのようにして聖霊の働きによって教会が誕生したことを記念するのがこのペンテコステの日です。「教会はキリストの体」であると言われます。
 体は呼吸をしてその機能を維持しています。息を吸い、吐いて、また吸うということで、生き生きとした生命活動を営んでいます。教会というキリストの体においてもその通りです。私たちは教会の礼拝に召し集められ、礼拝を捧げ、御言葉をもって養われ、祝等を持って、この世におけるそれぞれの日常へと派遣されます。教会は、この世から選びだされ、召され集められた者のことを表しております。教会は、旧約聖書のイスラエルが神から選びされた民であったように、私達もまた、イエス・キリストによって神から選ばれ、召された神の民であることを表す言葉。しかし、このようにして選び出された神の民には、世において果たすべき使命が与えられております。この使命、それぞれに与えられた使命を果たすために御言葉によって養われ、充電され、この世へと送りだされ、派遣をされるのです。呼吸とは吸うだけではありません。それを吸って吐くことによって初めて呼吸となります。息を吸うのは、むしろ吐くためであります。しかし、吐くことが大事だからと吐いているばかりではすぐに息もたえだえになってしまいます。とても持続は出来ません。教会は、選び召されるということと、派遣されて送り出されるという生命のリズムのように維持されていきます。それは私たち自身においてもそうです。日曜日に教会に招かれ、召され、御言葉を聞き、そして派遣されるのです。このようなキリストの体の生命的なリズムの基礎となるような出来事が本日共にお読みする箇所において示されています。

選びと派遣
 12弟子の選びと派遣です。主イエスのこの地上のお働きとは、前回お読みしたマタイによる福音書第9章35節で示されているように、会堂で教え御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたということです。主は町や村を巡り歩き、神の国の福音を宣べ伝え、人々を癒されました。それは主イエスが出会った群衆の姿が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いたからです。主イエスはそのような群衆の姿をご覧になりました。そして、そのような群衆の姿を見て、主イエスは弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。収穫の主に、働き人を送り出すように願いなさいということです。前回の箇所はそのように終わっております。そして、本日の箇所では主イエスが十二人を特別に選び出されましたのです。主イエスは弟子たちに「収穫のために働き人を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われました。そして、本日の箇所では、十二人を呼び寄せ選ばれました。十二人の名前も2節以下に並べられていきます。彼らは、主イエスによって選ばれ、指名を受けた人々だったのです。十二人の弟子たちが選ばれ、「弟子たちに汚れた霊に対する権能をお授けになりました。それは汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とあります。十二人の弟子たちが選ばれたのは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであったのです。

主イエスの御業を引き継いで
 これらのことは、主イエスご自身がこれまでになさってきた働きそのものです。主イエスは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々の様子を見て、深く憐れみ、汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒されました。その主イエスの憐れみのみ心が、さらに多くの人々に及んでいくために、弟子たちが立てられたのです。そして、遣わされていくのです。主イエス・キリストの深い憐れみの御心の担い手となり、収穫のための働き手とされていきます。主イエスの御心を具体的に現していくために立てられたのです。12人は主イエスによって使命を与えられ、遣わされていくのです。そのために彼らは選ばれたのです。1節には、彼らに「汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とあります。こういう使命を果たすための特別な力を与えられて、彼らは派遣されたのです。2節には、彼らのことが「十二使徒」と呼ばれています。「使徒」というのは、「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた十二人、それが「十二使徒」なのです。本日の箇所は、その十二使徒の派遣に際しての主イエスの教えです。彼ら十二人が、遣わされていく先々で、何をしたらよいのか、またどういうことに注意すべきか、が語られているのです。何をしたらよいのか、それは7、8節に語られていることです。「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」、彼らは、これらのことをするために力を与えられて遣わされたのです。

主イエスの選び
 イエスによって選ばれて十二使徒となった人々は、特別に立派な人や、優れた人たちではありませんでした。2節には「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」とあります。この四人は、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネはガリラヤ湖の漁師です。3節では、当時の人々から罪人の代表として忌み嫌われていた徴税人であったマタイの名もあります。更に4節では、主イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダの名もあげられています。このように見ますと、彼らは、収穫のための働き手としての優れた資質を見込まれて使徒となったのではありません。もし、私たちが選ぶとすればもっと吟味をして、より優れた人物を選ぼうとするかもしれません。しかし、主イエスの選びは人間の選択は違います。彼らは皆、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた人々の一人だったと言えます。主イエスはそのような者たちを深い憐れみの御心によって選び出されました。彼らは主イエスによってその働き手として、自分を遣わして下さる、その御心を喜びをもって受け入れました。その中で変えられていったのです。 十二人は、主イエスによって派遣されていくのです。使命を与えられて遣わされていくのです。1節には、彼らに「汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とあります。こういう使命を果たすための特別な力を与えられて、彼らは派遣されたのです。2節では、彼らのことが「十二使徒」と呼ばれています。「使徒」というのは、「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた十二人が「十二使徒」なのです。本日の箇所は、主イエスの十二使徒の派遣に際しての教えが語られています。「使徒」と呼ばれる人はこの人たちと、そして後に立てられたパウロまでのことを指す言葉です。その後の教会の指導者たちのことは「使徒」ではありません。その言葉は主イエスが十二人を選んで派遣された、そのことは、後の教会の人々と、つまり私たちと、決して関係のない話ではありません。

新しいイスラエル
 主イエスによって選らばれ召された十二人という数はイスラエルの民の十二の部族を代表する数だと考えられます。イスラエルという名前を神様から与えられたヤコブの息子あるいは孫であった十二人の族長たちからイスラエルの民が起っていったのです。十二人の弟子が選ばれ派遣されたことはそのことになぞらえられています。つまりこの十二人から、新しいイスラエル、新しい神の民が、つまり教会が生まれていく、彼らはその先頭に立っているのです。新しいイスラエルは、血のつながりによって広がっていくのではありません。彼らが宣べ伝えた「天の国は近づいた」という福音を信じ、それをもたらしておられる主イエス・キリストを救い主と信じて、従っていく人々が起される。そしてその人々がさらに、主イエスによって、最初の十二人と同じように遣わされていく、そのようにして、この新しいイスラエルは次から次へと広がり、発展していくのです。主イエスの選びと派遣は、この十二人だけのことではありません。この十二人の伝道によって主イエスを信じ、主イエスによって到来した天の国、神様の恵みのご支配を信じた者たちは、つまり教会に連なる者たちは、彼らと同じ使命を与えられて遣わされていくのです。そのことを、もう一つの側面からも確認することができます。このマタイ福音書において、本日の10章5節に「イエスはこの十二人を派遣するにあたり」とありますが、その後を読んでいっても、十二人が派遣されてどうした、ということは全く語られていないのです。マルコやルカにおいては、派遣された弟子たちが主イエスのもとに帰ってきて、自分たちのしたことを報告した、ということが語られています。しかし、マタイによる福音書にはそのような自分たちの報告などは全くありません。

私たちのひとり一人に対して
 マタイによる福音書では、十二人の弟子たちがこの時派遣されて何をした、ということは記しておりません。それでは、なぜ主イエスはこのように弟子たちの派遣に際しての教えられたのでしょうか。それは、この福音書を読む教会の人々のためです。あなたがたも、この十二人と同じように主イエスによって選ばれ、主イエスの憐れみのみ業を担う「収穫のための働き手」として派遣されている、その派遣された者としてどのように歩むか、何を注意したらよいか、それをマタイはここに語っているのです。ですから本日の箇所の、派遣された弟子たちへの教えは、即、私たちに対する、教会に連なる信仰者一人一人に対する教えであります。このように、主イエスが十二人を選ばれたことに続いて、主は十二人を遣わす際に以下のように命じられます。彼らは派遣されるためにこそ選ばれたのです。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(5、6節)主イエスがここで命じられたことは、「異邦人の道には行ってなならい。サマリア人の町に入ってはならない。」と差別と偏見に満ちたものではないでしょうか。イスラエルの民は自分たちが神に選ばれた民として、異邦人や混血の民族であるサマリア人を見下し、軽蔑していたことは知られております。しかし、主イエスまでのそうだったのでしょうか。決して、そうではないのです。既に主イエスは同じマタイによる福音書第8章10節から12節において百人隊長の僕を癒された時にはっきりと述べております。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」天の国の祝宴では、東や西つまり世界中から異邦人たちも集まり、イスラエルの父祖たちであるアブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓に囲むとあります。むしろ、御国の子というイスラエルの民であることを誇っている者は外の暗闇に追い出されるとあります。この主イエスの御言葉から示されていることは、ユダヤ人が危ないという危機感ではないでしょうか。多くのユダヤ人は、自分たちはイスラエルの民であり神から選ばれている民であるから大丈夫だと考えていました。けれども、主イエスが示されたことは、決してそういうことはないのだ、ということでした。自分たちは神に選ばれた民だからと考え、悔い改めようとしないユダヤ人のところ、「イスラエルの家の失われた羊のところ」へ出かけなくてはならないというのは主イエスの趣旨なのです。自分のことを棚にあげて、自分は大丈夫だと、と考えるのは危ないのです。

恵みによって
 主イエスは彼ら十二人が、遣わされていく先々で、何をしたらよいのか、またどういうことに注意すべきか、が語ります。遣わされる先で何をすべきかということが7、8節で語られています。「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」彼らは、これらのことをするために力を与えられて遣わされております。普通、自分には病人をいやしことなどとてもできない、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くする、悪霊を追い払うなどとてもできないと尻込みしてしまうのではないでしょうか。しかし、遣わされ出て行く者は自分の能力や才能や使命を果たすことを期待されているのではありません。このような力、「権能」は主が与えて下さるものなのです。そのことは、いつも私たちに先立って御業を進められる主イエスを指し示すということが私たちの使命であります。御業をなさるのは主イエスです。御業をなさる主イエスを私たちはいつ、どこにおいても指し示すことが私たちの役割です。主がいやし、主が生き返らせ、主が清め、主が悪霊を追い払われます。8節には「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあります。弟子たちが派遣されてしていく業、それは、「ただで受けたことをただで与えること」なのだというのです。十二人は、汚れた霊を従わせるほどの権能を主イエスから与えられて遣わされました。その力は、ただで与えられたものです。この「ただで」という言葉は、「贈り物として、恵みとして」という意味です。代金や見返りを要求されない純粋な贈り物として、彼らは主イエスご自身の語っていたことを語り、なさっていた業を行う力を与えられました。主イエスが十二人に使命を与えられて遣わされたのは、この十二人に何か特別に優れた力や才能を持っていたからではありません。主イエスはただ恵みによって、弟子たちに贈り物として使命を与え、それを行なっていく力を与えられました。恵みとして与えられたものを、人々にもただで与えていったのです。

主により頼み
 そのような弟子たちの姿を具体的に示し教えているのが9、10節です。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」。派遣されていく弟子たちに、何も持っていくなと教えられます。お金は一切持っていくな、旅の最低限の必需品と思われるものすらも持っていくなと教えられています。使命のために旅立ちをするにあたり、私たちの心配事は経済的な問題であります。伝道と言っても経済的なことは一体どうしたら良いのであろうかという問題は常に起こります。そのための備えをするな、と主はおっしゃっているのではありません。ここでは、そのようなもの究極的に依存する気持ちを問題とされているのです。そのようなものがちゃんとしていないと何も出来ない、というのであればこの世の金銀を当てにしていることになります。主がその御業のために私たちを派遣される場合には仕事をなさるのは、主御自身なのですから、その主を究極的には頼りにしなければならないと主は言われます。10節の最後にこうあります。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」。主のために働く者は主が当然その働きを通して生活が成り立つよう備えられ、与えて下さるようにしてくださるというのです。具体的には、行った先々の人々が、必要なものを捧げてくれるということですが、しかしそれは根本的には、神様が与えて下さるということです。主イエスは「山上の説教」の6章32、33節で「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とおっしゃいました。この父なる神様のみ心を信じて、その御手に身を委ね、与えられた使命を果していく、それが、何の蓄えも用意もなく派遣されていく弟子たちの姿なのです。そしてそれはまさに神様が、何の資格も相応しさもない自分に、ただで、恵みによって与えて下さるものによって生かされていくということです。主イエスに遣わされる弟子たち、信仰者の歩みは、自分の資格や力に寄り頼んで生きるのではなく、ただ神様が恵みとして与えて下さるものに支えられ、生かされ、そして神様が与えて下さる力によって使命を果していく歩みなのです。主イエスご自身がなさっておられた憐れみのみ業を行っていく働き手となるためには、自分の力、相応しさ、あれができる、これができるという能力は一切必要ない、そのような自分の中の蓄えは全くない者が、神様の恵みによって、ただで必要なものを全て与えられ、支えられ守られてその使命を果たしていくことができる、「何も持っていくな」という教えは、そういうことを語っているのです。

平和があるように
 11節以下には、弟子たちが遣わされた先で何をするべきかが教えられています。12節にある「平和があるように」と挨拶するだけのことです。ユダヤ人の社会では日常の挨拶はシャローム、「平和があるように」というのが派遣された者は文字通り、シャロームを携えていくのです。ところで、ここでは町や村に入ったとき、誰がふさわしいかをよく調べてそこに留まるように勧められていますが、そのふさわしい人というのは平和が与えられるのにふさわしい人ということです。神の国の使者を迎え入れる者は、留まるのにふさわしい人ですし、神の平和が与えられるにふさわしい人なのです。私たちが、この人がふさわしいとか、この人はふさわしくないとか判別をするのではありません。私たちは誰に対しても「平和があるように」という神の祝福を祈り、ふさわしい人は、神の国の使者を迎え入れて平和を与えられ、そうではない人は神の支配が到来していても、その喜びには与れないのです。そのような分別は、私たちがするべきことではなく、ただ主に全てをお委ねすべきことであります。「足の埃の払う」という行為は、神の祝福を拒絶する者が自ら招く災いが、遣わされた者には全く及ばないことを象徴的に示す行為なのです。そのように拒絶する者が受ける災いとは、旧約聖書のソドムやゴモラの人々が全滅したよりももっと深刻であることが述べられています。それほどに、この祝福が大きな意味を持ちます。派遣はこのような祝福の使者として遣わされることのです。これは12使徒たちに語りかけられているものです。しかし、このこれらの教えはここにいる私たちたちに語りかけられ、与えられております。私たちはこの世の生活の中から礼拝の場へ選ばれ、召されて集められました。それは使命を与えられ、神の国の福音を宣べ伝える者としてこの世に派遣されていくためです。使徒たちに語られた言葉は、この礼拝から遣わされ私たち一人ひとりに語りかけられている言葉です。この選びと派遣の生命のリズムの中で、私たちの先を歩まれる主に従い、主と共に神の平和を携えてゆく者とされます。

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