「あなたの罪は赦される」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編第103編1-22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書第9章1-8節
・ 讃美歌 : 393、572
先ず語られる
マタイによる福音書8章9章は、主イエスは御言葉を語り、色々な奇跡の業を行ないました。第8章と9章には主イエスの力ある御業が語られております。8章では、主イエスはらい病を患っている人の癒し、百人隊長の僕の中風を癒し、熱を出して寝込んでいたペトロのしゅうとめの癒し、そして多くの病人や悪霊に取りつかれた人を癒しました。そして、主イエスは病の癒しをされただけではなく、ガリラヤ湖の嵐を叱って鎮めるという奇跡も行われました。そして、前回の箇所では2人の悪霊につかれて墓場に住み、凶暴で誰も近づけなかった人を癒し、悪霊を滅ぼされました。本日の箇所は中風で寝たきりの人が起き上がり歩けるようになったという癒しの奇跡が語られています。癒しの奇跡と言いましたが、本日の箇所で主イエスは直ちにその病気を癒されたのではありませんでした。主イエスは中風の者に先ず語られました。それは2節ですが、主イエスは「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と語られたのです。
元気を出しなさい、安心しなさい
本日の物語を最初から見て行きたいと思います。主イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られました。「すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。」とあります。中風の人は自分の力で主イエスの元に来たのではなく、人々が中風の人を主イエスの元に連れて来ました。中風とは麻痺の病気です。体が麻痺して動かないのです。程度はあるでしょうが、この人は「床に寝かせたまま」とあるので、寝たきりの人だったのでしょう。自分で歩くことも、起き上がることもできなかったのです。ですから、友人たちが彼を床に寝かせたまま主イエスの元に連れて来ました。この中風の人は、起き上がろうとしても起き上がることもできない、絶望の中にいたのでしょうか。主イエスの元に行こうとさえ思ってもいなかったかもしれません。行く気持ちが起きないほどに絶望をしていたのかもしれません。この人がどのような気持ちであったのか、記されておりません。人々が中風の人を主イエスの元に連れて来たのです。そして、主イエスは「その人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。主イエスはこの中風の人の信仰ではなく、中風の人を連れて来た人々の信仰を見ました。主イエスを信頼し、この人を癒して欲しいという一心で、連れて来た人々の信仰を主イエスは重んじました。私たちは、この一人の絶望の人を人々が担うところに教会の姿を見ることができます。主イエスは「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。「子よ」とは、主イエスの中風の者に対する、愛の思いを示している表現です。「あなたの罪」と言われておりますが、この「罪」は複数形になっております。つまり、1つの罪ではなく、もろもろの罪、多くの罪が積み重なっている意味です。「元気を出しなさい。」という言葉がこのマタイによる福音書の中でも別の箇所でも使われております。9章22節にも出てきますが、十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性がおりました。その女性が主イエスの衣の房に、後ろからそっと触れました。主イエスは振り向いて彼女に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。ここで言われている「元気になりなさい」と同じ言葉です。また、14章27節では、逆風に漕ぎ悩んでいた弟子たちの船に向かって、主イエスが湖の上を歩いて来られたのです。主イエスを幽霊だと思い怯えている弟子たちに主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語らました。この「安心しなさい」と「元気を出しなさい」と同じ言葉なのです。
「元気を出しなさい」とは「大丈夫だ、安心せよ」と言う意味です。「しっかりしなさい」と言うのは「もっと元気を出して頑張れ」というような激励の言葉のように思えてしまいますけれども、主イエスがここで語っておられるのは、激励や励ましの言葉ではありません。「あなたは大丈夫なのだ、安心してよいのだ」ということなのです。
子よ
ここで主イエスは、中風の人を「子よ」との呼びかけております。「子よ」と呼びかけるのは親であります。神様が私たちを、「子よ」と呼んで下さるのです。罪によって、神様との交わりが破れてしまっている間は、私たちは神様を父として意識することはできない。自分たちを支配しており、時として厳しく罰を与えるような恐ろしい存在としては意識することがあるかもしれませんが、本当に私たちを愛していて下さり、「子よ」と呼んで下さる父として知ることはできないのです。私たちが神様を「父」と呼ぶことができるのは、罪が赦されることによってです。罪が赦されるとは、神様が私たちに「あなたは私の愛する子だ」と語りかけて下さることなのです。それゆえに、「子よ」という語りかけと、「あなたの罪は赦される」という宣言は結びついているのです。この主イエスの宣言されるところに、「あなたは大丈夫だ、安心しなさい」という平安があるのです。
奇跡より
主イエスは、人々の信仰によって、人々の愛によって担われて、やっと自分の所に運ばれてきた、絶望している者「元気を出しなさい」に言われました。この「元気を出しなさい」とは、他には「大丈夫だ、安心しなさい」「確信を持ちなさい。「人生はあなたにとって不確かなものではない。しっかりした基盤があるのだ、ということをはっきりさせ、わきまえたらよい」「勇気を持ちなさい。」主イエスは中風の人に対して「足は治ったのだから、しっかり歩きなさい」とは言われておりません。足は治っておらず、中風の者は寝たままなのです。この人の現実は変わってはおりません。体は依然として麻痺したままであり、寝たきりの現実は続いているのです。足は萎えたまま、全身が萎えたままの者に、主イエスは「元気を出しなさい。」と言われた。主イエスが癒されたと言う奇跡よりも、主イエスの言葉に注目をしたいと思います。「あなたの罪は赦される」と言う主イエスのお言葉が「元気を出しなさい、大丈夫だから、安心しなさい」という御言葉の根拠です。主イエスによって与えられえる恵み、救いとは、主イエスによって罪が赦されることなのです。救いの根本なのです。中風の者に罪があったのでしょうか。当時のユダヤの社会、また今日の私たちの間にもあることですが、このような病気や障害は、何かの罪の結果だという考え方があります。本人が、あるいは先祖が、何かの罪を犯したので、その罰が当っているのだ、というのと似ています。しかし、主イエスは、この中風の人が特別に何か罪を犯したから、罪深い人だからこのように言われたのではありません。この人は、病気であり、そのための障害を負っていました。けれども、この人はその苦しみに負けて、ひねくれていたわけではありません。この人には床に寝かせたまま主イエスのもとに連れて来てくれた友人たちがいたのです。床に寝かせたまま連れて来るというのはなかなか大変なことです。何人かの人々が協力しなければできないことです。この中風の人のために、そのようにしようと人々がいたのです。それは彼が愛されていたということになります。主イエスはそのように人々に愛されているこの人に向かって、「あなたの罪は赦される」と言われました。そして、「だから、大丈夫だ、安心しなさい」と言われたのです。それは、罪が赦されるということこそが、この人が本当に大丈夫になり、安心して、平安に生きるためにどうしても必要な、なくてはならないことなのだ、ということです。
神が全く自由に
「あなたの罪はゆるされたのだ」とは、罪を赦すために懺悔を求めているのではありません。主イエスは全く無条件、この罪は神によって、ご自分の父なる神によって既に赦されてしまっているのです。それは父なる神の恵みによって、神が全く自由に、条件等を考えずに既に赦されているのです。信仰は罪の赦しによって初めて生まれてくる。信仰が成り立つ条件は、神が罪の赦しを与えて下さったということです。主イエスの言葉を聞いた時、3節にありますように律法学者がおりました。律法学者の中に「この男は神を冒涜している」と思う者がいたとあります。律法学者たちが心の中で「この人は神を汚している」言ったのです。どんな人間でも、神になったように罪の赦しを語るというのはありません。神を汚すことになります。主イエスはこのような律法学者の考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。主イエスはそのどちらにも答えていない、「どちらが易しいか」という答えを出すことをも求めていない、主イエスはこのことを語られる前に「子よ、元気を出しなさい。「あなたの罪は赦される」と罪の赦しを告げている。この後、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。本当の赦しを、まことの神の力をもって告げ、更に病気を治すということは、いずれも神の恵みの奇跡がおきなければあり得ない、両方とも大きな権威がなければできないことです。私たちに本当に必要なことは神様に罪を赦していただくことです。罪を赦して頂くことこそ、安心して、元気を出して生きていくために必要なことです。いったい自分がどんな罪を犯したというのか、と思う人もいるかもしれません。罪とは何でしょうか。私たちは日々の歩みの中で、人と人との関係の中で私たちは罪を犯します。してはならないことをして相手を傷つけたり、なすべきことをせずに傷つけたりするのです。そのことが、神様と私たちの間においても起っています。神様に対して私たちは、してはならないことを沢山しているし、なすべきことをしていないのです。そのようなことによって人との関係が破れてしまうように、私たちの罪によって神様との関係、交わりが破れ、通じなくなっているのです。私たちは皆神様に赦していただかなければならない罪を負っているのです。その罪によって何が生じてくるのでしょうか。私たちの命も、この人生は、神様から与えられ、導かれているものです。
神様のご支配
私たちは自分で決意して生まれたのではありません。それは、大きく言えば自分で選び取ってこの人生を歩んでいる者もいないのです。私たちは人生の歩みにおいて、自分でいろいろ決断し、道を選び取ることができます。自由な決断が許されております。しかし、そのような私たちの決断、選択も、与えられた環境も含めて与えられているのです。自分の意志によってどうにもならない事柄が起こります。そのような中に私たち自身は置かれています。その条件を与えておられるのは神様です。その神様が私たちに命を与えて下さいました。私たちの人生のどのような場面においても、それは死の場面において、自分を愛していて下さる方がおられるのです。その方に身を委ねる平安の内にあることができるのです。「罪が赦される」というのはそういうことです。私たちの罪によって神様との交わりが破れてしまっている私たちを愛していて下さる方がおられるのです。そのお方が御自身を示されたのが主イエス・キリストです。
罪の赦しの宣言
その主イエスが「あなたの罪は赦される」と宣言されたのです。主イエス・キリストはこの世に来て下さり、私たちの罪を全てご自身に引き受けて十字架にかかって死んで下さいました。この主イエスの身代わりの死によって、神様は私たちの罪を赦して下さるのです。そして私たちをも「子」と呼ばれるのです。独り子主イエスの命をも与えて、私たちの罪を赦して下さったということは、神様が私たちをもご自分の子として愛していて下さるということです。神様のこの愛を受け、「子よ」と呼ばれて生きるところにこそ、本当の平安、安心、大丈夫な人生があるのです。主イエスはこの救いの恵みを人々に、私たちに与えるためにこの世に来られました。そしてこの恵みの徴として、数々の癒しのみ業をなされたのです。本日の箇所においても、この中風の人が、主イエスの「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」というお言葉によって癒されました。この人は主のお言葉の通りに起き上がり、床を担いで帰りました。この癒しの出来事は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」ということのためになされたのです。主イエスが与えられた救いは「罪の赦し」の宣言です。 罪の赦しは、つまり神様と私たちの交わりの回復は、主イエスが、私たちの罪を背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さることを通して実現したのです。主イエスにとってそれは、神の子としての栄光を捨て、人となって苦しみを受け、命を投げ出すことでした。父なる神様にとってそれは、愛する独り子の命を犠牲にすることでした。神様が、その独り子主イエスが、そのような犠牲を払って下さったことによって、私たちの罪の赦しは実現したのです。「あなたの罪は赦される」という宣言は、主イエスが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けるという覚悟をもって語って下さっていることです。主イエスにとっては、そのことよりも、「起きて歩け」と言って病気を癒すことの方がずっと易しいことなのです。
罪を赦し権威
主イエスの癒しの奇跡は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせる」ためになされていることです。その権威は、主イエスが私たちのために命を捨て、十字架の苦しみと死を引き受けて下さるところに与えられています。その罪の赦しの恵みの徴として、癒しがなされているのです。それはこの癒しだけではありません。主イエスのなさった奇跡は全て、同じ目的でなされているのです。つまり本日の箇所は、様々な癒しの奇跡を通して主イエスが人々に、私たちに本当に与えようとしておられる恵みは何かを示している、言い換えれば癒しのみ業の本当の意味と目的を教えているのです。私たちは主イエスの十字架と復活によって「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」という宣言を与えられています。主イエスによって罪を赦していただき、神様の子とされて、主イエスと共に神様を父と呼び、よい交わりに生きる恵みを与えられています。その恵みにあずかって生きるのが、教会であり、信仰者なのです。しかしそれだけではありません。私たちには、さらに大きな恵みが与えられているのです。
教会の権威
本日の最後の8節にこうあります。「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」。人々は恐ろしくなりました。主イエスの癒しの奇跡を見て、驚いただけではなく、「恐ろしく」なったのです。群衆が恐れたのは、神様が人間に「このような権威」つまり、「罪を赦す権威」を委ねられたのを見たからです。罪を赦す権威とは「あなたの罪は赦される」と宣言する権威です。「だからあなたはもう大丈夫だ、安心しなさい」と言うことができる権威です。その権威を人間に委ねられたのです。その人間とは主イエスのことでありますが、ここでは原文には「人間に」という言葉が使われております。また、この「人間」という言葉の複数形であります。「人々にこれほどの権威をゆだねられた」と言うことです。つまり、主イエスお一人のことを言っているのではなく、「人々に」と言うことを言っているのです。マタイによる福音書では、この箇所は主イエスを信じ、従っている私たち信仰者、教会のことを示しております。教会は、私たちは、「あなたの罪は赦される」と宣言する権威を、神様から委ねられております。私たちは教会の礼拝において「あなたの罪は赦される。だからあなたはもう大丈夫だ、安心してよいのだ」という宣言を受けました。そしてその宣言を受け入れ、信じて洗礼を受け、その群れに加えられたのです。教会はこの世に対して「あなたの罪は赦される。だから大丈夫だ、安心してよいのだ」と宣言し続けていくのです。