夕礼拝

主イエスの癒し

「主イエスの癒し」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第8章14-17節
・ 讃美歌 : 11、527

主イエスの癒し
 本日は共に、マタイによる福音書第8章14節から17節の御言葉をお読みしたいと思います。
本日の箇所は主イエスの癒しの奇跡が記されております。14節には「イエスはペトロの家に行き」とあります。主イエスがペトロの家に行ったところから本日の箇所は始まります。そのペトロの家とは5節にありますように、カファルナウムという町にありました。この町は、ガリラヤ湖の北の岸辺の町です。このペトロと言う人はガリラヤ湖の漁師であり、主イエスに招かれて弟子に人です。主イエスに招かれた弟子になったペトロの家がこの町にありました。そして主イエスはこの家を根拠地として、ガリラヤ地方での伝道をしていかれたのです。その家に主イエスが来られたとは、つまり主イエスが家に帰ってこられたということになります。そして主イエスは、「そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。」とあります。ペトロのしゅうとめ、つまり妻の母親が熱を出して寝込んでおりました。主イエスはそのしゅうとめの様子をご覧になって、イエスがその手に触れられた、とあります。すると「熱は去り」とあります。熱はさっと引いていき、しゅうとめは元気になったのです。そして起き上がり、主イエスをもてなした、とあります。そのような癒しの奇跡が行われました。
 本日の箇所はマタイによる福音書第8章14節からですが、マタイ福音書の記述に従えば、この8章一節以下はずっとつながっている出来事です。8章の1節にはこのようにあります。「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。」(8章1節)主イエスが下りられた山は、カファルナウムの近くにある、小高い丘のような所だったと思われます。そこで主イエスは、5章から7章の「山上の説教」を語られました。主イエスが語られた教えを聞いた多くの人々が主イエスと共に山を下りられました。
そして、カファルナウムに戻って来られた主イエスの元に一人の重い皮膚病を患っている人が来ました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言い、主イエスにひれ伏して癒しを求めました。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」と3節にはあります。主イエスは更に帰りの道を進んでカファルナウムの町に入って来られると、今度はローマの軍隊の百人隊長が近づいて来て、自分の僕の癒しを願いました。13節にありますように主イエスは彼に、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われました。そして、僕の病気を癒されました。そして主イエスはようやく14節にありますようにペトロの家に帰って来られたのです。これまで見てきた二つの癒しの出来事は、主イエスが「山上の説教」を語られた山を下りてカファルナウムのペトロの家に帰る途中で起ったことなのです。つまり主イエスはこの日の朝、ペトロの家を出かけ、従ってくる人々を連れて山に上り、山上の説教を語り、そして下りてきた帰り道で二つの癒しをされたということです。そして家に帰り着いてみると、今度はペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいた。そこで主イエスはこの日三度目の癒しの業をなさったのです。マタイ福音書はそのように、5章から本日の箇所のところまでのことを全て一日の出来事として描いています。実際にそういう1日があったと考えることには無理があると言えるでしょう。けれども、マタイなぜこれらの出来事を一日の出来事として描いているのでしょうか。8章から語られている主イエスの様々な癒しのみ業は、「山上の説教」が語られたその日に行われていることです。それは、つまり、山上の説教の御言葉の中でこれらの癒しの業は行われている、ということです。マタイによる福音書は山上の説教、いわゆる主イエスの御言葉とこれらの癒しの業と、主イエスの行為は切り離すことが出来ないということを示しているのです。
14節で、主イエスは「しゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった」と言っています。主イエスご自身がしゅうとめを御覧になり、その主イエスの意志によって、癒しの業をなさったのです。その主イエスの意志から、主イエスの御言葉が発せられるのです。主イエスのご意志とは大いなる権威を持ちます。主イエスの権威によって苦しみが癒され、私たちを新しくする力があるということが、この癒しの出来事によって示されているのです。
 主イエスはペトロの家に帰って来られて、しゅうとめの熱病を癒されました。主イエスのこの日の働きは、それで終りにはなりませんでした。16節では「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」とあります。主イエスが様々な病気を癒したという噂も広がっていたのでしょう。ここには「悪霊に取りつかれた者」とありますが、これと病人とを区別する必要はないと思います。悪霊に取りつかれることによって、様々な病気が起る、と考えられていたのです。主イエスがペトロの家に帰られたことを聞いて、そういう苦しみを負った人々が大勢押しかけてきたのです。16節の後半には「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とあります。「言葉で」と言われているところに、先ほどの主イエスの御言葉の権威が示されております。主イエスは御言葉によって癒しされたのです。百人隊長は、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言いました。主イエスのひと言は、そのような力と権威を持っているのです。群衆を驚かせた、権威ある者としての言葉が、ここでも語られております。この主イエスの権威ある御言葉が人々を苦しみから救ったのです。
「病人を皆いやされた」とあります。主イエスのもとに来た人を主イエスは皆癒されたのです。救いを求めて来た人々を皆、一人残らず癒されたのです。主イエスの救いの権威、力は全ての人に徹底的に及ぶということです。主イエスは、苦しみを負って救いを求めてやってくる人々一人一人と、徹底的に関わって下さるお方なのです。主イエスはその一人一人に癒しを、救いを与えて下さるお方なのです。
主イエスの元には夕方になってからも、多くの者が押しかけてきました。
主イエスは多くの人を癒されました。マタイによる福音書が語る主イエスの一日はまことにハードです。主イエスは山上の説教を語り、その帰り道にも、帰ってからも休む間もなく次々と救いを願ってやってくる人々を癒されたのです。そのような主イエスのお姿が描かれています。このような主イエスのお姿を描き、そして17節にはこのようにあります。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」」とあります。このような主イエスのお姿、全ての人々の病を癒されるお姿は、預言者イザヤの言葉の実現であったのです。そのイザヤの言葉というのが先ほどお読みした旧約聖書のイザヤ書第53章です。その4節の前半には「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに」という言葉がここに引用されているのです。このイザヤ書53章は、「苦難の僕の歌」と呼ばれているところです。そこには、神様から遣わされた「主の僕」が、人々の苦しみや病を、また人々の背きの罪を身に負って、苦しめられ、裁かれ、殺される。そのことを通して、人々の罪が代わって償われ、赦しが与えられ、神様の救いが実現していく、ということが歌われています。つまりこの主の僕は、人の病を担い、人の罪を背負って、人の身代わりとなって苦しみと死を受けるのです。その主の僕の姿が、この引用によって主イエス・キリストのお姿と重ね合わされています。苦しんでいる人々一人一人と徹底的に関わり、癒しを与えられる主イエスのお姿です。人々の病や罪を自分の身に負ってそのために苦しみを受ける姿です。そして、ついには殺されてしまう主の僕としてのお姿なのです。マタイ福音書が示しているのは病んでいる人、苦しんでいる人一人一人と出会われる主イエスのお姿です。そして、主イエスはその一人一人の苦しみを、ご自分が背負って下さるのです。私たちは、自分で、自分の力で苦しみという重荷を下ろすことができません。その重さに耐えながら、あるいはそれを何かでごまかしながら、何とか一歩一歩歩んでいるのが私たちの人生です。しかし主イエスは、その重荷を、私たちに代わって背負って下さるのです。それによって私たちは重荷を下ろすことができるのです。楽になることができるのです。しかしそれはその重荷そのものがなくなってしまうことではありません。それは主イエスの肩に負わされていくのです。主イエスが、私たちに代わって、その重荷に苦しんで下さるのです。主イエスによる癒しは、主イエスがその病の苦しみをご自分に引き受けて下さるということです。そして、そのことによって、癒しを下さるということです。この主イエスの歩みの行きつく先が十字架の死です。主イエスによる癒しはすべてこの十字架の死とつながっているのです。このイザヤ書の引用はそのことを語っています。主イエスの癒し、救いは、主イエスご自身の苦しみと死とによることなのです。本日は共にこの後、聖餐式に与ります。この聖餐とは、主イエス・キリストが私たちの人間の罪のために十字架にかかって下さった主イエスの出来事を思い起こすものであります。
 主イエスのご意志と、そこから出る御言葉にこそ、苦しみを癒す権威と力があります。然し、この主イエスの権威とは、ただどんな病や苦しみにも打ち勝って健康を与え、苦しみを取り除く力ということではありません。主イエスの権威は、私たちの苦しみを、また私たちの罪を、代わって背負って下さる、十字架の死における権威です。このことこそが、主イエスのご意志そのものです。主イエスの力は、私たちの身代わりになって、私たちの罪のために死んで下さる力なのです。この主イエスの権威と力によって、様々な病が癒されました。主イエスは人々の罪や苦しみ悲しみ、貧しさ、弱さを、ご自分のものとして下さり、それを代わって背負って下さる、そのような方としてお語りになったのです。
 主イエスの権威と力、それは、私たちの罪と、様々な苦しみをご自分の上に引き受け、担って下さり、それを背負って十字架の苦しみと死とを受けて下さる、その権威であり力です。その権威と力が、御言葉によって示され、与えられます。主イエスのもとにやって来た多くの病人たちが、主イエスの御言葉によって癒されました。私たちにとっては、それは礼拝の時です。主の御言葉をいただき、その権威と力によって癒され、慰められ、支えられ、新しい1週を歩む力を与えられるのです。そして、新しく生かされていくのです。私たちはどのように新しく生かされていくのでしょうか。ペトロのしゅうとめは、主イエスによって熱病を癒されました。ペトロのしゅうとめは「起き上がってイエスをもてなした」とあります。「起き上がって」という言葉は、「死者の中から復活する」という意味でも用いられる言葉です。それは、私たちが洗礼を受けて、罪に捕えられていた古い自分が死んで、新しい自分、主イエス・キリストと結ばれ、その十字架による罪の赦しを受けて、神様の民として生きる自分が復活する、ということとつながります。主イエスの権威と力によって私たちはそのように起き上がり、新しく生きるのです。どのように生きるのか、それは「イエスをもてなした」という言葉に教えられています。「もてなす」と訳されている言葉は、「奉仕する、仕える」という言葉です。主イエスによって苦しみを担っていただき、新しく生かされた者は、主イエスに奉仕し、仕える者となっていくということが示されております。ペトロのしゅうとめは「イエスをもてなした」のです。つまり彼女は主イエスに奉仕し、仕えた、ということです。主イエスに、苦しみを担っていただき、新しくされた者の歩みがそこに現されております。
主イエスに癒されたペトロのしゅうとめが主イエスに仕えました。それは具体的には、「もてなした」という訳が語るように、主イエスとその弟子たちの食事の準備をし、その寝床を整えたということです。あるいは彼女は、夜遅くまで病気に苦しむ人々を癒しておられる主イエスの身の回りのことをされたのかもしれません。小さな働きだったかもしれません。主イエスに仕える働きはそのようにごく身近な、小さなことの中にもあるのです。そして彼女は、主イエスに仕えその働きを支えることで、苦しんでいる多くの人々の癒しのためにも仕える者となることができたのです。私たちはそのような、主イエスに仕えた人々の働きを通して、主イエスのみ言葉に触れ、主イエスが私たちの苦しみを担って下さることを知らされ、その救いにあずかりました。今度は私たちが、主イエスに仕える者となっていく番です。その道は人によって様々です。それぞれに、それぞれなりに、主イエスに仕え、奉仕する道が与えられています。新しい年度を迎えようとしている今、自分に与えられている、主イエスに仕えていく道を新たに祈り求め、苦しみを担って下さる主イエスの恵みに支えられて、その道を歩んでいきたいと思います。

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