「神と富」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章1-17節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章24節
・ 讃美歌 : 297、530
主人とは
本日与えられました箇所はマタイによる福音書第6章24節のみであります。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」とあります。「二人の主人に同時に仕えることはできない。」ということが語られています。この言葉は分かりやすい主イエスの教えであると思います。ここでの「二人の主人」とは、この節の後半にある「神と富」ということです。神様という主人に仕え、同時に富に仕えることはできないというのです。必ず、一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじることになる、と言われているのです。「主人」とはどのような存在のことを言うのでしょうか。主人と奴隷という関係で考えたいと思います。奴隷にとって主人は絶対的な存在です。主人に従うのが奴隷です。奴隷は自分が何をしたいかということを第一に考えるのではなく、まず第一に主人のことを考えます。奴隷は「主人が私に何をお命じになるだろうか」「主人のために何をしたらよいだろうか?」と考えるものです。つまり主人をいちばん大切にするのです。それが奴隷と主人の関係です。富が主人であるということは、富を第一にすることです。「富」とはお金や金銀など、この世の値打ちのあるものです。先に読みました19節から「富」という言葉が出てきますが、そこの「富」と、本日の「富」では意味が違います。19節の「富」とは日本語に訳されている言葉では「宝」という意味です。自分のいちばん大切に思っているもの、なくてはならないものという意味です。本日の「富」と私たちの聖書で翻訳されている言葉は、文字通りの「富」です。お金のことです。お金や金銀というこの世の値打ちがあるものです。「お金や富を蓄えるにはどうしたらよいか?」ということを第一に考えるのです。そうすると、自分の行動がすべてそれを基準に考えるようになります。「お金のためになることならするが、そうでないことはしない」という具合です。 お金のためならするが、そうではないならしない‥‥これは奴隷が、「主人のためになるならするが、そうでないならしない」と考えるのと同じことだろうと思うのです。主イエスは、このことをはっきりさせるために、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とおっしゃいました。「神」という主人と、「富」という主人を同時に持つことはできない、と言われました。どちらかを軽んじる。どちらかを第一とし、どちらかを第二とするのだと。 奴隷が二人の主人に仕えていたとして、その二人の主人が何かの問題で対立したとします。奴隷は当然主人に従わなければなりません。しかし、二人主人がいて、それが対立した。「こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たず」ということになります。
富とは
なぜ主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と、言われたのでしょうか。それは、この二人の主人の命令が、正反対と言ってもよい程違うものであるからだと思います。そしてこの「富」という主人の命令はあらゆる手段を使って、出来る限り金儲けをせよ、という命令です。この主人は、この世の富、お金とそれによってなる名誉を得ることを人生の目的とせよ、と命令します。
それでは、神の命令とはどのようなものなのでしょうか。私たちはこのように考えるのではないでしょうか。神様は、富や名誉を求めるなと命じておられ、そのようなものは困っている人にあげてしまえ、そして、神様に従うこと、御心に適う愛の業に生きることをこそ目指せと求めているのではないか。このようなことを神様は私たちに命じておられるのでしょうか。このような二つの命令を同時に行うことはできません。だから、神様と富とに兼ね仕えることはできないと私たちは思っているのではないでしょうか。主イエスはここで「お金を大事にしてはいけない」ということを言われたのではありません。お金がなくては生きていけません。お金とは、この主イエスのお話を聞いていた多くの庶民が、貧しい中から必死に働いてえた、自分自身の労働を形に変えたものです。ですから尊いものです。主イエスはお金など捨てなさい、と言われたのではありません。神様を信じる信仰生活をする中で、神様に僕として仕える生活をする中で、富を持つこと自体が悪いように考える人がおります。私財を全て捧げて、無一物の生活こそ信仰者の生活であると、主張したり、そのような生活に憧れたりする人もおります。けれども信仰による生活とはそのようなことでしょうか。信仰生活において、富とはどういうものか、どう取り扱うべきなのでしょうか。この事柄は信仰生活において大切なことです。なぜなら、私たちは富によって生活していることは事実であると共に「どうしたらお金、富を蓄えることができるだろうか」と考えることは日常のことだからです。そのように考える時に主イエスの御言葉が大切になってきます。
仕える
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」それは人間の生活には主人という存在がおります。自分の願いや目的を達成するためには、今何をすべきなのか、自分にとって大事なものであります。問題はその主人が誰であるかということです。しかし、私たちは自分の主人と言うと、何か自分を支配する存在であると思います。人間は長い時間をかけて、人間の自立というものを求めてきました。自立とは、誰にも支配をされないで自主的な生活をしなければならない、ということを求めてきました。そのように自立を求めてきました。それを得るために長い間かけて苦しみました。そして、今ではそれが出来たように思っているのであります。しかし、一人ひとりの私たちの生活を考えてみますと、決して自立しているとは言えません。私たちの心は何かあると、すぐに動揺をします。また、他の人のこと、自分がどう思われているのか、ということを考えずに生きることはできません。私たちはいつも他人の言葉や動作に影響をされるのです。自分の行動、言動について人からどう思われているのだろうか、と心配になります。人間は自由でなければなりません。しかし、私たちは決して自由ではないのです。自分の主人は自分ではないということです。自分を完全に支配するような力は、自分にはない、ということになるのです。人間は、自分で自分をつくったものではなく、造られた存在なのです。人間は自分の自立を願いながら、頼るべき存在を求めているのです。ここでは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。」とあります。当たり前のことのようかもしれません。人は、自分自身を含めて、色んな主人がいると思うほどに、右にいったり、左に行ったり自分にとって都合の良いことばかりを求めてしまうものです。そこには本当の主人として仕えるものはないのです。主人に仕えるとは、その主人の言いなりになることです。主人の言う通りに生きていくことです。自分こそが自分の主人である、自分は何にも支配されたくないと言う時、自分のしたいように、自分の本当にしたいことをするのです。自分の本当にしたいこと、夢などと言うと聞こえは良いですが、結局は自分の欲に振り回され、それに仕える生活をしているということになるのです。
富を持つこと
主イエスは、「神と富」のどちらを主人として生きていくのか、という問題について問うておられます。富は、自分を支え保ってくれるものです。神もまた、自分を支え保って下さるのです。したがって、人間にとって、主人の問題とは、神と富のどちらを主人にするのかということです。これは毎日、日々私たちが経験していること、問われていることです。どちらを主人にするかによって、人間の生活は全く変わるものなのです。主人を持つということは、主人になる人がいただけでは、自分の主人にはなりません。どの主人を主人とするのか、選らばれなければなりません。普通の奴隷であれば、自分の意志とは関係なく、主人に買われて、その人を主人にするしかないのでしょう。しかし、この主人は選らばれなければならないのです。選び取るということは、その主人に対する責任も出てきます。また、その主人によって生かされる道も生まれます。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」とあります。主イエスの御言葉は主人を持つことの厳しさを語っております。ここでは「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」とあります。ここでの「愛」というのは。単に好きとか言うことではなく、愛しているから、その人の言う通りになるとことです。その命令を聞き、その支配に従い、その人に自分の重荷をも任せること、つまり完全に、その主人によって生きるということです。「一方に親しんで他方を軽んじるか」というこの「親しむ」とは、ここでの「愛」という字ではなく、心にかけるという意味です。ですから、一方に心にかけ、一方に心をかけないということになります。そのような決心をして生きていくことなのです。神様によって、神様の思いのままに生きるか、富を頼みとするか、ということであります。ルターは富を持つことと、富に仕えるということは違うことであると言いました。私たちはこの社会の中を歩むのであれば富なしに生きていくことはできません。しかし、そのこととは富を主人として、これに仕えることではありません。主人とするのは仕えることです。「仕える」とは全くその支配の元に立ち、それを全く頼みとして生きることです。そこには決心が必要なのです。何に仕えるのか、従うのかであります。どうやって決心をするのでしょうか。富の場合は、富やそれによる名誉の魅力、富の誘惑によって引き付けられるでしょう。しかし、神様の場合はそうではありません。私たちは容易に神を選ぶ決心は出来ません。よさそうだな、と思うことはあるかもしれませんが、それは決心にまでは至らないでしょう。どうしても神によって生きようとは決心がつかないのです。神の場合は、私たちが神を選ぶのではないのです。神が私たちを選んで下さるのです。神がその愛によって、神を愛することができるようにしてくださるのです。奴隷は買い取られました。私たちも、神がイエス・キリストによって買い取って下さった者なのです。主イエスは私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。私たちが、自分の罪や過ちのために、その中で死んでいく、そこにも、主イエス・キリストが共にいて下さるのです。私たちはこの主イエス・キリストにおいて神の恵みを見るのです。私たちはその恵みの中で人生の本当の拠り所を見出すのです。それは、先週読んだ19~21節で、「富は、天に積め」と教えられていたのと同じことです。天に富を積むとは、私たちが本当に拠り所とする宝が、この地上にではなく天にある、地上の富、色々な意味での私たちの財産ではなくて、天の父なる神様の恵みこそが本当に私たちを支える宝であることを知る、ということです。神様に目を向け、一心に神様の御心を求める、それが神様に仕えることです。その時私たちは、独り子主イエスを遣わして下さった神様の恵みを見るのです。私たちは神様の方に向けられ、独り子イエス・キリストを遣わして下さったその恵みのみ業を見ているのか、それとも自分の富、つまり私たちのいろいろな意味での財産、自分が持っているものばかりを見つめていて、神様には背を向けてしまっているのでしょうか。
贖われた者として
その主人である神様に仕えるとはどういうことになるのでしょうか。先ほど、出エジプト記の第20章を共にお読みしました。イスラエルの民に十戒をお与えになったときに神は言われました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」十戒は神を主人とした、神様に救い出された人間の生活について語っております。奴隷の家から救われた者、奴隷であったのに、今は救われて神を主人とする者であるのです。神を主人とする、神の奴隷になっている者が私たちであります。その生活を示しているのです。パウロは言いました。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」