「喜びに生きる新しさ」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:ゼカリヤ書第8章18-23節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第9章14-17節
・ 讃美歌:404、7
今日ともにマタイによる福音書9章14~17節の御言葉を聞きました。まずは14節です。ここに「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て」とあります。
「そのころ」
その頃とは、先週共に聞きましたマタイによる福音書9章9~13節の部分のことをいっています。つまり、イエス様と弟子たちが、徴税人や罪人とともに食事をしておられた時ということです。その食事の時に、イエス様のところに来た人々がいました。それが14節登場するヨハネの弟子たちです。このヨハネの弟子とは、この福音書の3章に出てきたイエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことです。そのヨハネは、人々に神に対して悔い改めて、洗礼を受けることを広めており、また人々に実際に洗礼を施していました。洗礼者ヨハネは禁欲的な生活をしており、らくだの毛衣を来て、革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物にして、生きていました。そのヨハネに従っていた弟子たちも、信仰も道徳についても堕落していた当時のユダヤの人々に対する警鐘をならしながら、自分たちもしっかりと神さまに悔い改めて、自分の生活を整え、節制しながら生きている人々でした。
そのような彼らが、イエス様に「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と質問しました。彼らが、断食をしないのかと聞くことには理由がありました。彼らは、自身で言っているようによく断食をする人たちでした。当時のユダヤ人は、最低でも年一回は断食をしました。またファリサイ派の人々も、週に月曜日と木曜日の二回、断食を守っていました。ファリサイ派の人たちと同様にヨハネの弟子たちも、「よく断食をして」いたのです。ところでこのように頻繁に断食したのは理由があります。断食という行為は、悲しみや悔いを表現するものだと言われています。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。これは単に政治問題ではなく、ユダヤ人の罪に対する神様の裁きと考えられました。そこでファリサイ派を初めとするユダヤ人は律法を日常世生活でも実践することによって、神の救いの時を期待したと言われています。ファリサイ派の人々は、律法に書かれている善き行いをすることで、神様の救いを期待していました。一方ヨハネの弟子たちは、神の裁きが差し迫っているために、悔い改めて洗礼をしなければならないと考えていました。ファリサイ派の人々の断食は、善い行いとして義を積むという考えで、断食をしていましたが、ヨハネの弟子たちの断食はそれとは考えが違いました。ヨハネの弟子たちの断食は、ローマ帝国の支配、そして人々の堕落を招いた自分たちの罪や愚かさを嘆くための断食、またそれらのことに対して神様に憐れみを祈るための断食でした。神様の支配と裁きが近づいてきており、人々が堕落している中で、それらに気付いているものは、断食をして、神様に憐れみを請わなくてはならない。嘆かなくては、ならないと、ヨハネの弟子たちは考えていたのです。そのような時に、イエス様とイエス様の弟子たちが、徴税人や罪人たちと楽しく食事会をしているのを見て、びっくりしたのです。そこでわざわざ食事の席にやって来て「断食しないのですか」質問したわけです。この質問の裏には、「目の前にいる、このような罪人や徴税人のために、あなたがたが断食をして、神様に憐れみを求めないといけないでしょう」「なのになぜ、断食をしないで、一緒になって楽しげに飲み食いしているのか」という批判が込められています。
「イエス様の答え」
そのヨハネの弟子たちの批判の込められた質問に対して、イエス様はまずこのように答えられました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」イエス様はこの譬えで今は断食をして悲しむべき時ではなく、結婚式の時のような喜びの時であるといっています。つまりイエス様は、今の時を結婚の祝いの時に譬えているのです。 もともと神とイスラエルの関係は花婿と花嫁や夫と妻の関係に譬えられることがありました。例えば預言者イザヤは次のようにいいます。イザヤ書54章5~6節、「あなたの造り主があなたの夫となられる。 その御名は万軍の主。 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、全地の神と呼ばれる方。 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。 若いときの妻を見放せようかと あなたの神は言われる。」イザヤの時代のイスラエルは偶像礼拝をし、他の神を拝むようになり、国がピンチの時は、神様を頼らず、他の国に頼るようなことをしていました。その姿が不貞の女という表現で、イザヤ書では描かれています。結婚の約束をしていたのに、他の男の所にいってしまったイスラエルなのに、「どうして見放せようか」と神様は憐れんでくださり、そのイスラエルに近づき赦し、夫となってくださると、イザヤは預言していたのです。イエス様の花婿の譬えに出てくる花婿は、イエス様です。この食事の時の様子と、この預言を重ねあわせれば、受け入れられた不貞の女とは、罪人たちや徴税人となります。罪人たち、そしてわたしたちは、今まで神様ではなく、自分の罪により、他の者に心を奪われ、それになびき、それらに支配されていた。自分勝手になって、他者を傷つけるだけでなく、わたしたちを愛しておられる神様を無視して、神様を悲しませていた。そのようなわたしたちに、イエス様が近づいてくださり、そこから御言葉と招きによって救い出され、赦され、受け入れられ、悔い改めて本当に戻るべき、夫の所に戻ってきた。イエス様は、罪を犯している人々すべて、これは罪人と徴税人だけでなく、ファリサイ派やヨハネの弟子たちも含まれており、わたしたちも含まれています。その罪に支配され、不貞を犯していたわたしたちを、見捨てることなく、愛して下さり、夫妻の関係のように、深い繋がりがあることを、ここで示してくださっています。そのような、愛する人が戻ってきて真の関係が結ばれ、罪赦されて愛され愛する関係が結ばれるという時に、どうして悲しむことができようかとイエス様は言われているのです。
ヨハネの弟子たちは、まだ神様の支配が来るということで、自分たちが悔い改めて、神様に憐れみを請わなければならないと思っていました。それは間違いではありません。そのために嘆きと憐れみを求めるために断食をしていたのです。神様の支配が近づくということは、同時に神様の裁きが近づいて来ているということです。すべての人が罪人ですから、差し迫った裁きのために、皆悔い改めて、断食しなければならないとヨハネの弟子たちは思っていたのです。しかし、その神様の裁きは、イエス様がすべて負ってくださった。それは十字架の死の出来事です。わたしたちのかわりにイエス様が裁きを受けてくださったのです。またイエス様が、十字架の上で、父なる神様にわたしたちのための憐れみを求めてくださった。十字架上で、代わりに罪を嘆いてくださった。まさに、十字架上でイエス様がわたしたちのために断食をしてくださったのです。尊い神の子であるイエス様がわたしたちの裁きを代わりに負ってくださり、嘆き、憐れみを求めてくださったからこそ、わたしたちは神様から赦されたのです。愛する花婿の死により、わたしたちが自分の救いのために断食することは、必要なくなったのです。この時点でヨハネの弟子たちは、この十字架の出来事を知りませんから、断食が必要であると思っていても仕方がない面もあります。しかし、イエス様が、9章の初めで、中風の人を癒やす時に、「あなたの罪は赦される」と言いました。「罪を赦す」ということをイエス様が言えたのは、イエス様が神の子であるからであります。さらに、そのイエス様が後に、罪のために御自身が犠牲となられるからです。ただの人が、何もせず、人の持っている罪を赦すことなどできないのです。イエス様が「罪は赦される」と言っていたことを、ヨハネの弟子たちは知っていたでしょう。罪人や徴税人がこの食卓に招かれていること自体が、イエス様が罪を引き受け、赦していることを表してもいます。その言葉と行いを見ているヨハネの弟子たちが、この時「断食をしなければいけないのではないでしょうか」と問うていたのは、残念ながら、イエス様が真の救い主であられ、罪の赦しの権威を持つ、神の子であられるということを認めていなかったといえるでしょう。
ヨハネの弟子たちは、言わば嘆きと悲しみの時の中に埋もれてしまっていたのです。自分を含め皆が罪を犯してしまう、そのために世界も社会も混乱している、だから今の時にふさわしく、嘆き悲しみ断食をし、神様に憐れみを請わなければいけないとそう思っていた。しかし、あまりにも、その嘆き悲しむこと、憐れみを請うことに必死になりすぎていたのか、熱心になりすぎていたのか、本当の救い主が目の前に現れた時に、それを気付くことができなかったのです。「今は嘆き悲しみの時だ」と思いすぎて、また自分や隣人の罪の悲惨さを思いすぎて、目の前で人が救われていることも、赦し愛し救ってくださる方もわからなくなるということが、このヨハネの弟子たちに表わされています。これはわたしたちにも、起こることです。あまりに自分が惨めで、自分の罪、他人の罪の深さに嘆くあまり、目の前で救いが起きていることも、救いに招いておられる方を見ることも、信じて委ねることもできなくなる。「わたしの罪が深いから、嘆いて、悔い改めなきゃだめだ、必死に熱心にならなきゃだめだ、まじめにやらなきゃだめだ」と思う。しかし、今日の御言葉がわたしたちに伝えているのは、わたしたちのどんなに罪深くても、重い罪を犯していても、他者がどんなに罪深くても、イエス様はその自分を赦し、その隣人を赦し、愛し、受け入れてくださるということです。わたしたちが、たくさん嘆き、憐れみを請うから、受け入れられ、赦され、愛されるのではなくて、イエス様がわたしたちを愛しておられ、イエス様がすべてを成し遂げてくださったから、わたしたちは赦されるのです。わたしたちが、深い嘆きと悲しみの中にいる時、ともにおられる方がわからなくなるだけではなく、その嘆きと悲しみの中で、喜んでいる人を受け入れられなくなるということも、今日の御言葉は伝えています。「断食しなければいけない」とヨハネの弟子たちが言っているのは、今は悲しみの時なんだから、喜ぶなということです。このヨハネの弟子たちは、悲しみ嘆かなくてはと思いすぎて、目の前で起きている喜ばしい救いの出来事、喜ばしい出来事と思えなくなっており、救いが起きているということも、わからなくなってしまっているのです。
そのような、悲しみと嘆きの中でのふさわしい生き方というのは、ヨハネの弟子たちに表わされた生き方でしたこれが、イエス様の後の二つの譬えの中に登場します。その二つの譬えの中に、新しい布と古い服の譬え、新しいワインと古いワインを入れる革袋の譬えがあります。16節「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。」17節「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」 ここで言われている「古い服」、「古い革袋」というのが、悲しみと嘆きに生きる生き方のことです。もう一方の「新しい布切れ」「新しい革袋」というのは、イエス様とともにある、喜びに生きる生き方です。?17節の方の譬えの背景ですが、当時も今もイスラエルの土地は、日本のように飲み水が豊富ではありません。そこでぶどう酒を薄めたものを飲み水として使いました。その際、ぶどう酒や水は羊の皮にいれて運んでいました。新しいぶどう酒の場合には、革袋の中で発酵するため、古い革袋だと破れてしまうことがあったようです。その過程で革袋とぶどう酒がなじんでいって安定する。新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、酒の変化に袋がついていけずに破れてしまうということのようです。また16節の譬えは、新しい布は洗濯をすると縮む、当時はその縮み方がひどかった。だから新しい布で継ぎを古い服に当てると、洗濯した時にそこだけひどく縮んで、古い服を破ってしまうことになるということでした。このように、これら二つのたとえは、古いものと新しいものとは相容れない、中身が新しくなる時には、外側の、容器も新しくしなければならない、ということを語っています。新しい中身、新しいぶどう酒というのは、イエス様が十字架で成し遂げて下さり、新たに結んでくださった神様との関係です。新たな契約による、神様との新たな関係です。新たな関係において、わたしたちは、罪赦されたものされます。だらか、罪に対して、もう赦されないと絶望したり、嘆いたりしなくて良くなった。さらには、自分が赦されたこと、そして隣人が赦されたことを喜ぶことができるようになったものです。その喜びに生きる新たな生活のスタイルといのが、ここで言われている新しい革袋なのです。そうではなく、古い革袋、つまり、悲しみと嘆くことしかできなかった時代の生き方、それは断食をして、嘆き、憐れみを請い、その行為によって救いを得ようとする生き方です。そのイエス様がもたらしてくださった救いに生きるものたちの新しい生き方をその古い生き方の中ですれば、古い革袋の生き方も壊され、そしてその中身すらもダメになってしまうといイエス様はいっています。イエス様の赦しと救いを受けたもののあたらしい生活とは、喜びと祝いなのです。そしてその喜びと祝いは、ただ自分たちが仲間内で喜び楽しむものではなくて、イエス様が招いて下さっている徴税人や罪人と共に喜び楽しむものです。そしてこれから、その喜びの輪に入ってくる人を期待しながら、喜び楽しむものです。人を裁き批判していくのではなく、お互いにイエス様によって招かれた罪人としての交わりを築いていく、その土台となる喜びであり祝いなのです。この喜びの食卓にイエス様は、罪人であるわたしたちを招いてくださっています。イエス様の救いを信じ受け入れ告白し、イエス様に従って生きると告白したものが、この食卓に集っています。そのように信じ告白し、従うことをするというのは、イエス様とひとつとなって歩むということです。それはイエス様とひとつとなる、それはつまり洗礼を受けるということです。この洗礼を受けたもの、イエス様の救いを受け入れ、イエス様に従って歩むものが、聖餐の食卓に招かれているのは、そのような意味です。わたしたちの罪が赦されて、神様と新しい契約、新しい関係が与えられて、喜びに生きるようになっている、それを喜び祝うのが聖餐の一つの意味です。
最後に、15節後半に出てきた、あえて飛ばしていた言葉に触れてみたいと思います。それは「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」という言葉です。「花婿が奪い取られる時」とはいつのことなのでしょうか。単純に考えればそれは、イエス様が弟子たちから奪い取られて逮捕され、十字架にかけられて処刑される、その時ということになるでしょう。しかしそれは復活までのほんの三日間ほどのことになります。イエス様の逮捕から復活までの間だけが断食をする時である、というのでは、あまり意味がないし、また私たちとは関係のない話になってしまいます。ですからここはそのように読むのではなくて、復活されたイエス様が天に昇られてから、この世の終りにもう一度来られる、その時までの間と理解した方がよいだろうと思うのです。ということは、今私たちはその時を歩んでいるということです。今この時こそまさに、「花婿が奪い取られている時」なのです。その「奪い取られる」というのは、目に見えるお姿としては、ということです。今私たちは、イエス様を肉体の目で見ることはできません。実際にイエス様と共に食事の席につくことはできません。目に見えるお姿としては、私たちはイエス様を奪い取られているのです。しかしそれはイエス様が私たちと共におられないということではありません。この福音書の最後のところ、28章20節で、復活されたイエス様が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さっています。目には見えないけれども、イエス様はいつも私たちと共にいて下さるのです。しかしそれは目に見える形で証明されることではありません。信じるしかないことです。だから、今わたしたちは、時々自分たちの弱さゆえに、罪の故に、見えないイエス様がともにおられるということを、忘れたり、信じたりできなくなってしまいます。その時こそ、わたしたちの嘆きの時です。憐れみ請わなければならない時です。イエス様が本当にともおられるということを、忘れてしまう弱さがある。だから、わたしたちはなお自分に残っている罪を嘆き、憐れみをこうようなことが必要なことがあるのです。しかし、わたしたちは、既に救われている。イエス様が、見えないけれどもイエス様は必ず共にいてくださるということを、知らされています。必ず見捨てることなく共にいてくださるイエス様がわたしたちを捉えてくださり、忘れていても、思い出させてくださいます。そのために、イエス様は教会を御自身の体として、この世に築き、わたしたちにこの礼拝の説教を通して、なんども、招き、立ち帰り促し、あなたは救われている、わたしはいつもともにいる、だから喜んでいなさいと語ってくださるのです。また今日の聖餐を通しても、あなたは喜びの宴の中に生きるものだ、そして、あなたとわたしは新しい関係で結ばれているのだ、だから安心して喜びなさいと示してくださっているのです。
今イエス様はここおられ、わたしたちと共におられます。このわたしたち一人ひとりに「悔い改めて、従ってきなさい」と招いておられます。主はわたしたちを赦されています。そのために十字架に掛かってくださったのです。救いの道と、喜びの宴へと主は招いておられます。