「行け」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第143編7-12節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第8章28-34節
・ 讃美歌:475、155
イエス様がわたしたちの先を歩いておられます。私たちはその後に従って歩いています。今日イエス様は、 一言も弟子たちに向かって語られません。「わたしを見なさない」とイエス様は、先週わたしたちに語られま した。今日わたしたちは、そのイエス様の背中を見ます。その御姿から、わたしたちはメッセージ受けます。そ のメッセージとは、イエス様こそが、勝利者であるということ。悪霊にも、死にも、滅びにも負けない勝利者 。わたしたちの道を塞ごうとするあらゆる力に対して、イエス様は勝たれている。そのイエス様がわたしたち と共におられる。だから、わたしたちは恐れることはない。それが今日のメッセージです。
本日の箇所から、わたしたちは、イエス様に対する3つの見解を見つけることが出来ます。二つは、この話の 中に見ることが出来ます。一つは悪霊のイエス理解、もう一つは、ガダラの人のイエス理解です。最後の一つ は、この物語には直接登場していないですが、この物語の背景に隠れている弟子たちの持っていたイエス理解 です。わたしたちがイエス様に対して、持つべき理解は、この三番目の理解です。
この3つの理解を見て行く前に、今日の話をもう一度確かめましょう。28節に、「イエスが向こう岸のガダラ 人の地方に着かれると」とあります。向こう岸とは、ガリラヤ湖の向こう岸、その南東の方角に広がる、当時 デカポリスと呼ばれていた地方のことです。そこは、ユダヤ人の地ではなく、異邦人たちの住む外国でした。 ガダラ人という異邦人が住んでいました。イエス様は弟子たちと共に舟に乗ってその異邦人の地へと行かれま した。ここには、弟子たちは一切登場しませんが、共に舟にのっている弟子たちは、イエス様の後をついてい っているでしょうから、イエス様のうしろに弟子たちがいます。弟子たち共に、陸に到着して道を歩みだそう としたイエス様の前に突然現れ、道を塞いだものたちがいました。それが、「悪霊に取りつかれた者」たちで す。彼らは「墓場から出てイエスのところにやって」来ました。「墓場から出て」とあるように、彼らは墓場 を住処としていました。それは「二人は非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」とある ことと関係があるでしょう。この地方に住むガダラ人は、彼らに対して、恐怖を抱きながら、関わりたくない 、だからどこかに行って欲しいという願いがあったのだろうと思います。それを直接いったか言わないかはわ かりませんが、その思いによって、彼らは墓場に住まわされていました。墓場というのは、日常から切り離さ れた所です。人々との日常的な関わりが全く失われたものがいる所です。そういう場に、悪霊に取りつかれた 人は追いやられていたのです。
ここで、少し立ち止まって、悪霊の力とはいったいなんなのかということを少し考えたいと思います。悪霊 に取りつかれて凶暴になった人がいると聖書は語ります。それを聞くとわたしたちは、「あぁ昔は、精神的な 病や心の病の人が突然暴れだしたりしたのを見て、悪霊に取りつかれていると思ったんだろうな」と思うこと があります。今は、そういう人に対して、薬や認知療法で治療したりするし、悪霊なんて今はないでしょと思 う人もいると思います。しかし、悪霊の力とは、病を引き起こす力ということではありません。悪霊の力は、 わたしたちの日常にも、ありふれています。悪霊によって引き起こされることは、家庭内暴力、虐待、子が親 に対しての反抗すること、それらの目に見えている暴力的な形になることもあります。それだけでなく、人は、 苦しみあうと、自分の殻や自分の部屋、家の中だけに閉じこもってしまうこと、これも悪霊の力によると言っ てもよいでしょう。これは暴力という点ではつながってはいませんが、まわりの人が、どうしようもできずに 、対応できずにいて、その人が人と関わりない所に閉じこもっているという点で、あの墓場の悪霊に取りつか れていた人たちと共通点があります。日常と切り離されている所に身をおいていることが、あの墓場に住むも のと状況が一緒です。悪霊の影響下にある人は、自ら、人との関わりを絶ちたいと願う人が多い。いやそれは 、本当に心の底から願っているというよりも、人との関わりにおいて、突発的に好戦的な態度になってしまっ たり、極度に内向的になったりすることで、交わりをもつ相手とミスコミュニケーションが生まれ、軋轢が生 じたり、関係に亀裂が生じたりし、それによって傷つき、傷つきたくないという理由からか、もっと暗い、だ れもいない墓場のような所に、来るしかなくなってしまうのです。大なり小なり。人は、だれしもそのように なることがあります。わたしたちも、そのような力を目の当たりにすることはあるのではないでしょうか。
今日の話に登場する悪霊に取りつかれた人は、墓場にいることを、望んではいなかったと思います。しかし 、そこにいかざるを得なかった。ガダラの人から誤解される、疎まれるということに耐えられなくなったから 、人との交わりがない所にいくしかなかった。それか、ガダラの人が自分たちの所から出て行ってくれといっ たかのどちらかでしょう。悪霊にとっては、人が孤独である状態にされる、死人と同然に扱われることは嬉し い事で、彼らにとっては、人がそのようになるのは、喜びです。
今日の箇所の話に戻りますが、その悪霊に取りつかれていた二人の人が、イエス様の所に出てきました。そ れは、悪霊に取り憑かれた人が、イエス様に助けを求めるためではありませんでした。それは悪霊がイエス様 に文句を言うためでした。その文句は「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、 我々を苦しめるのか。」ということでした。おもしろいことに、悪霊はイエス様のことを、「神の子」として 見ており、自分を苦しめる存在であるということを認めています。しかも、「その時」ではないのに苦しめる のかということは、自分がいつか、神の子によって打ち負かされるということを悪霊は知っていたということ です。「その時」というのは、終わりの時です。イエス様が完全に支配される時、自分悪霊は滅ぼされるとい うことを悪霊は知っていたのです。しかし、「まだそのクライマックスの時じゃないのに、神の子さん、なぜ 今登場してきているのですか、まだあなたの出番の時ではないのに」と悪霊は思ったのです。実は、ここに、 悪霊のイエス理解が、表わされています。悪霊は、イエス様のことを「神の子」として正確に理解しています 。これは正しい理解です。悪霊のイエス様に関しての理解で誤っている部分は、終わりの時までは、悪に対し て、なにもしない方として理解していた点です。この考え方は、悪霊だけが持っている特殊な理解ではなく、 わたしたちもそのように思うことがあります。イエス様のことを「神の子」としてちゃんとわきまえている。 さらには、御父も御子も聖霊なる神様も神であるとしている。しかし、神様は、終わりの時までは、なにもさ れないのではないか。この世の中で悪霊の力が猛威を振るっているのに、または理不尽な災害や争いが起きて いるのに、または自分や愛する人が病になっているのに、なにもされない。神様は終わりの時までは、罪や悪 の力を放っておかれるのだ。そういう神様に対しての理解は、この悪霊の理解と一緒な所があります。終わり の日まで、神様はこの世に関与されない、働かれないと思っているのが、正しいかのか。そうではありません 。そうではないということを、今日イエス様はお示しになられています。イエス様は、悪霊を滅ぼされました 。どのようにされたのか言うと、悪霊が「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」との願いを聞き 入れ、悪霊を豚の中に移し、そのまま、湖になだれ込ませ、悪霊を滅ぼしました。実は、悪霊は「豚の中にや ってくれ」との願いを言った時に、自分が滅ぼされるなどとは思ってはいませんでした。悪霊は、豚の中に住 まいを移して、なんとか生き延びようと考えていたのです。チャンスがあったら、また人に戻ろうと考えてい たかもしれません。または、大胆にも「豚の中に移してくれ」との悪霊の頼みに、「神の子」が服従したとい う事実を、狡猾に、作りだそうとしたのかもしれません。イエス様が自分に従わなければ、人からでなくて良 いし、実際移せば、神の子が悪霊の願いに従ったことになる。どちらにしても自分には都合がいいと考えてい たのかもしれません。イエス様は、神の子であるのに、悪霊に使われることを選びました。これは一見、神の 子が、悪霊に従ったかのように見えます。だから悪霊は、イエス様が「行け」といった時に、喜んだはずです 。「神の子が自分に従った!やった!俺たちの勝利だ!」と思ったでしょう。しかし、この「行け」は、豚に 移る以上のことを意味していました。ある説教者が、この箇所で面白い分析をしていました。この32節に出て くる「豚の群れ」は群れとして単数で書かれているのに、水の中で死んだという動詞は、複数の時に使う形に なっているとその人は指摘していました。つまり、死んだのは豚の群れだけでなく、悪霊も含めて死んだとい うことが、ここには示されているということです。悪霊は、イエス様に勝利をしたと思った矢先に、滅ぼされ たのです。イエス様につばを掛けることに成功したと思ったら、逆にやられたのです。これは、あの十字架の 出来事と重なるところがあります。古代の神学者たちは、十字架の出来事を、悪魔がネズミ捕りに引っかかっ たと考えていました。悪魔が、十字架の出来事を見た時、神の子が死んだということで、自分たちの勝利だと思 ったと、しかし、実はその時から、彼らの負けは決定していて、イエス様が復活された時、彼らの完全な敗北 が明らかになった。悪魔は神の子の命というチーズをとったと思った瞬間に、罠に掛かったということです。 この悪霊も、自分がイエス様を従わせたと思った矢先に、滅ぼされたのです。それと同じでした。悪霊は、終 わりの時が来ていないから、自分はまだ滅ぼされることはないという確信をもっていたのだと思います。しか し、イエス様はその理解を打ち破られました。終わりの時というのはこの歴史の最後の部分ということではな くて、イエス様がこの世に来た時から、終わりは始まっていたのです。終わりの時が完成はしていないですが 、既に始まっているのです。だから、今、悪霊が滅ぼされるし、悪霊の支配から解き放たれるということは起 きるのです。それを信じていないのならば、わたしたちは悪霊が考えていたようにしか、神様のこと、イエス 様のことを見ていないということになります。まずはこの悪霊の見方をやめるということそ、わたしたちはは じめるべきでしょう。
もう一つのイエス理解は、この町の人々、異邦人であったガダラ人のイエス様理解です。この地方に住むガ ダラの人は、二人の人から悪霊が追い出されたという事実とたくさんの豚が湖に飛び込んで死んだということ を知った後に、イエス様に近寄ってきました。イエス様に近寄ってきて、なにを言ったかというと、「この地方 から出て行って欲しい」と言ったのでした。そういった理由は、ガダラ人が、イエス様のことを家畜を全滅させ るような被害を起こす人と思ったから、つまり自分の財産を無くす人だと思ったからだ、説明する人もいます 。確かにそのようにも取れるでしょう。彼らは、悪霊が二人の人から取り除かれてよかったということや、悪 霊が豚と一緒に滅ぼされたということよりも、自分のことばかり考えていた。それも正しいと思います。しか し、わたしは、このガダラの人は、イエス様と共にいるのが、怖いと思ったからではないかと思います。イエス 様は、悪霊に「行け」と言って、悪霊を従わすことのできる恐ろしい人だと思ったではないかと思います。9章 にもそのような考えをしていたファリサイ派の人が出てきます。その人は、イエス様のことを「悪霊の親玉」 と考えていて、悪霊の親玉だから、下っ端の悪霊を従わせることができると考えていました。ガダラの人もそ う考えたのではないかと思います。彼らは真の神を知らない、異邦人であるから「悪霊を追い出すことができる のは、悪霊の親玉だ、だからイエス様は悪霊だ」とそのように思うのは仕方ないとも言えます。このガダラの人 んの考えの前提には、「悪霊を打ち負かす力などはそもそも存在しない」という考えがあります。悪霊より強 い存在はない。悪霊より強いものは、その悪霊より強い悪霊しかいないと考えている。悪霊より強いものは悪 霊しかいないということは、悪霊が最強であるということを認めているということです。あらゆる理不尽な病 、暴力的になってしまうこと、引きこもってしまうこと、それらはどうしようもないと、そこから救いだしてく れるものなどないと、信じていたということです。ガダラの人の考え方の特徴は、イエス様のこと神の子とす らも見ていないということがありますが、なによりも、悪霊の力に勝るものはこの世にはないと考えていたこ とです。神様をおられると知っていて、イエス様を信じているわたしたちが、理不尽な病に苦しめられる時、 また愛する人がそのような病になってしまった時、愛する人が暴力的になってしまった時、愛する人が引きこ もってしまった時、または自分がそのようになってしまった時、もうどうしようもない、それはあの人自身の 問題が、あの人が変わらなければなにも変わらない、自分が変わらなければだめだ、他の誰にもどうすること もできないと思った時、わたしたちはガダラの人と同じ考えになっていると言えます。その理不尽な病を、悪 霊の力を、滅ぼしてくださる神様がおられる。「行け」といってくださって、滅ぼしてくださるというイエス 様が共におられます。その見方を、わたしたちは忘れてはならないのです。
今日、わたしたちが見ることのできる3つ目のイエス様理解は、その見方です。それは、この物語には、表立 って登場していない弟子たちの見方です。弟子たちは、目の前で、イ自分たちの行く道を塞いでいる悪霊に取 りつかれた人を癒やされたことを目撃し、またその道が開いたことを目撃しています。ですから、弟子たちは 、イエス様は終わりの時までなにもしない方だとは思わなかったでしょう。今目の前で、自分たちの前で、悪 霊に取りつかれて苦しんでいる人が癒される、そして自分たちの道が開かれるということを経験したのでした 。弟子たちは、イエス様が悪霊を滅ぼすところを目の当たりにしました。イエス様が悪霊に勝たれる方だ、勝 利者だと信じることができたのです。わたしたちは、この弟子たちのイエス様理解に立つことができるはずで す。なぜならば、わたしたちは、この時の弟子たち以上に、イエス様の強さを知っているからです。イエス様 が死に勝たれたということ知っているからです。イエス様は、死という、わたしたちの歩む道を完全に塞いで いたものに勝利されたのです。死という壁に勝利され、穴を開け、その先を歩めるようにしてくださいました 。死で、わたしたちの人生が終わりということではなくなったのです。わたしたちは確かに死にますが、イエ ス様を信じているものは、死んで死の壁をくぐり抜け、終わりの日に復活して、神様の御前にでるのです。死 が人生の最後ではなくなった。だから、人生の先にある、死というものから、逃げることも、抗うこともしな くてよくなった。怖いですけど、恐れる必要はなくなったのです。イエス様がわたしたちと共におられ、前を 歩かれているということは、わたしたちの歩みの前方にあるはずの、あらゆる悪い力、悪霊、死、それらに対 してイエス様が前もって戦ってくださっているということです。しかもことごとく勝利してくださっているの です。だから、イエス様を信じる信仰者は、この世において、希望を失うことはないのです。不条理な力、理 不尽な災害、理不尽な病に自分や愛する人があってしまっても、わたしたちは、その不条理な力に屈服するこ とはないのです。なぜならば、それらの力に勝っておられるイエス様がわたしたちと共におられるからです。 今日、イエス様は、その勝利者としての力強い背中をわたしたちに示してくださいました。そのイエス様を信 じ、悪霊の力に屈すること無く、すでに悪霊は負けていると信じ、主と共にあゆみたいと思います。