「心を向け信頼して祈るのだ」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第66編13-20節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第6章5-8節
・ 讃美歌:13、149、442
「祈りなさい」と、イエス様は今日わたしたちに神様に祈ることを求められておられます。それはなぜか。それは、父なる神様がわたしたちの祈りを待っておられるからです。わたしたちは、祈っていない。わたしたちはなぜ祈れないのか。それは、祈りにおける大事なことを、忘れてしまっているからです。祈りにおける大事なことは、一つは誰に向かって祈るのかということ。もう一つは、祈りもって向き合っている方が、どのような方であるかを知るということです。今日イエス様は、その二つをわたしたちに、しっかりと教えてくださいます。
本日のマタイによる福音書6章5~8節には、二つの誤った祈りが書かれています。この誤った祈りについて語られたのは、イエス様です。さらっとこの箇所をわたしたちが読むと、この誤った祈りは、わたしたちとはあまり関係ないことだなと思います。最初に出てくる、偽善者の祈りは、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」とありますが、わたしたちは、そのような人の目につくところで、たくさんの人に祈りが聞かれるというのは、むしろ望んでいないので、これは自分と関係ないと思います。また7節で登場する、くどくどと言葉数多く祈る異邦人の祈りの話が出てきますが、わたしたちの祈りの経験の中で、言葉数を多く祈るというよりも、そもそも祈り方がわからない、どのような言葉で祈ればいいのかわからないから、祈れないと思っているので、ここも自分とはあまり関係ないと思います。しかし、今日語られるこの二つの祈りは、わたしたちととても関係のある祈りなのです。祈り方がわからない、祈ることが怖いと思っている人にも、この箇所は大いに関係しています。
会堂や大通りの角にたって祈る
では最初の偽善者の祈りの部分語られているイエス様の言葉を聞いてみましょう。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」とイエス様は言われています。この偽善者たちの祈りで、意識されているのは、当時の一般的な祈りの形式でした。当時は、毎日朝昼晩の3回祈っていたと言われています。しかし、それが形だけになり、自らの信仰深さを人に見せる為の祈りになっていました。時間が来たらどんな場所でも祈ることが普通だったので、人に信仰の深さを見せるために、あえて祈りの時間の時に大通りを歩いている人がいたそうです。その事をイエス様は偽善であると述べているのです。「人に見られる」ことがすべて悪いのではありません。わたしたちも祈る時、人前で祈ることもありますし、公の会を始める前や、食事の前などに人の前で祈ります。しかしそれが人に見られているからいけない、というのではないのです。すなわち「人に見られる」のがいけないのではなく「人に見せる」祈りがいけないという事です。それは祈られる祈りが、誰を念頭に置いて、誰に聞いてもらいたいかというその対象者を履き違える事になるからです。この偽善者の祈りは、神様に向かって祈っているのではなくて、人の目を気にしており、神様ではなくて人に向かって祈っています。おそらく、祈りの言葉の上では、神様に語りかける形になっていたでしょう。しかし、心は神様ではなく人に向かっていたのです。イエス様はそうではなくて、神様に向かって祈りをしなさいと言われております。そのためイエス様は6節で「隠れたところで祈られる祈りに徹しなさい」と言われるのです。
密室の祈り
イエス様は6節で「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と言われています。この奥まった部屋というのは、当時の納屋(物置)のことが意識されています。その納屋は、窓もなく、そして明かりのない暗い部屋です。そこに入れば、誰からも見られることはありません。イエス様がこう指示されたのは、一つは、誰にも見られることのない状況を作り出し、まわりの人の目を気にしなくていいようにするためでしょう。しかし、イエス様がこの奥まった部屋で祈りなさいというのには、もう一つ理由があります。それは、人の目だけでなく、自分の目も気にしなくていいようにするためです。わたしたちは、誰もいないところで、祈ったとしても、結局心の中で、「ちゃんと祈れているだろうか心配だ」、「昔聞いたあの人の祈りのようには、今うまく祈れていないなぁ」と思ってしまいます。わたしたちは人から実際に見られていなくても、客観的に自分を見つめてしまい、自分の目で、自分を気にしてしまいます。つまり言い換えれば、祈る時自分の目や心が、自分から飛び出し、その目で、自分ばかりを見つめているということです。そのように、自分ばかりを見つめていれば、わたしたちは次第に、祈れなくなります。それは、祈るべき方に心が向かっていないからです。本来は、祈りは父なる神様に向かって祈ります。そこで、神様とのコミュニケーションを取ります。しかし、自分がどう祈っているかばかり気にして、つまり祈りの向かう方向よりも、祈りの形を気にしてしまっているために、祈りにならず、神様との生きた交わりを感じることができなくなり、なんだか、祈っていても意味ないなぁと思い初めてしまうのです。そして、次第に祈らなくなってしまうのです。イエス様が、「奥まった部屋で祈りなさい」と言われたのは、自分自身をも気にしないようにするためにです。先ほど奥まった部屋には、窓もなく、明かりもない部屋だと言いました。その部屋は真っ暗なんです。自分で自分を確認することのできない暗さです。イエス様は、この部屋へとわたしたちを導くことで、心や目を自分に向けさせないようにさせ、違う所に向けさせようとされています。その違う所とは、それは父なる神様の所です。イエス様はまわりの人ではなく、自分でもなく、目には見えない隠れた所におられる神様に心を向けて祈ることをここで教えられています。わたしたちが、本当に神様に向かって祈るときは、その時は、人の目や、自分の祈りの形を気にしなくてよくなっているはずです。そして、生きた神様と交わりを知り、わたしたちは祈ることの恵みを見出すことができるのです。
くどくどと言葉数が多く
イエス様はさらにもう一つの祈りをしないようにと、言っておられます。それは7節でこのように語られています。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」イエス様はこの異邦人の祈りを取り上げて、わたしたちの神様への信頼を思い出させようとしておられます。その信頼とはなにか。それは8節に語られています。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」ということです。つまり、父なる神様はわたしたちに必要なものをすべて知り、必ず与えてくださるということです。父なる神様は必ず与えてくださるという信頼をわたしたちは忘れがちになります。その信頼がなくなると、祈らなくなるか、もう一つは7節でてくる異邦人の祈りのようになります。信頼していないで祈るというのが、ここで言う異邦人の祈りです。異邦人、つまり神様を知らない者は、「神というのは熱心に願わないと、何も与えてくれないものだ」思っています。だからくどくどと言葉数を多くして、特別な祈りをしようとしているのです。そのような特別な呪文のような祈りをしないと、神様は、自分に必要なものを与えてくれないと思っているのです。違う視点からこのことを見ると、「そのような特別な祈りをできたなら、神様は自分の祈りを聞いてくれるのだ。特別な祈りさえすれば、神様は自分の祈りのとおりに、願いを叶えてくださるのだ」と思っているということです。それは、ある意味、神様を支配しているようなものです。特別な祈りを祈れば、神様は自分に逆らうことはできなくて、願いを叶えてくれるということです。実際にこの時代の異邦人は、様々な神々に祈り、その中で自分の願いを聞いてくれる神を選び、自分の中だけの特別な祈りをもっていたそうです。その特別な祈りは、他人は教えなかったそうです。しかし、異邦人の考えるそのような神は、例えるならば、ディズニーの「アラジン」に出てくるランプの魔人ジーニーのようです。ランプをこすって願いを言われたら、ジーニーはそれがどんな願いでもかなえなくてはいけません。悪人の悪い願いもかなえなくてはいけません。映画の中で、ジーニーは、自分がどうしたいということも無視され、嫌なこともさせられました。ジーニーは、そのように人に縛られているのを、嫌がっていました。そのような、奴隷のような状態から解放されたいと願っており、アラジンの最後の願いで、自由になりました。話がそれましたが、この異邦人の祈り中での神というのは、自分の願いを叶えるだけの奴隷のようだったということです。そこには、神様が自分に必要なものをすべて知っていてくださり、必要なもの与えてくださるという神様への信頼はないのです。神は、なにも知らないから、こちらから祈って伝えなければ、だめだと思っているということです。さらに、神は、そのように祈らなければ、動いてくれない、与えてくれない、神だと思っているということです。異邦人は、神様を信頼していないというよりも、知らないからこのようになっているのです。イエス様はわたしたちに、「あなたがたは、そのような神を知らない異邦人だ」とは言われていませんし、思ってもないはずです。そうではなくて、イエス様はわたしたちを、「神を知っている者だ」と確信されておられます。
父に
それは、イエス様の8節の言葉からわかります。8節で「あなたがたの父は」と言われております。わたしたちは、この父という言葉を聴く時、これが父なる神様であることを知っています。イエス様は、この父なる神様が「あなたがたの父」だと言ってくださっています。わたしたちを、父なる神様の子であると、認めてくださっているということです。イエス様はあえて「あなたがたの神」にではなく、「あなたがたの父に」といっています。この言葉によって、祈る相手である神様との関係が説明されています。わたしたちは、案外、祈る時になると、神様が「父」であることを忘れ、なにか神様のことを「願いを聞いてくださる神」としか思わなくなります。本来は父と子として祈るはずなのに、なにか祈りの関係が、「願いを聞いて下さる神」と「願いを叶えてもらう自分」という関係に置き換わっていることが多いのです。祈りの関係は、父と子の関係です。父は神様、子はわたしたちです。わたしたちは、祈りの時に、願いを聞いてくださる「神」と呼ばれるなにかに、祈るのではないのです。わたしたちは、わたしたちを自分の子のようにして愛してくださる父に、祈るのです。その「父」はどういう「父」なのかは、マタイによる福音書の7章でイエス様によって語られています。7章6節以下「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」わたしたち人の親でさえ、子どもには、良い物を与えようとします。それならば、天の父なる神様であるならば、必ずその子にとって最も良いもの、最も必要なものを与えて下さるとイエス様はいっています。なぜ与えてくださるのか、それは、父は子を愛しているからです。放蕩息子のたとえの中で、放蕩息子が放蕩の限りを尽くして、家に帰ってきた時に父は子に、叱ることなく、良い着物を着せて、食べ物を与えています。父なる神様もそうなのです。わたしたちが、祈れない、祈らないと思って、神様から離れていた悪い子であったとしても、戻ってきた時に愛してくださり、赦してくださり、最上のものを与えてくださる方なのです。それが、「わたしたちの父」です。そのような父であることを思い出し、まず信頼しなさいとイエス様はわたしたちに今日教えてくださっているのです。
思い出してみれば、わたしたちが祈らない時でも、神様はわたしたちに様々なものを与えてくださっていました。この世界がわたしたちの生きることができる環境になっていること、日々生きるために糧が備えられていること、命が守られ支えられていること、様々人々との出会い。これらは全部神様が与えてくださったものです。父である神様は祈らなかったら、なにも与えないという方ではありません。しかし、そうなると、わたしたちは、「じゃあ祈らないでもいいじゃん」という思いがでてきます。しかし、どうでしょうか。もう一度、神様とわたしたちとの関係を思い出してみましょう。神様とわたしたちは、父と子の関係です。実際にある、人間の親と子の関係を思い浮かべるとわかることがあります。親は、子がなにも自分に語りかけなくても、愛しているが故に、住む場所も、食べるものの、整えます。しかし、生きるに必要な家や食べ物を与えていたとしても、その親子に会話がなければ、どうでしょうか。その関係は冷えきっているとしか言えません。祈りは会話です。祈りがないというのは、会話のない家庭のようなものです。わたしたちが祈らないというのは、親に子がなにも話しかけないということと同じです。わたしたちが祈らないという状況は、親が家に住ませ、いろいろなものを整え与えていても、親は子に話しかけても、子は親を無視してなにもいわないような状況と一緒なのです。それを知った今、どうして祈らないでいいといえるのでしょうか。わたしたちの祈りは、願いだけではありません。願いだけを祈るというのは、親に話しかけるときに、ほしいものがある時だけに、親に声をかけるようなものです。それも、親を利用しているだけです。しかし、イエス様は、それでも、「父に求めなさい」と言われます。そこからでもいいから、父との会話をはじめなさいと言われています。
願う前からご存知である
その父である神様は、わたしに本当に必要なものを知ってくださっています。父なる神様は自分以上に自分を知っておられます。それを聞くとわたしたちは、なんでわたし以上にわたしに必要なものを知っているのだろうかと思います。しかし、それも、父と子であるという関係を思い出せば、わかります。わたしの家庭には、一人の息子がいます。三ヶ月の赤ちゃんです。その赤ちゃんにとってわたしは父です。わたしは、今、息子よりも、息子に必要なものを知っていると思います。彼には、住居が必要であり、お乳が必要であり、うんちをすればおむつを換える必要があります。それを、彼は必要だと知ってはいません。お腹が空けば泣きますから、完全に知らないというわけではないでしょう。しかし、母乳がいいとか、ミルクがいいとかは、彼は知りません。また彼は、意外とうんちをしても平然としており、泣きません。私は早くうんちを変えなければ、おしりがカブれることを知っています。人間の親であっても、子が必要なものを子以上に、知っています。神の子であるわたしたちも、実は、自分が本当になにが必要かはわかっていないのです。全知全能の神様であられる「父」は、わたしたちが知っている以上にわたしたちのことを知り、わたしたちに何が本当に必要かを知っていて下さり、用意して下さり、与えてくださります。その父に信頼して、祈りなさいとイエス様は言われているのです。
ティリヒの言葉
神学者であるティリヒは父なる神様のことをこう表現しています。「神はわたしたちに近い。わたしがわたし自身に近いよりも、もっと私に近くおられる。神は、わたしがわたしを知るよりも、もっと良く知っていてくださる。そして、わたしがわたしを愛するよりも、もっと深くわたしを愛してくださる。」わたしたちが父なる神様がこのような方であることを知っているということが、祈りにおいてもっとも大事なのことです。父はわたしたちを愛しておられます。父はわたしたちの祈りを待っておられます。父なる神様は、御自分の家庭が、祈りの言葉で溢れ、会話が飛び交い、豊かになることを望んでおられます。ですから祈りを持って父との会話を楽しみましょう。父はわたしたちの祈りを今も待っておられます。祈りましょう。